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第29話 手料理

「つまり、本当に恐ろしいのは、人間がつけた偽りの付加価値の方だ。間違った情報を与えられ、それが真偽判別の条件として、或いは限定的な条件範囲内で怖いものと情報操作されている僕達は、本物に会っても本物だとわからず、無防備な餌になってしまうのだから」  怜悧すぎるその瞳の鋭さに、わたしは息を飲む。  彼は聡い。聡すぎる。……怖いほどに。 「ましてや西宮寺という家は影響力がある。だから僕は、正しい情報を発信する、そんな家にしたいんですよ」 「それはつまり、西宮寺が間違った情報を発しているのだと?」 「……はい」  吏玖は頷き、強張った顔を見せた。 「きっとあなたもそのうちわかると思います。権力という底なしの欲望が、いかに恐ろしいものかを」 「……っ」 「……だけどこれだけは覚えていて欲しい。西宮寺がどんな家であろうと、僕は……誤謬を至当に正す側であり続けたい。でもそれは正義漢からではないんです」  吏玖はこう続けた。 「それは僕の……贖罪です」 「……贖罪?」 「はい。僕のために傷つき屠られた者達への、唯一の鎮魂法です」  その顔に浮かぶものは、深く傷ついた翳りだった。 「駄目です、わたしにやらせて下さい!」 「今日くらいはお祝いで、僕に作らせて下さい!」  夕飯は揉めに揉めた末に、じゃんけんで勝ったこの家の主が料理人になってしまった。  わたしの嘆きは凄まじいもので、そして同時に出来上がった彼の料理の数々に女を辞めたくなってしまうほどに、感嘆半分落胆半分だった。  出来上がったのはハンガリー料理の数々。  赤いパプリカが主軸のグラーシュという、タマネギや色とりどりの細いパプリカが炒められた、赤いスパイシーなスープのようなルーにチキンを煮込んだもの。それをライスの上にかけた、さながら赤いハヤシライスのような絶品料理。  ピーマン……ではなくパプリカの肉詰めや、ハンガリーの特産品であるフォアグラのソテーなど、料理人か!と思いたくなる、見目も味も麗しすぎる料理達。  ……疑問だったのは、彼はここに帰っていなかったはずなのに、なぜ冷蔵庫にそんな材料が入っていたのかということだ。  これはもう、深山さんの仕業にしか思えない。彼女は、吏玖がハンガリー料理を振る舞うことを見越していたということになる。    彼女も、吏玖の手料理を食べたのかな……。  ちくんと、胸に小さな棘が刺さったような痛みを感じながら、それを隠すように、 「深山さんも呼んで、この美味しい夕飯を一緒に食べたかったですね」 「そうですか?」  吏玖はあまりそう思っていないらしく、また赤ワインを口にした。  彼は深山さんを信用しているくせに、なにか彼女に冷たいところがあるような気がする。  だけど――この美味しい料理、わたしだけが幸せを感じていいものか。 「うう……美味しい」 「お口にあったならなにより」  狼にも食べさせてあげたいと思ってしまう。  狼、ちゃんと食べているかな。  血ではなく、人間の食べ物を。 「どうしました? 悲しい顔をして」 「いえ……。なんでハンガリー料理が作れるんですか?」 「小さい頃、住んでいたんです」 「ハンガリーに!?」  世界地図のどこにハンガリーがあるのかはわからないが、国名だけは知っている。 「ええ。六歳まででしたが、ハンガリー料理が美味しかったのを覚えているので、料理店のシェフを家に招いて教えて貰いました」  ……坊ちゃんめ。 「大切なひとに食べさせるようにと」 「……っ」  深山さんではなくわたしに食べさせたことに、なにか意味があるの?  それを聞けないわたしは、しばし黙々と料理を食べた。  美味しいのに、途中から味がわからなくなってくる。 「ハンガリーに住んでいたのは、ご家族のお仕事かなにかで?」  沈黙を破るように、わたしはとりとめない話題を振った。 「いいえ。わたしひとりです。わたしは黒い髪と黒い瞳のハンガリー人だと思っていましたから。物心ついた時から」 「へ?」 「まあきっと、国外追放という形をとったつもりなんでしょうけれど、日本に呼び寄せられて戻ってきた感想としては、ハンガリー語ではなく、英語圏内で育ちたかったなと。ハンガリー語は、コミュニケーションが取りづらいですからね、日本人には馴染みがないから」  吏玖は優雅な手つきでナイフとフォークを使い、チキンを口にした。 「なんだか、吏玖さんのおうちは本当に複雑なんですね」 「ええ。複雑怪奇ですね、理解に苦しむようなことが多々すぎます」  淡々と吏玖は言う。  まるで家のことについては、感情を押し殺しているかのように。  それをわたしは……悲しく感じた。  
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