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第2話
泣く泣くタクシーを使っての帰宅だった。玄関扉を開けて部長を放り込む。
「ただいま、泉希 ちゃん」
玄関ホールにはすでに泉希が立っていた。姉が重い荷物を持ち帰ってきたのを無感動に見下ろしている。
「ごめんね。仕事帰りに飲んできたんだけど、部長が酔っちゃって」
泉希は聞いているのかいないのか分からなかったが、リビングからコップ1杯の水を持ってきた。
「ありがと。ベッドにでも寝かせておくから。知らない人いるの、気になる?それならホテルにでも……」
「いいえ、別に」
弟は部屋へ返る。氷野子 は彼の持ってきたコップを飲ませようと部長を揺さぶる。
「部長……、部長……起きてください」
部長は寝てはいなかったが、酩酊していて正気ではなかった。
「水、飲みましょう」
コップを近付けると部長は顔を背ける。
「飲ませて……くれ………」
「今ストローを持ってきます。歩けますか。ソファーまで行ってくれるとありがたいのですけれども……」
しかし彼は首を振る。結局すべて氷野子がやらなくてはならなくなった。ソファーに部長が寝ているのは異様だった。それを恨みがましく眺めながら家計簿をまとめた。バーでの会計とタクシーの代金は痛手である。これからは昼飯は弁当を作り、自身の夕飯は副菜を1品減らす。弟を経済的な都合に巻き込みたくない。彼女は頭を掻いたが仕方がない。部長の誘いには二度と応じないのが賢明だろう。
気分転換に彼女は服を脱いで下着姿のままベッドに寝転んだ。臍の下が疼く。その肉体は居間に他人がいるにもかかわらず火照ってしまった。
「ああ………」
腹を摩る。腿を摩る。身体を自分で撫で回す。なめらかな肌を宥めると、甘やかな萌動を身体のあちこちに覚える。
そう遠くはない記憶の中の他者の掌を自分の手に馳せた。彼に触られたい。
柔らかな乳房を揉んだ。優しかった彼は乱暴に扱うことはなかった。しかし快感に取り憑かれ、絶頂まで走り抜けるときの荒々しさは何度思い出しても彼女の身体を痺れさせる。あの者のふっくらした手が腰に減り込み、突き入れられたときの悦び……彼のものになった、彼に所有された、彼に支配されたという喜びを掘り起こす。飽きもせず色褪せもしない肴だった。
ブラジャーを外し、彼女は硬く勃ち上がる先端を摘んだ。
「んん……っ」
脳髄に染み渡っていく甘やかな感覚に身体が跳ねる。膝と膝を擦り合わせ、下唇を食んだ。あの者が面白がって捏ね回したために、そこはすでに媚部となっていた。もう引き返せない扉だった。肉錠を外さなければ、思考には糖蜜を注いだかのような靄がかかってしまう。
彼は面白がって捏ね回し、撚り合わせるだけなのに対して、氷野子は官能を刺激され、それにまた興奮して、無邪気なあの者にいやらしく蹂躙されたくなってしまうのが常だった。
「あ………んっ」
氷野子は彼の手付きを掘り起こして再現した。すでに何度も掘っているため、また新たな形に変わりつつある。芯を持った胸の小果実を扱く。
「んん……すき、すき………」
目蓋を閉じればすぐ傍にいる元交際相手に屈服した気分になった。彼は加虐的な嗜好があるわけではない。飄々として穏やかで、特別相手を責めたり罵倒したり挑発するような言動をしたことはなかった。むしろ被虐趣味があるような節さえあった。そういう人物であるから却って氷野子は彼に対して身も心も空け広げ、またそういう彼の人物像に屈服するのが彼女の嗜好であった。可愛い交際相手が欲情し、獣の如く襲いかかって本能のままに女体を貪る。氷野子は元交際相手との数少なかった情事を二次的に創作するのだった。
自らを慰めているというより、彼女の場合は単身を愉しみ、また己を励ましているのだった。
「あ……あ………」
