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第5話 【完】

 クーラーのアブラゼミみたいな低い呻きを聞いて舞夜(まや)は目を覚ます。一人用のベッドに2人で乗っていた。 「―っ……」  息を詰め、まだ眠っている様子の恋人から自身の器官を抜いた。人工膜もなく、生肉と生肉はぶつかり合い、子壺へと子種を注入したのである。栓を無くして、彼女の中から性質を変えた液体が漏れ出る。  ものにした牝にはもう用済みだ。次の牝を見つけ、求愛し、種蒔きに勤しむべきである。そうして牡は己の生きた証を後世に伝えていくのだ。感情も倫理も文化、文明もすべては戦略で、付属品であったはずだ。いかに効率よく種を植え付けるか。数をこなすか……ゆえに、一人の牝の個体にこだわっている場合ではないのである。いいや、いいや、この牡のような活気のない個体は、一人の牝を囲い、確実に孕ませたほうが胤は遺る。  彼は肌寒さに気付くと番いの肌を自身の肉体で覆った。 「ん………っ、まだ、する?」  恋人がその重みに目を覚ました。よくある穏やかな日常の朝、という感じが舞夜を狂おしいほどに感動させた。それは肉欲ではなかったのかもしれない。肌と肌の触れ合いに原始的な安らぎを覚えたのだ。彼は柔らかく瑞々しい恋人の肩に頬を擦り寄せ、そこで蛹にでもなるつもりらしかった。 「夏霞……今はまだ、こうしていたい」 「うん。いいよ。ほら……」  彼女は柔和に微笑んで、身体の向きを変えた。正面から舞夜を受け止める体勢になって、両腕を開く。彼はまたもや感動した。喜びと幸せのあまり、涙が込み上げそうになった。彼女の肩や腰や腕の割に豊満な乳房に気を付けながら、抱擁に身を落とす。 「好き。夏霞………好きだ、好き………」  吐き気に似た幸福感は、言葉にしなければ身体を巡って余計に苦しくなってしまいそうだった。 「……わたしも」  華奢な腕が背に回り、引っ掻き傷を掠めていく。仄かな痛みは快楽に似ていた。彼女の肌が少し冷たいのも心地良い。 「少し温度を上げていいか」 「これから暑くなるのに?」 「生温いくらいが、ちょうどよくて……」  柔らかく(かぐわ)しい女体から離れるのは惜しかった。だが舞夜は身を起こした。繊維と繊維の擦れる音、ベッドの軋みにも、感じやすくなってしまった彼の目蓋の裏を刺激する。 「する?」 「したい」 「じゃあ、しよ」  舞夜は温度設定をいじると、テーブルの上の麦茶を一口飲んだ。二口目は嚥下しなかった。恋人の唇を塞いで流し込み、そのまま舌を絡める。彼女の手が背中を撫で回し、爪痕を弄ぶ。舞夜は真下で揺れる乳房を胸板に押し当てた。異様な安堵に涙が滲む。恋人のしなやかな脚に腰を掴まれ、口腔の結合は相変わらずだというのにより深まった気になった。味を感じ取り、ときには火傷をする器官で官能を覚えてしまう。触られもしていなかった下腹部は張り詰めて、彼女の薄い叢の中で寝そべる。その毛並みの摩擦だけで、多幸感と相俟って迸りそうだった。 「愛してる……」  濃密な口付けを解いてでもそれを言わなければならない衝動に駆られた。義務だった。使命であった。口にすると、また堪らなくなって恋人の舌を吸う。  彼はまずこの体勢のまま前から繋がった。すでに注いであるものを掻き回す。恋人の中は熱かったが、子供になり損なった死液は冷たかった。 「気持ちいい……夏霞……気持ちいい………」  恋人の蕩けた隘路を突きながら、彼は肘から力が抜ける。しかし彼女の肉体に()しかかるのを良しとしなかった。今すぐにでも新鮮な活液を吐き出したかったが持ち堪える。 「乱暴にして平気……全部受け止めるから、好きにして………あっんっ」  彼女の言葉の終わらないうちに、舞夜は激しく腰を振った。好いた女に肉体を受け入れられる悦び。