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桜伐梅不伐の巻

桜伐梅不伐の巻  何人もの(おなご)を孕ませて、(みごも)っていることに気配で感じることができてしまった。連れて来られた女は八重(やえ)という娘で、時折り弟が彼女のことについて話している。弟は村の女と交わっては、ひいては関わってはならないけれど、彼女の弟というまだ子供みたいなのを挟んでは特に私としても言うことはなかった。けれども弟が(ねんご)ろにしている娘で、おそらく懐胎しているとなると、私もすぐに行為へとは移れなかった。それが彼女にも伝わってしまったらしい。 「紅梅(こうばい)さま」 「意中の人がいるね」  私は努めて穏やかに訊ねた。根が素直なのだろう。彼女はすばやく瞬きをして、私から目を逸らした。 「恥ずかしいことではない。この年頃ならよくあることだ」 「……ごめんなさい」  私の仕事は村の女に胤を植え付けることだけれど、女が孕むには身の内の(つか)えも関わってくる。だからたまには種付けもせず話し合うだけということも起こる。 「謝ることはないよ。相手も言わなくていい。私を好きになる必要はないし、この行為に慕情は要らない」  ただ、孕んでいる女と事を行って、無駄に疲弊するつもりはない。そのことを打ち明けてしまったら、彼女は泣いてしまうのだろうか。第一、私の勘は勘でしかなくて確証がない。 「君は私の弟と、よろしくやっているようだね」 「わたくしの、弟の吉野が、お世話になっているようですから……」  彼女は私の目を見なかった。そういう性質であるのか、私に後ろめたいことでもあるのか。相手が弟だとは思わない。(あれ)は意外に臆病だから。 「わたくしのほうこそ、白梅千花(しろうめちか)お兄様にお世話になっていて……」 「私が兄で、あれは弟だ」 「ああ、申し訳ございません。わたしは白梅千花さまをそうお呼びしていたもので」  この娘に懐かれては弟もさぞ楽しかろう。ただこの縹緻(きりょう)の娘が孕まされて産む側にされているのはおかしい。 「村長(むらおさ)にここへ行けと言われたのかい?」  彼女は顔を白くして俯いた。 「他の人と……その、契って……しまって……」 「それを村長に話したのだね?」  小さな声と共に彼女は首肯する。 「相手は……いいや、訊かないのだった」  私は彼女を緊張しているからという名目で帰してしまった。他の男の胤は別の男の胤で洗い流せと、村長はそうお考えのようだ。  彼女を帰して少ししてから、村長は弟の遊び相手になってくれている小僧っ子を連れてきた。歳の頃は2桁いって少しであろうか。12か13か……14には差し掛かっていないように思う。八重という娘の弟で、唯一の肉親だそう。そして―  村長の話す内容はつまり、姉弟でありながら男女の契りを交わしてしまっているとのことらしい。村長も気が動転していたし、私もすぐに言葉の理解はできても内容を受け入れるのは難しかった。 「あーしゃ、この吉野が大人の男になったあかつきには、そろそろこやつに、紅梅様の跡を継がせてもいいんじゃないかと思っておりますんで……」  村長は、私の身体を気にしているふうだった。つまりは私の胤の潔癖性を。私の身体に赤痣が現れたからだろう。伝染病(うつりやまい)流行病(はやりやまい)にしては使用人たちにも食事をともにする弟にも感染(うつ)った気配がない。 「なるほど。それで、姉については」  頭を下げる村長も、なかなか厄介な立場だと思う。あらゆる恨みと怒りと蔑みを買い、そこにあるのは私欲ではないのだから、私はこの村長が嫌いではなかったし、ある種、弟よりも私に近いところにある。 「紅梅様のお好きなようになさってくだせぇ。父もなく母もなく、弟はこのとおり、屋敷に入れる身。