23 / 72

第21話 それは妥協か強引か

  「それであなたは、専務が落とした名刺を拾って専務室に届けがてら、彼が電話をかけようとして思い出せない電話番号を、空で言ってみせたとか」 「あ……はい。拾ったのは前の日で、愛人さんのホステスの電話番号とは知らず、困ってらっしゃると思い、次の日、専務室に奥様がいらっしゃったことに気づかず。……奥様の前では切れていたはずの関係が続いていたことをお知りになった奥様は、専務と凄まじい夫婦喧嘩をなさり、番号を告げたわたしは即日クビです」  深山さんがにこにこしながら、肩を震わせる。 「その話を聞いて、きみに興味を持って調査していたんです」 「興味をそそることが出来て光栄ですが、結構これはわたしの黒歴史に入るんですが」 「あはははは」  吏玖は声をたてて笑う。  リクのように、少し目尻を下げて。  彼もこうやって笑えるんだと、少しばかり驚いてしまう。  どれが彼の姿なのかよくわからない。  上品で物静かな彼なのか、なにも語らずとも悟れる聡明な彼なのか、女性のような清楚さを見せるところか、笑いの仮面をかぶって本心ではなにを考えているのかわからないところか、それともこうした無邪気さを見せるところか。  ただわかることは、わたしはを理解してはいない。  なぜ彼が狙われているのかも含めて。 ――虚構と欺瞞に満ちた僕の環境には、あなたのような……真っ白い心のひとが必要なんです。僕がそれに染まらない、〝ひと〟でいようとするためには、指標となるひとが。  ひとでないかもしれないわたしは、彼の指標になれるのかわからないけれど、それでも孤独で不安な状況の中、わたしという存在を必要としてくれていることが嬉しくて。  だからわたしは――。 「実は、本日お伺いしたのは、申し込みを取り消したかったからです」 「え……」  吏玖は深山さんと顔を見合わせて、絶句している。  財閥の御曹司でいて、それくらいも予想出来なかったのかと思えば、笑えてくるけれど。 「特出したものがない経歴で面接まで選んで頂き、本当に申し訳なかったんですけれど」 「ちょっと待って。それはなぜ?」 「東京から、出ようと思って」 「……狼さんと?」  吏玖の声は心なしか低い迫力あるもののように思えた。 「いえ、ひとりで」  するとやや間を置いてから、吏玖は続けた。 「あなたを東京に縛るような……、あなたが未練を残す存在はいないんですか?」  狼、リク。  未練がないと言えば嘘になるけれど、それでもわたしは――。 「いません」  彼らを切り捨てたのだから、そう言うしかない。 「……東京から出てどこに?」  吏玖が目を僅かに細めて、冷ややかにも見える面持ちで訊いた。 「決めてはいません。北に行くか、西に行くか」 「では、これから住まいも職も探すと?」 「はい」 「では、こうしましょう」  吏玖はぱんと手を叩く。 「あなたに住まいも差し上げます。さらに食事つきなので、食費もかからない。そして給料を上乗せ、ボーナスは半年分。勿論福利厚生もしっかりしていて、週休二日は確実」 「あ、あの……」 「都心にある景観がすばらしい住まいで、あなたは一切の費用を出すことない。給料がたまっていきます。それからでもいいんじゃないですか、東京を出るのは」 「……あの……」 「そうです、副社長の仰る通りですよ、遠野さん。こんなに妥協下さっているのだから、ここは甘えておいた方が得策では?」 「だから……」 「エステとか温泉とかはいかがですか? 西宮寺グループの施設を無料で……」  わたしは彼らを遮るようにして言った。 「そこまでなさらずとも、所定の規約だけで結構です。頑張ってお仕事させて頂きます」 「え?」 「え?」  ふたりはきょとんとしている。 「だからですね、本当はお断りに来たんですけれど、それを却下して、わたしが必要とされているのなら、頑張ってみたいと言おうとしていて……」 「あ、そうなんですか」 「そうなのね」  なんだろう、このふたりのハイタッチ。  そもそも、このふたりの関係はただの副社長と秘書?  ……愛人とか? 「……真白さん?」  考え込んでいたら吏玖に顔を覗き込まれて、驚いてソファの上で飛び跳ねる。 「な、なんでもありません」 「そうですか。でしたら深山くん、手続きを」 「かしこまりました」  深山さんは軽やかに部屋から出て行く。 「ただ……三食付の住まいだけはプレゼントをさせて貰えますか?」  魅惑的な笑顔で、魅惑的な申し出。  だが社会人として、また、ひととして副社長に謙遜を。 「結構です。お給料を頂けるのでしたら自力で……」 「いえ、これは僕の事情に巻き込むお詫びとよろしくを兼ねて」  その揺るがない硬い意志に、しめしめと内心満面の笑みだったのは内緒の話。 「そうですか? では……お言葉に甘えさせて頂きます」  狼とリクがいる東京にいても、巨大な西宮寺グループの領域にいれば見付かることはないだろう。……恐らくは。  しかしこの西宮寺吏玖は、なんという優しく律儀な男なのだろう。  外見とは違って、食えぬ男だとまだ警戒心はあったけれど、彼のことを見直してもいいかもしれない。  ……彼ひとりで、危機を乗り切る力があるはずなのに、わたしを引き入れたのは、きっと精神的に困窮していたからなのだと思えば、できる限り彼のために頑張ろうと意気込んだ。  その時は。  まさか与えられたその住まいに、『西宮寺吏玖』と名札がかかっていることも知らずに。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!