甘い声を漏らす。隣の部屋には弟がいるかも知れなかった。彼女は下唇を吸って我慢する。それすらもまた新たなシチュエーションを創造する。記憶の中のあの人の手は石鹸の匂いがして、その雰囲気に似合わず冷たく、やはり印象と違ってさらりとしていた。
どちらかといえば被虐的だったその人の加虐心を燃やしたときの一面を想いながら虐められたくなる部分を揉み潰す。
「きもち……ぃ………ん……」
彼の影が舐めたところ触れたところ全てが熱い。氷野子はシーツの中を漂い、時折踵で皺波を蹴った。臍の奥がじくじくと濡れて疼く。
可愛らしく守りたくなるようなポメラニアンだのマルチーズだのが飢えたオオカミに変貌する瞬間を、実体験をもとに脚色を添えて反芻する。
腹を撫でて、まだ核心分には触れない。官能の芽はじっくり育てていくのが好きだった。
しかし氷野子の部屋に入ってくる者があった。蹣跚 とした足取りは正気のように思えない。
「青沼……」
部長である。若く美しいで有名な萌木 部長が左右交互に足を出すのが精一杯という様子で氷野子のもとにやってきた。彼女はびっくりして飛び起きる。下着姿でブラジャーは外れている。
「部長……」
酒に酔った目が胸を隠す氷野子を捉えて凶暴になる。
「青沼……」
彼はベッドに縋りつく。川で溺れたところを引き揚げられたといった有様である。酒臭さは鼻を摘みたくなってしまう。
「あ、あ……部長……」
ブラジャーを直す暇もなかった。氷野子は片腕を胸に、片腕を部長へと差し伸べる。
麗かな酔っ払いは図々しくも彼女の肘のほうまで掴んで、引っ張り揚げられるどころか寧 ろ自ら這い上がり、救援者を押し倒してしまった。
「青沼……捕まえた」
表情をセメントで固めていると噂の部長が蕾が開くみたいに微笑んだ。どこかで見たような気もするが、しかし記憶を辿っている場合ではなかった。防衛本能が氷野子に自身を抱かせ、その美しさで人を誘 き寄せては近付いた瞬間に丸呑みしてしまいそうな沼ノ怪 あるいは池ノ怪に背を向けた。この汀 の怪物に牙や爪があるのかは定かでないが、彼女は弱点を守った。つまり胸や腹を考えなしに、反射的に、咄嗟に、無意識に庇ったのである。すると、致命傷の可能性をいくらかでも下げるために無防備に晒されるのは背中である。氷野子の背中。そこには泉希のケロイドよりはまだいくらか軽いけれども大差のない、皮膚の変色化と変質化が認められた。
一瞬、部長の酩酊した目がかぎろう。しかし次の瞬間には、彼は部下の柔肌に顔を埋め、損傷から回復しきれなかった組織に舌をつけた。
「あ……っ、ぶちょ………困りま………」
そこは幻影すらも舐めない。否、幻影には舐めさせなかった。実物だけが舐めた場所である。フロランタンみたいだと言っていた。聞く者によっては無神経で無遠慮であったかもしれない。だが氷野子は傷付くこともなく、そのまま受け取った。
元の皮膚にならなかった箇所は薄い組織を作って、それゆえに敏感だった。
「あ……あ、」
己の手によって感度を高めてしまった身体は、部長の舌のみで圧力を加えられたように弓なりに反った。生温い手が彼女の肘の辺りを掴んで押さえる。
「青沼………俺は、」
空いた手がさらに背中を指でなぞり、ショーツを捲ろうとした。
「萌木部長……!」
尻の丸みが晒されそうなところにきて、部屋の扉が開いた。牡同士というものは相容れないものなのだろうか。そしてその性 であろうか。酔っていても機敏に部長は異変と気配を察知した。そしてまた身体障害を負ってしまった弟も自覚的な限界を越えたのだろう。氷野子は鎌鼬 を見たことはないけれども、しかしその揉み合いは鎌鼬に似ていた。彼女は身を竦め、時代劇やアニメに出てくる隠密みたいな立ち回りの弟を、驚きに見開いた眼で追うことしかできない。
