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第1話

 この海に面した豆生(とうお)町には時折、人魚が打ち上がる。だが口外を禁じられているのは、大昔、当時の人魚(とうお)村で処断された者多数という言い伝えのためだろう。これは暗黙の了解で、また、代を重ねるたびにその風潮は薄れていった。  人魚など存在しない。  この時世に、人魚がいるなどと吹聴するほうがどうかしている。 ◇ 「夢が、できちゃってさ」  三国(みくに)(あきら)は恋人と別れる間際にやっとそれを切り出した。彼女の恋人の千歳(ちとせ)鯉雨(りゅう)は、目を見開いた。このあとに続く展開を察したようである。 「だから―……」  しかし千歳鯉雨は、彼女に言わせまいとその腕を掴んだ。小学校高学年からの付き合いである。10年以上のカップルであるから 「夢……?」 「そろそろ弟の傍にいてあげたいからさ」  現在暁が住んでいるのは都会である。だが生まれは田舎だ。弟はそこにいる。 「アキ……それ、は……」 「もっと早く言うべきだったよね。ごめん。リっちゃんとこのまま結婚することになると思ってたんだけどな~」  鯉雨は首を振る。断続的に首を振り続ける。 「別れたくない。おれが、浮気したから?」 「いつの話をしているの。それは関係ない。まだ若いしさ。リっちゃんは、好い人、見つけなさいよ」  もっと早いうちからこうするべきだった。遅いくらいである。別れたくないあまり、現状に甘えてしまっていた。 「別れたくない……、別れたく……」  暁は冷淡にも元恋人へ背を向けた。だが繁華街の夜の人混みを掻き分けて、彼は紛れていく背中を追ってきてしまう。 「もうおれのこと、好きじゃないの……?」  千歳鯉雨という男は、背丈もあり、均斉のとれた肉付きに、目鼻立ちも現代風に整って、年相応に垢抜けてもいる。性格も悪くない。その気になればすぐに次の相手は見つかるだろう。  行き交う人々を避けながら、鯉雨は暁に縋りつく。 「だってリっちゃん、遠距離恋愛、できる?」 「アキとなら、できる。信じて……おれは、」  暁は彼がまた、中学時代にやった浮気について口にするのが分かってしまった。だが子供の頃の話である。そのあとの改心を傍でみていた。すでに赦している。信頼は、彼女の自覚もないうちに取り戻されていたのだ。しかし、別れなければならない理由がある。 「ありがとう……でも、わたし………弟の面倒看てくれてるお(うち)の人と、もしかしたら結婚しなきゃならないからさ。多分、そういう条件なんだと思う。だから、ごめんね。嫌いになったり冷めたんじゃないよ。次の一歩を踏み出すときなんだ、きっと。お互い」  人混みに溶けていこうと思った。しかし彼は掻き分けて追ってきてしまう。きっちりと振り払うべきだった。曖昧な態度が苦しませている。 「ごめんね」  過ぎ去ったものは美化されてしまう。誰もが詩人の素養を持っている。磨かれず、数をこなさないだけである。ゆえにどれもポン菓子みたいに甘くなる。  暁は少し固い敷布団に背中を痛めた。目が覚めてから身体を伸ばす。  四畳半の部屋は南と西の二面が大きな窓になっていて、水平線と海が見えた。旅館を思わせるが、民家である。三国暁の祖父母、(そま)宅だ。  結局彼女は千歳鯉雨を置いて、生まれ故郷に戻ってきた。小学校高学年からこの歳まで過ごした都会を離れ、高校2年生頃からこの歳まで暮らしたアパートも引き払った。  この土地で人魚の遺骸を見たことがある。だがそれは珍しいことではなかった。そしてついこのあいだ帰郷したとき、暁は実際に生きた人魚を目にしたのだ。  己を愛した人魚を食らうと、望みが叶う―  胡乱な話であった。誰が言い出したのかも分からない。確証もない。だが眉唾物のの、むしろ疑うのみでよいこの一説が、彼女を支配してしまった。労働或いは繁殖に勤しむ虫の如く理性を失ったのであろうか?この信仰めいたものについて彼女は敬虔な信者になってしまったのだろうか?いいや、彼女は確固たる疑心を持っていた。鼻で嗤いすらした。