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第10話 在りし日の思い出

 時間は少し遡り、朝。  リリーが走り去った方向を、ユーリは呆然と見つめていた。昨夜からずっとふわふわと幸せな気分が続いていたから、とっさに反応できなかった。   「え? どういうこと? 『私がユーリを元に戻してみせるから』って……?」  リリーが叫んだ言葉を復唱して、ユーリは首をかしげた。  昨夜、酒の勢いに任せてとはいえ長年の想いを遂げ、幸せになったと思っていたのに。最初は困惑していた様子のリリーも、ユーリが熱心に口づけるうちに応えてくれるようになった。とけあうように抱きあって、何度も口づけて、肌と肌を重ねて、まるで夢のようなひとときだった。 「もしかして、最後までできなかったことを気にしてるのかな?」  リリーのおかしな態度の理由についてユーリなりに考えてみたとき、思いつくのはやはりそのことだ。  昨夜、肌を重ねたのはいいが、ユーリは途中で眠ってしまった。酒に酔っていて、少し身体を動かしたら疲れてしまったのだ。初心なリリーの身体を開かせ、まさぐり、存分に感じさせたところでリリーは意識を飛ばしてしまった。自分の指によってリリーが乱れてくれたのが嬉しくて、本懐を遂げていないにも関わらずユーリも満足した。……高ぶりきった自身は、きっちり慰めて処理したが。  意識のないくったりとしたリリーの身体を抱きしめて、そのぬくもりに心が満たされてユーリは眠った。身体を深くつなげることはできなかったが、好きな女の子を腕に抱いて眠ることができただけで、ユーリは十分に幸せを感じることができたのだ。    ユーリも、出会ったときからリリーのことが好きだった。  もしかしたら、出会う前からかもしれない。  リリーは、ユーリの世話係をしているロベルトの妹で、実際に会う前から話をたくさん聞いていた。ロベルトは六歳下の妹のことを溺愛していて、機会さえあればどれだけ妹が可愛いか、いい子なのか語って聞かせるのだ。だから、出会う前からユーリにとってリリーは、まるでよく知っている女の子のような気がしていた。  ずっとずっと知っているような気がしていたリリーと本当にあったのは、ユーリが九歳のとき。  ユーリの母が開いたお茶会に招かれたときのことだった。  美しい魔女であるリリーの母親と比べて周囲の大人たちはうるさく言っていたが、ユーリの目にはとびきりかわいく見えた。  秋の紅葉を思わせるような赤毛も、神秘的な影を落とした緑色の瞳も、これまで見てきたどんなものより魅力的に映った。  物心ついたときから様々な令嬢と引き合わされてきたユーリには、正直言って同年代の女の子なんてみんな同じに見えていた。みんな、よく躾けられて行儀がよくて“可愛い”。そして彼女たち自身も自分たちの可愛さを当たり前のように信じていて、それがユーリには面白くなかった。  だが、リリーは違った。  可愛がられて育ったことがわかる様子をしているが、おごっていない。自身の見てくればかりに執心していない。褒められれば喜び、けなされれば怒るのではなく傷つく。周囲に自分の存在を認めさせることよりも、気になることをとことん探求する。――それが、リリーという女の子だった。  他の令嬢たちとは違う、普通の子供らしいリリーに、ユーリは惹かれたのだ。手入れの行きとどいた温室の花を見飽きていたから、野の花を思わせるリリーが単に新鮮だっただけかもしれない。  ユーリにとってリリーがさらに特別になったのは、初めての出会いからしばらく経ってからのことだった。  ある日、剣の稽古でユーリはこっぴどく負かされた。ロベルトに負けるのはいつものことだが、その日は稽古についてくれた誰からも一本も取ることができなかったのだ。  元々、ユーリは剣を振るうことが好きではない。一国の王子として強くなければならないということはわかっているのだが、誰かを打ち負かすとか倒すということに興味が持てなかったのだ。  それに、痛いのが嫌いだった。  日頃はそんなふうに気乗りのしない剣の稽古も、何とか我慢してやれている。だが、その日は呼んでもいないのにある令嬢が稽古を見に来ていて、見当違いな声援ばかり送ってくるのが耐え難かったのだ。何より嫌だったのは、ユーリがやられるたび大げさに悲しんで見せることだ。  ユーリを心配しているようでいて、その実、自分に注目させることが目的なのがすぐわかる。  やられて痛いし、その令嬢があまりにも鬱陶しくて、ユーリは我慢できなくなってその場から逃げ出した。  走って、走って、たどり着いたのは裏庭だった。  薬術師たちの研究所や工房がある場所。リリーにたまに会うことができる場所だ。  おそらく、無意識のうちに足が向いてしまっていたのだろう。どうせ来てしまったのならと、ユーリはリリーを探した。  結構な広さがある裏庭の中でも、いつもすぐに見つけられる。リリーはたいてい、薬草園にたたずんでいるから。  研究所所有の薬草園は、許可を得れば誰でも入ることができる。そこでリリーはよく、薬と魔法の練習をしているのだ。  その日も、すぐに見つけることができた。  リリーは、小さく何かを呟いていた。おそらく、何かの呪文。その声に応えるように光の粒が集まってきて、徐々にその輝きを強めていった。だが、それだけだ。拳くらいの大きさになったところで、光の球はぱちんと弾けてしまった。 「……やだな。いつから見てたの?」  ユーリの視線に気づいたリリーは、恥ずかしそうに唇をとがらせた。失敗したのを見られたのが気まずかったらしい。  失敗でも何でも、薬草園にたたずむリリーの姿はきれいで、ユーリはまったく気にならなかったのに。 「ユーリ、怪我してるじゃない。見せて」  ユーリがボロボロになっているのを見たリリーは、難しい顔をして手当てをはじめた。手で泥を払い、肩かけカバンに入れていた薬を取り出し、よく塗りこんでくれた。 「今日はいつもよりひどい怪我……痛かったね」  手つきは拙いが、他の誰がしてくれるものより優しくて、ユーリはそれが嬉しかった。同情や憐憫を向けてこないのも、すごくありがたかった。 「リリーは、怪我した僕を可哀想だとか惨めだとか思わないの? 弱い僕は嫌だよね?」  心配するような言葉をかけながらもがっかりした視線を向けてくるあの令嬢のことを思い出して、ユーリはつい尋ねていた。あの視線によって傷つけられた心を、慰めてほしかったのだ。 「強さって、何も剣の勝負だけで決まるわけじゃないわ。私は、ユーリを弱いなんて思わない。たしかに、こうして怪我をたくさんしてると心配だけど。それに、痛いのは可哀相ね。でも、惨めだともいやだとも思ってないわ。ユーリのこと、そんなふうに思うわけないもん」  真剣な顔で、言葉を考えながらリリーは伝えてくれた。そのことは、どんな言葉よりも魔法のようにユーリの痛みをやわらげた。  そこに、取りつくろう気持ちがなかったことも、きちんと伝わった。  リリーにとっては、友人にかけた何気ない言葉だったのだろう。だが、その言葉をかけてもらった日から、リリーはユーリの特別になった。
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