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第35話 虫の知らせと安全無視

  「これが……正社員の名刺……」  午後、吏玖から両手でありがたく頂戴したわたしは、自分の名前が記載された名刺の山に、ようやく念願の正社員になれたのだと実感して、じーんと感動する。  名刺が置かれている、わたしの揃えた両手がふるふると震撼していた。 「狼さんに、見せてあげたいですね」  吏玖がそう言い出したのは、突然のことで。 「え、ええ……」 「なにも聞いていませんでしたが、狼さんはお元気ですか?」 「え……はい。とても元気です」  そう愛想笑いを浮かべると、吏玖は僅かに顔を曇らせた。 「……連絡、とっているんですね」  ここはなんと答えるべきか悩む。  もしも正直に話したら、なぜ狼と離れたのか言わなければならなくなってしまう。  うまく、嘘をつける自身がなかったし、かといって正直に吸血鬼だのなんだの、わたしは吏玖に話したくなかった。  ただの、人間の……遠野真白でいたかったから。 「はい」  余計な危惧を避けるためには、そう答えるしか出来ず。 「そうですか……」  くるりと背を向けた彼の、眉間に縦皺を刻んだ彼の苛立った険しい顔を知らずに、ただ馬鹿みたいににこにことし続けた。  それから吏玖はあまり話さずに、腕組をして考え込むことが多くなった。  胴短黒塗りクラウンを運転している深山さんは、バッグミラー越しにちらちらと吏玖を見ては苦笑していたようだったが、あのにこやかな御曹司の「猛犬注意!」の如きぴりぴりとした空気の対処がわからないわたしは、ただおたおたと車内で吏玖と隣り合わせるしか出来なかった。  しかしそれも夥しい数の会社訪問に精神を集中させることになり、気にならなくなった。  わたしの人生初の名刺交換が始まったからだ。  吏玖は、どの会社でも終始にこやかな愛想を振りまいていた。  夕方近く、最後の会社になれば、わたしの筋肉が疲れ果てて笑顔など作れなかったことを思えば、彼の笑顔は鉄壁だ。誰も崩すことが出来ない。  心の中で吏玖を称賛するわたしは、起点である会社が右手間近になった手前にある交差点で、右折するために右車線で信号待ちをしている時、ふと窓の外の右手で散歩中の大型犬が座り込んで動かず、おじいさんが困ったようにリードを引っ張る姿を眺めた。  そして同時に、ここは東京で交通量が激しい大通であることをふと思い、信号機の向こう側の反対車線にも当然のように信号待ちをしている車の奥側に、大きなミキサー車も停まっていることに、なにかやけに違和感と不安感を感じ、虫の知らせのように心臓が早く打ち始めた。 「真白、どうしました?」  わたしが訝しげに固まっていたのを見たのだろう。  吏玖が声をかける。 「……不安なんです」 「不安?」 「おそらくこれは、不安愁訴というものだと思うんですが……、やけに心臓がドキドキして」  わたしの目は、反対車線で右車線に移動したミキサー車から離れない。  信号が青色になる――。  私は、運転席の椅子を抱きしめるようにして、叫んだ。 「深山さん、左折!!」 「え……っ」  さすがの元トラックの運転手の深山さん。  凄まじい反射神経で慌ててハンドルを左に切ると、キーッとタイヤが悲痛な音をたてて車体が左に曲がり、 「危ないっ!!」  案の定、こちら車線に、前の車を弾き飛ばすように猛進してきたミキサー車と、本当にぎりぎりのところで掠めるようにして、無事に車は左側の車道に進むことが出来た。 「吏玖さん、お怪我は?」 「いえ、ありませんが……、真白さんのおかげで間一髪でした」  すると深山さんがバックミラーを見ながら、硬い声を出した。 「信号無視して、追いかけてきています」    慌てて後ろを見ると、あのミキサー車が暴走して近づいてくる。  わたしは、虫の知らせはなんとか感じられたけれど、あの暴走車を止める手段はわからない。半ば混乱してわけもわからない奇声を発するわたしに、吏玖はわたしを抱きしめるようにして胸に入れた。 「大丈夫。怖かったら、僕にしがみついて!」  しかしそこで理性が戻る。 「い、いいえ! 副社長こそ怖かったら、わたしに……」  その時だ。 「一度、追突されます。しっかりつかまって!」  深山さんがそう叫ぶと、後ろから衝撃があり、捕まるところがないわたしは、結局は吏玖に捕まり、震えた。 「大丈夫です。大丈夫だから、落ち着いて」 「は、はい……」 「曲がります! お気を付けて!」  キキーッとまた悲痛な音がすると、車体はぐんと左側に曲がり、細くて暗い路地を駆け抜ける。しかも下は下りの階段だったらしく、がっこんがっこんと車体が揺れて走る。  ジェットコースターが大嫌いなわたしとしては、恐怖最高潮。泣きながら吏玖にしがみついて、主を守るという役目さえすっかり忘れて震え上がった。 「また曲がります!」 「ひぃぃぃぃっ」 「限界速度で、尽ききります!」 「ぎゃあああああっ!!」  ……そのおかげで完全にミキサー車は撒けたのだが、その代わり御曹司が乗っている高級車はボコボコとなり、廃車寸前で会社に着けられたのだった。 「ふぅ、久しぶりのカーチェイス、腕が鈍っていたわね。本当にあのミキサー車、遠野さんを怖がらせて悪い車ですわね!」  そう、元気そうな深山さんは、やはり慣れたように元気そうな吏玖に言ったけれど、ガタガタまだ震えるわたしとしては、深山さんの運転の方が恐ろしくて堪らなかった。
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