1 / 1

第1話

 復讐は何も生まない!復讐しても、何も(もど)ってこないんだ!  何も生まずともよい。何も還らず結構。貴様等下等生物には解せぬ矜持の問題よ。  松代は手の大きさよりも少しあるフィギュアを抱いた。好きな映画の悪役を(かたど)られている。 「ほんと、おまえはそれが好きだな」  松代がフィギュアを胸に抱いたが、彼女は横から肩を抱き寄せられた。微苦笑が降る。テレビを前に、ソファーに座る松代の隣には、顔面の半分をケロイドに覆われた男がいた。おそらくその痕は、生まれついてのものではなかった。火傷である。著しく爛れたまま修復した肌に巻き込まれた目は、猫を思わせるように白い星を秘めている。だが髪は損失せず、黒く艶やかに生えていた。一見して同情を誘う外貌であることは否めなかったが、彼は爽やかに笑っている。火傷を免れた部位から、端正な顔立ちであることが分かるが、それがさらに憐憫を感じさせるか、はたまた、彼の浮かべる表情の華やかさが悲哀を撥ね退けてしまうかは分からない。 「うっふっふ。もしかして、妬いてる?」  松代はフィギュアを男に見せた。 「ちょっとな。取ってこなきゃよかった」  しかし冗談であることは、その面構えをみればすぐに分かる。 「でも嬉しかった。宝物だもの」  彼女はまたフィギュアを抱いた。男はさらに彼女を抱き寄せ、その額に口付ける。 「蓼科(たでしな)くん……テレビ、消す?」  松代はテーブルに手を伸ばす。彼は阻まない。 「いいのか?観てるんじゃ……?」 「だって何度も観てるから」  それは地上波放送で、記録媒体によるものではない。彼女はリモコンの電源ボタンを押した。それから隣の男をみる。 「松代……怖く、ない?」  意識的か、無意識なのか、それがこの男の口癖だ。蓼科(たでしな)梨季(りき)は中学時代からの付き合いである。10年以上、この顔を知っている。 「怖くないよ」  松代の唇はそう答えた瞬間に塞がれてしまった。 「ぁ……ふ、」  彼は角度を変えながら何度か啄んで、松代の唇を吸う。当てるだけのものが、徐々に深くなる。フィギュアが彼女の膝に転がる。 「ん……っ、ぁ」  激しく舌を絡め合わせていた途中で、蓼科梨季は口を放した。2人の間に紡がれる蜜糸に構うこともなかった。 「ベッド、行こうか。こいつは、お留守番な」  彼はフィギュアをテーブルに置く。 ◇  夜間に雨が降ったのは予報どおりかも知れなかった。しかし短時間で多量の雨はすでに止んでいた。濡れた漆黒のアスファルトが外灯に真っ白く炙られる。  松代は傘を持っていなかった。衝動的に外に出た彼女は、自宅の鍵しか持っていない。高機能携帯電話も財布も持っていない。蹣跚(まんさん)とした足取りは、どこか正気でない。頻りに鼻を啜り、嗚咽している。彼女は泣いていた。大きく腕を目元に当て、強く拭った目元が赤い。  彼女は歩道橋を上がる。空中で道路を横断し、階段を降りる。足の裏がアスファルトを踏むたび、ぴっちぴっちと微細な水が跳ねた。ところが、急にその足が止まった。まだ階段は少し残っている。だが彼女は、そこに落ちているものに気付いてしまった。人である。頭を階段の下に向けているところをみると、階段上部から下にむかって転倒したらしいことがうかがえた。夜に紛れ、外灯の光からもはずれてよく見えないが、頭の近くのアスファルトは、ただ雨で濡れているだけではないような色の濃さを帯びている感じがあった。  間が悪い。それは松代が今、携帯電話を持っていないことではなかった。彼女の手にあるのは金槌である。  どこで誰が見ているか分からないものである。ただの誤解ではないかも知れない。悪意を持って事実を捻じ曲げられるかも知れない。  道路には何台も車が通っていく。往来が治まっては、また何台か通過していく。  松代は恐ろしくなった。すぐ脇に倒れたまま動かない人間の肩を叩いた。叩けども叩けども意識を取り戻すことはない。肩を大きく揺らし、頭が転がる。鼻先が松代のほうを向いた。それはまだ高校生くらいの少年である。色白らしい。夜の暗さに抗い、発光しているようだった。いいや、雨水に体温を奪われ、青褪めているのかも知れない。瑞々しい張りがあるのか、はたまた水分を含み浮腫んでいるのか分からない頬を、松代は手の甲でぺちと叩く。  