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第1話

「お願い……鯉月(あかつき)さんのモノになるから、祭夜(さや)ちゃんに迷惑かけないで……」  夏霞(かすみ)という最愛の女が手に入ったのだ。だというのに、舞夜(まや)佇立(ちょりつ)するのみである。 「いいですよ。呑んでください、舞夜さん」  舞夜の冷淡な感じのする美貌は凍りつき、長い睫毛をぶら下げた目蓋は痙攣したようなまばたきをする。瑠夏(るか)は愉快げに笑っていた。 「2人きりは、嫌。怖いもの。会う時は、瑠夏くんもいて。それから、鯉月さんとはセックスしたくない」  夏霞は俯いてばかりで、所有者になる男を見向きもしない。瑠夏はきゃっきゃとはしゃいだ。腹を抱えて嗤い出している。 「じゃなきゃ傍にもいたくない」  彼は鼓動が乱れるのを感じた。 「セックスしたいだけなら、自分でカノジョとか、そういうお友達作ったら。いとこから奪わないで、自分で……」 「そうですね、そのとおりだ。傍にいるだけでも十分、恋愛ですよ」  瑠夏は転げ回って大嗤いしている。 「わたしは祭夜ちゃんも、もうキスだってできないんだもの。わたしのコト好きって言うなら、できるよね。できないの?じゃあわたしのコトなんて別に好きじゃないんだ。舞夜さんより明るくて優しくてわたしのこと愛してくれるもっと素敵な人、祭夜ちゃんには敵わないかも知れないけれどきっとたくさん、大学にも、就職先にもいると思うから……いいんだよ、わたしは。祭夜ちゃんのこと諦める努力だけすれば、一人で生きていけるもの」  夏霞は肩を晒し、情事の終わりを匂わせたまま、背を向けてぼそぼそ喋っている。瑠夏は耳元まで口が裂けるほどにやにやとしていた。 「祭夜ちゃん諦めなきゃならなくなったのだって、あなたといとこだから。祭夜ちゃんの家族、壊したくないから。だから全然違うところの人なら、わたし今度こそ諦めないし。祭夜ちゃんのコト、冷めなきゃならないのは難しいけれど……」  舞夜は目の前が真っ暗になっているかのような心地である。だが昼間の、南波(さざなみ)宅だ。ベッドの上に2人が乗っている。 「分かった……夏霞には触らない。だから俺の傍にいてくれ」  重げに彼女の目蓋が閉じ、躊躇いがちに首肯するのを認めた。 「早いうちにも君の家族に挨拶をしたい」  瑠夏の侮蔑に満ちた眼差しが何を云っているのか、舞夜には分かっていた。婚約はしていない。ただの交際である。自由恋愛の許されている時代で、切った貼ったの恋愛が蔓延っている現代に於いて、いちいち相手方の家族に改めて挨拶などしない。 「……分かった。じゃあ、そう言っておく。祭夜(カレシ)と別れたばっかりだから、どんなカオされるか分からないけれど……」  どうやら彼女は、祭夜との破局をすでに話してあるらしかった。 「カレシには、家族ぐるみの付き合いをしてほしいの。わたしの弟と仲良くしてね。人懐っこい子だし、あの子のお兄ちゃんになってくれる子じゃなきゃわたしも好きになれないから」  夏霞は振り返らない。瑠夏ばかりがこちらに視線を寄越すが嘲りである。 「分かった。夏霞も、俺の家族に紹介させてくれ」 「いとこの元カノです……って、紹介するんですか?冠婚葬祭が楽しみですね」  白皙の美少年が容喙(ようかい)する。 「わたしは、別に元カレのいとこです、って話してもいいけど、それは鯉月さんに任せるね」  彼女がやっと、わずかながら顧眄(こべん)する。オレンジ色に彩られた唇が吊り上がる。 「考えておく」 「でも祭夜ちゃんに迷惑かけたら別れるから」  脅すような素振りではなかった。取るに足らないことをわざわざ口にしてやったという様子である。 「あいつに迷惑は、かけないよ」  舞夜の双眸は伏せられ、苛烈な叱責を受けているかのように虚無であった。  雨堂(うどう)家に挨拶に行くと、夏霞を引き取った叔父という若い男が舞夜を出迎える。表面的な挨拶を交わすが、胡散臭そうな目付きや品定めしている様子は隠していない。夏霞はというと、裏庭で土いじりをしている弟を呼びに行ってしまった。