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第8話 悪夢の少年の名は

   青山『ange(アンジェ)』  雑誌に載っていた記事をきっかけに、初めてお世話になったのが五年前の大学生の時で、卒業式の袴の着付けやまとめ髪をして貰った。  当時ヘアスタイリストなりたてだった担当の山村さんは、今ではベテランチーフとなっていて、このお店の看板女性になっている。壁に掛かるコンテスト受賞時の写真や賞状、アシスタントに指示するところなどを見ると、我が子の成長を見るように感慨深くなってしまう。 「へぇ、明日面接なんだ。じゃあうまく行くように気合い入れて、いつもの三センチ切るわね」 「いつも気合い、入れて下さいよ~」  店内は明るく広く清潔感に溢れている。  元々青山という土地自体が上品なために、客も的から見える通行人の服装も綺麗だ。 「思い出すわね~、真白ちゃんが私の練習台になってくれた時のこと」 「あははは、山村さんのくしゃみでばっさり切られたことがありましたよね」 「本当に美容師にあるまじきこと。もう本当に、あの恐ろしいほどイケメンのお兄さんが怒鳴り込んできた時は、殺されると思ったわ」 「あはははは。義兄さんは長い髪が好きみたいなので、しばらく涙目でした」  ……正しくは、情事中に乱れる長い黒髪が好き、なんだろうけれど。 「今日、また義兄さんが迎えにくるみたいなんで、よろしく」 「うわーうわー!」 「あはははは!」  しかし約束の七時になっても狼は来ず、電話も留守電だし、LINEも既読がつかない。  仕事でトラブルでもあったのかもしれない。 「お店もしまるし、わたし帰ります」 「もう少し、いいわよ?」 「いえ、もしかすると途中で会えるかもしれないし」  わたしは狼の留守電に、先に帰っていると入れて、ひとりで帰ることにした。  見慣れた道なのに、ひとりで帰ることに妙に不安が募る。   「大丈夫。今のわたしの意識ははっきりしているから、またおかしな道には迷い込まない」  出来るだけ人混みの道を選ぼう。  まさかたくさんのひとがいる中で、事件は起きないだろうし。  青山の地下鉄の看板を見つけて、そこから階段を下りた。 「……あれ?」  ここの地下は、こんなにひとが少なかっただろうか。  帰宅ラッシュは過ぎた時刻とはいえ、改札口に向けて行き交うひとがいない。  わたしの前に、コートを着た男性が歩いているだけで、後はわたしの靴音がやけに冷たく響いて聞こえ、背筋にぞくりとしたものが絶えず走っている。  一瞬、下りてきた階段をまた駆け上ろうかと思った。  だがここまで歩いてきたら、改札口の方が近いし、後ろにもひとがいないから、おかしなものに追いかけられる心配はないだろうと判断して、ひっそりと静まりかえった地下を慎重に歩いていく。  ……異変を感じたのは、二組あった靴音が、私の靴音しか響かなくなった時だ。  なぜ音が消えたのかと顔を上げてみれば、コート姿の男性がこちらを見て立ち止まっていたのだ。後ろには誰もいないということは……。 「……っ!!」  警戒心にわたしの足も止まった。  早く逃げろと警鐘ががんがんと頭の中に鳴り響いている。  改札口は彼を通り過ぎないといけない。  地上に繋がる唯一の階段は後ろだ。  そして――。  コート姿の男が、こちらに駆けてきた。  それも尋常ではない速さで。 「ひっ」  わたしは、誰もいないはずの後方に駆けようとした。  しかしそこには人影があったのだ。  そう、シラヌイリクが。  吏玖と同じ顔をした男が、能面のように冷ややかな面持ちで。    怖い、怖い、怖い……。  前にも逃げられない。  後ろにも逃げられない。  どうすればいい?  ああ、美容室で狼に待っていればよかった。  わたしは、ここで被害者になってしまうんだ。  コート姿の男が避けるような大きな口から牙を見せ、わたしに手を伸ばした。  この男も、吸血鬼なのだと悟った時は既に遅すぎて。  ファッションモデルのようなモノトーンの服装をした、リクも近づいてくる。 「いや……」  震えるだけのわたしの身体は動かない。  逃げ道がない!! 「いやあああああ!」   男の手がわたしの腕を掴む。  ねじりとられるかのような痛みに絶叫を上げた時、リクがわたしに向けて手を伸ばす。  その手はわたしの顔の横を過ぎ、男の顎を持ち上げるようにして後ろに反らせると、ガチガチと歯を鳴らす音をたてた男は後ろに倒れた。  その男に馬乗りになったリクは、男の喉元に銀色に光るなにかを横に引くと、男のぱっくりとあいた一文字に裂けた痕から、音をたてて勢いよく真紅が吹き出る。  目がちかちかする。  あの悪夢が逆再生していく。  砕け散った破片が凝縮されて、ステンドグラスのように嵌め込まれた欠片となり、景色を作る。    薄闇に包まれた景色。  饐えたような悪臭。  ここは――あの悪夢の洋館? 「真白」  あの吸血少年の顔がチカチカとして定まらない。  その顔が、リクにならない。 「お前を殺してやりたい」  忌々しげに細められたその目。  放たれる憎悪が、わたしの身体を燃え立たせる。  「あ……」  まるで視姦されているかのように、彼の前でわたしは丸裸になる。 「どうしてお前は……」  わたしは夢の中で、少年の名前を呼ぶ。  血を啜っていた、あの麗しい少年の名を。  目を金色にさせていた、あの忌まわしい少年の名前を。 「俺を裏切り、あいつについたんだ」 ――ロウ、と。 「俺とお前の家族を殺した、あの吸血鬼に!!」  ガッシャアアアアン。  すべてが壊れた。  今まで築き上げてきた、わたしと狼の日常が。
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