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第2話

 弟の未遠(みを)の病室からは海がよく見えた。完全に眠っているか、身を起こしているかは、気温や彼の中のリズムによるもので、昼夜によるものではなかった。歩けないことはなかったが、病室のトイレや洗面所がやっとで、そう長くは立っていられない。  (あきら)緑郎(ろくろう)がその部屋を開けたとき、彼は靡いて膨らむレースカーテンに包まれ、水平線を眺めていたらしい。ノックによってドアのほうを向いた姿は蜘蛛の巣に搦め獲られていくような痛々しさがあった。絶世の美貌としかいえないその面構えを覆うケロイドと相俟って。 「何していたの?未遠」 「海を……観ていました」  彼の手にはスケッチブックがあった。風が和らぎ、颯々(さつさつ)として乱れた髪の上にレースカーテンが被さったことにまるで頓着のない様は滑稽にも見えたが、硝子玉のように澄んでおきながら虚ろな双眸を認めると病的ですらある。暁はレースカーテンを弟の頭から落とした。  未遠は(たお)やかな美少年で、玉質の肌をしていた。しかし浜辺のように顔の半分には治りきらない瘢痕(はんこん)が遺り、片目の視力も奪ってしまった。毛髪と眉と睫毛は残っている。上半身は主に左側、下半身は左右ともに傷を負い、健常者としての生活は送れない。頭にも影響が出ている。これは彼のみを襲った不幸ではない。三国(みくに)家を襲った不幸だった。暁の背中にも火傷の痕がある。 「お姉ちゃん、帰ってきたからね。また絵、描くでしょ?いっぱい絵の具買ってきたから使って」  画材店でよく頼まれていた画材を中心に、彼女は絵具を見繕ってきた。紙袋をベットサイドチェストに置いた。 「ありがとうございます」  彼はビー玉みたいな瞳で姉を真っ直ぐに捉えた。それから緑郎を一瞥する。 「待合室で待ってっから」  その目交ぜで未遠の意図を理解したらしい幼馴染は身を翻した。ロングピアスをちゃらちゃら揺らしながら出ていく。 「何か大事な話?」 「……これを」  未遠はベッドサイドの抽斗(ひきだし)から薄いポーチを取り出した。中に何が入ってるのか知っている。それを差し出され、暁は狼狽えた。 「え、」 「帰ってくるとは、聞いていました。車が、必要でしょう」  喉も焼けた彼は(つか)えながら喋る。 「だからって……」 「姉さん、には迷惑を、かけてばかり、ですから」 「全然、そんなことはないよ。わたしだけ都会で遊んで暮らしちゃってたくらいなんだし……」 「僕のできることは、これくらいですから。片輪の弟があっては、姉さんも苦労します」  平然と告げる。爆炎は彼の頭の中までをも燃やし尽くし、表情も焼き払ってしまった。表情について、最初から彼の気質として乏しいわけではなかった。 「でも、」 「現実問題、です」  未遠は花が傾いていくように俯き、虚ろな目をさらに朦朧とさせていった。  現実的に考えれば、豆生(とうお)村で人並みに暮らすなら車が要る。軽トラックは祖母が使っているし、徒歩で出掛けては家事がままならなくなるだろう。幸い、就職活動を少しでも有利にするようにと運転免許は取ってある。 「少しだけ考えさせて」  暁は未遠から通帳と印鑑を受け取った。  家族も家もその先にあったあらゆる可能性をも奪い去っていった黒煙は未遠に取り憑き、彼は画才に目覚めた。そして若くして扶養を外れた。その稼ぎで姉と祖母を養えた。だが祖母も、暁もこの哀れな少年の不自由な未来を憂き、両親の二の舞を演ずることを恐れ、またその画才が有限であると決めてかかっていた。ゆえに、その巨額の貯蓄は無いものとした。 「姉さん」 「うん?」 「姉さんが、車を持っていてくれたら、僕も、お遣いを頼みやすく、なりますから」  だがそれが方便だと知っていた。彼は画材以外に何も欲しがらない。画材にしたって生計を立てるため仕事道具のようなものである。 「……そうね。でも欲しいものがあったら言ってね。今はネット注文だってあるんだから」 「はい」  帰りに緑郎に相談してみることにした。緑郎は車を買うことに賛成している。 