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第22話 こんなはずじゃなかったのに

 わたしが働くと宣言した後、吏玖と深山(みやま)さんに怒濤の指導を受け、これは早まったかとやや後悔しながら、覚えることに頭がパンクしそうになったわたしを、吏玖と深山さんはエレベーターに乗って地下に連れ出し、横付けされていた……いつぞやのような、やや胴長黒塗りリムジンに乗るようにと促した。  どこからか取り出したらしい白い手袋を嵌めた深山さんが、車のドアが横にスライドさせて開けた途端、奥に黒革のソファがL字型に鎮座しているのが目に飛び込んでくる。  長い黒のテーブルを挟んでドアのある手前側には背の低い棚があり、形状が違うグラスが光に乱反射して並び、トングと氷が入った銀色に輝くバケツの横には、ワインやカクテルのボトル、ウイスキーなど様々な酒瓶がびっしりと横一列に置かれている。  あれ、これ……車の中だよね。  どこかのお店に入ったわけじゃないよね。 「遠野さん? 入って頂けないと、車を出せませんが」  呆然唖然とするわたしは深山さんに急かされて、吏玖に続くようにして慌てて車内に入り、ドアが閉められる。 「あれ、深山さんは?」 「彼女は運転手ですので」 「運転手ですか!?」 「はい。彼女は僕が信頼している運転秘書。途中でどんなトラブルにあっても、必ず振り切れます。元は長距離トラックの運転手だったんです、彼女。だからご安心を」  ……どこを突っ込んで良いかわからず、ただ頭がくらくらする。  ドアが閉まる音がして、エンジンがかかる音がした。  本当にあの深山さんがリムジンを運転するのか。  前部座席方向は壁となっており、誰が運転しているのか見えないものの、車内放送のようにピンポンパンポンと軽快なチャイムの音がして、マイクで深山さんの声が聞こえた。 『ではこれより、遠野さんのお住まいにご案内致します。走行中揺れることがございますが、傍にいる方に抱き付いてお乗り過ごし下さいませ。きゃっ』  深山さんの弾んだ声と共に、放送は途切れた。 「……」  ……深山さん。あなたは一体なにを……。  深山さんは若い娘のような無鉄砲にも溌剌とした元気さは見られない。どう見ても、落ち着いた控え目な静かな年上の美女としか見えないのに。  これは、上司の育て方にミスがあったのではないだろうか。  それとも、彼はこうしたノリを癒やしに求めているのか。  雲の上の存在である御曹司の頭の中は、わたしにはわからないけれど。  しかし顔を引き攣らせてぐだぐだ考えているのはわたしだけだったようで、吏玖は慣れきってでもいるかのように平然と身を乗り出して、ワイングラスをふたつ取り出している。 「真白さんはなにがいいですか? 赤? 白? ロゼ?」  まるでどこかのBARのバーテンよろしく、否、No1ホストが店で一番高価なお酒を、さりけなく……しかし強引に勧めているかのように、御曹司がにこやかにワインのボトルを手にし、可愛く小首を傾げて訊いてくる。 「いやいやいや。ここは車ですし、副社長がそんなことをしなくても! わたしが副社長にお注ぎしますから、一介の社員に給仕しなくて結構ですから」  まだ外には太陽が煌々と照っているはずだ。  おもてなし……というには、真っ昼間から部下にワインを勧めるずれた神経を疑うが、これは新人であるわたしに対して、教育の一環として試しているようにも見えないことはないと、逆にわたしは御曹司にワインを勧めてみる。相手を不快にすることなく身分相応に笑顔でやりきる……恐らくこれが正解だろうと。 「では、赤を」  ……飲むのかよ。  わたしこのひとの元で働いていて本当にいいのかと、ズキズキと痛む頭を抱えながらも、コルク抜きでコルクを、きゅっぽん!と引き抜いて、ピカピカに磨かれているワイングラスに注ぐ。 「ではあなたもどうぞ」  嬉しそうに吏玖がボトルをわたしからひょいと取り上げて、わたし用らしいグラスにトポトポと……わたしが注いでいた仕草よりも遥かに優雅に注いでいく。 「では、乾杯しましょう」  カチンとグラスをぶつけて口に含む。  ……結局わたしも飲むのかよ。  そんなツッコミがどこからか聞こえてきたが、だって副社長様の目が怖いんだもの。  優しく微笑んでいるけれど、その目がどこか冷めていて、それが威圧的に思えて、「飲めよ、俺が注いだ酒が飲めねぇって言うのか、あぁん?」と言われている気がして……ちょっと怖い。優雅で上品なひとなのに、下卑た脅しを受けている気がしたのだ。 「おや、飲めないんですか、真白さん」 「いえ……、勤務中なので」  わたし、言った! 副社長に物申した!  ちょっぴりのワインよ、わたしに勇気をありがとう。 「あははは、気になさらずとも。あなたの勤務は明日からにしてありますので」」 「あ……、そうなんですか」 「はい。ですので、大いに酔って構いません。僕が介抱しますので」  酔っているのか目許をほんのりと赤らめた吏玖のその顔が色っぽいこと。  なんだか誘惑されているような、うずうずと落ち着かない気分だ。 「いえいえ、そんなそんな。でしたら副社長こそどうぞご存分にお酔い下さい。わたし、おぶって家までお送りしますので。よくびくびくと怯える小動物と勘違いされますが、こう見えてもわたしは体力には自信がありますので!」  ぐんと片腕を突き出してから力こぶを見せれば(長袖の背広だから見えるわけがないが)、 「あははは」  吏玖は長い足を組み、赤ワインという王子様アイテムを違和感なく溶け込ませて笑う。 「僕は病弱で育って貧弱だから、とても羨ましい」 「病弱で貧弱……」  病弱で貧弱のひとが、走ってきた車に片手を添えるだけで退けられるものなのか。  それに色白ではあるけれど、病的なものはわたしには感じられなかった。
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