部長も泥酔同然だったというのにすばやい動きで襲いかかってきたものを受け止め、ベッドの上を二転三転するのである。
だが体格に差があった。筋肉量にも差があった。そして何より、"無自覚的な限界"などはそう長いこと発揮できるものではないのだ。この弟の片腕は自由が利かない。
虎とうさぎの抗争は決着した。泉希の首の上には前腕が据えられ、胸部も押さえつけられて、さながら磔である。
「やめて!」
氷野子は弟の有様に肝を潰し、組み伏せた酔っ払いの肩を払い退ける。それは容易に運んだ。部長の酒気で昏くなった双眸は剣呑で、我に帰った。彼の手がまたもや半裸に伸びる。ベッドに磔にされていた弟はそれを赦さない。
萌木部長の美貌に切傷が一筋入った。床に血が飛んだ。そして靴下を好まない麗らかな色白の足が姉の上司の首を回し蹴る。部長は床に叩きつけられ、そのまま伸びた。
氷野子は未だに現状を理解しきれていなかったが、異常事態に視界は必要以上に明るく感じられ、妙な汗で全身ふやけそうであった。だが、なんとか、泉希の手には鉛筆が握られていることを見つけ出す。彼女は弟からそれを毟り取った。
「泉希ちゃん、お部屋に戻って」
両親を失って初めて、彼女は叱責するような厳しい声を出した。
「ですが、」
「いいから。お願い。大丈夫。お姉ちゃんに任せて」
この姉は床に倒れている上司から目を離さなかった。泉希は相変わらず無機質な目をして、部屋を後にする。鉛筆ならば他に持っているはずだ。
「部長……部長?」
おそるおそる揺さぶった。部長は生きている。心臓が止まるかと思った。弟が殺人犯になったのではないかと怯え、今度は自身の被害について怯えなければならなかった。いいや、弟を殺人犯にはさせない。これ以上、あの哀れな少年から何を奪えるのか。氷野子はひとまずの安堵を覚え、今度は身の危険に切り替わる。しかし、弟を犯罪者にできない。何があっても受け入れねばならないのだろう。
「青沼……?」
彼はほぼ無意識に切傷を拭った。そして会社では目にしたことのないほど緩んだ顔をする。そして氷野子をベッドまで押し倒すと、彼女を抱き枕に眠ってしまった。
まったく、氷野子にとって不運としか言いようのない、心中を起こされた日とその翌日に次ぐ、3番目くらいに最悪な日であった。
夜が明けて、完全に遮光されるんけではないカーテンが青白い光が入っている頃、氷野子は身体を拘束する力から解き放たれたがために起こる肩凝りや関節の軋みによって目が覚めた。病院で目を覚ましたときの哀しみを思い出す。そういう空気であった。
「青沼……すまなかった」
氷野子は振り返った。蹲 り、額を床に擦り付ける部長の姿が青白く浮かんでいる。昨晩のことを忘れていたひとときはまだ幸せなほうであった。
「あ……その、いいえ……いや、あの……顔を上げてください」
躊躇いがちに表を上げた美貌にはやはり一筋の傷が走っている。
「青沼……」
「あの、その、部長の頬の傷の、ことなんですが……」
下手に記憶を取り戻されるのは厄介であった。指摘されて、萌木部長は自身の顔を撫で摩る。そして傷に気付く。
「それはわたしが付けたものです。それは、間違いなく、わたしが……これが証拠ですから、指紋でも取ることです……」
今でこそ世間体を気にして土下座なんぞしているが、強制性交はなかった。泥酔していた。相手は直前まで共に酒を飲み、自宅にまで上げ、社会的に立場のある人だ。背中に残された唾液の痕跡など児戯の延長のようなものだろう。取り沙汰されることはない。否、それも彼のリスクにはならないのだろう。合意の証にさえなりかねない。ところが、顔の傷についてどうだ。明らかな証拠がある。立派な傷害である。正当防衛は通用するのであろうか。
氷野子にとって萌木部長という者の解釈はそうしてくるような人物であった。
