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第4話

 空には禍々しい入道雲があるはずだったが、舞夜(まや)の視界には白い公園しか映らない。隔離するように茂る雑木林がセミの嘆きを(こだま)させ合っている。その命を賭した波動を、彼は浴びていた。  長いことベンチに一人座っていたが、ふと彼は立ち上がった。これから祭囃子保存会の集まりがある。鯉月(あかつき)家と緋森(ひなもり)家はその中心であった。若手というのも期待を背負う理由であろう。この土地に縛り付けられる。妹に後ろめたさを残したくない。  公民館に向かわねばならなかった。紙鑢(かみやすり)の表を敷き詰めたみたいなプロムナードを歩いていく。広い園内だが、人気(ひとけ)はまったくない。セミの声ばかりだ。  公民館へは恋人も連れて行った。彼女が興味を示したのだ。実家はそう離れていないが、隣の市で育った彼女はこの祭囃子を知らない。  保存会には有志で集った子供たちがいるけれども、彼は子供等と関わるのが苦手だった。この優しい恋人が傍にいれば、この、日がな一日、四六時中、顰め面の愛想のない男も多少は丸くなれるのかもしれない。彼もまた自身を客観的に評し、そう考えた。  実際、彼女は集まった子供たちに懐かれ、「人嫌いで怒りんぼの(こわ)いほうのお兄さん」で通っていた舞夜も注目の的になるのである。  しかし問題もある。氷の美貌に、程良い肉置(ししおき)の長身。地元では名うての大学の学部学科に通う男を、放っておかないのは子供の母親たちであった。  時折、一人になったタイミングを狙って手紙を渡されたり、言い寄られたり、質問責めに遭うことがある。経験から、艶福家であると揶揄され、ときには羨ましがられ、多くはやっかまれるのが目に見えているために、人には相談するのをやめてしまった。  望まない恋心の押し付けは迷惑である。  舞夜は3人の母親に壁際まで詰められながら、恋人が体育館とよく似た造りのホールからいなくなっていることに気付いた。  一人暮らしと知られてしまってから夕飯の余りだと料理や弁当を差し出され、最悪のときにホテルに誘われることもあった。子供から菓子をもらったかと思えば、中には旦那から怒りの手紙が混ざっていたこともある。  彼にとって、妹が白痴のように育ったのはむしろ幸いであった。美少女であるけれど、艶福家とほど遠いのはその飄々とした態度であろう。かわいい妹が穢らしい男どもに持て囃されるのは大変苦痛だが、この手塩にかけた妹が軟派で軽率で軽忽(きょうこつ)、無分別な人間に育つのも苦悶を禁じ得ない。  舞夜はまだ保護者たちの話が終わってないにもかかわらず、特に中身のない個人的な会話だったため、さっさとその場を去ってしまった。いとこと恋人の姿がないのである。  防音ドアは二重構造で、一枚開けると暗い空間があり、また重厚な防音ドアがある。子供の出入りがあるために、廊下側のこのドアは開け放たれているのが常だった。そこを通り抜けて、エントランス越しに見えるのは恐怖を煽るほど静かで人気(ひとけ)のない公民館の東棟。調理室や茶室がある。  舞夜はどこに彼女たちがいるのか知っていた。薄暗い東棟の果てへ吸い寄せられていく。  最果ては彼の足が進むたびに遠ざかっている。廊下が伸びている。ひとつだけ点いた蛍光灯は劣化して明滅している。誘蛾灯だったのかもしれない。舞夜は活動する屍みたいに身を引き摺って進んだ。横一列に増殖する窓の外には黄緑色を帯びた小さな光が浮遊していた。ホタルであろう。近くに川が流れている。ホタルの居る場所といえば、清く澄んだ水辺だろう。ところが舞夜から見て、その川が綺麗だとはとても思えなかった。だがホタルにとってはそうではないらしい。人魂にしては小さく、儚いのが所詮は虫といったところか。しかし舞夜は歩みを止めて、妖しい輝きを眺めた。  行かなくてもいい。何故、自ら傷を開きに行くのだろう。ガラスの窓が反射する。そこに背後で起こっている出来事が映った。不用心に明かりが点いて、室内が丸見えであった。