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決意(3)

               靴底が汚れていた。 玄関先の尖ったタイルの角で何度もその汚れを擦りつける俺の前に、波が立っていた。 「お帰り、陽介」 「……ただいま」 段差のある玄関では、波の方が俺より少し高い位置だ。 見上げた瞬間に目が合うと、俺の頬はほんの少し赤くなる。 その言い訳はいつもきまって同じで「外は寒かった」と、そう一言だけ呟くのだ。 「お母さん、シチュー作ってくれてるから、今すぐ温めるね」 「母さん、仕事?」 「うん。遅くなるって。お父さんも仕事納めだから残業続きになるって」 「ふ~ん、そうなんだ」 両親は、ほとんどと言っていいほど家にはいない。 いるのは日曜日くらいか。 だから、平日はほとんど二人きりで、家の中で間違いを起こすことなんて目に見えていた。 俺が波を好きになった時点で。 俺はダウンコートをソファーに放り投げた。 「陽介はいつも帰ってきたらジャケットとか制服をソファーに投げつけるよね」 けらけらと笑みを見える波に、俺の唇は少し綻んでいた。 そんな些細な幸せも束の間、波の携帯電話の着信音が鳴り響いた。 波は戸惑いながらも、着信音を無視してコンロの前に立ちっぱなしだ。 「鳴ってるよ?」 先程の笑い声が嘘のようだ。 俺は言いながらソファーに座るも、携帯電話が気になって仕方がない。 勘のいい俺は「もしかして……」と付け足すと、「あいつからなのか?」と聞いてみた。 波の体は強ばって、一度だけ小さく頷いた。脅えたような波の様子が手に取るようにわかる。 「昼間……来たんだろ?」 波は戸惑いながらも、俺の質問に対し一度だけ頷いた。 「で、なに? 無理矢理襲われた?」 皮肉めいたことを言わなきゃ、精神が崩壊していきそうだったんだ。 このどこにぶつけたらいいか分からないものが、俺の心を蝕んで浸食していく。 波を言葉で諫めることが俺にとって心地良いものだった。 「襲……われてない。危なかったけど」 俺は、無言のまま喉をならした。 何も言えない。 あのまま、千尋を殴ってでも馬乗りになってでも這いつくばってでも止めることはできたはずなのに、俺は止めなかったんだから。 千尋を波の元へ行かせることを容認したのは俺自身だ。 「陽介、なんで千尋くんが来ること知ってたの?」 「途中で会ったから」 「じゃあ、なんで止めてくれなかったの?」 「俺に止める権利ある? 弟なのに」 波はそれ以上何も言い返せなかった。 きっと、俺の気持ちが分からないのだろう。 そうだ、好きとさえ未だに言えない。 俺は、波に安らげる言葉をかけてあげたことすらない。 弟以前に、男として失格だな。  そう思うと、腹の底から笑えてきた。 「ははははっ、なあ、波。一緒に逃げようか?」 目を丸くさせた波は、どう答えていいか分からずに俺の目を見つめたままだ。 そんな波の視線に耐えられなくなったのは俺のほうが先で、すぐさま視線を波から外してしまった。 「はは、嘘だよ、嘘」 声が、沈む。どす黒いなにかに覆われ、もがくように、低く響く。 真顔に戻った俺はゆっくりと口を開いた。 「俺……しばらく家、出るわ」 「え?」 波が顔を上げた。 驚いて、思わず俺の腕を掴む波。 「どうして? なんで陽介が出て行くの?」 「心配すんなよ。冬休みの間だけ……。波もそのほうが、勉強しやすいだろ?」 ぐつぐつと鍋が煮立ち、音を出し始めた。 「鍋。火、止めたら?」 俺は言いながら階段を上がり自室へと向かった。 コンロの火を止めた波は、必死に俺の後を追いかけてくる。 階段を駆けあがった波は息を整える暇もなく口を開いた。 「冬休みの間っていっても、泊まるとこは? ご飯はどうすんのっ?」 「んー、とりあえず駅に向かって、あてもなく電車に揺れて、そこから考えるかな。貯金もおろせば、二週間くらいなんとかなるし、最悪金がなくなったらそこらへんの女ナンパして泊まらせてもらえばいいし」 「私と……一緒にいたくないの? 私がいたら邪魔?」 「んなわけねぇだろっ? ちょっと……考えたいんだよ。色々と……さ」 必要なものをリュックサックに詰め込んで、俺は立ち上がった。 「父さん達には俺からメールするから。波は余計なこと言わなくていいよ」 そう一言告げると、俺は家を飛び出した。
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