19 / 72

第17話 進む道は

   狼の顔がちらつけば、罪悪感が募り、わたしはリクから顔を背けた。  わたしから仕掛けたのに、まだ燻った火は身体に無数に残るのに、よく知らないリクとこんなことをしてしまう淫らな自分が許せなくて。  きゅっとスカートを握りしめ、唇を引き結ぶ。 「そんなに後悔して、俺に触られるのが嫌なら、欲情するな」  冷たい声に、びくっとしながらわたしは叱られた子供のように項垂れた。 「……っ」  当然だ。  リクの言葉は間違っていない。  勝手に欲情したのはわたし。  後先なにも考えずに、彼に抱かれたいと欲情して、そして欲情が冷めると彼を拒むなんて、自分でもふざけるなと言いたい。  反省するわたしをやるせなさそうに見ているリクにも気づかずに、わたしは立ち上がると、違和感に気づいた。  裸足だったはずのわたしの足には、靴があった。  それは、昔懐かし小学校の時に履いたバレーシューズ。先っぽが脱ぎ捨てたヒールのように赤い。 「やる。履け」 「は?」 「どうだ? それなら足の傷に障ることはないだろう」  満足げでいるところ悪いけれど、なんでこれ?  誰もが寝静まった夜、彼はいつどこでこれを買ったのだろう。  そしてどこに隠し持っていたのだろう。  わたしがこれを履いて、日中も東京を歩くものだと、彼は本当に信じているのだろうか。  わたしは、いましがたの淫らな秘め事などなかったかのように、笑顔で言った。 「わたし、明日面接なの」 「……?」 「人生を賭けるくらいの勢いで、凄く大きい会社に行く約束を取り付けているのだけれど、この靴で正社員になれると思う?」  リクは立ち止まってわたしを見たまま、なんとも言えないような複雑そうな顔で硬直していた。そして――。 「〝本当にわたしを必要としている会社なら、それでも選ぶはずだ〟なんて気休めの言葉、本気で思う?」  リクの引き攣った顔から、本当にそう言おうとしていたことを知る。 「まあいいけど。断るつもりだったから。これが今の本当の姿ですと、そう言って断ろうと思う。電話一本や無視だけはしたくないから」  東京から出るには、仕事も別の場所に見つけなきゃいけない。  せっかくの正社員のチャンスだったけれど、仕方がない。  それを隠して正論のように言い放つわたしを、リクはじっと見てから静かに言った。 「服もそれでか?」 「いや、店が開いたらスーツを買おうと。勿論靴も。バッグの中に昨日下ろした現金もカードも入っているから、ぱーっと使ってやろうかと」  すると、リクは僅かに双肩を落として気落ちしたらしかった。 「……ぷ」 「笑うな」 「ははは」 「おい!」 「……リク」 ――生きているよ、お前は。 「リク、ありがとう」 ――生きろ、この先も。お前の生が沢山の犠牲の下にあるのならより一層、お前は生きなければならない。  不知火リクは、わたしから日常を奪った。  だけど、狼ですら言ってくれなかったことを言ってくれた。  わたしの手を握ってくれた。  リクの敵かもしれない、人外の手を。  その足を、労ってくれた。  わたしの身体を女として触ってくれた。  そして、生きている、この先も生きろと言ってくれた。    それは心から、嬉しかったと思えるから。   「どういたしまして」  狼のように、怜悧な瞳を持つ彼は、どこまでわたしを見通しているのか。 「うわ、ぶかぶか」 「文句を言うな」 「あはははは」  大丈夫。わたし、ちゃんと笑えている。    それをこれから生きる自信と安堵感にした時、リクはその美麗な顔を陽光に煌めかせて、眩しいほどの光を放ちながら美しく微笑んだ。  欲情ではなく、わたしの心臓がどくどくとうるさくなるほどに。 「じゃあな、真白。また」  別れが惜しく思うのは、彼の指で果てたからなのか。  もう彼に抱かれることはないと思えば、一抹の寂しさが胸に過ぎる。  だからわたしは陽気に振る舞った。 「あら、一緒に面接に行ってくれないの?」 「お前が俺に欲情したら、面接どころじゃなくなるだろう?」 「……っ」 「また見せろよ、あの可愛い顔」  優しい、美麗な顔。  そこには殺気など存在しなかった。  やばい、なんなのこのぎゅんぎゅんとうるさく鳴る心臓は。  さっきは切羽詰まっていたような顔をしていたくせに、余裕ぶって、こんな破壊的な笑みを見せるなんて、反則じゃない。 「わたしを見張るんじゃ無かったの、ストーカーさん」 「……悪いが、俺には先にすべきことがある」  笑いを消したその顔に浮かぶ意志は固そうで、悲壮にも見えた。 「狼は殺さないで」 「……後回しにしてやる。こんなところで堂々と欲情するお前の勇気に免じて」  思わずわたしは咽せ込んだ。 「またな、きっとすぐ会える」 「じゃあね、ばいばい」  わたしは再会を約束するような言葉は避け、反対側へと歩くリクに背を向けて、大きい靴を履いてがぽがぽと音をたてて歩き、リクと距離を広げて行った。  狼が幾度も抱いて鎮めたリクへの欲情は、リクの手にかかるとすぐに弾けるとは、複雑極まりないけれど、それでも狼に欲情していたのは確かだったの。  わたしは、狼の元でよく笑った。  それが不思議と遠い記憶のように思える。  思い出に、できるかな。狼と暮らした日々を。    ばいばい、狼。  もう会うことはないだろうけど、ほんの僅かでも、あなたの思い出の中で、笑っていられたら嬉しい。  父のような兄のような、そんなかけがえのない唯一の存在(ひと)だった。  ……あなたがいない世界に、わたしは生きる。  なにを心の拠り所にしていいのか、どこに向かえばいいのか、わからないけれど。    ――狼。わたしはあなたを恨まないよ。  わたしを育ててくれて、本当にありがとう――。  
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!