あの娘はいずれにしろ桜供物(さくもつ)として台無しですから……しかし腹の子に関してはどうにも……」 「結実(けつじつ)しているかは、腹の膨らまないことには分からないだろう」 「それが、月障りが無いそうで……」  私は思わず彼女の弟のほうを見てしまった。それが判明するほど前から姉弟の縁で男女の契りを交わしていたということだ。彼はまだ幼い。そんな子供が…… 「隠し事で身の内に痞えがあれば、そういう遅れもあるのでは」 「二月(ふたつき)三月(みつき)も……となると……」  私の勘は当たっているのかも知れないけれど、やはり勘は勘。 「吉野。少し外へ出ておれ」  彼女の弟はすべてのものが憎そうに部屋を去っていった。村長はいくらか慎重になって私へ膝を擦り寄らせる。 「不都合があれば斬り捨てることも」 「誰が斬り捨てるんだい。赤子を間引くのとは違うんだよ」 「零花(あまりか)送りでも……元はそういうところでせうが」 「ぼくが了承しても、花ヶ住村はそれでいいのかな。種芋役の姉が零花部落に住んでいるだなんて。穢れはどうしたのかな。穢れは身内から移るという話だったね。止したほうがいい」  私たちの生まれはここではないから、花ヶ住村と零花部落の関係を深くは知らないし、また知ろうとも思わない。私はここで種芋の任を全うするだけ。私の胤が女児になり間引かれず暮らしているということを聞けば、何も思わないでもないけれど。酷い父親だ。胤さえ仕込めば親になれる。干渉せずに突き放すべきだ。何もできないのなら。 「ぼくも子が欲しかったから娶ろう。できればぼくの胤ではない子が。ぼくにください。けれど村長は。貴方はいいんですか。手塩にかけたなら、子は間引いて、養女にしてしまっても」  この人も村長になったからには、と追加で一人娘を桜供物にしている。そのあと妻は首を吊った。後戻りできなくなったからこの人は花狩り桜にこだわるのか、将又(はたまた)、そのことを恐れて躍起になっているのか。 「この歳でまた死別なんぞしたら、心の臓がもう保たん。ゆえに二度と人には入れ込まないと決めておるんでさぁ」 「じゃあ決まりだ。支度をしたら出ていくよ」  私はすぐにあの娘を部屋に呼び寄せた。経緯を話すと、泣き出して、それが哀れに思えた。彼女は弟に手籠にされたが、それでも弟を憎めないこと、激しい羞悪に悩まされていたことを私に話してくれた。懐胎しているかもしれないと彼女は言って私は二度、三度、覚悟を問われる。 「ぼくもまともな人間では無くってねぇ……子供は道具に過ぎないんだ。申し訳ないけれど。場合が場合だから、間引いてもぼくは何も言わない。間引けなければぼくがやる」  私の子が男児なら、弟が間引いて臍の緒を持ってくる。分からなければ保留。女児でも目に見えて分かる片輪なら弟が間引いて臍の緒を持ってくる。育ってから分かれば零花部落に送る。そういことを繰り返しているうちに、否、私の中でこだわりや決め事や指針が決まる前からそうだったから、そうなるしかなかったのだろう。鶏が卵を産むのと何が違うのか。産めよ、殖やせよ。けれども私たちみたいな畜生腹はいけない。人の世は大変で、獣の世の哀れで、蟲の世の儚い。 「どうしていいのか分からないのです。わたくしはこの子を愛せるか否か……恥ずかしい関係でできた子です。わたくしはこの子を見るたびに、自身の穢れを見ることになりそうで……」 「ものを慈しむ情は自ずと湧くだけのものではないよ。慈しむ情を持とうとする苦しみもまた情さ。これはつらくて厳しいけれどね。その道を往くのが親だと思う。我欲が付き纏うけれど。君にはその覚悟を見定める間もなかった。堕ろしてしまうのもいいだろう。人の業は深い。母親も子も」  啜り泣く彼女を私は撫で摩る。この子が産まれるのなら私も人の親になる。その実感がない。私の胤ではないからか。 「わたくしは穢れた女です。他の人を好いているのです。だのに弟の子を孕んで、紅梅様のお世話になろうとして……」 「他に懸想する人がいたのかい。