古い学校同様の引き戸であるが、物の置かれ加減からすると倉庫代わりや物置部屋らしかった。引き戸は開け放し、ラックに背を預けるのはいとこ。その前で屈んでいるのは恋人であった。  舞夜は映画の如く鮮明に映し出された窓ガラスの反射を見ていた。予感していた。想像していた。第六感が告げていたことだ。見込んだとおりで、案に(たが)わない。しかし衝撃と驚きには備えていなかった。希望を捨てきれない失望が彼の胸に訪れる。跳ぶように隠れ、ホタルの胡乱な踊りも消え、アルミサッシのついた一人用のスクリーンで彼は残酷映画から目が離せない。胸が苦しく、喉は締め上げられたようで、胃には七匹の仔山羊の悪役よろしく小石を詰め込まれた気分だった。彼は(うずくま)って、両手で顔を覆う。 『おっぱいでしてあげる。祭夜ちゃん、好きでしょ?』  涙が溢れる。 『うん……好き。おっぱい、挟んでくれるの?』  聞いたこともないいとこの声だった。誰にも()れにも媚び(へつら)う情けない男の、さらに甘え腐った(おぞ)ましい、いやらしく忌々しい間延びした喋り口であった。 『いいよ。してあげる。祭夜ちゃんのおっぱいだから、好きにしていいんだよ?』  望んで望んで熱望し渇望しても得られなかった恋人の甘い声音と言葉が、自分以外の男に向けられている。舞夜は腹を剛力で殴打されている心地がした。口元を押さえ、催した吐気に背を丸める。顔中のあらゆる津液が溢れ出る。それでも残忍な映画から目を逸せない。いとこの股間に胸を寄せる恋人は変わらず可愛らしかった。 『夏霞ちゃんのおっぱい、柔らかくて気持ちいい……んっ……』 『もっと好きに動いて大丈夫。祭夜ちゃんのこといっぱい気持ち良くしたいの』  恋人は自身の乳房を両脇から押さえて上下に動く。  哀れな傍観者は嘔吐(えづ)くのを堪え、指に歯を立てる。不快感、恐怖、厭悪、そして激しい悲しみに頭がおかしくなりそうだった。負犬という事実から逃げることができない。 「やめてくれ……」  指を噛み千切ってしまいそうだった。 『夏霞ちゃん………気持ち、ぃ………っ、出ちゃうから……離れて』 『出していいよ。かけて平気』  いつの間にか、いとこが恋人の乳房と乳房の狭間を突き上げている。  割って入って止めるべきだ。しかし彼はこの泣き顔を晒すことができなかった。潰れたような胃が重く、立ち上がれない。息もできなかった。ここで隠れて落涙し、悔しがるのが精々であった。 『ごめ………夏霞ちゃ………っ、あっあっ、もう出るから……もう出るから、目、閉じて、出ちゃうっ!』  舞夜は歔欷(きょき)し、耳を塞いだ。嫌だ、嫌だ、と彼は譫言を繰り返すばかりで、割り入ろうともしない。 『いいよ、出して。祭夜ちゃんの気持ちいいところ、見せて』  彼女の声と共に、いとこの息切れと静寂。 『まだ元気だね。かわいい』  恋人はいとこを見上げ、それから精を噴き出したばかりの牡の穢物を口に入れてしまった。 『待って、夏霞ちゃッ!今出したばっか……!』 『祭夜ちゃん、かわいい。好き』  口に入れては接吻し、舐め上げ、唇を当て、彼女の口淫は忙しない。 『も………だめ、焦らすの、ヤ……っ!舐め、て………』 『出したばっかで、ツラいんじゃなかったの?』  この傍聴者は耳を塞ぎ、大きな身体を丸めて縮めてしまった。あまりにも恐ろしい。このまま首を斬るか、心臓を刺し貫いてほしかった。だが彼は自ら舌を噛み切ることもせず、憤死することもなかった。 『ごめ、なさ………っ、舐めて……っあ、うぅ!いぢっちゃ、だめ、指ぐりぐりしちゃ、……』 『わたしのコト、好き?』 『好き……夏霞ちゃん、好き………大好き、』 『おっきくしたら口の中入らないよ?』  いとこは恋人へ腰をかくつかせて迫った。そして恋人のほうもそれを嫌がらない。むしろ受け入れていた。 『ご、め………あっうう!』  じゅぽじゅぽ、ぐぽぽ……、ばぼぼ……ぼぱ、ぼぱ………と、淑やかな恋人の口から品のない陋劣な音がする。そして彼女はそれを厭わずに増長させていく。  舞夜は掌に爪を食い込ませ、拳を戦慄かせた。保存会に戻ることも忘れ、打ち拉がれている。見ない振り、聞かない振りという選択はなかった。