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第2話

 夏霞(かすみ)が答える。 「好きじゃないですよ。脅されて付き合っているんです。わたしは本当は、祭夜(さや)ちゃんのカノジョなんです。それなのにこの人は、わたしを凌辱して、祭夜ちゃんに嫌がらせをして、別れさせたんです。何がなんでもわたしを自分のものにしようとしたんです。無愛想で根暗なだけではありません。卑怯なんです。負け犬なんです。こんなのが、祭夜ちゃんに勝てるワケない!負け犬!」  舞夜(まや)は目を見開いた。息苦しい――……  寝汗が冷えていく。暑さを忘れつつある。現実か悪夢か、彼には分からない。どこまでが現実で、悪夢であったのか。ただ恋人はこちらを見ないのだけは本当のことである。  冷房を切った。人工的な冷気は苦手だった。扇風機に切り替え、水を飲んだ。  コンクリート打ちの物件は失敗であった。洒落た感じに惹かれたわけではない。このデザイナーズマンションが少し安くなっていたのも頷ける。洒落具合にも実用性にもあまり頓着のなかった当時の自身を彼は恨んだ。  一人暮らしにもかかわらず置かれたダブルベッドには、もうひとつ大きな膨らみがある。枕に添えられた手には指輪が嵌っている。 「夏霞……どうして……」  あんなことを言うのだろう。  弱風の扇風機が慰めるような音を立てて首を振る。 「俺を好きになって……くれよ」  悪い夢だったのだ。寝ている彼女の髪は肩を越えている。彼女は髪を切ってなどいないし、両親に挨拶などには行っていないのだ。安堵。胃の中の水が嵩を増していくようで、今度は気持ち悪くなってしまう。  朝の早いうちからセミが鳴き始める。いつのまにか季節の風物詩は騒音と化して、趣に欠けるようになっていたが、無ければないで寂しいものだった。年々、気温が増してセミもうるさくできなくなっている。 ◇  恋人の、妹に対する感触は悪くなかった。海夜(みや)は外貌こそ兄に似て大人びているが中身はそうではなかった。むしろ同年代の少女たちと比べてしまうとどこか白痴的な空気感は否めず、兄と似通っているだけに縹緻(きりょう)は確かに良かったが兄とは違い艶福家ではなかった。  背が高く、四肢がすらりと長く、色白で艶やかな黒髪。ふっさりした睫毛と冷淡な感じのする美貌。兄と特徴は同じであるが、性格まではそうはいかない。性別だけ異なる模倣というわけではなかった。  居間で、恋人と共に妹はテレビの前にいた。足の爪を切る体勢のように小さく縮こまって、いくらか多動的に身体を前後に揺らしている。その傍で、恋人はテレビに映る野球を所在なく観ている。ネコが彼女の膝を占拠して動くに動けないようである。 「地獄の釜が開いてね、この時期に死ぬのは、その人の宿命なんだって、ここの地域では言われてるんだって、婆ちゃんが言ってたんです」  妹は変人である。これが舞夜のいくらか心配の種であった。想定外のことをされては、事前の注意もできないまま無知がゆえに事が起こって悔いるはめになりかねない。過保護で過干渉の自覚はあったけれど、両親がこの妹に放任な傾向があることを彼は知っていた。海夜には身近に競争相手がいないのである。 「海夜。あまり変な話をしてお姉さんを困らせるんじゃない」  部屋に入った途端、恋人と妹の視線を一斉に浴びる。 「お義姉さん?」  海夜が首を傾げる。同性の連帯感なのか、女2人で顔を見合わせた。 「お義姉さんだなんて、まだ早いよ」  飼猫がトテテ……と恋人の膝から逃げていく。彼女は口元に手を添え、上品に笑った。 「いや……ゆくゆくは……」  舞夜は可憐な彼女から目を側めた。 「うっふっふ」  実家に馴染んだ夏霞を見ると、一人暮らしのアパートは引き払って、マイホームを建てる未来図が即座に浮かぶのである。田舎の広大なばかりで価値のない土地の一戸建てならば都会よりも安く済む。週休2日、8時間勤務の正社員として働き、いずれは子を持つことになるのだろう。持たなければ妻とネコと或いはイヌと暮らすのだ。  インターホンが鳴って、彼の多幸感に溢れた束の間の休息は終わる。  