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第二部  海賊王子と狩人妃(7)

『心を奪われたら、お前は死ぬよ』 幼い頃から、お婆様にそう言われていた。  (いにしえ)からの取り決めにより、奥洞海は王家と祁答院、そして大神の≪影≫となる。また、一族の娘が三家のどこかの家から夫を貰い、その娘が産んだ娘が次の奥洞海の当主となる。  昔は、当主に三人の夫がいたという。 しかし流石に第一次世界大戦後は、一夫一妻制になったようだ。  奥洞海の女は、心を奪われた男の為に尽くしてしまうから。 三人の男に心を奪われた女性は、引き裂かれるような思いをしていたのだろう。 『だから、お前が”その男を愛して幸せだ”と思える男に、心の鍵を渡しなさい』 私はお婆様にそう言われて、育った。  母が奥洞海の出で、取り決めにより祁答院の父の許に嫁いだ。 しかし、母の結婚はあまり幸せなものではなかったらしい。父にとって母を娶ることは、≪影≫を供給して貰う為の、しきたりに過ぎなかった。そしてベッドという一番無防備な場所で自分を守らせるための≪影≫として、女。つまり母を選んだのだと言う。  父は盟約どおり、母との間に子(つまり私)を為したあとは、愛人を囲った。祁答院の次期総帥となる為の子供は、愛人との間に作ろうとしていた。  私は奥洞海のお婆様の下で育てられたが、母は父の傍を離れなかった。母は祁答院コンツェルン総帥夫人という立場よりも≪影≫としての立場を全うした。父の愛人が父のベッドを温めている間、母は寝室の外で警護に当たっていたという。 --そんな事を、私は知らされることなく。 瀬戸内海に浮かぶ奥洞海の島で、島の子供達と呑気に暮らしていた。そして≪影≫として生きていくべく、過酷な戦闘の鍛錬の為の時間を過ごしていたのだった。  しかし、私以外に父には子が出来ず。 私は奥洞海の跡取りでもあると同時に、祁答院コンツェルンの次期総帥という立場に立たされることになった。   事情を知ったのは、お爺様の使いだという人間が私を迎えに来てからだ。父が、テロリストから父を護ろうと身を挺した母と亡くなってからだった。  私は『男に心を明け渡してはならない』という祖母の言葉を胸に抱いたまま、祁答院に引き取られた。  ガラスとコンクリート、金属で作られた父の屋敷は、氷のようだった。待ち構えていたお爺様のもと、教育は開始された。総帥が知らなければならないことと、そして大神への憎悪と疑心を植え付けられたのだった。  エスカレート式の名門女子校に放り込まれた。両家子女に囲まれ闘う訓練もなく食べるものを得る労力を必要としない、学び舎。同級生が夢中になって話している、『恋』というものがどういうものか、私にはわからなかった。  きょとんとする私に、同級生達は『恋』がいかに素晴らしいものかを、瞳に星を宿らせ頬を紅に染めて熱く語ってくれた。しかし実感のない私には、まるで水槽の中から外界を見ているような気分になった。  同級生達は、政略結婚の道具とみなされている家柄のの少女たちばかりだった。彼女達が生まれた時には、嫁ぎ先が暗黙に決まっていた。私達が高等部に進む頃には、どこそこの誰と何処の家の誰が縁組しただの、そういう話ばかりになっていった。 『好きな方ではないのに、結婚することに抵抗はないの?』  私は不思議だった。 自身は『恋』というものを経験したことはなかった。しかし、そういうものがあるということを、とうの同級生達から学ばされたのに。それに子供を為すには、しなければならない行為があることも。  私自身は奥洞海のお婆様より、『愛せる男を見極めなさい』と言われていた。不思議なことに祁答院のお爺様よりも『弓香が好いた男に嫁げばよい』と言われていた。だから人は皆、好きな人と結婚するものだと思い込んでいた。 『まあ、弓香様ったら』  そう言って嫣然と微笑んだ同級生達は、既に無邪気な少女ではなかった。