音の拷問に近い。 『また出る……口……出ちゃうから、また出ちゃう、口、あっ』  恋人の頭がいとこの腿の陰へ潜んでいった。彼女の口腔に、男の穢れた粘液が迸っているのだろう。そして彼女もそれを喜んでいる。汚されてしまった!しかしあの恋人が汚れているとは思わなかった。鯉月舞夜という男も哀れな気質である。鼻先にエサを吊り下げられ、延々と走るしかない駿馬(しゅんめ)であった。 『祭夜ちゃんの、美味しいね。ごちそうさま。うふふ、大好き』  恋人は、低い位置からいとこを見上げた。舞夜は一呼吸ずつ腹に一撃喰らうような激しい音と共に息を吐く。 『オレも……オレも好き………あ、まだ、勃って………』 『祭夜ちゃん、元気だね。わたしのナカ、来る?』  恋人が髪を耳に掛ける。そしていとこの先端を舌で焦らしているらしかった。 『あぁ……入りたい………行きたい、夏霞ちゃんのナカ、入りたい………っ』  いとこは情けなく諂諛(てんゆ)する。 『いいよ』  彼女は立ち上がった。そして華奢な曲線を出したジーンズパンツを下ろしていった。いとこが彼女の後ろから露出した肌に触れる。 『すぐ挿れて、大丈夫……祭夜ちゃんの舐めてたら、わたしも、もう………』  舞夜は飛び起きた。やっと彼は負犬根性に甘えている場合でないことに気付いた。 「夏霞!」  叫ぶ。廊下に(こだま)する。何度響き合うのか分からないほど長い揺曳。合わせ鏡の中に閉じ込められているのかもしれない。だが構っていられなかった。彼はアルミサッシのスクリーンではなく、恐ろしい映写機に向かっていった。そこには牡串で貫かれ、腰を揺する恋人の姿がある。舞夜は殴り込みに行きたかった。引き戸は全開だったはずだ。しかし彼は進めないのである。あまりにもよく磨かれたアクリル板でも張ってあったのか。見えない壁がそこにある。叫んでも声は届かない。いとこのほうに怒鳴っても、喉だけが擦り切れる。それでいて室内の声は彼に届くのだ。  目の前で恋人は蕩けた顔をして胸を揉まれる。いとこは彼女の肩に鼻を埋め、立ったまま腰を打ち付ける。結合部から垂れたらしい糸を引く液体は、額を叩きつけて泣き叫ぶ舞夜を嘲笑っている。 『きもちい………溶けちゃう………好き、夏霞ちゃん、好き……あったかい………』 『もっと、言って……?好きって言われるの、感じちゃう……』 『好き、好き……夏霞ちゃん、好き、!』  会話だけではない。肌と肌の衝突、粘膜同士の間で起こる体液の分泌と混ざり合いが集音器でも通したみたいに鮮明に聞こえるのである。 『祭夜ちゃん………すごい、おっきくなってる、あっ………あっんっあっ……』  眉根を寄せて嬌態を晒し、露出した胸は片方、日に焼けた手を埋め込んで揺れる。 『夏霞ちゃん………好き、好き………大好き………好き』  いとこは肩から顔を上げて、生殖器を挿している相手の耳を喰んだ。 『あ……っ、祭夜ちゃっ………』 『ナカ、締まった………』  日に焼けた指が揉んでいた乳房の先を摘まむ。 『あっ!ああんっ』 『イっちゃいそう?』 『うん……イっちゃう………おっぱい、弱いから………』  するといとこは両手で彼女の胸の実粒を擂りはじめた。 『あっあっ、だめ、イっちゃうからぁつん、祭夜ちゃん、祭夜ちゃん!』  彼女は抱接から逃れようとする。背筋を反らす。だがそれは後ろの人物にとって、胸への刺激を促すものになっていた。 『いいよ、イって。夏霞ちゃ………オレも、イく、』 『中出していいよ、出して………祭夜ちゃんの赤ちゃん、産みたいから………出して、祭夜ちゃ………イく、あっ、イく、イく、イッ―ああああっ!』  聞いたこともない喜鳴であった。大きく身体をのたうたせる姿は、恋人の身体を食い破って、彼女の内側から何か生まれ出るような奇怪さがある。  そして数秒後には硬直と静寂。  廊下に聞こえるのは啜り泣く声ばかりである。この無限通路には山彦(ヤマビコ)が棲みついているらしい。 『夏霞ちゃん……すごく気持ちよかった。大好き』 『もう、いいの?まだ、大丈夫だよ……?』 『こんな、元気なの、ごめん………』 『元気な祭夜ちゃん好き。