同時に、弟のことが頭を過った。その途端に嗤えなくなった。その途端、彼女は狂信者になった。ある種の邪教徒になった。いやいや、順序が違っている。先にこの気の()れためでたい能天気な伝説を知ったのだ。では何が彼女を洗脳したのか。無辜(むこ)の現実主義者を染め上げたのか。  出会ってしまったからである。生きた人魚をその目で見てしまったからである。遺骸ではない人魚、それも男体の、少なくとも上半身に於いて男体と判断できる個体を。  暁は朝の支度を済ませて外へと出た。長く付き合った恋人、都心なりの窮屈な視界、ほのかに淀んでいたかもしれない空気、少なくとも土や天気の匂いはしなかった嗅覚。未練がないといえば嘘になる。だから断ち切ってしまうのは容易でなくても、断ち切ってしまうほうがよかった。  玄関先の鉢植えに瑞々しく咲いている花を眺め、季節としての春の訪れを感じはしたが、人生に於ける春、或いは比喩としての春について、自ら手放したことを思い起こす。実感が湧かない。だがやがて慣れていく。少しずつ、慣れによって削れられ、理解のできる大きさになったあと、途端に喪失感に苛まれるのだろう。 「おい~っす」  少し濁声とでもいうのか、(しわが)れた質感の声がかかり、暁はそのほうを見遣った。 「緑郎(ろくろう)……?帰ってきてたんだ」  異様な黒髪は自然ではなかった。派手ではないが青みを帯びてみえた。毛も波打って、生来の癖というよりは加工の感じがある。刈り上げた側頭部が現代の若者風であるが、この田舎では浮いて見えた。 「花食うのか?」 「え?」  彼は巴須(はす)緑郎(ろくろう)という同い年の幼馴染だったが、そう瑞々しく爽やかとはいえない声質と相俟(あいま)って喋り方からしても高圧的な印象を受けた。三白眼の目元と細い眉も薄情な感じがある。外貌のみでいえば、背は高く、頭も小さく、中肉の好男子であったのかもしれないが、口を開いた途端に陰険なところがあるのは否めなかった。 「今にも毟って食いそうだった」  耳朶に刺さったピアスが朝日を浴びて輝いている。 「そんなわけないでしょ」 「杣の婆さんは?」 「田んぼ」  この幼馴染は昔から、玄関の面した門からではなく、脇の生垣の狭間からやって来る。 「朝飯は?」 「まだ」 「じゃあボクちんの家で一緒に食えばいいや。来なよ」  暁は彼へとついていくことにした。巴須家にはこれからも世話になるのだろう。 「待って。お土産があるから」  緑郎は首を傾げながら、八重歯を晒して陰湿に笑っている。 「カレシとは別れられたんか?」  玄関の脇に置いておいた箱を掴む様を、彼は開け放した引戸から覗いていた。 「うん」 「あっさり?」 「どうだか」 「ま、寂しければボクちんが居るし」  暁は返事をしなかった。巴須家には借りがある。ゆえに緑郎が求めるのなら、その身を委ねることになる。そのために遠距離恋愛を選ばなかった。元交際相手の意思を尊重することもできなかった。 「他の奴等に挨拶回りはもうしてんの?」 「ううん。昨日帰ってきたの、もう遅かったし」 「じゃ、それもボクちんと回ればいっか」  正門からではなく、生垣の狭間から抜けて巴須家へ向かう。道端にはブルーベルが咲き、民家の塀からは藤の花がぶら下がっていた。 「ごはん食べたら、未遠(みを)に会いに行きたいのだけれど、行ってもいい?」 「いいぜ。連れて行ってやるよ」  巴須家に対する負い目が、昔のようにさせなかった。並んで歩けず、また緑郎も彼女を気遣わない歩幅で進んでいく。  都会に住んでいる間、ほぼ寝たきり状態にある弟の世話を巴須家に任せてしまっていた。祖母は生計を立てるため農作業があったし、病院をこの地に移したときも巴須家の協力が必要だった。未遠は、彼女の弟である。  目的地へと着いた。巴須家といえば豆生(とうお)村の名士で、土地持ちでもあり、邸宅も広かった。道場を思わせた造りで、庭は平たく新設された境内(けいだい)を彷彿とさせる。緑郎はこの家の末子で、六男だった。巴須家の当主は6人兄弟の4番目で、緑郎と彼以外の兄弟はみな鬼籍に入っている。