記憶を取り戻されるのは不都合であった。心中によって二親を亡くし、身を焼かれ、資産家の家庭から貧困を味わった哀れな弟を犯罪者にしたくないのである。
「顔に、傷か……婿の貰い手に困るだろうな」
彼は嫣然 としていたが、氷野子からすれば何かの嫌味であった。
「申し訳ありません……」
自分はこの上司に何かしてしまったのだろうか。氷野子は眉を下げた。金を払わせ、家に上がり、こうして嫌味を吐かれている。説教の隙を窺っていたのだろうか。何故、気が付かなかったのだろう。そして氷野子は、大学のとき同様に、自覚なく誰かに嫌われていることに落胆した。大きなミスを犯したことはなく、周りから無視され陰口を叩かれている感じもない。では明確な理由なしに、他者から疎まれる空気感を持っているのであろうか。だが今は、泣きたくなるような問答をしている場合ではない。
「ご家族は、いらっしゃらないんですか」
この酔っ払いは一人では帰れないだろう。手当をしながら彼女が訊ねると、萌木部長の端麗な顔が綻ぶ。
「母がいる」
「では、お母様にご連絡しますね」
「水くさいぞ。俺が呼ぼう。こんなこんな形になってしまったが……ここの住所を教えてくれ」
住所を告げると彼は会社では見せない嬉々とした様子で高機能携帯電話の板を操作する。そして本当に母親を呼んだらしかった。気怠げに服を整えた。顔の傷を付けたことを謝らねばならないだろう。そうなると、玄関でこの酔っ払い上司を預けてさようならというわけにはいくまい。彼女は玄関を片付け、トイレを掃除し、リビングを整えた。酔っ払いは氷野子の働きぶりをみて、我が奴隷の優秀さを誇っているかのようである。
氷野子は疲れ果てていたが、まだ眠るのも許されないらしい。彼女は弟の部屋を訪ねて、これから訪問者があることを伝えた。
「ごめんね、ばたばたしちゃって。気が休まらないよね。お風呂、遅くなりそうだったら、様子見て入っちゃって。本当、ごめんね。ごはんも作らないで……」
泉希の殺風景な部屋はベッドとソファーとプラスチックの華奢なテーブルのみである。彼はソファーに座り、スケッチブックを手にしていた。
「大丈夫です。謝らないでください」
ガラス玉のような眼に抑揚のない声。いつも通りではあるが、氷野子はそこに勝手な解釈を加えて受け取ってしまうのだった。
「母が来たら、まずは何を話せばいいだろう?」
部屋のドアが開く。スーツを出社前の如く着直した部長はネクタイのノットに指を掛け、真剣な面持ちである。彼はいくらか母親に依存気質なのかもしれない。だからつまり、"マザコン"であるのかもしれなかった。とはいえ氷野子からすれば、親などは生きているうちに頼っておくべきものだった。青沼姉弟が二親に頼ることはもう二度とないのだから。
「部下と飲みに行って、酔ったと……伝えればいいんじゃないかと思います」
氷野子もこの酔っ払いの母親に顔の傷についてどう謝るのがいいか考えていた。慰謝料を請求されるかもしれない。不本意ではあるが、借金をするか、或いは……どうにか、会社を辞めさせられる道は避けなければならない。
「それは後だ。まずは馴れ初めから話すべきだろうか?」
萌木部長はリビングのソファーに腰を掛けた。そして膝を摩った。だがまた起立する。
「お茶を淹れるとき、俺も手伝う」
「は?はあ……」
母親が迎えに来るのが嬉しくて仕方がないらしい。顔見るだけで酔っ払っている彼はソファーでスクワットをしているみたいに座したり立ったりした。それは嬉しかろう。母親を味方につけて顔面の傷について、気に入らない部下を詰問できるのである。しかしどれだけ耐え難い目に遭っても辞職を願うわけにはいかない。勤務態度は悪くないはずなのだ。無遅刻無欠席を貫いている。弟を養わなければならないのである。弟の稼いだ金は彼の今後のために貯金に充てるべきだ。頼るわけにはいかない。安堵しているわけにはいかない。両親を省みてみるがいい。何ひとつ不自由なく暮らしていたが、金に困って心中したではないか。
