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第34話 添い寝の翌る日は

「おはよう、眠れましたか?」  ぐっすり眠ってしまったわたしを迎えたのは、目映いばかりの光に包まれた、吏玖の笑顔だった。しかもどこか気怠げで、わたしの髪を指で梳かすその様は、優しいと同時にどこか気怠げで、踏み越えてはならない一線を踏み越えてしまったのかと焦ったが、吏玖は微笑んだ。 「大丈夫ですよ、最後までしていませんので」 そう、わたしの心を見透かしたかのように笑う彼。 「ま、まだ!?」 「ふふふ、あなた次第ということで。ふぅ……名残惜しいですけれど、そろそろ起きますか。ちょっと僕の腕、引き抜いてもいいですか?」  腕枕をされていたことに気づいたわたしは飛び起き、飛び起きたら卑猥な下着に悲鳴を上げたわたしは、布団を喉元まで巻き付けながら正座して、懸命に彼の右腕をマッサージをする。 「すみません、すみません!」 「別に……大丈夫ですよ。あなたは感じやすいから、すぐ達したし」 「え?」 「え?」 「……うわあ、あれは忘れて下さいっ」  わたしは彼の腕を放り投げてしまった。  昨夜の痴態が恥ずかしくてたまらない。  時間が巻き戻るならば、狸寝入りした彼を起こさぬように言い聞かせたい。 「いいえ、忘れません」  吏玖はベッドの縁に腰掛けるとバスローブを広い、均整の取れた裸体の上に羽織って立つ。 「僕の戒めを破らせるくらい、魅力的だったあなたのことを」  そう彼は流し目で艶笑するけれど。  魅力的だと言うのなら、なぜ最後までしなかったのだろう。  ふと、疑問に思った。 「でも、こうした不健全では勘違いさせてしまいますね」  吏玖がそう悲しげに笑うから、わたしは首を傾げた。 「僕が、あなたに不埒なことをしたいために、同棲したように。そうではないということを、僕はあなたに証明していきます。……誠意を、見せたいと思います」  宣言して彼は部屋から出て行く。    わたしが煽ってせがんだだけで、彼は根本は禁欲的(ストイック)なのかもしれない。  それはなにに起因しているのか、わたしにはわからないけれど。   御曹司たる高い地位のためか、それとも彼自身に思うところがあるためか。  だけど、この先もそうした彼の規律がある限り、きっとわたしは最後まで抱かれることがないと思えば、睦み合いのようなことをした昨夜が、やけに遠く感じてしまうのだった。  SJ総合商社、副社長室――。 「あ、篠田会長、おはようございます。ああ、はい。僕はすこぶる体調はいいです」  背後からの陽光に照らされて、我らが副社長は爽やかに電話をしながら笑う。  わたしは深山さんと吏玖の机に対して垂直に伸びた長い机に、持ち上げ式の壁のような収納庫の中から取りだした青いファイルを置き、深山さんから整理兼会社の説明を受けていた。  副社長室は高価そうな調度はあるものの、がらんと整然とした印象があるが、隠してあるだけの棚には、普通の企業と変わらぬだけの事務書類があるらしい。それがすべて彼が構想したり手がけた案だと言うから、爽やかな笑みしか見せない彼が、裏でどれだけ努力しているのかが窺い知ることが出来る。  そして深山さんも、吏玖に関してすべてが頭に入っているようだ。  彼女は営業用の笑みはよく浮かべるけれど、実際のところの彼女自身の感情というものを吐露することがなく、その点では吏玖と同種に思える。  それに比べてわたしは、感情を顔に出しすぎだろう。    ……東京を去ろうとしていたわたしとしては、東京に嫌なことと共に、狼と暮らして楽しかったり幸せだと思えたすべての感情を置いていくはずだった。  それが変わりなく喜怒哀楽の感情を出せるのは、ひとえに吏玖と深山さんのおかげだろうと思う。彼らが感情を出さずにいるから、その分わたしは感情を出している。  申し訳ないと思うほどに。  吏玖が電話で話している間に、ファイルが一山終えた。  休憩と言われて、深山さんが淹れると特別に美味しい珈琲を口に含み、幸せ気分に浸る。  