だが動かない。 「起きてよ……起きてよ………」  彼女の囁きは低く、どこか虚ろであった。ぼそぼそと乾いた唇がただ動いて、喉だけで喋っているみたいな不気味さがあった。 「起きなさいよ……じゃなきゃわたしが!怒られちゃう!」  道路を走る車が急ブレーキでもかけたのかと思われた。耳を(つんざ)くほどの金切り声が上がったのだ。松代は健全な精神の持主ではないのかも知れない。ヒステリックに叫び、頭部に怪我を負っているらしき少年を揺する。  気を失っている怪我人と、ずぶ濡れで絶叫している女。この時間にこの道を通った者には同情を禁じ得ない。逃げたとしても正常な危機管理能力といえよう。 「清里(きよさと)さん!」  清里松代。それが彼女の氏名である。誰かが彼女を呼んだ。哀れな通行人は偶然か否か、知り合いであった。男の声であった。車道の上に架かる橋から駆けてくる。怪我人に容赦のない揺さぶりを加える松代を後ろから掴んだ。 「ひっ―」  彼女の虚ろな目が見開かれる。その眼球の裏には稲光が走る。恐ろしい経験が現在の時間軸として甦った。 「放してよ!放しなさいよ!」  はたからみれば、それは痴話喧嘩であった。足元に逆さまに倒れている者を置いて、男女が(いさか)っている。 「放して!放して!」  松代は暴れ、隙を突いて駆けつけてきた男を振り払うと自宅に向けて走り出してしまった。 ――悪夢から目が覚めた。しかし本当に悪夢であったのだろうか。悪夢であろう。でなければ何故、外に出歩く用があるというのだ。  ベッドを見ると、蓼科梨季が寝息をたてている。同棲しているつもりはないが、ほぼ同棲に近かった。身体を重ね、互いに好意を口にはするけれど、果たして付き合っているのか否か、定かでない。確認したことはない。それらしき会話は確かにするが、やはり付き合う、付き合わないの話は明らかにしていなかった。松代は彼の顔面に火傷が刻み込まれた後に交際を申込みはしたけれど、彼は答えなかった。苦りきって、微笑むだけだったように思う。  松代は指の背でケロイドに触れる。赤黒く変色した皮膚の凹凸を感じる。長い睫毛が痒そうである。  恋人とはいえず、かといって友人というには肌合いを知りすぎてしまった。となればセックスフレンドだろう。この優しいセックスフレンドが傍にいる。それは彼女にとって幸せであった。安らぎであるはずだった。  痛々しく荒れ果てた目蓋が開く。 「松代……?」  梨季は目覚めてしまった。 「あ……ごめんなさい」 「ううん。いいよ。おはよう。ずっと起きてたのか?」  彼は喋るとき、その口元に柔和な笑みを忘れない。 「寝たよ。たくさん……」  大きな手が伸びて彼女の髪を撫でた。ふわりと部屋干しに失敗した匂いがする。昨晩は洗髪後、確かにドライヤーをしたはずだ。しかしシャンプーの残り香に紛れて使用済みのタオルみたいな臭さが否めなかった。 「松代……?どうした……?」  彼女は首を振る。そして髪に触れる手を剥がす。だが蓼科梨季の眉が下がる前に、寝起きの熱い手を頬に添え直した。 「ちょっとだけ……怖い夢みちゃって。蓼科くんと一緒に寝たのに、おかしいね」  笑顔を繕えば、梨季は悲哀を隠さない。 「寝苦しかったんじゃないか?俯せで寝た?」 「そうかも。ごめんね」 「松代」  好きな男の腕に抱き寄せられ、二度寝に入るところだった。ふわりとまた、部屋干しの匂いがする。 「あ……蓼科くん。お風呂に……」 「寝汗で冷えたか?」 「うん。ちょっと……」  松代は逃げた。シャワーを浴びながら悪夢を振り返る。否、本当に悪夢、ひいては夢であったのだろうか。掌にわずかな痛みがあるのだ。肉刺(まめ)にまではなっていないが、擦れた痕がある。  夢ではないかも知れない。写真に釘を打ち込んだのは。  頭がおかしくなったのだ。自分は健康な精神ではないらしい。このことは彼女を打ちのめす。正常でないのなら、優しく爽やかな蓼科梨季の傍にいてはいけない。しかし彼のいない生活が今更送れるだろうか。電子機器の発達した現代。高校は同じであったが、大学が違えど、その後の進路も違えど、日常には彼がいた。しかし蓼科梨季という男は、清らかで、爽やかで、楚々として、優しい人物である。頭のおかしい女に振り回されていていい人間ではない。  