緑郎たちの父親はすでに70代半ばで早々息子に家督を譲っていた。この翁は6人の子すべて男児で1人も娘がいないためか、緑郎のつれてくる暁をたいそう可愛がり、未遠についてもよく世話をした。  暁は、巴須家の隠居と当主の四季郎(しきろう)、緑郎、それから住み込みの家政士3人と飯を食った。麦飯に豆腐の味噌汁、焼鮭に添えられた2切れの甘い玉子焼きは既製品の味がした。他にも漬物といちごが2つ。会話のひとつもない静かな食事の時間であった。6人兄弟に二親が揃い、家政士もいた頃の広さが、さらに静けさを強める。 「暁さんは今日はこれからどうするんですか」  沈黙の気拙さに耐えられなくなったのか、四季郎が口を開いた。緑郎とは3つしか離れていないはずだが、四男にしてお鉢の回ってきてしまい、実質の長男と化して家督を継いだ彼は、昔に見た時より随分と大人びていた。緑郎が同年代よりも、若いという表現にすべきか、幼いというのが適しているのか、俗っぽく、稚拙なのもあるだろう。厳格な感じの否めない巴須家からも浮き、どこかどんよりと陰った豆生村からも浮いている、この家の末男は鼻摘まみ者のようだった。 「弟の見舞いに行きます」 「そうですか。緑郎を使ってください。足にはなりましょう―緑郎、付いていってやりなさい」 「言われんくてもそのつもりだっつーの」  緑郎は兄のほうも見ずに答える。 「それなら安心した。小人(しょうじん)閑居して不善を()すというからな。むしろ暁さんには緑郎の面倒を頼むかたちになってすみません」  四季郎は、緑郎にあまり似ず、三白眼ではなかったし、声質に濁りはなかった。癖のない直毛の髪で、涼やかな美青年である。兄弟と言われてはまず疑うが、しかし慣れてくると、確かにどこか頬の造りや口元に似通った部分がないわけでもなかった。 「言ってろ、言ってろ」 「帰ってきた挨拶回りもまだしておりませんから、緑郎くんをお借りします」 「できた幼馴染だの。緑郎、よく捕まえて口説いておきやっせ。今後、お前みたいな跳ねっ返りが、そんな良い娘と出会えるとは思えんわぃ」  巴須の隠居は玉子焼きをぱくついている。 「あ~、あ~、田舎の巻き網漁か。怖いねぇ」  緑郎は飯を食い終わると空いた食器を重ねて、その場で横になってしまった。 「客の前だ。自重なさい」 「客なんて畏まったもんじゃねぇサ」 「親しき仲にも礼儀あり、だ。父からも……」 「隠居した身じゃァのぉ。何も言えんわ」  そう頑健な70代ではないらしかった。口の利き方はしっかりしているが、肉体の衰えが目立つ。だが妻と息子4人を失っているのだから、その身に降りかかった気苦労は察するに余りある。 「弟が申し訳ない」 「いいえ……お邪魔しているのはこちらですから」  四季郎はシャツを着ていた。下もスラックスである。これから出社のようだ。彼がサラリーマンらしきことに暁はいくらか意外な感じがした。  小学校5年生辺りまで、暁はこの豆生村にいた。巴須家の広い敷地ではよく遊んだものだった。人が多くいたのもある。近所の交流所にもなっていた。緑郎のほか、巴須兄弟の四男五男とは歳も近かったために遊んでもらった記憶がある。特に四季郎は……暁にとっての初戀の相手なのである。中学生の時分から穏やかで聡明な人だったような覚えがあるけれど、文明も文化も技術も発達したこの時代に四男まで家督が回ってくる事態があっては、彼も変化せざるを得なかったのだろう。おまけに長弟にあたる五男も亡くなり、次弟は素行不良児のような為体(ていたらく)である。  確かに聡明さは消えずにいるが、伶俐冷徹といった雰囲気で、穏やかは失せた。暗雲を常に背負っているような峻厳さに取って代わった。銀の眼鏡が顔立ちに溶け込まず、飾り物の域を出ていない。 「ごちそうさまでした。ぼくはそろそろ出ます」  彼も空いた食器を積み上げ、家政士に小さく頭を下げ、広間から去っていった。 「緑郎はちと甲斐性なしだからのぉ。ほっほっほ。四季郎は縹緻(きりょう)も悪くなかろう。あれで女っ気もないから……世は不景気か」 「不景気は関係ねぇだろ。