「中古車ならすぐ来るぜ。あれば楽だろうさ。ま、ボクちんもまあまあ無職(プー)だし、用あれば連れて行けっケドねぇ?お代金はカラダで」 「中古車か……中古車なら、いけるかな」 「甘えちまえば?」 「わたしもお婆ちゃんも、それは元気に長生きできればいいけど、人なんて、分からないでしょ」  その言葉が出たとき、彼女はこの田舎に帰ってきた理由のひとつ、胡乱な迷信を芯から信じていないことに気付いてしまった。 「人魚サマに頼れば?」 「頼れる話?本当に?」 「それで帰ってきたんだろ?」 「都会に留まる理由もないし」  緑郎はリップカラーを塗った口の端を意地悪げに吊り上げた。 「カレシと結婚する道もあったろ」 「弟はどうするの」 「巴須(うち)に任せておけばよかった」 「それじゃ悪いし、未遠も可哀想」  彼は首を傾げ、右耳朶を虐待している銀輪をいじった。 「暁は可哀想じゃないんか?」 「……誰しも(しがらみ)があるからね。それにわたしは障害ないから、さ」 「気に入んね」  すでにエンジンはかかっていた。黒いマニキュアの塗られた手がシフトレバーにかかった。 「四季郎(しきろう)さんだってそうでしょう」 「人は独りじゃ生きていけねぇが、逆も然りだな。独りじゃ生かしてもくれない」  車が発進する。 「帰ってきてほしくなかった?」 「別に。でもお前が嫁にくれば、義弟の面倒を看るのは当然になるんだけど、(しがらみ)ってやつを増やしてみる気は?」  左のロングピアスが肩の上でぷらぷら揺蕩う。 「四季郎さんにも選ぶ権利があるでしょう……」 「は?なんで四季郎?」  緑郎が急に大声を上げ、暁は首を捻る。 「え?」 「ん~、まぁいいや。行こうぜ。雪ちゃん()からでい?」 「行きやすいように」  最初に向かったのは、豆生村で一番の豪邸ともいえる卦濤院(けとういん)家である。しかし巴須家より歴史は浅いのだった。造りも洋風で、館のような雰囲気がある。診療所から北に向かった高台に建っていた。 「こっち帰ってきてから会った?」 「全然。昔可愛かったもんな~。どんな美女になってんのやら。楽しみだぜ」 「ああ、あんたの挨拶回りも兼ねてるのね」 「お前ン()は別に挨拶回りなんてたいそうなことしなくたっていいだろ、引っ越してきたわけでもないんだし。でもボクちん家は、ほら、な?」  ばつが悪そうに、緑郎は三白眼を泳がせた。 「なんだ。するのが当たり前なのかと思っちゃった」 「ま、ボクちんとのドライブなんだし、光栄に思えよな」  卦濤院家の車庫の外に若者向けの車が1台停まっていた。誰か客があるらしい。 「後に回すか?」 「誰か出てきたけど」  暁はその車に近付いていく人物を指した。明るい茶髪で、背はそう高くない。少し中性的な外貌だが、嫋やかというわけではなく、着太りがはたまた本当にぽっちゃりとしているのか、若作りな中年女性を思わせる。しかし太っているわけでも無さそうなのである。全体的に肉付きが女性的なのだろう。 「杏本(きょうもと)くんじゃない?」  この村には3人、暁と同学年の者がいた。近所付き合いもあるこの横柄な男もその1人で、今訪れたばかりの卦濤院家の娘の雪もそうだった。そして話題に挙がった杏本もだ。 「んあ?マジ?」  緑郎は前のめりになって、明るい茶髪の人物を見た。 「めっちゃ垢抜けたな」  彼は卦濤院家の庭に車を突っ込んだ。元同級生と思しき人物がこちらに気付く。 「もっちゃん?」  運転席の窓を開け、緑郎は首を出した。 「んがが、緑郎くん?と、暁ちゃん?」  一瞬にして、白くまろい顔に大きな笑みが浮かんだ。昔からよく笑う、明るい子だったが、今でも変わらないらしい。 「んが、帰ってきてたんだ」  笑いながら喋り、彼という男は常に幸福に満ちているようにさえ見える。 「そ。だから挨拶にでもな~って思ってよ。帰り?」  緑郎は卦濤院の洋館を見遣った。 「んが、そう。雪ちゃんと付き合ってんの」 「へ~、仲良かったもんな?」  促され、暁だけ車から降りた。緑郎は車を庭に揃えて停める。 「ちょうどよかった。これから京本くんのところに行こうと思っていたところだから。