祭夜ちゃんの、全部わたしのナカに出して。わたしのナカじゃなきゃ、出しちゃだめ……』  繋がったまま唇を吸い合い、彼女はまた突かれる。後ろから、前から、横から、下から上から……  心臓が痛むほど泣いて、耳鳴りに守られる。臭いものには蓋をして、グロテスクなものからは目を逸らし、気色悪いものには背を向ける。舞夜はまた、膝を抱えて蹲ってしまった。錆びた鏡で腹を破かれ、石ころを胃袋に詰められて、雑な縫合で閉じられている。7匹の仔山羊の悪役になってしまった。あとは喉の渇きを潤すために、井戸に飛び込むだけなのである。  身体中が軋む。だが悪役は井戸に飛び込む運命なのである。冷たい床に手をついて、尻を浮かせた彼の頭を撫でる手があった。否、それは撫でたというよりも、押さえたように思えた。背に触れていた柔らかなアクリル板が消失し、彼は後ろへ倒れた。真っ暗な天井と、カーテンを透かした月が杜撰な管理の郷土史を食らった埃っぽいラック、その上に置かれたダンボールの箱を薄らと浮き上がらせる。  寝転がっている舞夜に白い手が差し伸べられ、彼はそれに応えた。恋人が目の前に立っている。彼女の背後には黄緑色の小さな光が夜の暗闇を舞う。それらが照らし出すのは井戸であった。ここに井戸があったことを初めて知る。無意識に認識していたのかもしれない。それゆえにおかしな発想をしたのだ。 「どうしたの?」  穏やかで、可憐な、惹かれてやまない顔がそこにある。横髪を耳に掛ける仕草で何度目か分からぬ一目惚れを起こす。 「すまない」  舞夜は彼女に引かれて立ち上がる。そのまま抱き締めた。 「好きだ」  背中に腕が回ってくる。彼は安堵に涙を落とす。 「わたしも好き」  彼女に見上げられると、すべてがどうでもよくなってしまう。後先が考えられない。都合の悪いこともどこかへ消し飛ぶ。  柔らかな口火を吸った。窓ガラスを擦り抜けてホタルがやってくる。彼等の周りを飛び交い、舞夜は目を開けた途端、網膜を灼かれてしまった。 「ま、舞夜さん。いま、今あの……お客さん、来てて……」  階段ですれ違ったのは恋人の弟だった。相変わらず苦手であるという態度を隠せていない。  下の階からはギターの音がしていた。ギター弾きの客が来ているらしい。舞夜も趣味でアコースティックギターを弾くことがある。 「だから、あんまり……」  姉の恋人で、しかも付き合いにくい、壁のある人物に対して、暑詩(しょうた)は舞夜と喋るのに、普通よりも気を回しているようだった。気後れしているのがよく分かる。言葉を濁したが、あまり1階には降りてくるなと言いたいのであろう。 「分かった」 「何か、飲み物とかならおでが持ってきますよ」  弟は堅く白々しい笑みを貼り付けている。 「いいや。何も用はない」 「リビングのドア閉めてきます。舞夜さんも、音、気になったら悪いですから」  とんだ為倒(ためごか)しであったが、この弟は1階に行かせたくないようである。巧い弦楽器の調べに続いて雑音が鳴る。弟は登ってきたところをまた引き返してしまった。舞夜も恋人の部屋へ戻る。  恋人は窓を開けて、外を眺めていた。扇風機がからから軋んで、彼女の髪を靡かせた。  ミンミンうるさいセミの喧騒と下から聞こえる不協和音、談笑を聞いていたらしい恋人は、舞夜が戻ってきたことに気付く。 「暑い?クーラー、点けようか?でも点けるなら暑詩(しょう)ちゃんも呼ぶよ」 「いいや、このままで構わない」  猛暑の真っ只中である。しかし不思議と暑さは感じない。すでに熱中症なのであろうか。テーブルの上の麦茶も大量の汗をかいている。見慣れないプリントのグラスが他人の家であることを強く実家させる。  恋人は一度は舞夜を振り向いたが、また外を眺めている。知らない祭囃子が遠くに聞こえ、それがこの地域の盆踊り歌らしい。 「鯉月さん、わたしといて、楽しい?」 「楽しい」  恋人は窓辺にいて、舞夜は部屋にも入らず廊下に突っ立っている。 「傍にいるだけで幸せって、そんなこと、ある?」  彼女の毛先の緩いウェーブが人工的な風で転がる。 「暑いのは分かるが、直当たりは身体を壊す」  質問には答えなかった。