妹がそそくさと玄関へ駆け寄っていった。 「祭夜兄ちゃんに来てもらったんだ。だってお兄たむ、帰ってくると思わなかったんだもん」  海夜は玄関扉を開けてしまった。 「こんちゃ、海夜っち。久しぶりだね。舞夜くんも」  祭夜は日焼けした顔に眩しい歯を惜しげもなく見せる。紫外線を浴びて傷んだ髪には銅線が混じったように光った毛が目立った。  舞夜は喉が(つか)えて言葉が出なかった。喉が痞えなくても元々この来訪者にかける言葉などない。身体中が冷えていく。彼はおそるおそる振り返る。 「あ、カノジョさん?かわいいね」  祭夜は何の屈託もない。一言、いとこの恋人へ告げるのだ。 「高校生のときから付き合っているんです」  夏霞が控えめに応じた。淑やかにはにかみ、朗らかに微笑む。見たことのない恋人の仕草である。 「え?こんなかわいい子、高校のときいたっけ?」  軟派で軽率な、憎らしい笑みを横から見詰めて動けない。金縛りに遭っているようだった。 「何しに……」 「海夜っちの部屋の電球を取り替えに。ダメじゃん、舞夜くん。たまにはちゃんと帰ってきてあげなきゃ」  このいとこと、このように話せていただろうか。このようにまだ話していていい関係なのだろうか。  妹の招いた来訪者は2階へと上がっていく。 「かわいいだって……言われたことないな。素敵な人だね、―って……」  腕に寄り添う恋人のコーラルピンクの唇が動く。  我に帰ると、セミの鳴き声に包まれた公園であった。夏は冬よりも白い印象がある。噴水施設ではリズムをつけて水柱が細く吹き上がっているが、猛暑日だというのに人気(ひとけ)がまったくない。セミの鳴き声で他の音はすべて掻き消され、園内にはベンチに座す彼一人である。  しばらく、獲物を狙う本能から解き放たれないネコみたいに目を丸くしていた。つまらないことばかり考えるのはよくない。  手の中の端末が震える。妹からのメッセージである。 『お兄たむ、祭夜兄ちゃんからカノジョ、取ったの?』  妹に既読が伝わってしまっただろう。だが彼は返信しなかった。妹は否定を待っているのだろう。珍奇な気質ではあるけれど、良識が無いわけではないのだ。どちらかといえば生真面目なくらいである。他者の前で喋らない、笑わない、狼狽えないこの男も、妹を前にしては必要以上に口を開き、怒りもすれば安らいでも見せた。その相手に陋劣な行いを肯定することができなかった。  セミが鳴き喚き、ベンチに項垂れている者の鼓膜を灼き尽くす。ここに番いはいないというのに、腹を震わせて喚き散らす。それがつらいのか、彼は蹲ってしまった。 ◇ 「さっちゃんも食べていく?うちの人、遅くなるみたいだし」  海夜に呼ばれたいとこは彼女に付き合わされて用事を済ませてもまだ鯉月(あかつき)家に留まる。口煩く閉鎖的な兄よりも、妹は巷でよく見るように仲の良いいとこに懐いてしまった。いつかの作文でも、彼女は父親が2人いるというようなことを言っていた。 「でも……」  いとこは、自身を呼んだ少女の兄の、その隣の女を気にした。 「いいじゃない、若者4人で仲良くやれば。うっふっふ。おばさんは下がりますからね」  鯉月夫人は台所で愉快げだった。舞夜はそう社交的でもない恋人を見遣る。 「すまない」 「ううん。舞夜ちゃんのいとこだもの。わたしも仲良くしたい」  恋人は舞夜の腕に縋りつく。全体的な肉置(ししおき)は華奢なくせ、豊満な胸が当たる。 「そうそう。おばさんが送るから飲んでいったら?ねぇ!それがいい。おつまみ作るから。ポテトケーキ、好きでしょう!」  母親がはりきっている。元々明るい人物である。一卵性の双子の姉妹は揃って元気な性格で、いとこは母親似であることが顕著に表われていた。息子が恋人を連れてきてからは、なおのこと、むしろ若返っていさえする。そう悪くなかった夫婦仲も、さらに睦まじくなっているような。 「でも、悪いし……ねぇ?」  いとこは困惑気味に、自分を招いた年下のいとこや、その兄の恋人を見遣っていた。 「いいの、いいの。亜夕(あゆ)にはおばちゃんから伝えておくから。ね?今度はさっちゃんのカノジョと4人でお食事したら?