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擬態 三

「日田って何が有名? 山に囲まれてるから、山?」 「そうですね。昔はワイン工場がありましたけど、今はビールになってるし。観光祭ぐらいしか私は……」 饒舌になってしまった後に、ハッとして口を押さえても遅い。 「へえ、流石胡蝶。ちゃんと取引先の名物を熟知してるね」 「た、直臣さんが調べてなさすぎます」 直臣さんが鋭い人じゃなくて良かった。 大体の事は、笑って流してくれる様な優しい人だし。 優しいからか他人に興味無いのか、適当なのか。 彼がもう少し仕事に意欲的だったら、こんなに傾かなかったかもしれないけれど、それが彼らしくて私は好きなのだから、惚れた弱みだ。 「電車で一時間ちょっとなら大分も遠くないよね」 駅弁をとうとう平らげ、ごそごそとカバンから歯磨きセットを取り出しながら彼が笑う。そんな、そんなちょっとした事なのだけど、歯磨きセットを常備してる彼が可愛い。 「そうですね。温泉に入るのに日帰りできますしね」 適当に笑うと、彼は歯磨きに立つ。 私は窓の外を見ながら、不安がまだ胸を襲っている。 一時間ちょっと離れただけで私の心が安息を手に入れるなら、絶対にもう近づきたくないのに。 電車から見えるのは、山や田んぼばかり。 なのに、私の心の中には、あの時の綺麗な黒アゲハ蝶が飛んでいる。 目的も当てもなく自由に、ヒラヒラ、ヒラヒラ。 ファンデーションを取り出すと、鏡に映しだした不安げな私の表情を塗り隠していく。 大丈夫だ。大丈夫。 日田には、会いたくない人なんていないはず。 日田駅に着いて、すぐに黒のアウディが停まっているのが見えていた。 日田に足を踏み入れるのは14年ぶりだ。小学校6年までしかこの地には居なかったから、懐かしい。 駅前の可愛い雑貨屋さんや、水曜になると大盛りポテトが半額になるファーストフード屋さんはまだあるのだろうか。 車から降りて来た、その人を見たのはそんな、心を躍らせていた時だった。 磨かれた上等な靴が視界に飛び込んで来た。 「初めまして、美崎さん」 突然、壊された。羽音もなく飛ぶ蝶のように、すぐ傍にいたとしても、気付けなかった。 「高山グループのホテル『月光』の取締役をしています高山 蝶矢(たかやま ちょうや)です」 銀のフレームが知的で、物腰や雰囲気、身に付けている時計や靴、全てが彼の育ちの良さが伺える、大人の色香を漂わせる人。 柔らかい笑顔は、思わず赤面してしまいそうなほど、素敵だ。 でも、――分かる。 思わず盛大に舌打ちしてしまいそうになるほど、分かる。 蝶矢なんて、珍しい名前、そうそう居ない。 彼を私は良く知っている。 もう、二度と会わないと思っていたのに。
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