舞夜は一人残されて訝しみを秘めた微笑に晒されるのである。 「前のカレシと随分違うから、驚いちゃって。別れて間もなかったから、まだ心の整理もできていないんだよ。夏霞のカレシは夏霞のカレシだったけれども、暑詩(しょうた)のお兄ちゃんで、ボクの弟みたいだったのは間違いないからね。だからつまり、家族を1人、遠くにやってしまった気分でいたわけだ。ぽっかり、穴の空くような気分でいたわけだよ。ボクも、暑詩も、夏霞はその倍以上も」  恋人の叔父は下駄箱の上の写真立てを倒してから舞夜を玄関に入れる。居間に促され、ダイニングテーブルについた途端、正面に座った恋人の叔父の纏う雰囲気が変わった。まるで就職面接である。否、10社ほど就職面接をしたが、このような威圧感を放つ面接官はいなかった。 「夏霞は愛情深い子だよ。どういう経緯で前のカレシと別れたかは知らないし、訊かないけれど、余程のことがあったと思うんだ。君は、夏霞に寂しい想いをさせないでおくれ。ボクは過保護だよ。過干渉なんだ。あの子たちが可愛くて仕方がない。1つのものを分け合うのが当然で、むしろ自分のその半分もくれようとしてしまう子たちなんだ。そんなだから夏霞は暑詩の兄に相応しい人に惹かれるんだろうね。暑詩もそうなんだろう。ボクだって、お嫁さん選びはあの2人との相性を優先するよ。夏霞のカレシになるからには、暑詩の兄に、ボクの弟に、それから夏霞の一番大切な人になってくれるね」  叔父は筋骨隆々な体格というわけではなかった。化粧をしているわけでもない。微笑を湛え、中性的な雰囲気でさえある。しかし圧がある。 「俺にも妹がいますから、気持ちは分かります」 「……そう。それなら話は早い」 「全力で彼女を愛します」 「当然」  薄い唇の端が吊り上がる。既視感に襲われた。瑠夏と同じ嘲りの笑みであるように思えた。  居間へ恋人とその弟がやってくる。弟のほうは子供の柴犬みたいな、まだほんの少年といった感じに思えたがそれなりに年齢はいっているらしかった。 「こ、こんにちわ……」  ぎこちない挨拶であった。引き攣った表情といい、後ろに退き気味の踵といい、この弟には歓迎されていない感じがした。 「こんにちは。初めまして。鯉月舞夜です。お姉さんの夏霞さんと交際していて……」 「堅いよ。もっと砕けて大丈夫だよ。ほぼほぼ家族になるんだから」  伝えにきたのは交際である。婚約でも構わなかったが、しかし、雨堂家にとってはほとんど同義になるらしかった。 「う、うん。オレ泥だらけだし、シャワー浴びてきます。すんません、ゆっくりしていってください」  舞夜の差し出した手に、弟は応じようとしたけれども、自身の落としきれていない手指の汚れや爪に入り込んだ土に気付いたらしい。慌てて腕を引っ込め、やはりぎこちなく頭を下げて居間を去る。  「せっかくだしお酒でも飲み交わすかい?」  叔父は息子同然の甥が出て行ったのを目で追っていた。 「車ですから」 「泊まっていけばよろしい」  恋人の叔父の声音は淡々としている。 「暑詩(しょう)ちゃんが緊張しているみたいだから」  夏霞が横から口添える。 「珍しいことにね」 「……すみません」 「どうして君が謝るの」 「急に、来てしまって……」  叔父の首が傾く。月下美人のような頭が重くなって傾いだみたいな姿勢がどこかわざとらしい。 「急じゃないさ。暑詩も知ってるはずだよ。休みの割りには早起きだったもの」 「珍しいよね、本当」  隣で恋人が言った。叔父の平筆の生えたみたいな睫毛の奥で、厳しい眼光が走った。 「ごめんね、舞夜くん。ボクもあの子があんな反応をするとは思わなくってねぇ。バーベキューとか流しそうめんとかスイカ割りとか、まだまだたくさん家族行事があるからね。夏霞やあの子のお友達も呼んで。少しずつ、打ち解けていこう。君の妹さんも呼んだらどうだい。ご両親でも構わないよ……うっふっふ。だって、付き合うのなら家族同然なんだもの。前のカレシなんか、ぼくたちは飼い猫にまで挨拶しに行ったんだ。今度は舞夜くんのお(うち)に挨拶しに行かないとね。夏霞と付き合うからには、その覚悟はもちろん、あるんだろう?」 