フツーに女もバカじゃないのサ」 「お前んようなバカ(せがれ)がモテるというからにゃ、分からんずらん」  口喧嘩が始まりそうなやりとりではあったが、この翁は末男とのコミュニケーションを楽しんでいるようであった。 「まぁ、いいのだ。お前んような珍奇なプレイボーイにはなから期待などしておらん。ただ、四季郎にはな。あれで嫁でももらえば、昔みたいに(やっこ)くなるんかね」  緑郎に視線を投げつけられ、暁も咄嗟にそのほうを向いた。けれど搗ち合った瞬間に逸らされる。 「ま、ボクちんも帰ってきたしさ?パピィも、隠居したって言ったって、まだお口は達者なんだ。なんもかんも1人で背負うもんじゃないって、四季郎には分からせてやんねぇと」 「なぁに、緑郎。四季郎の小倅が1人で背負ってあんな偏屈になったと思ってんのかぃや。次は自分かおまはんか、どっちが死ぬかで不安がってんじゃないのかぃ」  廊下をネクタイを結んでジャケットを着た四季郎が通っていく。暁は彼を追った。  玄関で革靴を履く巴須家の四男の背後をとる。彼も見送られていることに気付いたらしかった。 「今はもうあんな家庭ですが、よかったら寛いでいってください。家政婦さんに言えば、昼も夜も食事処代わりにしてもらって構わない。父も弟も喜ぶと思う」 「はい。ありがとうございます。お気を付けて」  幼少の頃は、馴れ馴れしく接していた。けれど互いに大人である。どこかよそよそしさすらあった。 「ありがとう。行ってきます」  彼はわずかばかりに暁へ顧みた。その口元が和らいでいる。  引戸がゆったりと閉まっていく。曇りガラスの奥の人影が小さく纏まって朧く消えていった。 「四季郎のこと好きなん?」  真後ろから話しかけられて暁は肩を跳ねさせた。 「びっくりした……」 「食休みは終わりでいいんか」  緑郎のさらに後ろから、ぬっと巴須翁が現れる。 「ほっほっほ。四季郎ならいつでも婿にくれてやるぞ」 「婿は拙くねぇか、パピィ」 「こんなどでかい家名(いえ)があるから貰い手がない。緑郎よ、おまはんには何にも期待してないから好きにやりやっせ」  そして翁はまた物陰に消えていく。 「まぁ、冗談はさておき、行くか。診療所行ってから、挨拶回りな」 「お土産あるから、取りに行ってくる」 「ふ~ん」  黒いマニキュアの塗られた手が車のキーを弄ぶ。  来た時のように庭脇の枝折戸を通るのが躊躇われ、暁は開け放たれた立派な棟門を潜り抜けた。目の前の道路を野良猫が慌ただしく駆けていったのが危なっかしい。  たびたび豆生村には帰ってきていたけれど、そのたびに村には変化がある。昔からあった家が消え、更地になり、ソーラーパネルか、景観に合わない住宅が築かれている。地元民の経験からして、建てては危険だと言われていた場所も区画が仕切られて、今にも新たな家が建とうとしている。運が良ければ10年、50年は保つかもしれない。しかし100年は保つか。いいや、まずあの簡素な作りでは家が保たないだろう。川や海や山が荒れずとも。  豆生村は村とはいうが、そう閉鎖的ではなかった。車を走らせればすぐに都市部にも着く。だが暁の住み慣れた、窮屈な空にコンクリートの密林もなければ、投網できるほどの通行人もいない。一軒家が多く横に広く、持て余すほどの庭があり、駐車場もついている。  ハナミズキだのフジだのを眺めながら彼女は杣宅から配り歩く土産を持ってきた。  巴須家に戻ると緑郎は車を出していた。モスグリーンの車体で、運転手の若かさを窺わせる。しかしバックミラーに芳香剤のマスコットがぶら下がり、ダッシュボードにはオコジョやイタチの死骸みたいな白い毛尨(けむく)が置かれている。 「来たな。乗れよ」  黒を基調とした社内に、シートベルトは赤い。 「うん」  暁は後部座席に乗った。溢れ返るバニラの匂いに気分が悪くなりそうだ。溜息が聞こえる。 「フツーはこういう場合、助手席に乗んねぇ?」 「安全運転してくれるの?」 「当たり前だろ。ボクちんのことなんだと思ってんの」  渋々、彼女は助手席へ移った。 「カレシと別れたんなら、義理もないだろ?」 「義理はないけれど……わざわざ助手席を選ぶ理由もなかったし。