みっちも行く?お酒飲むだろうから悪いわよ、あんた」  いとこは遠慮がちな愛想笑いを浮かべていた。成長するたびにいとこなりに叔母との距離を作っている。 「いやいや、舞夜くんと違って、オレなんてかっこよくないですからね。いいな、舞夜くんは。カノジョだっていませんよ。ずっと独り身だったりして」  キャットタワーにいたネコが降りてきて、ハーフパンツから覗く筋肉のついた脚に擦り寄った。金色の双眸が舞夜を見る。このネコの名前が思い出せなかった。日焼けした腕が、この毛足の長い飼猫を抱き上げる。飼主の一人である舞夜には噛み癖を発揮し、嵐さえ吹いた巨大な毛糸玉は、おとなしく抱き上げられて喉を鳴らす。 「そんなことないよ。舞夜は顔だけ。まったく愛想がないんだから……なんて、カノジョに悪いわぁね。さっちゃんもこんないい筋肉持ってるんだしダメよ、積極的にいかなきゃぁ。意外と奥手なのね」 「あっはっは。七夕(なゆ)おばくらいですよ、そんなこと言ってくれるの。でも、ホントですね。オレも舞夜くんのカノジョさんくらい、かわいいカノジョ作らないとなぁ」 「そうよ、そうよ。舞夜は運が良かったのね」  舞夜は母親といとこの会話を遠いやり取りかのように見ていた。 「舞夜ちゃん。どうしたの?」  恋人が長い睫毛を跳ねさせて見上げている。恋人のいとこのほうを一瞥もしない。 「あーし、いいや。マミィ、ごはん上で食べる。オトナの語らいもあるでしょーからね」  居間を出ていく妹と視線が搗ち合ってしまった。鏡で毎回顔を合わせる目だった。すでに故人である父方の祖母というのはときに残酷な人物であった。この孫娘の海夜が産まれるまで、嫁つまり舞夜の母親は浮気をしていたと疑わなかったのである。そしてそれを舞夜に隠さなかった。海夜の挙動、食の好みを見てやっと父方の祖母である舞宵(まよい)婆さんは舞夜が鯉月(あかつき)麦一(むぎいち)の胤であることを信じたのだ。 「あーあー。ごめんね、さっちゃん。あの子が呼んだのにねぇ」 「いいんですよ。じゃあ、お言葉に甘えて、夕飯いただいていきます!」 「そう、そう。そうしなさい」  舞夜は恋人の肩を抱き寄せた。いとこはダイニングテーブルセットに座して女家主と喋っている。まったく、彼のいとこの恋人のほうには見向きもしない。またこの恋人も、来客に興味を示さない。  夏霞は何の頓着もなく祭夜の隣の席へ座ってしまった。2人にしていおけない。だが舞夜は台所のカウンターに回ってしまった。母親を手伝い、耳を(そばだ)てる。芋の皮を剥く音が邪魔であった。集中できない。料理は苦手ではなかったはずだ。しかし間誤つく。 「もう、まーちゃん?何してるの。あたしがやるから、お酒持って、夏霞ちゃんとイチャコラやってなさい」  横から体当たりされて俎板の前から彼はよろめいた。覗き込んだ2人は談笑していて、それが却って自然なくらいである。 「高校一緒だったん、マジで知らんかった。何組?オレ――……組」 「B組。じゃあ隣?あ、でも長い廊下あったし、」 「そうそう。分断されてるからね。それにオレ、可愛い子サーチは欠かさなかったのよ。でもA組B組はほら、やっぱ分断されてたからね。調査不足~。惜しいことしたぁ。あ、舞夜くん―ゴメンな?」  舞夜は無邪気に笑ういとこから目を逸らした。そして酒の缶をテーブルに置く。祭夜の右肩が隣席に開いている。恋人の左肩が隣席に開いている。それに気付いた途端、脈が飛んだような苦しみを覚える。 「どうして、隣に座るんだ」  酒缶が倒れる。その振動に呼応したが如く、(おぞ)ましい視界で何かが輝きながら落ちる。それは恋人の耳元からであったような気がする。床に叩きつけられる音がする。恋人が辺りを探す。彼女の左肩はまだ無防備である。 「俺が拾う」   舞夜はテーブルセットの下に潜った。円形のイヤリングであった。打ち上げ花火を模しているらしく、散り散りになった火を裏側で繋げている細かい造りで、垂れている小さな銀の鎖は煙を比喩しているようだ。手が込んでいる。指先が触れた。脳裏に浮かぶのは、高校時代であった。独り花火を見上げた。