そうだ。そもそも梨季のあの火傷は……  泣きそうになるのを堪える。ただでさえ目元がひりついていたのだ。  シャワーを浴び終え、浴室を出ればすぐに梨季の姿をみつける。またもや泣きたくなった。 「ちゃんと乾かせよ。今、コーヒー淹れるから」  ほぼ同棲だ。だがやはり確信を得られるような問いを発せない。 「うん……」  松代はタオルを胴と頭に巻いただけの身形である。セックスフレンドなのだ。多少の照れはあるが、裸以上のところもみせている。  涙を引っ込めるための沈黙を置いてから口を開く。 「ごめんね。せっかく来てくれたのに」  梨季は相変わらず笑っている。 「いいんだよ。おれが好きでやってるんだから」  10年以上前から変わらない口癖だ。顔ほどは痕が酷くはないものの、肌の溶けたような質感の手がてきぱきとコーヒーを淹れていく。彼は彼の自宅としてアパートを借りているはずだが、すでにここが自宅のようなものであった。この家にあるコーヒーミルも、彼の持ち込んだ物だった。  松代は低い音をたててコーヒー豆を挽いているセックスフレンドを見つめていた。眺めていた。見惚れていた。 「ほぉら、松代。風邪ひくぞ。早く服を着ろ」  ほんのりと顔を赤く染め、目が泳ぎ、微笑の意味合いが異なってくる。 「おれとしては眼福だけどな」  付け加えられたそれを聞くと、松代はすぐさま別室に身を隠してしまった。  着替えた彼女の姿を見て、梨季は少し驚いた顔をした。 「どこか行くのか?」  松代の服が部屋着でないことに即座に気が付いたのであろう。 「ううん。ちょっとコンビニに……何か欲しいものある?コーヒー飲んでる間に考えおいて」  梨季はほんの一瞬、強張っているように思えた。 「特に無いし……食べ物とかならおれが行こうか?」 「そう。大丈夫よ。軽いものだし」  彼女の座るソファー前のテーブルへコーヒーカップが2つ運ばれてくる。そして隣に梨季が腰を下ろした。嗅ぎ慣れたボディソープが淡く薫る。それが松代をまたさらに泣きたくさせる。自身の異常性を思い出してしまうのだ。 「何かあったら……言えよ」  カップに手をつけようとしたとき、徐ろに隣から伸びた腕が肩へと回った。逞しい身体が寄り添う。好きな匂いに包まれた。松代はびっくりしてしまった。 「う、うん。な、何?どうしたの?」 「え?いや、ほら……期間限定のパフェ~とかあったら、気になるだろ?」 「あ、ああ、そうだね!蓼科くんが好きそうなのあったら、買ってくるよ」  取り繕えなかった。彼女は目を泳がせ俯いてしまう。 「松代」  2つ並ぶカップを前にして、梨季はすぐにはそれを飲まず、顔を伏せた松代の顎を掬い上げた。 「ん……」  梨季の唇が降りてくる。額に接吻してから、顔を上げた。松代は閉じた目を開けた。双眸と双眸が()ち合う。火傷によって視力の半分以上を失った瞳の中にオパールがみえた。  もう一度、唇が降りてくる。今度は頬に当たる。また、顔が上がり、視線がぶつかった。  彼の唇が音もなく動く。 「蓼科くん……」  松代のほうも消え入りそうな嗄声(させい)が出る。梨季の眉根が寄る。様子を窺っていたらしい彼は、噛み付く勢いで彼女の唇を塞いだ。触れては引いて、弾力を確かめる。優しく穏やかな平生(へいぜい)の態度とは違う。激しい欲求に呑まれ、荒々しい手付きと、力加減であった。  蓼科梨季が相手ならば、松代も何も怖いことはない。 「ぁ………ふっ」  舌が口腔へ雪崩れ込む。腕と舌に挟まれ、彼女は身動ぐことも赦されない。だがその力強さに松代はたちまち陶酔してしまう。弛緩した肉体を野獣と化した優しい人に委ねてしまう。 「松代……」  口が離れ、透明な糸が唇から引かれた。 「コーヒー……冷めちゃうよ………?」 「ごめんな。甘くて」  自身の唇を拭う梨季の(おやゆび)を彼女は凝視していた。セクシーな手をしている。節くれだっていながらもしっかりとした、生活の中でわずかに変形した関節や、胼胝。それから火傷による正常な組織の破壊された痕。  松代は彼の手を取った。潤んだ目は濃密な口付けのせいか。頬を擦り寄せ、体温を確かめる。 「松代……それは、(まず)いよ」 「え……?」 「したくなっちゃうだろ」  彼は茶化すが、咄嗟に見てしまった男の股間は布を押し上げていた。