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第2話 思い出したくない男

   不況かつ就職難の世の中、正社員に採用される方が奇跡のようなもので、わたしは大学卒業後に一度は小さな印刷会社に就職したものの、小さすぎたためか次年倒産してしまった。  新卒ブランドの肩書きを無くして、またもや戦線に出るもののことごとく振られ、派遣で凌いで三年目、正職につけないまま、今年二十六歳になる。 「あの、部長……今なんて?」  青天の霹靂。  わたしは目の前に座っている、初老の男性に聞き返す。  彼はわたしの顔を見ずに、常に横を向いていた。  「申し訳ないが、来月からの更新はない。今月……と言ってもあと五日だが、ちゃんと引き継ぎはしていってくれ。早く終われば、もう来なくてもいいから」  ……この会社に来るまでに五度派遣切りの憂き目に遭い、この会社で「きみは仕事がよく出来るから正社員に推薦してあげるよ」と優しく打診してくれた目の前の部長が、六度目の更新完了を宣告したのは、聞き間違いではなかったらしい。 「ちょっと待って下さい、大崎部長。それは一体……わたしが遅刻しかけたからですか!?」  遅刻ではないはずだ、ただぎりぎりだっただけで。 「は? そんなのは知らんよ。……今、世の中は不景気なんだ。会社としては少しでも人件費を落としたいらしく、これは上からの決定事項だ」 「そんな、だって正社員に……」 「正式に辞令が来たのかね!?」  わたしはぐっと押し詰まる。 「話は以上だ」  部長はすたすたと仕事場から出て行ってしまう。    無情な彼の豹変に、わたしは心当たりがあった。  それは一昨日、正社員話を詳しくしたいからと言われて夕食を食べに行った後、ホテルでさらに話を……と言われ、さすがに密室にふたりきりでいるのはと、断ったからだ。  派遣の弱みにつけ込んで、ナニをしようと企んでいたのか。  パワハラ部長の性処理をしてまでこの会社に勤めたくない――そう強がってみたものの、来月から無職という現実に落ち込んでしまう。  さすがに成人していて、狼の財力だけに頼るのは気が引けて仕方がないのだ。  狼は大学に行かずに働いてBARまで経営しながら、わたしを大学まで出して面倒を見たのだ。せめて出世払いをしたかった。 「なんとか次を見つけなきゃ……」  いつ切られるかわからない派遣の心得として、やっていた仕事の詳細は既にノートにまとめていたために、それを引き継ぎにしたわたしは早々に会社を出て、灼熱の太陽の元、またもや就職活動を開始しないといけなくなってしまった。 「今日は、ご馳走作る予定だったのに……」   両手一杯に求人誌。  長居出来そうな古ぼけた珈琲店でそれを広げては、雑誌に突っ伏して嘆いてしまう。  今度は切られないように正社員になりたいと切に願って探そうにも、正社員にして貰えるとばかり思っていた朝の心持ちを思えば、驚天動地の事態にさめざめとしてしまい、中身が頭に入ってこない。  それでもとにかくは、来月の仕事を見つけようとめぼして頁の角を折りながら、五件ほど応募してみようと買った履歴書に経歴を書き込み、証明写真を撮ろうと喫茶店を出て歩いた。  もう時刻は七時を過ぎていた。  真夏の太陽は沈むのが遅いはずなのに、なにかいつもの薄闇の濃度が濃い気がする。  あとは駅からまっすぐ帰るだけなのに、延々と歩き続けている気がして、ぞっとした。  まるで、あの悪夢に入り込んだ時のような。  いつまでも代わり映えのない回廊のように、両側の高い壁がどこまでも果てなく続く。  これは夢? 現実?  鼓動が不安に早まっていくのを感じた。  外気が生温かいのに、肌という肌は悪寒を感じて粟立っている。  ここはこんなに道が続いて、街灯がなかった道だったろうか。  今は、こんなに暗くなる時間帯だったろうか。  やがて、両側に視界が拓けた。  その景色は、わたしに救済をもたらすものではなく、わたしを恐怖に陥れるもの。  行き止まり――だった。  わたしがいつも通っている道ではなかったのだ。  ではここは一体?  そして蠢くなにかがある。  こんなに暗いのに、雲間に隠れて月が見えない。  暗闇の中で蠢くそれは、生臭い匂いを放つ。  ああ、あの悪夢だ。  悪夢が始まったんだ。  饐えたような悪臭が胃を鷲づかみにしたように、急激に胃が恐怖に震えたように痙攣して、中のものが逆流してくる。それを涙目でアスファルトに吐き出すわたしは、わたしに近づいてくる靴音を聞いた。  頭の中で夢がちかちかする。  全身が凍えそうに寒くて仕方がない。  月が、近づくそれを映し出す。  ……男だ。  夢のような少年では無かった。  月光を浴びた艶やかな黒髪。  その姿態は震え上がるほど美しく、この世のものとは思えない。  なにより冷ややかすぎるその面差しに、彼が人外のような印象を与えるのだ。  彼は黒い細身のズボンに、裾の長い黒いカーディガンを羽織り、中に真紅のカットソーを着て、大きな黒い十字架のペンダントを下げている。  まるでどこかのクラブから出てきたような小綺麗な格好をしているのが、なんとか彼の美しさを俗世に押し止めているような……そんな錯覚をわたしは覚えた。  少年ではないというだけで身体の筋肉が緩んだわたしは、男の後ろ側に倒れている女をふと見た。  ……女は、目を見開いたまま横向きに手を投げ出して倒れていた。  その首元から血が流れ落ちて、血だまりを作っている。  わたしの頭に、朝のニュースが流れた。  まさか。  まさか。  まさか。  男が尻餅をついてしまったわたしの前に身を屈ませた。  美しい顔に、さらにぞっとする。  逃げなきゃ。  この男は――吸血鬼なんだから。  しかし身体も動かなければ、声も出ない。  落ちたバッグから、健康保険証が落ちていたようだ。  気づいた男は、手を伸ばしてそれを手に取った。 「遠野……真白。真白……? まさか、古い洋館に住んでいた?」  その声の響きにわたしの中で警鐘が鳴り響く。  フルイヨウカンニ、スンデイタ? ――ねぇ、真白。  どこかで誰かの声が聞こえる。  この声より高い声音の、甘く優しい……まだ幼い声が。 「見つけた……」  男が笑った。  ……冷ややかに、美しく。  怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……。 「探していた、お前を」  彼の赤い服に、染料ではない赤色が染みているのがわかった。  それはいったいなに? 「お前を、殺すために――」  その目が月光を浴びて金色になる。  それは殺気という名の狂気だった。  ……あの夢の、吸血少年と同じような。  狙われた若い被害者女性は、わたしと似たような年齢だった。  同じ女で――。  なにかが頭の中で大きく動く。  なにかが、なにかの映像が――。  ワスレロ、ワタシデイルタメニ。  思い出そうとする心と、思い出すなという心が鬩ぎ合う。  古い洋館。  行き着かない回廊。  そして――。 「いやああああああ!!」  わたしの防衛本能の方が勝ち、逃れるように意識が弾かれる。  男の前で、無防備にも。  薄れる意識の中、わたしを抱き留めた男が、笑った気がした。 「会いたかった。真白……」  ……恐怖を与えた同じ人間とは思えないほど、切なく寂しそうな顔で。    
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