それはつらく厳しかろう。ぼくですまないね」  彼女は首を振る。私は強く抱き締め、しばらく摩っていた。 「紅梅様……わたくしはどうしたらいいのか分からないのです」 「私と夫婦(めおと)になろう。子のことはまだ考えなくていい」  彼女は私の妻になる娘として屋敷に引き留めることになった。けれど彼女の弟もこの屋敷に留め置かれているから、私は奥の部屋を貸した。青饅(あおぬた)という隠密に見張らせ、私は弟へ会いにいった。私が日向(ひなた)なら彼は木陰。時折り兄であることをすまなく思う。私の生まれた土地では、兄姉(うえ)弟妹(した)を足蹴にして産まれ堕ちてきたという言い伝えがあったけれど、外ではそうではないらしい。この村も、夫と第一子、第二子をもうけてから私と契る。夫と子をもうけられず私と第一子をもうかる女もいるけれど、往く道は知れている。そこに思い遣りを回す余地はない。村長と私、弟、零花部落の長の会議で決まる。  弟の部屋に着き、襖を叩く。彼は中へと私を入れた。この部屋だけが持つ庭を作らせて、孤独な弟は十分それで気が紛れるらしい。甥姪(せいてつ)の間引きは彼が務め、零花部落との連絡も彼が担っているから間引ききれなかった私の子と会うのは彼なのだ。時折りどこの女との間にできたどの娘がどうなっていたのか聞くことがあるけれど、私の娘という実感がない。目で見て耳で聞くのは弟だ。つらいのは彼のほうであろう。 「痣が増えたね」  「そうか……」 「お払い箱かい」  二子で、容貌が酷似しているからといって目と耳、身の内まで同じではない。私の疑問に弟は笑っている。 「紅梅千花(あかうめちか)が自らここに来るっていうのはそういうことだろう」  私は両手をついて頭を下げた。弟がたじろぐ。 「すまない」 「なんで紅梅千花が謝るの」 「ぼくの衰えを村長も気付いていたのだろうね。あとは吉野に任せることになった。君の小さな友人だ」  それはこの弟も察していたのかもしれない。けれど多少の狼狽は否めない。 「それから、その姉の八重をぼくが娶ることになった。理由は聞かないでほしい」  これには畳に額を擦り付けなければならなかった。恐ろしい静寂。池の鯉が尾で水を叩いている。産卵の季節か。まだ早いように感じたけれど。 「花刻(はなどき)は、どうするの」 「……八重は身籠っている」  私は私の核心を突く一言に答えられなかった。私には好いた女がいる。気が()れているけれど。桜供物になり損ねた女だ。すべてを察し、桜ノ()に食われる前に首を吊った。零花部落の花見張りがすぐに助け出しはしたけれど、元のようにはならなかった。私の前の代のこの屋敷の当主が決めたこと。当時の私は大人の男ではなく見習いで、どこかへ行くというその娘へ無邪気に櫛を贈ったのだ。 「相手は訊くな。ぼくではないよ。八重のことについて詳しく訊くのはいけない。ぼくはその答えを持っていないんだ」  弟は動揺、惑乱。私はこの忠実に働いてくれた弟に対して手酷い仕打ちをしている。彼の初戀(はつこい)の相手も、今懸想している娘も、私が取り上げてしまうのだから。 「分かったよ。ボクがのらりくらりと不自由なく暮らしてこられたのは紅梅千花、君のおかげだからね。何も言うまい。けれどそれなら、ボクはもう花刻姉さんに触れてもいいんだね」  私はこの問いにも答えられなかった。2人の女を愛せるはずはない。片や身重。片や気狂い。だがここで選べるはずもない。しかし弟がすでに道を示している。 「分かった」 「じゃあ、花刻姉さんの頃合いをみて、ボクはすぐに発つよ」  弟は立ち上がって行ってしまった。向かう先は座敷牢だろう。私は白梅の樹が1本植えられている庭を呆然と眺めていた。それから少しして我に帰る。早くあの娘のところに戻ってやらねばならない。  戻ると八重は小さく淑やかに控えていた。 「脚を崩しなさい。