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第36話 笑えない吏玖の環境

   白昼堂々と轢き殺されそうになっていた出会いからして普通ではないけれど、映画さながらのカーチェイス(とは言っても、深山さんの運転が上手すぎて、接触は追突された一回しかなかったけれど)に、平然と日常に戻れる副社長とその秘書の神経を疑う。  あれは異常な出来事だった。  ミキサー車が信号を無視して暴走して追いかけてくるなど、法で守られている現代日本にあってはならぬ由々しき事態だと思うのに、その夕方や夜のあるゆるメディアのニュースにもならなければ、パトカーの音もしないまま終業して、至って東京は平穏だった。  ならば今の時代、あの派手なカーチェイスを誰かが動画でも撮ってSNSかなにかで拡散しているのではないかと調べたが、まるで反応がなかった。  動画や写メなどを誰も撮らなかったのか、或いは……撮って上げても消されたのか。 「前に言ったでしょう。警察は西宮寺の息がかかっているって」  家に戻った御曹司は、背広だけを脱いだワイシャツとネクタイ姿で優雅に紅茶を飲みながら、のほほんとそんなことをのたまう。  彼は、家でも長袖なのは暑くないのだろうか。  まあ、冷房は薄く入っているようだけれど。 「いや……でもですね、だからって通行人も見ていたのに、どうして……」 「今さらですよ、真白」  依然として見かけは温和だけれど、彼の双眸は凍えてしまうほどに冷え切っていた。 「生きるためには、自らの力を鍛えるしかない。誰にもあてにはならないから」  それは、彼が感情を氷結させている理由の一端にはなるのかもしれない。  泣いても騒いでも、誰も助けてくれないのなら、時間の無駄となるのだから。  ……そんな環境で、彼は育ってきたのか。  わたしは……どうだったのだろう。  わたしが不知火真白だと言うのなら、リクの従妹として不知火家の娘として、どう育ってきたのだろうか。  わたしは無性に、消失した記憶がどんなものか知りたくなった。 「犯人はおわかりなんですか?」 「一応は。家督相続の醜い身内争いですよ」 「身内ですか? 身内が次期当主と決まっている吏玖さんに、こんな酷いことを?」 「恐らくは。父の愛妾に妊娠が発覚したようで、そちらに継承権を持たせようとすれば、僕は邪魔者になりますから」  彼は笑みの仮面を被り、感情を隠している。 「でもそれ、お父様にお知らせすればなんとかなるのでは……。或いはお母様とか」 「ははは……」  吏玖は笑った。  今度は愉快そうに。 「僕を殺したいほど嫌いなのは、あのふたりがそうです」 「……え?」 「僕を殺そうとしているのは、両親ですよ、僕の。一番最初に殺意を抱いたのは、父か母かはわかりませんが」  さらりと、吏玖は衝撃発言をして、わたしを驚かせる。 「そういう家なんですよ、西宮寺は。家のために尽くして勢力を持てば、危険分子だと疎まれ、ならばと無知で愚鈍なふりをすれば、すげ替えようとする。それでいて継承権は血の繋がりを重視するから、家族で殺し合う羽目となる。でもまあ、そんなものかもしれません、他の家も。親子兄弟で殺し合ってきたでしょう」 「……そんなことないですから! 西宮寺だけが特殊です!」 「そうですよね。あなたはきっと、狼さんと殺し合えない。たとえ、血の繋がりがなくとも」  吏玖は悲しげな顔でそう言う。  血の繋がりがないということはきっと調査してわかったのだろうけれど、わたしが家を滅ぼしたという狼と争わないためにも、東京を離れようとしたことはわからないだろう。 「でも、狼さんはどうなんでしょう?」 「え?」 「彼は、あなたの敵にならないと、そう客観的に言えますか?」   不意に吏玖の声は、神妙さを帯びた。 「い、いえます。だってわたしは狼に可愛がられて……」 「それは主観というもの。僕が聞いているのは、現実。不変の真理です」  吏玖の黒い瞳が底なしの闇に澱んでいて、ぞっとした。
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