これは何にも勝る媚薬に等しい。自慰では得られず、むしろ擦り減っていた自尊心が結合部より温かく抱き締められているようだった。 「あ、あっ、あっ!そんな、突いちゃ、ぁんっ!」  好きな女の甘い声に情欲を煽られる。 「夏霞………、夏霞、受け止めて、く………れ………!」  彼はぶるぶる戦慄くと、恋人の中で牡鮭みたいに放精した。有り余る活力が下腹部に集中し、わずかな抽送を続けながら濁流を叩きつけていた。いいや、搾り取られていた。恋人の蠕動(ぜんどう)はまるで愛の告白であった。否、彼の情熱的な衝突への返答であったのかもしれない。 「いっぱい出てるね」 「夏霞………好きだ。気持ちいい……」  自得直後に訪れる、虚無感も疲労もない。ここが野生の無法地帯であれば、牡として失格であった。警戒体制に入り、無防備な牝を守ろうとする名残りは完全に消滅していた。彼は恋人の中を緩やかに行き来して、蒸れて芳しい彼女のあらゆるパーツに接吻している。 「まだ元気なの?」  絶頂の余韻が去って、恋人は嫣然(えんぜん)として、自らの意思で腹に埋まった番いの器官を締め上げた。 「う、ぅ……っ」 「いいよ……全部、わたしの中に出して」  悪戯っぽくも艶冶に仕掛ける想い人を相手に、強壮な肉体は次の闘いに備えられないわけはなかった。 「夏霞……」  牡の役割は果たせないくせ、強欲な彼の肉体はあらゆる体勢、あらゆる角度を以って、恋人の潤った肉路を打ち据えた。肥ってはいないが華奢でも腹周りを包む脂肪を揉み、撫で摩り、摘んで遊ぶ。純朴で怯懦(きょうだ)な舞夜という男は、恋人のふっくらとした乳房に触れるのが怖かった。彼がそこに触れるときは、敏感な小さいところを嬲り、彼女の昇天の一助にするときであろう。  恋人の大きな胸は他の男たちによって魅力的であるらしかった。舞夜はその指摘をされるまで、まったく彼女の胸について何の頓着もなかった。彼女が俯いたときに現れるポニーテールで翳った(うなじ)!髪を束ねる黒ゴムの輪。後毛(おくれげ)。短すぎない制服のスカート。膝小僧。そしてほっそりした長い脚を締め上げるソックス。爽やかで淑やかな立ち姿。細い肩……彼を焦がし、悶えさせ、眠らせず、熱帯夜にしてしまうのは主にこれらであった。彼女が今、腕の中で嬌声を上げている。 「ま……た……硬くなってる!おっきいの、おっき………!」  舞夜は獣の交尾の体勢から、彼女を抱き上げて仰向けになった。そして共に膝を開き、下から突く。短いストロークで活塞(かっそく)する。水面を掌で叩くような音が部屋に響く。 「だめ、イく、イく………!気持ちいいとこ、当たってるから、ぁっ!」  恋人は逃げようとした。泣き喚くような声を上げ、短い間隔で雌雄の留具を引き絞る。 「夏霞、いいよ。イってくれ……俺で気持ちよくなってくれ」 「そこだめ、そこ、だめ……気持ちいいトコ、だめ……!」  膝をさらに開け広げ、恋人が悦楽を訴える箇所を打った。 「あっ……!イく、イく、イく!」  彼女は背筋を逸らし、腰を揺らした。自ら牡の器官で引き攣った蜜肉路を削る。舞夜は先端の括れの陰にまで割り入る肉襞に絞られ、強烈な快感に耐えなければならなくなった。 「夏霞……っ」  泣き縋るような声を漏らし、舞夜は絶頂で身悶えする恋人を後ろから抱いた。呪われて取り憑かれたような女体だった。或いは(おぞ)ましいものを封印されたような有様だった。彼女の身体を破り割って、何かが生まれそうだった。それを禁じるように腕を巻きつけた。そして恋人ごと俯せになり、奥深くで果てた。 「こんなしたら……赤ちゃん………デキちゃうよ」  彼女は膝を震わせ、結合部から白い泡を漏らしながら腹を撫でた。 「産んでくれ……そうしたら、俺の子を……」  下腹部を摩る手に、舞夜も手を重ねた。 