つらかろう」 「いいえ……」  彼女は首を振る。話しておくべきだろう。君は妻になるけれど、私の最愛の人にはなれないということを……いいや、話すべきではない。話してどうなるというのだ。彼女にはどうにもできないこと。私が八重を侮蔑してそうなったのではないのだから尚のこと、彼女にどうこうできたことではない。 「これから夫婦(めおと)者だ。屋敷を出たらぼくも一介の男。君よりいくつか歳は上だけれど、立場としてはそう変わらなくなる。明日は歩くから、楽にしていなさいな」  私はすぐ生活に必要なものを纏めた。高価な物も持っておけば金子(きんす)銀子(ぎんす)に換えられるだろう。    私はその夜、夢を見た。第一感は夢だと思ったが、現実だったのかも定かではなくて。隣で眠る八重の枕元に誰か立っているのだ。彼女の布団には桜の花弁が舞い散っているのだから、夢だろう。この部屋に木はない。盆栽すらも置いていない。私は無遠慮に枕元のそれを見た。人が立っているのだ。若い男に見えた。歳の頃は私よりもいくらか下。八重と同じくらいだろうか。老女のような白髪だが真っ白というわけでなく、薄紅を帯びたような。  私は青饅を呼びつけようとしたが声が出なかった。身体も動かない。謎の男は八重を見下ろしていたけれど、(やが)て私のほうへ首を向けた。寒気のするほどの美貌。出自さえ分かれば、吉野のようなまだ幼い子供ではなくて、この男に屋敷の主人を任せるべきである。 「この娘を、くれないか」  謎の男は確かに私にそう言った。姿は初めてみたけれど、私はこの者の正体を知ってしまった。夢の中に桜の樹が現れて、その下に娘が立つ。その夢によって時期と桜供物が選ばれ、私が推薦し、四者で相談するのである。 「その娘はいけない」 「この娘がいい」 「いけない」 「ならば、あの(おなご)……」  桜ノ()は顔に似合わない樹皮を覆ったような手と長い爪で誰もいないところを指す。 「あの女が、欲しい。元は手に入っていたもの。返せ……!さすれば、もう何も要らん。罪深い我主(わぬし)等の女……」  私は首を振った。 「どちらも桜供物としての女ではない」 「この娘も、あの女も、我桜(わおう)ぬもぬ……」 「やらん!」  私のほうを向いた美貌が歪んでいく。顔の半分が引き攣り、拉げ、玉質の肌は樹皮同然に硬く皺を帯びて縮んでいく。人の顔から樹が生えている。 「次の桜供物は、」  夢はそこまでだったように思う。私は心臓の疼くのを感じて目が覚めた。身を起こし、捻った身体が波打つと、一度大きく(しわぶ)いた。それは体液を伴い、みるみるうちに畳が赤く染まっていった。口元を押さえる前に目にした手の赤さにも私は驚いた。血を退けても、そこにあるのはまだ赤。私の肌は鱗を散らしたような赤痣に覆われている。  私は八重の目覚める前に、畳の血を片付けた。青饅がすぐさまやってきて手伝ってくれた。彼に私の今し方の様子を訊いてみたが、私は寝ている時にいきなり起きて吐血をしたのだというから、あれは悪い夢で、私は病人ということだ。  私は寝付けず、縁側で外を眺めていた。 徐々に濃紺が薄らいでいく頃に八重がするすると布団から這い出てきた。彼女は腹を押さえていた。 「八重……どうしたんだい」 「紅梅千花さま………紅梅千花さま………どうなさいましょう、どうなさいましょう………」  彼女はまだ明け方だというのに焦った様子で私に縋りついてきた。 「落ち着いて。お腹が痛いのかい?」 「わたくし、本当に懐胎したと思っていたんです。わたくし……でも、月のものが……」  私はぎくりとした。八重が嘘を吐いているとは思わなかったし、村長の言っていたことが偽りだとも思わない。 「本当に月のものかい……?どこか身体を悪くしているんじゃ……いい。とりあえず女中を呼ぼう」  私は八重の手を引いて、寝ている使用人を起こしにいった。女の身に触れているからといって、私の不可知なこと。