「はい」  舞夜の即答に、恋人の叔父は満足そうである。 「でもまずは、2人きりでの挨拶だね」  しかし吟味するような目付きはまだ変わらないのである。手段を選ばずに恋人の想人から引き剥がせたはいいが、この叔父ばかりは何があっても姪を手放さないであろうし、この恋人もまた叔父と手を切るということはないのであろう。それをさせたが最後。恋人に視線のひとつ、言葉の一枚ももらえなくなるのが分かる。 「今夜はすき焼きにでもするかい。ボクは暑詩を連れて食べに行くからさ。そのほうが良いだろう。カップル水入らずでね」  結局、その日は雨堂家に遅くまで滞在した。恋人の弟はすまなそうにして舞夜の前を出入りし、出掛けるときもそうであった。 『行ってらっしゃいね。何食べるのかな?』  舞夜は居間に残っていた。恋人が玄関で、叔父と弟を見送っている。華やかな声は、憧れていたものだ。しかし己に降りかかることはない。傍で聞けるが、だが、こちらには向かない。 『しゃぶしゃぶだって』 『え~?しゃぶしゃぶ?いいねぇ。お腹いっぱい食べてきてね』  彼女の幸せがそこにある。まだすべて不幸になったわけではないのだ。徐々にあの場所に加わればよいのである。  玄関の閉まる音とともに静寂。恋人が居間に戻ってくる。 「ああいうときは一緒についていてくれないと、怪しまれると思う」 「弟さんに悪いと思って」  彼女は目も合わせなかった。 「食べる?すき焼き」 「……作るよ。俺が」 「牛肉嫌いなんじゃないの」  舞夜は恋人を見遣った。彼女は俯いている。 「どうして……」 「祭夜ちゃんから聞いた」」 「いつ……」 「前に。牛肉嫌いな人なんているのかなって話になって、いとこが牛肉嫌いだったよって。匂いも嫌いなんでしょう。似てないんだなって、印象に残ってるから」  彼女は冷蔵庫を見上げている。テーブルに並べられたすき焼きの具材に、確かに少し値の張る牛肉が置いてある。 「お肉は入れなければいいか。叔父さんが気にしたら困るもの。バーベキューとか張り切ってるでしょ、叔父さん。それとなく言っておくから」  恋人は牛肉3パックを冷蔵庫へ戻していった。叔父の算段では暑詩は早々に姉の新しい恋人と打ち解けて、すき焼き鍋を囲い、叔父は叔父で酒を酌み交わすつもりでいたのだろう。開いた冷蔵庫から酒缶も見えるのである。 「鯉月さん、お酒は飲めるの?」 「……少し」 「そう」 「飲めるよう、努力する」  咎めるような目に捉えられる。 「飲めないのは別に……祭夜ちゃんも、ジュースみたいなのしか飲めなかったし。でも、晩酌の相手はしてくれたから……4人でテレビ観てね、団欒だなって……鯉月さんも、早く溶け込んでね」  それは威圧であった。 「分かった」  恋人がすき焼きを作っていく。静かな食卓だった。4人分の想定だったため食材には余りが出てしまう。舞夜は少食であった。恋人もいくらか減りの遅い鍋に戸惑っている様子である。熱され続けて水分が飛び、味が濃くなっていった。夏霞もさすがに、元交際相手のいとこであり、現在の交際相手が少食で薄味好みとは聞いていない。 「ごめんね。口に合わなかったかな。残していいよ。わたしが食べるから」 「いいや。美味い」 「お湯足しちゃっていいのかな」  卵液でも誤魔化せない味の濃さになっている。 「いつもは、すき焼きっていったら、具材足らなくなるくらいだから……わたしも、どうしていいか……」  恋人は戸惑いながらも、湯を入れてまた火を点ける。 「みんなで食べるときは、叔父さん、いっぱい食べさせるのが好きだから……無理はしなくていいんだけれど、遠慮もしなくていいからね。遠慮されると暑詩ちゃんも萎縮しちゃうし……それとなく言っておくけれど。あの人たちを心配させたくないから、上手くやって」 「……すまない」  夏霞はしょんぼりと目を伏せる。気拙(きまず)げであった。舞夜とまた、そういう姿を前にして息苦しい心地がした。いかに前の恋人がこの家の人たちと相性が良かったのかを知らしめられる。それがまた苦しい。 「お婿さん同然に、なれるよね。叔父さんはそのつもりみたいだから。