「うん……祭夜(さや)ちゃんの血も入ってるもんね」  クーラーの唸り声がやがてセミの慟哭へと変わっていく。  舞夜はベンチに座っていた。その手はオスのカブトムシの把手みたいな角を摘んでいる。六つの脚が暴れている。ぼんやりと彼は、この甲虫を眺めていた。胸角(きょうかく)を持たれては、逃げようもない。だが彼は宙を掻いている。進んでいるつもりになっているのか、抗っているつもりなのか。  ヒトにはない立派な角だった。色艶も悪くないように思える。触覚が上下に揺れ、円らな目は愛らしい。舞夜はカブトムシの目利きに昏いが、良い個体に見えた。だが、カブトムシの世界ではどうなのだろう。  彼はこの個体を連れ帰りたくなった。そして好きな人に押し付けたくなった。彼女の元で育ってほしくなってしまった。だが、衝動的な思いとは裏腹に、塗装の剥げ、日に灼けた肘置きに虫を放す。  セミたちは鼓膜を破りにかかるが、カブトムシは隣で触覚を揺らしていた。ここでは鳥に食われてしまう。舞夜はカブトムシを移動させた。淡い陰の落ちたところで樹皮を掴ませる。  野生で生まれ、野生で育ち、虫籠に捕えて最期を迎えるのは可哀想だ。カブトムシを見つめていると、脚に柔らかなものが当たった。この柔らかさはネコの感触である。実家の飼猫は懐かなかったが、1匹だけ懐くネコがいた。南波(さざなみ)宅の庭に侵入する(さば)の皮みたいな色味と白い毛並みの野良猫だ。誰かに餌付けをされている。柔らかな毛並みだった。  束縛こそ幸せである……!  舞夜はカブトムシを取り戻そうとした。だがそこに木などは無かったし、そこは公園ですらなかった。舞夜は南波宅の玄関アプローチの前にいた。薔薇園を作りたかったらしき植え込みは除草され、土が剥き出しになっている。淡い色味が可愛いらしいだけにどこか殺風景な感じが強調されている。  南波宅の玄関へ上がると、蒸し暑さから冷涼な空気に切り替わるのとほぼ同時に、2階で起こっている淫蕩な宴が聞こえてきた。舞夜は避妊具を買いに行った帰りであったことを思い出す。手にはドラッグストアの色付きのビニール袋の感触があった。息苦しさは、刺すような日の光から涼しい空気に変わったからであろうか。虚しさを覚えながら、肉体は期待している。南波宅に着けば気を遣う必要はなかった。下腹部は心に決めた牝と身体だけでも繋がろうとしている。無理矢理引き留めて傍に置いた恋人に侮蔑と嘲笑の材料を与えてしまっても。  階段を登っていく。上方についた曇りガラスの窓から照り出される段差が妙に不穏だった。徐々に澄んでいく少年の甘えきった声は、外に漏れてはいけない。高校生である。そしてその相手は成人だ。 「お姉ちゃん、好き、お姉ちゃん………出る、また、出る……」 「声を出すな!声を出すな!声出さないで!」  舞夜が部屋を覗いたとき、恋人は下に敷いた色白の少年を殴り、肘で打っているところだった。その可憐な玉質の貌は鼻血に染まっているが、噴き出してから少し経っているようだ。  美少年を折檻していた恋人は意地悪く舞夜を振り向いて、陰湿に笑った。 「そんなわたしと交尾したかったの?情けない」  彼女はビニール袋の中身を知っていた。避妊具の箱が無数に入っている。1箱に十数個は入っているから、個人が短期間に使う数量ではなかった。 「したかった。夏霞と交尾したかった。何といわれてもいいから……」  腰を上げた恋人の結合部は、高校生男子の肉栓が抜けて新鮮な粘り気の液体を滴らせた。 「絶対、ナマでしないでね。祭夜ちゃんの紛い物が産まれちゃう」  悪辣な笑みを浮かべながらすでに他のオスのものにされた証を見せ、彼女はフランボワーズの削りシャーベットみたいな渓谷(けいこく)を晒した。その九皐(きゅうこう)からは白く濁った(せせらぎ)に汚染されていた。 「したい。