そのことに不満は返ってこない。保護者然とした忠告を聞き容れて扇風機から離れようともしない。 「傍にいたら、どんどん欲望が湧くと思うんだけれど……幸せって多分、慣れだから。慣れちゃって、傍にいるだけじゃ足らなくなるよ。声掛けてほしいし、話しかけてほしい。くだらないことでもいいから話し合って、触り合って、たまには急に喧嘩したくなって……」  彼女がわずかにこちらへ顔を寄越す。眉根を寄せる様は何かを案じている。 「少なくとも、俺はそれで満足してきた」 「じゃあわたしたち、分かり合えないね」  鰾膠(にべ)もない。力任せに菓子の袋を破り開いて、内容物を飛び散らせるみたいな物言いであった。彼女の鼻先はまた外へ向く。 「触れていいのか」 「好きにしたら」  舞夜は恋人に躙り寄った。彼女はこちらを見ない。 「"傍にいるだけでいい"だなんて嘘だ」  小さな肩を掴み、ベッドへ放り投げた。そして彼女の上へ被さる。陰った顔は気に入らなげに顰められている。天蓋めいた肉の柱を彼女は慎重な手付きで叩いた。だが舞夜は動じない。 「君を無理に付き合わせた自覚はある。だからせめて傍にいることだけは赦してほしかった。俺は夏霞が好きなんだ。溜飲を下げて妥協して、誤魔化すこともしなくていいのなら、触れたい。俺は君を抱きたい」  滑らかな頬を撫でた。虫にでも這われたように恋人は首を払い、顔を背ける。 「好きなんだ。好きで好きで……どうしようもない」  彼女はこちらを向かない。壁を見ているほうが有意義だとでも言いたげだ。  舞夜は下の階に彼女の叔父やその客人、弟がいることも構わず、真下にある引き結ばれた唇を吸った。身を強張らせているのが分かった。相手の緊迫感が伝わる。そこを乱暴にする気力は湧かない。唇を離し、怯えてそそけだつ肌理(きめ)のひとつひとつを眺めることにした。彼は気が弱いのだ。  下の階から談笑が聞こえる。弟のものが目立ったが、ほかにも話し声が聞こえる。だが鮮明ではなかった。会話の内容は分からず、声も多少の差異が分かるのみではっきりとは聞き取れない。恋人の弟と叔父と、その客人の3人のものだろう。 「夏霞…………」  反応はない。小さな浮沈と、中肉の男である自身にはない肉感。彼は下腹部が燻っていくのを覚えた。清楚で清らかな、それでいて根暗なわけではなく溌剌とした面のあるこの女にも、近付いて擦り寄ってきた女たちと同じ柔らかさと丸みがある。豊かな胸が仰向けになることでいくらかなだらかになり、汗ばんだシャツが形をはっきりさせている。キャミソールを着ているというのにブラジャーの細やかな凹凸も見えている。  舞夜は生唾を呑んだ。可憐で艶美だ。女体の魅惑の虜囚になりかけている。彼は全身を火照らせ、目と鼻の先にある噎せるような蒸れた磬香(けいこう)から逃げた。彼女を支配しようと急かす器官が、彼女を征服しようと鼓動している。理性を捨てきれない。比例して肉体が疼く。  下の階からノイズが聞こえる。それよりも間近で衣擦れの微かな音がした。  舞夜の陰を帯びながら、恋人は自身の下腹部を撫で、胸を揉む。甘い匂いが彼の目と鼻で爆ぜた。 「ん……」  彼女の足がシーツを掻いて波を描く。すぐ傍にその関係としては適切で、その関係と観念を掲げるならば後ろめたさもないはずの相手がいるというのに、この者は自慰をはじめようとしているのである。 「夏霞………」  目を閉じた恋人には届かない。 「祭夜ちゃんが………好きなの………」  先程の口付けで、シュガーピンクのリップカラーは落ちていた。そしてコーラルオレンジのワックスが塗り直されているのである。  舞夜の心はコピー用紙と化した。そして左右から袈裟斬り同然に引き裂かれ、破られた。下の階から笑い声が曇って聞こえる。粉々の紙片となった彼は力無く、その瞳が捉えた無防備な雌を凝らし、そのうち()しかかった。佳芳を嗅ぎ回り、瑞々しい果実のごとき肢体から皮を剥いて、甘美な果汁を啜り切ると、一思いに食ってしまった
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