その下にある正体を生身で見たことがあるけれども、しかし場面というものがある。 「も、もう!知らない」 「あっはっは。放っておけば落ち着くよ」  コーヒーを飲むと、松代はコンビニエンスストアに出掛けると言って、あの悪夢の場所へ向かっていった。梨季はもう一人の家主みたいなものだった。彼に対して警戒心が湧かない。いいや、もし間違いが起こったとしても、恨みなどない。そうされても仕方がない。蓼科梨季の秀美な顔を覆うケロイドの原因は、そもそも―  悪夢というには現実味のある、明快な記憶を辿り、着いたのは神社だった。数えるほどの広く大きな石段を越えて境内がある。古びた(やしろ)に、鬱蒼と茂る雑木林。何かに誘われているみたいに彼女の足は社の裏へと回っていく。鳥居の潜り方の作法も弁えてはいなかった。信心深いほうでないつもりだった。  社の裏にはほんの緩やかな山とも丘ともいえない盛り土があり、その上に祠と祀っているものの看板が立っている。しかし彼女はさらにその奥にある、空き地めいた庭へ入っていった。そこに釘が刺してある。よくある話と照らし合わせれば、そのには藁人形が無ければならなかった。しかし、皮の剥がされた木に銀色の釘が刺さっているのみである。  驚きはない。松代はこの光景を知っている。しかしこの釘は、元から打ってあったのだ。辺りを見渡す。写真が落ちていた。それは円形のものを何度も押し当てたらしい跡があり、コピー用紙と比べると硬質な紙が歪んでいる。恐ろしいのは、その写真にそれ専用のインクではなくて油性マーカーのインクが付着していることである。何人か映る被写体の顔がすべて塗り潰されている。みな、同じ服を着ている。制服だ。高校時代のものと違う。中学時代だ。  松代は息苦しさを覚え、木に手をついた。胃が爆ぜるような熱を持つ。吃逆に似た息を漏らしたかと思うと、彼女は吐いた。何故ここに、自分の中学時代の写真があるのか…… 「お姉ちゃん」  嘔吐の苦しさに耐えていると、後ろから声がかかる。他に人気(ひとけ)はない。  反射的に振り向いた。視界の横の、境内を覆うように咲いた椿の花のひとつがぼとりと落ちた。  制服姿の美しい少年が立っている。少女かもしれなかった。だがスラックスである。洒落たブラザーに垢抜けた柄のスラックス。覚えはない。いいや、ある。駅で屯するこの制服を知っている。幼稚舎から大学まで一貫の名門高校だ。スラックスであるから少年か。だがその嫋やかで可憐な姿は髪の短い女生徒の可能性も否めない。餅を思わせる白くなめらかな頬もそう思わせる。かといって肥えているわけではなく、むしろ華奢だ。 「お姉ちゃん」  またぽとり、と椿の花が落ちる。  松代はこの少年か或いは少女にに覚えがない……はずだった。だが颯々(さつさつ)と靡く、綿毛みたいな髪を巻き込む包帯が、彼女の情緒を叩きのめす。  松代は後方を確認する。他には誰もいない。 「どうして昨日、助けてくれなかったの?」  高校生だとは、制服で分かった。あの名門校の中等部の制服ではない。だがこの少年だか少女だかは中学生とも見紛う幼さがあった。 「お姉ちゃんが助けてくれるのを待っていたのに」  ここは神社であった。何か超常的な現象に遭っている心地だ。美少年か、もしくは美少女は莞爾(かんじ)としているが、松代には恐ろしいものにみえて仕方がない。 「お姉ちゃん。ううん。ママ」  彼か彼女か分からない人物が呼び方を改めた途端、松代は凍えてしまった。 「ママ、いつも夜なのに、今日は朝からなんだ」 「あ、あなた……だ、誰……?」 「僕は僕。ママ!」  不気味な高校生は一気に距離を詰め、松代に抱きついた。彼女は後退り、背中が釘の生えた木へとぶつかる。 「ママ!ママ!」  妖怪みたいな美貌であったが、中身も妖怪らしい。高校生は松代の服を捲り上げる。  松代は動けなかった。視界が真っ白くなる。中学時代にもこういうことがあった。そのときは、両腕を縛られ、暗い部屋で、下着を奪われ…… 「いや………!いや!いやっ!やめて!」  半狂乱になって、彼女は纏わりつく高校生に抗った。だが相手はきゃっきゃと笑い、露わになったシャーベットグリーンのブラジャーを毟り取ろうとしている。 「ママ、ママ、お腹減ったよう」  松代の目蓋の裏に火花が散る。