何がなんでも、君としたい」  舞夜は涙を浮かべた。情けなく啜り泣く。だが酷い目に遭わせて恋人にした女が良心を震わせることはない。 「薄汚い負狗!あんたの胤なんか避妊具(ゴム)の中で朽ちる果てるべきだと思わない?無駄撃ちして殺してあげなさいよ。負狗遺伝子!惨めな人!」  恋人の顔が歪む。癲狂(てんきょう)病みのような精神的な不具合の翳りがあった。彼女は壊れてしまったのだ。いいや、壊してしまった。 「ゴムはして、外で出して。あんたみたいな卑怯な男はね、穴を空けるに決まってるんだから」 「分かった。避妊する。外で出す……だから……」 「そんなにしたいなら貸してあげる。そういうお店行けばいいのに」  高校生は幼児になって母親に甘えるように彼女へ甘えていたが、彼女は鬱陶しがりながらスマートフォンを触る。舞夜は避妊具の箱を開ける。昏い目をした動くその様は擬似的に活動する人形のようであった。  舞夜は避妊具を着けていたが、玩具にされていた高校生男子はそうではなかった。それはこの美少年の人権について彼女がまったく蔑ろにしていたこともあっただろうが、同時に憎き男に対する当てつけもあったに違いない。  彼は恋愛に目覚めてしまうと性欲が強くなるらしかった。実際のところは分からない。そういう気質だったのかもしれない。前例も比較対象もない。だが業務用の数量と思われる避妊具を使い切ったとなれば、その活気が窺える。そしてそれだけ美貌の男子高校生の精を受けている。  舞夜は恋人の家にいた。これから南波宅に寄るつもりであったが、自室に案内されたのだった。彼は相変わらず手厳しい叔父の前で繕い、人懐こげな弟には苦手がられてはいたけれど、この家に居る間だけは恋人と恋人らしいことができるのだった。  好いた相手の匂いがこもる部屋に入った途端、彼女は後ろ手で扉を閉めた。冬に冷房を入れているような寒さと乾燥を覚える。これから夕立でもくるのか、空は暗く、肌は外にいたときの生温さと湿気を思い出す。 「夏霞……?」  振り返る。日が延びても暗くなりがちな季節。彼女はいつも明かりを点けたがらない。2人きりになると昏い顔をして、口数が減る。叔父や弟の前では腕がぶつかるほどの距離にいたのが嘘みたいだった。  今日も叔父は下駄箱上の写真立てを倒していた。倒していたということは、誰かが立て掛け直しているということだ。 「別れない?」 「何故」  恋人は俯いて訊ね、忽如として発せられた別れ話に舞夜は慄然とする。彼女は理由を述べない。 「別れようよ」 「だから、どうして……」  ある可能性が過る。この恋人と恋人でいる条件は、彼が自身のいとこに迷惑をかけないということ一点であった。つまりこの関係は、恋人が彼のいとこを好いていること前提にして成り立つのである。新しい想い人が現れさえして、彼女もほんの薄情さを持つことができれば、傍に居る必要などないのだ。つまり、元恋人を切り捨てる覚悟がありさえすれば。脅迫の手を使おうとするだけの度胸を、この男は持っていなかった。そしてそれは、女の身にはあまりにも危険物であったが、同時に撮影者をも斬りつける諸刃の剣である。 「わたしのこと好きなんでしょう?」 「ああ、そうだ。好きだ。だから俺は別れたくないし、別れない」 「このまま付き合い続けていたって、好かれることなんかないのに」  恋人は、惨めで哀れな男を嗤った。 「他に好きな人でもできたのか」 「ううん。好きな人はできてない。もうずっと好きな人いるもの。でもね、赤ちゃんデキた」  淡々とした告白は、拳を使わずに相手を殴り倒し、跨り、左右から殴打するに等しい衝撃を与えた。  舞夜は瞠目し、言葉を失っていた。しかし常に言葉を失っているような寡黙なつまらない男である。この告白をした者も多少は(しお)らしくしているが、見たところではそう深刻な感じはなかった。 