自分の魅力を熟知していて最大限に利用する人間。そして世界から代金を貰おうとしている、妖艶で老獪な大人の女性のように見えた。 『わたくしたちの世界では、恋と結婚は別物ですわ』  同級生達は、恋と結婚を切り離すことを周囲を見て学んでいた。そして私も同じ世界の人間なのだと、彼女達は言った。  高等部を卒業する頃になっても私が何処とも縁づくことが決まっていないのが、とても不思議そうだった。 『弓香様は祁答院の跡取りでらっしゃるから、外国の王族に嫁ぐことも夢ではありませんものね』  口々に、”私が望むのならば婚姻は可能で、一国の王妃になるのも夢ではない”という。 (そんなこと)  羨ましそうに言われても私はちっとも羨ましくはなかった。どうして自らそんな気苦労を背負いたいのかも、わからなかった。  短大を卒業すると同時に次期総帥として、実務にも携わるようになった。それと同時に祁答院と奥洞海、王家そして大神の暗躍を知るに至った。ますます私は男と、そして男に代表される大神が嫌いになっていった。  あの日。 思いっ切り(かぶ)いた格好をしていた私は秋祭りを楽しんでいた。 突然の悲鳴。 白刃を振りかざす暴漢の姿に、勝手に躰が動いていた。  暴漢の、訓練されていない動きにむしろ笑いだしそうになりながら、私は適当にあしらっていた。 (こんなことなら、奥洞海の格闘技の講師をしてくれていた兄様達の方が殺気が籠っていたわ) --プロの暗殺者と一般人を比べるのが間違っていたのだけど。  そんな中、私を睨め回していた視線があった。 祁答院の娘だから、周囲に張り巡らされる粘つくような視線には慣れていた。無いものとして気にしないフリをする術も身に着けていたが。  その男の放つ視線だけは違った。 ”見つけた”。 その視線は、声高に私の所有権を主張していた。 ”お前を見つけた以上、俺はお前を離さない。お前は俺のものだ”、と。 私はその視線に興奮していた。 頬が紅潮し、心臓が高らかに存在を顕らかにしてくる。 胸の先端が布に擦れて刺激される。 そして、脚の合間がじんじんとしてくるような気がした。  私も、その視線の持ち主に婀娜な視線を送っていたと思う。 鉄扇を使って、最も男に私が美しく見えるように躰を使った。  ますます熱くなる視線は、私を焦がすかと思った。 男の傍に、≪影≫が付き添っているのを見て、咄嗟に”どの家”の人間かと思った。  私に加勢するでもなく、私と暴漢の遣り取りをじっと見つめ居ていた。暴漢が私の獲物であることを察知し手を出さない潔さ。そして、趨勢を見極めながら、さりげなく周囲の人間の避難を完了させている手腕。男の見事さに、私は熱く滾るようなものを身裡に感じていた。  と。 遊び過ぎたのだろう。焦れた暴漢が突如、身を翻して木の根元に隠れていた子供に凶刃を向けた。私は自分が失敗したことを悟った。  咄嗟に鉄線を投げて、なんとか男の躰を拘束出来た。それよりも私を見つめていた男の方が行動が早かった。  組み敷いた時に、ひょいと抱き上げられた、と見るや。彼の周りにいた男達がわらわらと暴漢を取り押さえた。 『君。名前は』  それは、問いかけの形をとった、命令だった。 ”お前の魂ごと、名前を差し出せ”と。 私は躰がぞくん、と来るのを止めることが出来なかった。 (囚われてしまう) お婆様の話から何となく私は、心の鍵を自ら「その人」に差し出すのだと思っていた。 それを、こんな。 (隠していた処からふらふらと取り出して、掌に載せた鍵を強奪されるように奪われてしまうなんて。まるで催眠術にかけられたよう)  『傍観していたような男に、名乗るような名前はありません』 私はふい、ときびすを返した。 (頬が熱いのを、気づかれませんように) 目の端で男が微笑んでいるのが見えた気がした。 『今度、逢う時には君を俺のモノにする』 そんな言葉が風に乗って耳に届いた。 (彼は私を迎えに来る) それは確信。 