女のことは女に任せるのがいい。  彼女のことを使用人に任せ、私はまた明けていく空を見ていた。 「紅梅さま」  青饅が珍しく自分から姿を現した。手には湯呑があった。 「薬を煎じました」 「すまないね」  私は甘苦い薬茶を啜りながら暇潰しに夢で見た話をそのまま語って聞かせる。夢は夢だ。私の不調がそのまま夢として出てきたに過ぎない。長年の任を解かれるのだ。それなりの変化があれば身体も身の内も疲れるというもの。  八重は気付かなかったようだし、青饅も無駄なことは口にしない。私の腕には赤い痣が広がっていて、それは夢に関係のある気がする。もしかしたら彼女の月のものにだって……  私が薬茶を飲んでいる間、青饅は傍に控えていたが、気紛れを起こしたネコみたいに暗い廊下へ消えていってしまった。すると彼の行ったほうとは反対側から人の気配があった。弟か、彼女の弟か……だが違った。ぼんやりと光ったように浮かび上がるのは、好いた女だった。なんだか様子がおかしい。 「花刻。白梅千花のところにいなきゃいけない」  けれど彼女は揺蕩うように私のほうへ歩いてくる。 「花刻」  彼女は柱に凭れ、座っている私の胸に縋り付く。長年想い続け、格子の奥で逢瀬を重ねたきた相手だ。私は彼女に触れることをよしとしなかった。桜供物になった彼女に、のちの桜供物を殖やす側の私が何故、躊躇いもなく触れられる?恥を知るべきだ。私は彼女の重み、冷たさ、肉感と軽さに眩暈がした。異国の人形のような昏い目は私を映さないのに、私の肺病の兆しがある胸を登ってくる。血反吐をぶち撒けてそう長くない私の唇を彼女は吸った。窺うように吸って、そして舌を入れてきた。絡まる。弟にすまなく思い、夫婦者になる八重にすまなく思う。だのに私はやっと、桜供物を殖やす任から解き放たれた気になって、けれどもそんなことで私の罪も業も咎も消えはしない。しかし目の前の甘美な肉感に私は抗えなかった。懸想し憧れた女。手の届かぬうちに穢れきった身体……  私はそこが縁側で、床は硬いことも忘れ、弟に預けたはずの女を抱いた。気の狂れた女の肉体を揺さぶり、執拗に突いた。私の交合いだった。胤を注ぎ、子を孕ませるためだけの種芋の務めではなく。  これもまた、甘やかな夢だったのかもしれない。目蓋の奥の眩しさに目が覚めると、私の身体には布団だけでなくさらには八重に貸した寝間着の上衣が掛けられていた。甘やかな夢であり、そして八重への裏切りだった。けれどどこからが夢だったのか……  私はまた咳き込んだ。腕を見ればまだ赤痣はそこにある。あれは夢ではなかった。掌を手に透かしていると、騒がしく跫音(あしおと)が近付いてきた。 「紅梅千花!」  弟だった。私にしがみつき、いつも落ち着いていて、剽軽なくらいの弟の酷い慌てように私はぎょっとした。 「なんだい。一体何が……」 「姉さんが!姉さんが死んでしまった!花刻が死んでしまった!」  弟は叫んだ。彼は大声を出すとこうなるのかと他人事のように考えているうちに、私の足は気付くと、弟と彼女の眠る部屋に辿り着いていた。 「あのあと正気に戻ったんだ。花刻姉さんは正気に戻って、目を離したときには……」  彼女は喉を一突きして死んでいた。亡骸は腹が膨れ、私は息苦しさに襲われる。 「花刻は、懐妊していたかい……?」 「していなかったと思う」  そそけ立った弟を見るのは胸が痛んだ。嗚咽しながら懸命に答える。もうすぐ産まれそうなほど花刻の腹は膨らんでいた。 「じゃあ……これは、」  弟は首を振る。私も夜毎(よごと)花刻には逢っていたけれど、確かに彼女の腹はこんな分娩間近になるほど膨れてはいなかった。大体、父親は誰だ………………―………私かも知れない。 「湯灌(ゆかん)(ひつぎ)の用意をする」  弟は哀しみに打ち拉がれている。私がしっかりしなくてはならなかった。 「悲しくないのか。新しい妻ができたから?