「誰の子だろうね?」  悪辣な微笑を見詰めていることしかできなかった。男子高校生とは避妊していなかった。把握している限りは、あの高校生のみである。確証のあるものは。  夏のしじまのなか、激しい混乱が茫然としている彼の内側に渦巻いた。 「ね、別れよ。嫌でしょう?他人の赤ちゃん身籠ってるカノジョなんて、嫌でしょう?」  衝撃と空白。この反動は舞夜を暴漢にする。懐妊したという女を力強く鷲掴みにして扉へ叩きつけた。彼女は見透かすように嘲笑っているのみであった。 「誰だ!相手は!」  怒声を浴びせても怯みもせず、恋人は壊れたように哄笑する。圧倒的な不利にありながら、このようにしていられるのは最早、狂人の域であった。 「あっはっはっ。誰だと思うの?言ってみてよ。言ってみなさいよ。誰の子だと思う?何か疑うところでもあるの?」  彼女を磔る手から力が抜ける。崩れ落ちるのは、強者の立場にいる舞夜のほうであった。 「あたし、アンタみたいに後ろめたいコト、何もしてないんだけど。あんたみたいに関係性使って脅したり、土下座してセックスおねだりしたりなんかしてないんだけど。そうね、後ろめたいコトした相手なら何人かいるけど、それはアンタが起点だから。アンタに対して、あたし何も後ろめたいコトなんかないんだからね」  崩れ落ちる彼の、一瞬にして艶の失せた髪が掴まれた。 「別れなさいよ。あたしこの子産むから。名前もう決めたの。女の子がいいな。男だったらあたし、一番に愛せるか分からないもの。別れて。托卵なんて嫌でしょう。絶対にアンタの子じゃないんだから」  恋人は彼の頭を宙に払いのけた。惨めな男はよろよろと立ち上がる。 「俺が避妊を……失敗したのかもしれない………俺の子かも………俺の子の、可能性だって……」 「でも何度も中に出したのはあのクソガキよね。いくらアンタが鈍間だからって、避妊具つけて失敗しても、確率低いんじゃない?アンタの子じゃなかったら?あたしの勘も、あのクソガキの子だって言ってる。アンタの子なんか死んでも孕むもんですか。よしんば孕んだとして、堕胎してやる。アンタの子なんか産んだら、虐待して殺しちゃうでしょ。子供に罪はない?何を言ってるの。あたしにそんな悪意を植え付けたアンタの遺伝と血がすでに罪なクセに、図々しく受精なんて。潔白な生き方をしてから言ってね」  舞夜は己の手で緩やかに徐々に壊していった恋人を濡れた目で見つめた。彼女を手に入れたつもりになってから、泣いてばかりいる気がする。人前で感情を露わにするのは恥である。だが堪えられない場面もある。 「別れてよ。死んでやるから。ほら、あたし昨日、死のうとしたの。だって祭夜ちゃんじゃない畜生オスの子供なんて、普通の神経してたら孕みたくなんかないでしょう?あんたみたいな惨めで弱い男の胤なんか!」  彼女は包帯の巻かれた手首を見せた。まったく気付かなかった。舞夜は敵を目の前にしたネコの如く毛という毛を逆立てる。惨めな男は、その手を握ってしまった。 「手首切ったくらいで死ぬワケないでしょ!アンタと付き合うって決めたときは本当に飛び降りてやろうと思ったけどね!でも祭夜ちゃんが可哀想でしょ。あたしは生きていかないといけないの。あんたみたいな誰にも愛されない、無価値の人間じゃないから」  舞夜は包帯に額をつけて歔欷した。それは教会で神に縋り付く愚民の様のようである。 「さ、別れて。叔父さんにも暑詩(しょう)ちゃんにも、そろそろ本当のコトを話すから。あんたは避難しなよ。あたし一人でどうにかするから。怒って悲しむ家族なんてみたくないでしょ。あんたは平気で脅迫行為(ああいうこと)するんだから平気なんだろうけど。アンタのご家族には別れたってテキトーに伝えておけば?間違ってもおかしなこと言わないでよね。