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見下した月(1)
「ただいま」
静かな住宅街に、俺の家はあった。
共働きの両親が30年ローンを組んでようやく手に入れた我が家は、まだ真新しいというような木、独特の香りが扉を開けた瞬間にわっと広がる。
時折、それがやけに鼻につくことがあるが、玄関横に続くリビングに広がるのは薔薇の香りで、そんな木の香りをいとも簡単に上書きしていく。
何度もこの薔薇の香りの消臭剤を他の香りの消臭剤に変えてくれと懇願したのだが、「なら、バニラの香りにする」と篠原家の女共は聞く耳を持ってはくれない。バニラなんて、余計に甘ったるい。
父親は父親でなんでもいいと豪語する。四人家族、傍から見たら幸せそうないい家族に見える。
いや、実際、仲良しな家族なのだ。俺だけを除けば。
「陽介、帰ったの?」
二階から降りてきたのは、俺の一つ年上の姉、篠原波だった。
「な……波、ただいま」
「おかえり。ケーキ、冷蔵庫にあるから母さんが食べてだって」
「分かった。母さん達、今日も帰り遅くなるって?」
「うん。そうみたい」
階段の途中まで下りてきていた波は、しきりに上を気にしていた。そういや、玄関に男物の靴があったと思い返して、俺は確認のためもう一度玄関先を見据えた。たしかに、男物の靴が一足、そこにはあった。
「部屋……誰かいるの?」
「あ、う、うん。友達が来てるの」
友達じゃねーだろう。バカだな、女って。すぐにバレる嘘をつくんだから。
俺はため息を吐き出しながら、波に背を向けた。
「何時ごろに帰ってくればいい?」
「え? 陽介……どこか行くの?」
「だから、何時間あければいい? 俺、その間どっかで時間潰しておくから」
言いながら、玄関に座り靴紐に手を伸ばした。紐を結ぶ手が震える。何故だかは、理解してい
る。
「陽介の言ってること、よく分かんないよ」
鈍感な波に対して苛立ちを覚えた。眉間に皺を寄せ、気怠そうな態度で波に説明する。
「ヤんの? ヤんねぇの? 一時間? 二時間? それぐらいあればセックスできんだろうが」
「ま……まだ、そんな関係じゃない!」
俺の言葉に、波は顔を真っ赤にして声を荒げた。
こういう話は、今の今まで一度もしたことがない。
純情なまでの波自身を困らせたくなくて、俺はいつもいい弟を演じていた。
だけど、そろそろ限界だ。波に初めての男ができたからだ。
いつ、処女を奪われてもおかしくはない。
「陽介……どうかした?」
一気に溢れ出た感情は、俺を落ち着かせることもなく高まるばかりだ。それを抑えようと必死になり、噛みしめた下唇からはうっすらと鮮血が滲みだしていた。
弟だから、何度も気持ちを変えようとした。波への気持ちが嘘でありますようにって、間違いなのだと心の中で呟きながら、色んな女を抱いた。
だけど、最終的にいつも行き着く先は、姉である波だった。波の笑顔を見るたびに、現実に引き戻されてしまう。
好きだと強く感じてしまう。
「なんでもないよ」
笑った。
心とは裏腹な表情で、波に微笑みかけた。
いつも通りに過ごさなければ……
そう何度も自分に言い聞かせるが、直後、波の背後から現れた男の出現によって俺の中で何かが崩れた。
灰色に見える。
いつもの光景に佇む男の姿は、異質となって脳裏にインプットされた。
拒否反応が起きる如く、体の底から湧き上がる憎悪のようなどろどろしたものが、俺の血液中を駆け巡っているみたいだった。
「同じ高校で三年の石川千尋くん。陽介、知らない?」
「知らない」
「サッカー部のキャプテンなんだけど」
「知らない」
波の言葉を遮るように、何度も「知らない」という一言だけを呟く。
俺と波の通う高校は、ここから電車で三十分ほどの距離だ。公立ながら、スポーツはけっこう盛んで、特に野球部とサッカー部は全国大会に出場するほどの実力がある。
共に部員というだけで人気があるというのは、なんともまあ、羨ましい限りだ。
ましてやそのサッカー部の主将だと? 同じクラスではないはずだ。
いつ、知り合ったというのか。俺がこんなにも目を光らせていたのに、いつ、波とそういう仲になったというのだ?
三年生の波は進路指導などで忙しく、二年生の俺よりも学校に留まることが多い。補習授業などで一緒になったのだろうか?
そんな詮索ばかりしてしまう自分がなんだか虚しく感じ、俺は口を噤んだままだった。
「こんにちは」
学ランの詰襟まできちっと閉めているような真面目な姿が好印象な男は、俺に爽やかな笑顔を向けていた。
二年と三年の教室は離れているが、たしかに、見たことはある。どこかですれ違ったのかもしれない。自分とは正反対な千尋という男は、身長も高く、顔も無難に整っており、どこも非がないというくらいに完璧だ。
「よく、金髪の人と一緒にいるよね? 見覚えがあるよ」
「金髪……? あぁ、金田ね。あいつ、よく目立つから」
視線は合わさなかった。
きっと、目が合ってしまえば、こいつの胸ぐらを掴んで一発拳をぶちこんでいるだろう。素っ気ない態度の俺は、相手の目を見ずそのまま自室へと向かい階段を登った。
「千尋くん駅まで送ってくるね」
「いいよ、波ちゃん。もう暗くなるし、一人で駅まで行けるよ」
二人の会話が背後で聞こえた。胸糞わりィ。何が「波ちゃん」だ。このクソヤロー、さっさと死ね。
この世から消えちまえ。消えちまえよ……。
ドンッと、勢いよく壁を叩いた。千尋の頬にぶちこめなかった拳を、壁に何度も打ち付けた。
「くそっ……」
募る苛立ちは、次第に欲情へと変化する。ベッドに寝転がった瞬間、下着の中に手を突っ込むと、反りあがった性器を掴んだ。何度も上下に擦り上げると、溜息が荒い息へと変わり始めた。
「な……み」
波がアイツに抱かれている場面を想像してみた。虫唾が走る。
吐き気がする。
波は真面目で、自分は不真面目でそんな年子の姉と弟が一つ屋根の下、暮らしている。当たり前なことだ。
家族なのだから。
波とは同じ血が流れているのだから。
だけど、こんな気持ちを押し殺すほど、俺はまだ大人ではない。
理性を保てなくて、波を……欲していた。我慢の限界だった。
波の彼氏のあの野郎が心底……羨ましかった。
俺は声を荒げながら、昇天した。
びくんと体が何度も痙攣する。
激しく心臓が動いて、掌にはどくどくと注がれる白く濁ったものが溢れ出ていた。拳から滲み出る鮮血と精液が混ざりあって、一つの色に変わっていた。
「ふ……ははっ……」
意味もなく笑う。
虚しくて、泣きたいのに泣けなくて、ただ、笑うことしかできなかった。
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