これ、お土産」 「帰ってきたの?」 「うん。都会暮らしに疲れちゃったって感じ。またこっちでよろしくね」  杏本あずさというのは背が低かった。少し背丈のある暁と目線が同じくらいである。 「んがが、よろしく。訳ありなんだ、暁ちゃん」 「うっふっふ。出戻りじゃあないわよ」  彼は不思議な人物だった。男性だとは分かるけれど、まるで同性といるような感覚になる。小柄で肉付きがよく、垢抜けた風采に、身の丈に合った服装をしているのもあるだろう。己をよく知る洒落者である。態度にも嫌味がない。  緑郎が車から降りてきてそこに加わる。 「じゃあさ、帰ってきたお祝いにバーベキューしようよ。雪ちゃんも誘って、今度!改めて」 「おう。じゃあ、親御さんにもよろ」  杏本あずさとはそこで別れた。 「中身はあんま変わってねぇな」 「それを言うならあんたも人のこと言えないんじゃない」 「いい意味で、だろ?」  車庫から玄関まで歩くのは、まるで植物園を散策しているようだった。車庫周りにはノースポールや水仙が咲き誇り、玉簾が敷石とともに道を示し、ネモフィラが青い顔で空を仰ぎそよいでいる。玄関アプローチのアスファルトには大きく欠けていたが、勿忘草が植っている。 「この花、お前ん()にあった」 「なかったけれど」  アスファルトの割れ目を上手く利用した勿忘草を見下ろす。 「違う、あれ」  緑郎は花畑みたいなネモフィラを指した。 「さっき食おうとしてた」 「してない」  幼少期から美しかった幼馴染に会うため、彼は舞い上がっているのだろう。 「鼻の下伸ばさないでよ」  暁はすでに玄関を前にしている緑郎を肘で小突いた。 「伸ばさねぇわ。なんだ、ヤキモチか?生憎、幼馴染(みうち)恋愛はしない主義なんでね」  インターホンを押すと、すぐに玄関扉が開いた。卦濤院雪本人か、その家族が出るものかと思われたが、出てきたのは執事然とした身形の男であった。まだ20代といったところだが、暁や緑郎よりかは上に見えた。都会的な雰囲気の、堅そうな美男子の登場に2人は固まってしまった。 「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」  この時代に、この土地に執事というものが存在するのであろうか。いいや、巴須家にいる家政士の延長、派生、亜種とすればなくなはないだろう。 「巴須です」  固まっている緑郎に代わり、暁が答えた。家名のある彼の姓で名乗ってしまった。 「ああ、そう。雪ちゃんの幼馴染って言や分かる」 「(うけたまわ)りました」  場違いな執事然とした青年は(うやうや)しく引っ込んでいった。そして色白の、濡れたような黒髪の、庇護欲を煽る、絵に描いたような清楚な女が代わりに出てきた。彼女こそ卦濤院雪である。出掛ける予定があったのかもう済ませたのか、部屋着とは思われないドレスじみたワンピースを着ている。 「まぁ、暁ちゃん。と、緑郎さん」  杏本あずさと彼女は付き合っている。幼少期から仲が良かった。暁にとって、長い月日が経ってもそこに変化がなかったという点を抜けば、その組み合わせに意外性はない。しかし十数年後に彼と会った後にこの令嬢を見てしまうと遜色の大きな差が否めない。先程出てきたスーツの男と付き合っていると言われたほうが似合いなのだった。 「雪ちゃん?綺麗になったなぁ」 「お二人は結婚なさいましたの?」  卦濤院雪はずいずいと距離を詰めた緑郎を一瞥するのみで、暁のほうに話を切り出した。 「えっ!なんで」 「だって名字が……」 「わたしはまだ三国(みくに)だけれど……」 「さっき巴須だと聞いたものですから……」  暁は鼻の下を伸ばしている緑郎を見遣った。 「こいつの家のほうが分かりやすいかなって……」 「そんなことありません。巴須様のお家のこともそうですが、もちろん三国様のお家のことも覚えておりますわ」  色の白い肌に、大きな真っ黒の瞳、長くふっさりとした睫毛とサルビアミクロフィラみたいな唇が可憐だ。 「こっちに帰ってくることになったから、よろしくねって挨拶しにきたの」 「2人で?」  蛾眉(がび)に微かな険しさがこもる。 