すでにカップルになっていた者たち、この日を境にカップルになった者たち、(すんで)のところでカップルには至っていない者たち、或いは友人と、愉快な教員たちと、青春を共にしたグループ、一人で感慨に耽る者……彼等彼女等の影絵を遠くに眺めていたのが、ふと甦る。花火にはろくな思い出がない。妹と特等席をとった幼少期、今すぐそこにいるいとこが花火の音に怯えきって、そのために帰らなければならなくなったことも芋蔓式に出てくるのである。  いいや、すべて妄想である。誤りである。高校時代、恋人と見たではないか。そんなはずはない。では何故彼女との間に空白の時間がある。  舞夜はイヤリングを拾った。そして顔を上げる。二つ並ぶダイニングチェアに橋が架かっている。なんという大胆!恋人といとこが手を繋いでいる。胸を強く殴られたように息が漏れた。二つの席の間に縋りつき、固く結ばれた手を剥がす。接着剤でも使ったみたいに、2人の手鞦韆は離れない。  嫌だ、嫌だ、嫌だ、やめてくれ。 「……やめてくれ…………!」  自身の嗚咽によって鳴き叫ぶセミの音が曇る。項垂れて膝を抱える彼の後頭部に日焼け止めをきっちりした手が重なった。舞夜は顔を上げる。長く濃い睫毛には猛暑日の日向だというのに霜が絡んでいるみたいだった。 「夏霞……」  麦藁帽子に白いワンピースが清爽である。薄い陰を纏いながら、編み目を掻い潜った日差しがいくつか彼女の肌を白く焼く。彼女は弱りきった恋人を抱き締める。 「弱い男で済まなかった。それでも君を離してやれない」  白いワンピースに包まれた細い腰へ、彼も手を回す。黒い髪を、白い手が梳いていく。 「俺は君に相応しくない。でもエゴがある。君を、離せない。離せない……」  細い手が舞夜の顔を掬い上げる。冷たい掌に安らぐ。長い指が涙を拭った。 「あいつは俺の大事なものを全部持っていくんだよ。海夜も、母親も、婆ちゃんも……うちのネコも…………父さんだって、あいつみたいな子供が欲しかったに決まってる。俺は一緒に酒なんか飲みたくない。周りに合わせて笑えない。好きじゃない相手に愛想なんて振りまけない……」  白いワンピースの女はただ彼の髪を撫でていく。 ゥジジジジジ……ゥジジジジジ……ンチチ…… ツクツクポ~シ……ツクツクポゥ~シ……ツクウィーョツクウィーョ…… シネシネシネシネシワシワシワ… ウィーンミンミンミンミー ウヴィィィ……ンミミミミ  人気(ひとけ)もなく、セミたちの大合唱のなかで、このベンチの周りだけが静かであった。 チーチチ………ケチャチャチャチャ……カナカナカナカナ…………  日が暮れていったのかと思われたが、まだ空には、恐ろしい入道雲ができている。 「すまない、泣いてしまって……すまない。ありがとう。弱い男で、すまなかった」  麦藁帽子の下で柔らかな微笑む女の顔に、舞夜の表情も和らぐ。 「俺のリップ、付けてくれたのか」  彼女の可憐なピンク色の唇が軽やかに弧を描く。それだけで舞夜はどうでも良くなってしまった。彼は白いワンピースに沿うもう片方の手を取って、自身の温容に当てた。淡い色を帯びた指輪が頬に当たるのが硬いくせ心地良かった。 「あのとき守ってくれて、嬉しかった。お礼のひとつも言ってなかっただろう。今更だけど、ありがとう。ごめんな。君は俺に優しくしてくれたのに、俺はこんな有様で。君を好く資格がない。すまない。でも好きで好きで仕方がないんだ」  それがまたこの男を苦しめる。自身の構築した理屈に感情が伴わない。それを彼は弱さのせいだと結論付けた。己の感情を無視できない。背負えない。やはり彼にとっての弱さであった。  麦藁帽子の女は苦悩する男の頭を抱くばかりである。 「あいつが何かしたわけじゃない。分かってる。全部俺が悪い。あいつは悪いヤツじゃない。俺が捻くれてるだけなんだ。あいつは無邪気なだけ。俺が無邪気でいられなかった。だから、君も……」  舞夜は麦藁帽子の下にある双眸を覗こうとした。しかしそこには誰もいない。セミのやかましい喚き声ばかりである。舞夜は静止した。蟲どもの咆哮で耳が潰れ、園内から音が消える。 「雨堂(うどう)……?」  