わたしの家族が泥かぶるようなことは」 「子供を一人で育てられるわけない……俺も同席する……俺も、」 「アンタの子じゃない」  彼は涙を溢しながら首を振った。 「いい。俺の子じゃなくても、夏霞の子なら……愛してるんだ。好きなんだ。俺の子じゃなくてもいい………夏霞の子なら俺の子だから……」 「そんなに愛してるくれるなら、別れて。本当は産むつもりなんてない。わたしこれから就職よ。ここには戻ってこない。アンタ、就職先もう決まってるんでしょ。それ捨てて、わたしのところ来てくれるの?ご両親、それ許すの?惨めな人。今は舞い上がってるだけ。叔父さんみたいに自分の子じゃないのに、育てられるほどアンタが人間できてるとは思えない。アンタみたいな惨めな人が。祭夜ちゃんによろしくね。あの女は浮気して知らない男のガキ孕んで逃げました、って言っておいて。さ、話は終わり。帰って」  この弱い牡は額を床に擦り付けた。恋人の剥がれかけた黄色のペディキュアが見えた。戦慄きながら涙を溢す。そして吼えた。  そろそろ夏が終わる。 ◇ 『直接出向けなくて悪い。君もう叔母になる。でも妻の具合があまり良くなくて、会わせることはできないかもしれない。仲が良かったのにすまない。 名前は爽やかな夜と書いて「さよ」にしようと妻は言うけれど、おれは夏霞の字からもとって、女の子なら爽夜夏と書いて「さやか」にしようと思っている。お腹の子は男の子らしいが、海夜も生まれたとき直前までは男の子って言われていたから、実際のところは産まれるまで分からない』  舞夜は公園のベンチに座り、スマートフォンと向き合っていた。書いては消して、書いては消してを繰り返している。  セミの鳴き声が集中力を削ぐ。 『それから、南波くんには近寄ったらいけない。多分、南波くんのほうから君と関わろうとはしないけれど……保存会のほうでごたごたがあったからね。家族で関わるのをやめようと取り決めたんだ。保存会は祭夜お兄ちゃんが引き継いでくれると思う。海夜。元気でね。悪いお兄ちゃんですまなかった』  3つに分けて、妹へテキストメッセージを送る。 『お兄たん、マジで言ってるの?祭夜兄ちゃんからジョカノ奪ったんでしょ。それでなんでそんな名前付けようと思うの。匂わせなの?本気?それって虐待みたいじゃない。名前ってどういう子に育ってほしいかで決めるものじゃないの。あと、祭夜兄ちゃんが保存会引き継ぐって、ちゃんと相談したこと?祭夜兄ちゃんはアコギ担いで都会に出ていったんだけど。じゃあ保存会は終わりだね。でも終わってもいいよね。それが人気のないものの淘汰だし。今までにいくつも多分滅んでるし、なんでもかんでも残していけばいいってものでもないでしょう。だからお兄たんの心配することじゃないと思う。  で、本当に夏霞さんとは結婚してるんだよね?お腹の子供、本当にお兄たむの子なんだよね?なんで挨拶来ないの?なんで夏霞さんのご家族がうちに来るの?祭夜ちゃんなんで泣いてたの。  お兄たんのことは好きだけど、最近ちょっと怖い。何か大事な話ならマミパピにしてね』  返信はすぐにやってきた。舞夜は太陽に炙られて真っ白くなった空を仰ぎ、園内の時計へ目を遣ったが、長針短針を読んだわけではなかった。それからスマートフォンに視線を落としたとき、視界の端で捉えたものがあった。  天に腹を向けたセミである。脚が開いている。生きている。まだ抗うつもりだ。否、他に(すべ)がないのだろう。  妹はおそらく受信拒否をした。文に明かされてはいないけれど、最後の一文でその可能性を読み取った。だがまだ妹は先程の文を開いていないかもしれない。それならばまだ届く。 『なぁ、海夜。これは現実か?』
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