無理なら言って。別に祭夜ちゃんのところにはもう戻らないから」 「分かった」 「ご家族にも説明、できるの。わたしや暑詩ちゃんに何かあったとき、優先できる?わたしは鯉月さんのご家族を優先しないけれど」  そこに嫌味臭さがないのが却って本音に近しい感じがする。舞夜の脳裏には、いくつになっても幼い妹のことが過る。 「分かった」 「執着はやめて、自分の人生歩んだら。わたしの人生はぐちゃぐちゃにできたんだし。今後ずっと、わたしは祭夜ちゃんのコト、後悔しながら忘れられなくて思い出しちゃうことになるんだから。鯉月さんのことは、そんなことあったなってことすらも考えないかもしれないのに」 「それは無い。夏霞を放すつもりはないんだからな」 「いつまで言ってられるんだろう?」  彼女は偽悪的に笑う。そして冷蔵庫のほうへ回った。 「お酒飲む?」  手には酒缶が握られている。 「車で来た」 「泊まっていったら。叔父さんの晩酌の相手してあげて。ゲームはできる?暑詩くんと早く馴染んで」  彼女は恋人を一瞥もしない。これが肩に毛先が肩に乗る程度に長い髪を最後の日だった。  恋人と2人で会うことはない。デートと雨堂家の人々に称して向かう先は南波宅なのである。  恋人の叔父は泰然自若としているが、目が笑わずに穏やかではあるが、酒を入れても刺々しさは否めない。弟のほうは依然として堅く、対戦型ゲームの要領もすぐに把握したためある程度手加減をしても勝ってしまう。相手の遠慮と緊張が透けて見え、むしろ気拙くなってしまった。彼の自宅だというのに借りてきた猫みたいになっていたのが気の毒であった。  夏霞を迎えにいくと、彼女の髪は短くなっていた。染めていた髪が地毛に近く戻り、耳には大振りなピアスがぶら下がっている。以前よりも大人びた雰囲気になっている。髪色に伴って眉の色付けも変わっているが、変わらないオレンジ色のリップカラーがどこか浮いてみえる。だが些細なことである。舞夜は恋人に見惚れる。 「じゃあ、行ってらっしゃいね」  叔父が必ず玄関に出る。治安は良いようだが、変質者や凶悪犯はどこにでも現れる。大切な恋人が無防備に出てきてしまうよりも安心ではある。しかし、恋人の年上の家族と顔を合わせるのを厄介に思うのは世の常ではなかろうか。 「舞夜くん。 夏霞が髪を切ったんだよ。似合っているだろう?」 「もう!舞夜ちゃんに気付いてもらうつもりだったのに!」  叔父と姪が戯れる。嫋やかな感じさえする指が恋人の短くなった毛先を拾った。 「気付いてないかと思ったから」  姪の前の恋人は第一声にでも気付いたぞ、と舞夜は叔父の鋭い眼差しから読み取ってしまうのである。片手がわざとらしく 下駄箱の上の写真立てを倒す。雨堂家と異物が写っている。しかし溶け込んでいる。 「とても似合っています」  舞夜は恋人の耳に揺らめくピアスに触れる。恋人が反射的に避けようとする。それを見逃す叔父ではない。 「あっはっは。舞夜くん。恋人でも、触るときは一言何か言わなきゃぁ、びっくりしちゃうよね」  だが、叔父もどこか青褪めたような引き攣った顔で2人の境界を凝らして固まっている。口振りもどこか虚ろである。 「すみません。悪かった、夏霞」  恋人と玄関を出て、舞夜は改めて彼女の髪型を眺める。 「本当に、よく似合ってる」 「別に丸刈りでもよかったんだけれど、叔父さんたちに悪いから。毛先巻く必要、もうないし」  それは拒絶だ。舞夜は恋人から顔を逸らす。恋人もまた、彼を見てはいない。無言のまま彼女を車の後部座席に乗せる。助手席を嫌がるのだった。この運転手を信用していないと口では言っているが、それもあろうけれど本音はまた違うのだろう。  車内は無言である。舞夜は元来寡黙なタイプであるし、後ろの恋人もこの同乗者では話すこともなかろう。  ただの移動時間である。それから南波宅までまったく会話はなかった。時折バックミラーで確かめる恋人は窓の外を眺めていた。そういう姿を見ているだけで良かったのかもしれない。いやいや、こうしなければ、傍にいることもできない。 ◇  恋人が鯉月家へ挨拶にやって来た。彼女は化粧も変わった。