緑郎は?」 「ボクちんは1人の女って決めない主義なの。1人に決めないのは男らしくないらしいケド、逆だね。男らしさに囚われて、どいつもこいつも去勢されちまってんの」  耳朶を虐待しているとしか思えない左のロングピアスが、バックミラーに吊るされた芳香剤マスコットとともにぶらぶら揺れている。右耳との釣り合いが取れていない。首が凝りそうである。 「四季郎さんに言われたの?お父さん?」 「四季郎。男気かオスか。男気ってのは家畜化されたオスをいうんだよ。それを分かってない」 「何を言ってるのか分からないし、分からなくていいと思うけれど……」  緑郎は唇を噛んで唸った。それが彼の呆れと落胆である。  車が発進する。最近売り出した男性アイドルの曲が流れる。同じ歌声が次の曲からも聞こえたところからすると、ラジオで流れたのではなく、緑郎の趣味らしい。 「すんなり別れてくれたん?」 「まぁ……うん」 「愛されてねぇんじゃね」 「そんなことは、ないと思う」  元交際相手の様子を思い出してみる。一方的に切り捨てるような有様だった。 「好きな人のためなら身を引くってよくあるけど絶対ウソ。好きなら尚更、我って出るだろ」  信号で止まり、彼はハンドルを抱いて腕に顔を乗せる。コーラルオレンジのリップカラーを塗っている。将来の夢は孔雀だと、昔語っていた。オスの孔雀である。 「好きか嫌いかで言えば、好きなつもりだったんだけどな」 「惰性ってやつ?」 「独り者は可哀想だと思ったから、友達で一番可愛い子紹介したの。わたしなりに良かれと思ったんだけど……好きじゃなかったのかな」 「悲しいね。久々に会った幼馴染が、サイテーのクソ女になってて泣きそうだよ」  暁は俯いた。元交際相手との破局を決めたのは、恋愛感情によるものではなかった。いいや、踏ん切りがついたことに恋愛の冷めが関わっていたのではあるまいか…… 「田舎の型に嵌ったハンコ型のシアワセってマインドは捨ててねぇわけね。うちもあそこもこの家も、ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。異性見つけて結婚してガキ持って家建てて子と孫に寄生って?ま、そうじゃなきゃ村社会はきちぃわな」 「緑郎はどうして帰ってきたの」 「チミにあんな話しちゃったから」  暁は運転手を見た。彼も同乗者を見て、陰湿に笑う。 「本当?」 「ウソ。気に入らない上司殴って前の年度いっぱいで辞めたから」 「どうして……大変だったでしょう、就活……」 「都会の品も聞き分けもいい坊ちゃん嬢ちゃんたちの人の好さに付け入って、サル山の大将気取ってるのがムカついたから。サル山の大将のプライドも理解してねぇのに。夜郎自大。奴等には村八分にされる危機感がない」  しかし本当にそのようなばかげた真似をするだろうか。暁は緑郎を見ていた。一人の幼馴染の人生を狂わせてしまったかもしれない。いいや、この男にはばかけたところが多々ある。それが6人兄弟の中で生活するうえでの戦略だったのか。 「で、その上司は?」 「不倫バレてたけど、知らん。社外だし、不倫なんて各家庭のことだろうし。世の中はそう上手く、スカッと勧善懲悪!とはいかんだろ」  診療所へ続く長い道へと入っていく。防風林が両脇にあり、ほぼ直進の道で、木々の狭間から海が見えた。 「海岸デートでもしたいんか」 「水族館とか海水浴場があれば考えたけれど、ね」  彼女は車窓から海を眺めたまま、冗談に応えた。 「豆生村名物、人魚サマも死んじまうわ」 「意外と共生できたりして」  緑郎が「人魚」という単語を出した途端、車内の空気が一気に変わってしまった。小さな静電気がいくつも起きているような、ぴりついた空気感に…… 「本当に信じてるんか」 「人魚を見た日から、気が狂ってるのかもね。わたしも、あんたも……」 _干涸びた死骸になら何とでもいえた。しかし生きた個体を見た日から知ってしまったのだ。でなければ、気が()れてしまった。
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