そんなわたしに深山さんは言った。   「副社長のおかげでぐっすり眠れたようでなによりですね、遠野さん。お肌がつるつるでぷるぷるで、副社長の栄養をしっかり頂けいたようで」  ぶほっと珈琲を吹き出しそうになった。 「ち、違います、深山さん。副社長のえ、栄養は頂いては……」  ついつい口を滑らせると、にんまりと笑う深山さんが尽かさず切り込む。 「ほう、まだですか。きっと副社長におねだりしたら、存分にたっぷりとなみなみと、濃厚な栄養を注ぎ込んでくれると思いますよ?」  すると電話中のリクがおかしな声を出したが、またにこやかな表情で話し始める。まさかこんな小声を聞いているはずがない、きっとくしゃみか咳だろう。 「あの……それは深山さんも、なんですか?」 「つまり、私も社長の栄養をたっぷり貰っているかと聞かれていますか?」 「そ、その通りです」  そんなに、〝たっぷり〟なんて強調していなかったけれど。 「それは……」  言葉を切った深山さんは、またにんまりと笑って弧を描いた唇に人差し指を垂直に立てる。 「秘密です」 「え……」 「気になるのでしたら、副社長に自ら尋ねるといいですよ。『わたしの他に副社長の栄養をたっぷり注いだ女は誰なの? そんなひとがいるなら、わたし違う男からたっぷり栄養を貰うから!』。そう言えば、副社長は枯れるまであなたが独り占めです。それか副社長の濃厚具合を、まず試してみるとか。どれだけため込んだものなのかわかるかと」 「はぁ……」  わたしが引き攣った顔をすると、吏玖がゴホゴホと酷い咳をした。  やばい、風邪を引かせてしまったか。  バスローブを脱いだセクシーショットのまま、あれやこれやとご奉仕させた罪悪感を覚えながら、わたしは、バッグの中のピルケースから風邪薬を出して、電話が終わったら吏玖に渡そうと用意した。  深山さんがわたしのピルケースを覗き込み、黄色っぽい丸い錠剤を取り出す。  それは狼から渡されていた……実は緊急避妊薬(アフターピル)だ。  深山さんは知らないだろうと思いきや、なぜそれをピンポイントで手にしたのか、もしもわかっていたら困ると、 「い、胃薬なんです」  わたしは不審者のように笑い続けながら、深山さんから薬をひったくるようにしてピルケースに入れ、ケースをバッグの中にしまった。  彼女がなにを言おうとしたのかわからないけれど、狼との秘め事を、今ここで暴かれたくないと思ったのだ。  ……吏玖のいる前で、無性にも。  恐らくリクなら、関係をわかっているのだから、見せられるだろうけれど、吏玖には綺麗なままに思われたいと思うのは、いけないことだろうか。  そう思えばわたしは、狼との関係に後ろめたさを感じているらしい。  リクに対してのように、わからない奴はわからないでいいから勝手に失望しろ……というような強気にはなれないから不思議だ。  それは、なにに誘因されるのか。  なぜ吏玖は違うのだろう。  雇い主だから?  それとも?  吏玖が電話を切ったのを見計らって、わたしは水を用意して彼に薬と共に渡す。 「ふぅ……。これは?」 「風邪薬です。大分咳をなさっていたので。夏風邪は早めに対処しておいた方がいいですよ。拗らせたら厄介なので」 「ふふふ、副社長は拗らせの天才ですけれどね」 「え? 副社長、拗らせやすいんですか? ならば尚更、どうぞぐっと」 「そうですよ、副社長、ぐっと。遠野さんからの薬なら、拗らせも緩和出来るかもしれませんよ? いや、きっと出来るでしょうね、おほほほほほ」  すると吏玖はゴホンゴホゴホと凄まじい咳を繰り返す。  背中を撫でてあげると、落ち着いたらしい彼は涙目で弱々しく言う。 「……ありがとう。もう少ししたら飲みます」 「よろしくお願いします」  わたしは彼が内心困っていて、深山さんが笑いをかみ殺していることも知らずに、秘書らしい気遣いが出来た自己満足に喜んだ。
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