焼けた地面に色濃い染みができた。頬に水気が当たる。舞夜が空を見上げた瞬間に、情け容赦のない雨が降り注ぐ。段階を踏まない量である。  どこで間違えたのだろう。だが考え込めば濡れていく。やっと帰る気が起きる。ベンチから腰を上げた。歩き出す。セミも息を潜めてしまった。傍にあるのは雨音だけだ。  どれだけ歩いても、公園の出入り口に辿り着かない。だが舞夜は歩き続けた。舗装されていない木々に遊歩道の先は隠され、延々と同じ光景が続くのである。セミは何も言わない。彼は辿り着かないことを薄々理解した。だが歩くのをやめない。雨水を吸って、動作が重くなっていく。  どこで間違えたのだろう。果たして間違いであったのか。これが望んだ結果ではないのか……  身体が冷えていく。雨水は鼻にも口にも入っていないというのに苦しくて仕方がない。溺れているのかもしれない。  後ろから掴まれ、彼はやっと立ち止まる。髪も雨水を吸って重く感じられた。ゆっくりと顧みる。傘を持った女が暗くなった視界にはっきりと映った。白いワンピースは濡れることもない。まるで日傘であった。 「夏霞……すまなかった」  何故謝ったのか、彼自身分からなかった。咄嗟に出てくるのである。 「出会わなければ、君を幸せにできたのに……」  女の手が伸びてきて、嫋やかな指が唇を摘む。 「赦して……くれ、」  だが彼は、唇を摘まれたままなおも喋る。傘が女の手から放された。宙で倒れ、転がっていく。  恋人からの接吻によって、舞夜は言葉を失う安楽を知る。頬に添えられた掌が心地良い。彼の喉笛が浮沈する。しかしネコのようにセミのように音は出せない。  また手放せなくなってしまう。逃げ水の正体を明かそうとする子供のようにあてもなく歩を進め、また彼もそのつもりでいた。だがこの恋人に引き留められたら、立ち止まる以外の選択は無い。  唇を合わせているだけで、雨水の重さなど忘れてしまった。今しがたの猛暑も覚えていない。目眩に似ている。唇から何か吸われていく。心地良い浮遊感に酔い()れる。  手放そうと考えた。解放しようと思った。離れなければいけないのだ。恋心だけではどうにもならない。覚悟も自負も足らなかった。常に天秤を前にしていたというのにそれに気付かなかった。どれもこれも、経験の浅さのせいであると彼は決めつけた。だとしたら過去には遡れぬ。縹緻(きりょう)良し、頭が良い、体育祭の救世主と言われ続け、羨望と憧憬そしてやっかみを一身に受けたところで何の役にも立たなかった。眉目秀麗、文武両道でなくとも世にはカップルが溢れ、恋愛が蔓延っている。現に、"何もない"いとこはそうではないか。ただ愛嬌ひとつで、頑なな恋人を得ている。  驕っていたのだ。優越に浸っていた。あまりにも無自覚に。学科が違えど、同じ高校に入ってきたいとこが見えていなかった。家族が頻りに口にすることにも、関心を示さなかった。競争相手に認定されたところで、すでに白黒ついていたのだ。それを覆す人物が現れるなど、舞夜は予期していなかった。知る(よし)もなかった。 「愛してくれ………俺を捨てないで。助けて」  夕立では誤魔化しきれない落涙。口付けを途切れさせても、彼は自分にひとつだけ遺されたものに縋りつきたくなった。 「好きになって、悪かった……赦してくれ………二度と………生まれ変わっても、君の傍には寄りつかない………」  ハチになろうが、カになろうが、セミになろうが……  彼は膝から崩れ落ち、白いワンピースにまるで祈りでも捧げているかのように泣き出した。雨が止むまで赦しを乞い続けた。  ところが彼は、後ろから射す日の光にまた激しい落胆を示すのである。振り向けば、晴れている。園内に雨の濡れた様相はない。先程から晴天であったと言わんばかりに、ふたたびセミが鳴き喚いている。網膜が灼かれるようだ。だが目を見開いた。白いワンピースの女も転がっていたはずの傘も消え失せ、支えを失った舞夜は転んだら一溜(ひとた)まりもなさげな擂り下ろし器じみたアスファルトへと両の掌をついた。
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