「2人で一気に来たほうが、いいかなって、緑郎に待っていてもらったの」  すると、彼女の表情が和らいだ。 「積もり積もった話もあるでしょうから、上がっていきますか。それとも、まだ、挨拶回りが?」 「そうなの、挨拶回りがまだあって。また今度、お茶しよう」 「はい」  雪は暁の手を握った。彼女たちはまったく緑郎の存在を忘れていた。 「もっちゃんも4人でバーベキューやるって言ってたしな」  臍を曲げたような態度で彼は口を挟んだ。 「あっちゃんに会いましたの?」 「今、そこで」  雪の可愛らしい(おもて)に、ばつの悪そうな翳りがあったことは否めない。 「……そう。付き合ってますの。もうご存知かもしれませんけれど。バーベキュー、場所がお決まりでなかったら、この家の中庭を使っても構いませんことよ」 「そりゃいい提案だ」 「巴須様のお宅も広いですものね」  緑郎が鼻を鳴らした。彼と雪の間に、何かしらの異様な感じがあったが、暁はその正体が分からなかった。 「でも、玉砂利だけの何にもない空地より、花に囲まれて肉食いたいだろ。で、さっきにいちゃんって執事?執事いんの?」 「パパの秘書です」 「な~んだ。びっくりした。てっきりカレシかと思った」 「ちょっと、緑郎!」  暁も思ったことだった。ゆえに杏本あずさに対する後ろめたさについて、緑郎へ八つ当たりじみた小突きを与える。 「あたしの恋人はあっちゃんですから」  雪に気分を害したところはなかった。幼少期から完成されていたが、相変わらず品の良い所作で笑っている。 「う~っし。じゃ、次行くぞ、暁。またよろしく、雪ちゃん」 「はい」  植物園みたいな庭を引き返し、2人はモスグリーンの車に乗った。 「相変わらず可愛かったな~。大体成長で崩れるもんだケド」 「幼馴染に久々に会って、言うことがそれなのね。わたしも何を言われてるんだか」 「そう卑屈になるなよ」  左耳の簾みたいなピアスをちゃらちゃら揺らして、彼は発車させる。あとは近隣住民のみに絞って、そう長くはかからなかった。 「暁ちゃん出戻りパーティーやろうと思ってんだけどさ」  最後の一軒から出てきて車に乗ったとき、彼はむい、とコーラルオレンジの唇を歪ませた。 「え?」 「(そま)の婆ちゃんも誘ってくれよ」 「パーティーって……そんな……」 「あんま期待すんなよ。あんな家だし宴会みたいなもんだろうし、パピィがやるってきかないし、たまにはこういうのもいいんじゃね?ってカンジだから、まぁ、暁ちゅわん出戻りに託(かこつ)けてってやつ?」 「そう……ありがとう。お婆ちゃんに聞いてみる。なんだか悪いわね」  彼はすでに運転手としての顔をしていた。 「別に~。ボクちんも美味いもの食えるしな」  帰り道の途中で、暁は海岸沿いに降ろすよう求めた。十分、自宅まで徒歩で帰れる距離であったが、緑郎も車を完全に停めて降りてきた。潮騒が聞こえ、海は日を浴びて点綴(てんてい)とした鱗模様に輝いている。 「人魚でも探そうってか?」 「いたらどうやって捕まえる?」 「随分な賭けに出ちまったな」 「ま、話半分の半分のそのまた半分ってことで……ね」  (さざなみ)が白くやってきては、砂を色濃く染める。 「カレシ、フってまで価値あることだったんか?」 「あの人とは付き合えない。都会の、もっと身軽な人と、付き合って、結婚すべきなんだよ。まだ若いんだし、まだやり直せるでしょ、今なら。あんたは凝り固まって枠に嵌まった幸せって言うだろうけれど、だって人の幸せのレパートリーなんて限られているじゃない……」  緑郎は浮かぬ顔をして、耳に小指を突っ込んでいた。 「そら、お国様は結婚さして子供持ってもらわにゃ困るからな。利口な子じゃなくて、働き蟻が。幸せのトレンドってやつを指し示すのも無理はないでしょうな。アンタの元カレもその渦潮に巻き込むワケだ。おっかねぇな」  暁は緑郎を視界から外し、深く息を吐いた。 「浮気されたの」 「ほぉ!」 「でも、中学時代の話」 「はぁ?」  面白い話がくるのだと期待に満ちた彼の態度は、落胆を隠しもしない。 「何年前の話を根に持ってんだ?」 「根に持ってない。わたしはね。子供の頃の、自意識過剰な時期のことだものね。