気の狂っているらしい名門校の生徒は、彼女を齧ったり引っ掻いたりしたわけではなかった。その紙粘土素材みたいな手はブラジャーに夢中であった。足を踏んだりもしていない。松代は爪先立ちをして、眦が裂けるほど目を瞠き、どこか遠くを一点、凝らしていた。それからわなわな震え、高校生を力いっぱい殴り付ける。相手は白い子ウサギみたいな風貌だが、力量などは知れたものでない。大変危険な行為であったが、今の松代にそのような分別はつかないようだ。相手は無抵抗で、境内の土へと倒れ込む。  大福にしては小さいが、しかし餅のように白く柔らかく、すべすべとした頬を打たれても、この高校生は笑っている。それはむしろ、喜んでいるかのように思えた。白い餅は桜色を帯びていく。 「ママ!やっぱりママだ!ママ!ママ!」  唇が赤く染まっている。その奥に見える口腔がブラックチェリーのような色を秘めている。 「ママ!ママ!ママ……!」  高校生はやはり気が違っていたのだ。その妖しい美貌といい、この神社に封じられた怪異のものではあるまいか。しかし素封家(そほうか)の通う高学力の学校所属を示す制服が俗っぽい。  殴られながら、瀟洒なスラックスを松代の身体に巻き付ける。さながら恋人と情交中の女のようであった。 「ママ!おちんちん勃ってきた!ママ!ママ!」  鼻血を流し、口の端を赤くした高校生は松代の拳を止めた。そして寝返りをうつ要領で彼女を巻き込み転がった。 「ママ……おちんちん勃ったよ!ママの胎内(なか)に還らせてぇ……!」  ジャンガリアンハムスターみたいな高校生は、松代の服を脱がせ始める。彼女の目蓋の裏に、またもや稲妻が駆けていった。 「いや……!いやっ!」  彼女の瞳に正気の色が戻る。拒否の言葉は相手に対するものではなく、独り言だった。 「ママ……ママのナカに(はい)りたいよぉ」  シマエナガみたいな高校生は舌足らずに喋る。可憐な仕草は、この状況でさえなければ、あらゆる輩の庇護欲を、或いは庇護欲を越えて加虐心まだをも煽りそうである。  松代は腕を伸ばし、手に触れたものを掴んだ。それがどれくらいの大きさで、どのような形状なのかは把握しきれなかった。だが、彼女はそれを幼いアザラシみたいな気の違っている高校生へ振り下ろした。すでに包帯の巻いてあった頭を殴る感触があった。 「ああ!」  悲鳴を上げたのは加害者の松代である。大きく揺れた華奢な身体をすり抜け、一目散に逃げ出した。  人を殺してしまったかも知れない。  神社を何度か顧眄(こべん)する。しかしあのモモンガみたいな高校生は姿を現さない。撲殺してしまったのだ。  松代は恐ろしくなった。コンビニエンスストアに行くという話はどこへやら、本当にそこへ寄るつもりはあったけれど、そんなものはない方向へ走り出し、激しい混乱は冷める間もなく、連絡橋から身を投げてしまった。  ろくでもない人生であった。中学時代にいじめに遭い、強姦されたのである。無関係でいられたはずの蓼科梨季も巻き込んでしまった。彼は自由になるべきである。火傷で外貌の一部と視力の半分以上を失い、それは矮小化できないことではあるけれど、彼にはまだ魅力が朽ちずに残っているのだから、気の違った女と共に在るべきでない。殺人犯と共に在るべきでない。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!

この小説を読んだ人におすすめの作品

王女のメイド・フェリスは、偽の王女として過ごさなければならなくなった。
1
1
1
13
3
完結済/80話/67,931文字/51
2017年11月19日
――アレハンドロ卿は、女王の忠実な下僕。
1
1
2
1
完結済/1話/6,940文字/32
2017年9月20日
ドS皇子×不憫人魚の猟奇系ラブコメ。
完結済/2話/9,995文字/39
2017年10月24日
変態ドM社長は、理想の女神様を見つけました。
完結済/1話/5,441文字/0
2017年10月12日
私の初めての彼氏は吸血鬼だった。
連載中/10話/4,801文字/10
2018年11月27日
美しい男子小学生を家に送った数年後、見知らぬ男子高校生に執着されてカレシのいとこにも迫られる話。
連載中/4話/32,872文字
2021年7月9日