花刻の代わりがいるから?」  部屋を出ようとする私に弟は飛びかかり、鷲掴む。鬱憤を晴らす相手が私しかいないのだから仕方がない。この怒り、悲しみ、悔しさ、それ等を受け止める以外の意思疎通を私は知らなかった。 「人の命の重みなど、()うの昔に忘れたよ」  この村はそういう村だ。弟は私を突き飛ばした。私は部屋を出て、八重を探しにいった。彼女は私の部屋の隣の部屋で針子をしていた。 「八重」 「おはようございます、紅梅千花さま。昨晩はどうもすみませんでした……」 「その話は後でしよう。少し立て込んでいてね。出ていくのもまだかかるかもしれない。君はよく食べて、ゆっくり休みなさい。いずれにしろ君はぼくと夫婦者になる。身体は大切にすることだ」  恐ろしい夢の中で桜ノ怪はこの娘を求めた。花刻は死んだ。心配にもなる。 「青饅」  私が呼ぶと、隠密はすぐやって来る。 「はい」 「最後の仕事かもしれないけれど、彼女を見張っていてほしい。頼むよ」  そう言った途端―……青饅は私の目の前で、八重を斬った。そして私の胸元にも、彼に持たせた忍刀が突き立った。 「青饅………何故、」  彼に表情はない。 「零花部落にはこういう言葉があります。花狩り桜の枝折るな。折って()るなら追い回せ……花狩り桜の枝は折ってはいけないのです。折った人間が生きているなら、地の底まで追い回し、仕留めなければならない……」  息をするたび、吹き損じた篠笛の音色のような音が首から漏れ、赤い(あぶく)を作る。 「花刻を、殺したのは……」 「(わたくし)です。腹の子は知りません。妙な夢を見たのなら、桜ノ怪の子でしょう。死産が常です。花狩り桜の礎としてあの(おなご)の亡骸共々、私が弔います」  私はかろうじて息を繋ぎ止めながら、襤褸雑巾のように斬られ、投げ出された八重の手を握った。けれど彼女の呟いたのは私の名ではなかった。 「自分を手籠にした弟など捨てて、零花部落に堕ちてくればよかったのです……そうすれば好い人と結ばれたのかもしれません」  彼はその名の主を知っているようであった。惜しむように逸らされた顔は、狂気ではなかったからつらくなる。正気なのだ。彼は理性を以って事を行っているのだ。 「八重に、何か飲ませたね」 「堕胎薬を。片輪が産まれたならどう生きるのか、貴方たちは零花送りと言ってそれで終わる。そこにひとりの生きねばならない道があることも忘れて。臭いものに蓋をしてきた貴方たちのやってきたことです。誹りを受ける謂れはありますが、貴方からではない」  私はもう天井の木理を見詰めていることしかできなかった。 「言い残すことはございますか」 「弟を殺さないでくれ」 「あの女の遺体を易々と手放してくださるのなら」  私の願いは聞き入れられない。弟は手放さないだろう。そうして殺人術に長けた彼に殺されるのだろう。 「兄弟共々、梅の木の下に埋めて差し上げます」 「吉野は、どうしている……」 「眠らせました」  私は濡れていく畳の上で腕を這わせ、八重の手を握った。 「君は、どうする」 「目的を果たしたら散ります」 「君を弔う手はあるのかい」 「零花に生まれては、まず先に諦めることでございます」  天井に翳した腕から赤痣が消えていくけれど、もう掲げていることもできなくなった。 ◇  花狩り川沿いの有名な桜並木は消え失せてしまった。  近くの零花部落で解放運動が起こり、桜並木は伐採され、根絶やしにされ、土手ごと燃やされてしまった。所有権を有していた花ヶ住村はこれに対抗したが、やがて鎮圧され、その内情が曝露されると廃村となった。    この解放運動の主導者は処刑直前、その動機を恋人に対する償いと、友人への手向けであると述べた。  現在、花ヶ住村跡地では2本の見事な紅白梅を観賞することができる。
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