学校に迎えの車が来るよりも確実に、彼は私を探し当てて訪れるのだろう。 そして私を、他ならぬ私自身から攫って行くのだ。 私は彼に出逢って初めて、同級生が言った言葉を理解した。 ”世界がその人一色で埋まる” ”どうしているか、気になって仕方がない” ”連絡が欲しい。逢いたいと言って欲しい” ”その人のことを想っていると、世界で一番幸せな人間だと思える”  彼の心が自分に向いているのを知った時、世界は私に微笑んだのだ。  その言葉通り、彼が祁答院のオフィスに訪れた時には、彼が全ての障害をなぎ倒して現れたことはわかった。 私は、彼の襲撃を心待ちにしていた。 『貴方をキライ』 その言葉が単なる言葉遊びであることは、私より彼の方がよく知っていた。 ”俺が欲しいくせに” 彼の目がそう言っていた。 ”欲しいものは正直に欲しいと言え。俺がお前の願いを全て叶えてやる” 望めば、彼は全世界をも手にして、私に差し出してくれるのだろう。 だけど、私の欲しいものは、たった一つ。 目の前の、美しくも野性的な一人の男だけだった。 『愛する前に、よく考えて弓香』 彼にソファに押し倒された時。お婆様の声が脳裏によみがえってきた。 『その男を愛して、お前は本当に後悔しない?』 (後悔しない)  例え、この人が私を裏切ったって。 死ぬ瞬間の私は、この人を独占できた時間を思い出して微笑んでいることだろう。  そうして、私は海賊に略奪されることを許したのだ。 (あの人の手が、私に触れる)  予想もしたことのない、なんと甘い歓びであったことか。 初めて合せた唇の感触はその後、幾度も思い出しては胸に甘く熱いものが過った。 あの人の体温が泣きそうに幸せだったこと。 私で興奮してくれている、あの人。 好きなように私の躰を貪って、それでも足りないという切なげな瞳を向けられた時は、”もっと貪っていいのよ”と思った。 私の一喜一憂に彼が振り回されているのを観察していた時は、世界を従えている女王のような気分になった。 (この人は、本当に海賊) 揺すぶられて、朦朧とした中で思った。 (この人の通った後は略奪し尽くされて、何も残らない) 私の全てを奪われてしまった。そしてそれを悦んでいる私がいた。 ◆  太陽が昇る前に、私はこっそりとあの人の腕から抜け出した。 (こんなに野性の獣のように勘が冴えた人が、熟睡している) 長い睫に、秀麗な顎のラインを覆い始めた無精ひげ。逞しい躰を隠すものもない。 (この躰に、抱かれたのだ) ほう……っ 思わず吐き出した自分の息が、甘ったるい。気怠い躰がとても大切なものに思えて、愛おしい。 (あの人に愛された) その、幸せと酩酊。歓喜と充実。全てを捧げて、全力で受け取って貰えた。そして、それ以上に愛された自分。 星灯りの下、あの人の瞳が、躰が、全身が”お前が欲しい。全てを寄越せ”と叫んでいた。 ”代わりに、今この瞬間をお前にやろう”と。  あの人の瞳が黒々としていて、静かな情炎に燃えていた。私の為に灯された火。私を焼き尽くす為に燃え盛る焔。あの人が燃え続ける為なら、私は自分をくべてしまって構わないと思った。 あの人が私のナカで命の源を吐き出した途端。 (ああ、このまま) 星々が全て私達の躰に落下してきて、繋がったまま命が絶えてしまえばいいとさえ思った。  あの人は、知っていたのだ。 例え、この身が誰かのものになっても。あの人自身を喪っても。 (この一夜があるから、私は生きていける) 寄せては返す波のように、繰り返し繰り返し魂に躰に心に。あの人の刻印を享けた。  国を背負っている貴方。 何よりも自由を愛しているくせに、国を護る為にその身を差し出した男が、只の男になって私を全身全霊で愛してくれた。 私は貴方が立ち寄る港で。 貴方のマストに止まるカモメで。 貴方を抱きしめる、波であろう。 改めて、心に決めた瞬間だった。
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