でもカレは違った。そのことを負い目にしてる。圧倒的なパワーバランスができちゃったの。ここに来るときも、別れるのはそのせいかって、言われちゃってさ。全然違うんだけれど。いずれにしろ、上手くいかないんだろうなって思った。そういうことだから、緑郎、あんたが責任感じることはないの」  緑郎はわざとらしく左右に首を曲げた。 「あ?あ?ボクちんが責任感じてるって?一体何に……」  胡散臭い人魚の迷信は、彼から聞いたものだった。そしてその話に乗ったふりをして帰ってきた。理由はそれのみではない。弟のこともある。年老いた祖母のこともある。恋人との関係にも清算の必要性を感じていた。仕事についてはいくらか残念な点も否めなかったが。しかし緑郎は違うようだった。 「元カレのことやたらと気にするから」 「カレシと別れた話以外に面白れぇ話が何かあんのかよ?」 「まぁ、ないけど」  ふざけるでも嘲るでもなく、彼は渋い面構えである。 「ほらな」 「責任感じてないのなら、な~んだ。心配しちゃった。要らないお節介だったみたいね」  暁は浜辺を歩いた。灰色とも茶色ともいえない砂で、写真映えするようなところは何もない。ここで干涸びた人魚を見たことがあるし、生きた人魚の打ち上がったのを見たこともある。豆生村の者すべてが人魚について口を閉ざすということはなかろう。時代を経るにつれ人々の結束は薄れ、閉鎖的ではなくなったこともある。おそらくは人魚を求め、外部から人が来ることもあったが、彼等は目的のものを見て帰ったのだろうか。 「連れて行かれるぞ」  暁は腕を引っ張られた。不意に傾き、身を支えるには足元は柔らかく、均衡を保てなかった。濡れた砂浜に倒れゆくはずだった。しかし受け止められ、淡いバニラの香りが鼻腔をくすぐる。 「緑郎」  オーバーサイズの服ばかり着がちな幼馴染は痩せぎすに思われたが、布越しの肉感はそうではない。それなりの筋肉の質量がうかがえる。異性という認識を持たざるを得なかった。 「重すぎじゃね?太ってねぇのに、骨太なんか?」  だがしかし緑郎である。 「そうかもね!おかげで骨折知らずです!」  幼馴染の腕を振り払う。 「あんまり波打ち際にいると、すっ転んでびしょ濡れになるぜ」 「歩いて帰れますから」 「ンでも、びしょ濡れでブラ透っけすけで帰るのは変わらねぇじゃん。人目ないなら気にしない感じ?」  海岸から自宅まで、内陸に向かって土地が高くなっている。台風の時期に危険に晒される低地には、新築住宅が建ち並んでいるが、その脇道の狭く急な石階段を2つほど登ると、先人たちの犠牲を以って遺された石碑がある。その通りを抜ければ、確かに人目が皆無ではないが避けることはできる。 「連れて行かれるって、竜宮城でもあるの?」  緑郎が先程いくらか必死だったのを思い出す。暁は嫌味に笑って訊ねた。 「ご立派な御殿があることでしょうな。乙姫様?シャルウィーダンス?」  大仰に(ひざまず)くふりをする。 「何それ。乙姫様って踊るの?」 「知らね。ああ!ああ!浦島様、この哀れな亀はいぢめられていますぅ!」 「緑郎」 「こっちの亀はいつでもいぢめていいケドな?」  彼は下半身を指す。 「もう本当、やだ」  ふざけてばかりの幼馴染に彼女は呆れてしまった。しかしふと捉えた彼はしかつめらしく海を(のぞ)む。 「今度はサメでもいるって魂胆?」 「ん~?」  ぽちゃ、と川に石を投げ込むような音がしたのだ。振り返りかけたところで、目元に手を当てられた。 「だ~れだ」  緑郎はまだふざけている。 「もう!」 「帰ろうぜ。とっとと帰ってクソして寝たい」  腕をわっしと掴み、彼は暁を引き摺った。 「ああ、そう」  モスグリーンの車に戻ると、白い小さな車も停まっていた。見覚えがある。 「未遠のところの、先生だ」  暁は辺りを見回した。少し浮世離れしたところのある若作りな医者で、診療所は祖父から受け継いだものらしかった。彼女は白衣を海岸に認めた。仕事に疲れ、大自然を前に気を休めているのだろう。
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