ただ、髪色や血色、肌の色に合わない黄味の強いリップカラーは相変わらずである。 「プレゼントだ。受け取ってほしい」  舞夜は車内で、リップスティックを贈る。 「何、これ。どうしたの」  彼女は箱を手に取るが、大した興味を示さない。ゆえに、そこに刻まれたブランド名に意識を留めもしない。 「買った」 「そう。ありがとう」  箱はそのままハンドバッグへ滑っていく。 「口紅……なんだ。塗ってほしい」 「わたし今の色、気に入ってるから。あとでね。いつか」  舞夜の薄い目蓋が伏せられる。引き結ばれた唇が小さく波打った。 「すまない」  2人は車を降りた。舞夜も実家に帰ってくるのは、距離の割りに久々である。毎週といわず毎日でも来られるような距離だが用はない。家族仲は悪くないが、舞夜は一人が好きであったし、両親の意識を妹にのみ向けてやりたかった。  実家だというのに舞夜はインターホンを押す。鍵も出さない。他人行儀に畏まって、18年間の住居を前にしている。  母親に出迎えられ、恋人は値踏みに遭う。父親は玄関ホールに立っていた。妹の姿はない。舞夜はそこから探してしまった。 「まぁちゃん!こんなかわいいカノジョを連れてくるなんてねぇ!まぁちゃん!」  母親がこの恋人にどういう印象を抱いたか、見た目では分からなかった。ただ息子の連れてきた恋人に興奮している。それが真に舞い上がっているのか、パフォーマンスなのか、息子も分かりかねる。異性関係について何度か言及されたことはあるが、たった一人とのものを除いて恋愛というものに彼は興味がなかった。母親がそうなるのは、競争相手というほどはっきりした意識でなくとも、同性にして同い年の、焦りを覚える相手がいるからなのであろう。 「いらっしゃい。よく来てくれたね」  父親のほうは反対に穏やかで落ち着いていた。息子は父似でも母似でもない。それがさらに両親の気遣いを買って、彼を実家から遠避ける。 「海夜(みや)は?」 「あの子ったらそそっかしくてねぇ。出掛けたみたい」  居間へ通されても、恋人は愛想のひとつもみせなかった。ダイニングテーブルに座ったきりで、自ら口を開くこともない。母親のほうがいくらか引き攣った様子であった。父親は穏やかに笑っているのみで岩のようである。 「夏霞さん、そんな緊張しないで。まぁちゃんも、もうちょっとこう、気を利かせてあげないと。ねぇ?」 「でも、舞夜は随分と柔らかくなったじゃないか」  恋人は人形みたいになっている。殻に閉じこもっているのだ。緊張しているわけではない。だが舞夜は両親を蔑ろにするこの恋人を咎められる立場にない。 「今度お夕飯も召し上がっていって」 「それにしても、交際の段階でわざわざご挨拶に来てくれるなんてな。舞夜。お前の学生生活はずっとシケていたんだ。こんな男盛(おとこざか)りはなかなかないだろうから、このいいご縁を大事にしなきゃァね」 「そう、そう!さっちゃんもね、この前かわいいカノジョ連れてたんだから。顔はよく見えなかったケド!」  父親の言葉を受け、母親は良い話題をみつけたとばかりである。 「さっちゃんは、祭夜くんといってね、舞夜(コイツ)の同い年のいとこにあたるんだよ」  父親は軽く頷きながら補足する。舞夜は恋人を横目で捉える。彼女はただただ変わらず俯いている。しかし落ちた肩に漂う哀愁を彼は嗅ぎ取ってしまった。 「どんな?」  普段からいとこに対し無感動で無関心な舞夜がこの話題に乗ったことが、母親としては嬉しかったようだ。 「茶髪でね、髪が巻いてあった。多分かわいいわよ、雰囲気がね。でも夏霞さんには負けるから!安心して。だってショートヘアでこんなにかわいいんだもの。ねぇ?」 「ああ、間違いない。素敵なお嬢さんを捕まえたよ。あっはっは。で、夏霞さん。舞夜のどこに惚れたんだ?息子をこう言うのはあれだが、うちの息子は縹緻(きりょう)がいい。要領も悪くない。だがね、絶望的に愛想がない。言葉も少ないだろう」  父親は穏やかに湯呑を撫でている。
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