やがてインターホンが鳴った。氷野子は緊迫感を覚えながら玄関扉を開けた。外には和服の女性が立っていた。萌木部長の母親であろう。息子は母似らしい。冷厳な雰囲気もよく似ている。品定めをするような眼差しに遭い、氷野子はたじろいだ。顔に傷を付けられたことをすでに話してあるのかもしれない。
「そういうお話でしたら、まずはそちらから訪問するのが常識ではなくって?」
氷野子はそれもそうだとは思いつつ、しかしこの大柄な酔っ払いを連れて行くのは無理がある。だが彼の家に行くのに、置いていくのもおかしな話だ。とはいえ氷野子は反論することもできず、萌木部長によく似た母親をリビングに通した。
「まぁ!森閑 !なんですか、その顔は!」
悲痛な叫びが居間に響き渡る。母親と対峙した萌木は酔っ払い特有の笑みを湛えていた。
「この機会が来たことが、嬉しくて……母さん。話しておきたいことがあるんだ」
「それよりまず、何?怪我をしたの?見せなさい!」
萌木部長は頬に当てていたガーゼを取られてしまった。軟膏と血が裏側の繊維に移っている。
「まぁ……こんなに深く……」
氷野子はタイミングを図った。そして機をみたのだ。
「申し訳ございません。その傷を付けたのはわたしです。本当に、申し訳ございません……」
「申し訳ございませんで済むと思っているの?うちの大切なバカ息子の顔面に傷を付けて?」
氷野子は頭を下げることしかできなかった。やがて震える脚を床につけた。萌木部長は訳が分かっているのかいないのか莞爾として母親と座り込む部下を見遣る。この状況を分かっているに違いない。酔いに託けることのできるこの状況を。
「慰謝料はきちんとお支払いします」
まずは弁護士に相談だろう。経済的な不安が胸の辺りで膨らむ。今の会社の給料のみでは到底やっていけない。
氷野子は額を床に擦り付けた。土下座は安い。ただである。矜持と自尊心で腹は満たせない。
「そのために、仕事を辞めるわけにはいきません。どうか、仕事だけは……」
後悔が押し寄せる。男性からの誘いはいつもこうなるのである。大学時代を思い出してみよ。何故学ばなかったのだろう……
部長はにこにことして座っている。仕事の最中にそのような表情を見たことがない。それが答えなのである。
「俺からも、お願いします」
萌木部長は彼女の隣へやってきて、彼も額を床に擦り付ける。これが侮辱以外の何であろう。
そのとき、リビングのドアが開いた。萌木夫人の目が2つ並ぶ土下座から側められた。
「あちらは?」
氷野子は顔の高さはそのままに顧眄 する。表情のない泉希が佇立していた。
「弟です。泉希ちゃん、大事な話をしているから戻っていて」
氷のように美しい弟は爪先の向きをわずかに変えて3人固まっているソファー周辺を正面にした。機械的な動作は整い過ぎた容姿と相俟ってアンドロイドのようだったが、火傷による変貌は生々しく、それが人間であることを告げた。
弟には見せたくなかった有様を見られてしまった。土下座は擦り傷ほどのものでもなかったはずだ。しかし氷野子はまた苦しさに襲われる。喉が痞 えた。何も不自由になることはないと、安心させなければならない。速やかに副業許可申請を出す。通らないのなら無断でするほかない。働きアリの人生だ。だが弟に罪はなく、まだ学生で、醜い容貌では外へも出たくはなかろう。
「泉希ちゃん!」
動かない弟に彼女は珍しく語気を荒げた。
「はい」
彼はやっと、重げに引き返していった。
「俺からも頼むよ。このとおりだ。ずっとこうなることを待ち望んでいたんだ」
氷野子はもう頭を伏せているのもばからしくなってしまった。
「大学時代からずっと、思い続けていたんだから」
部長の言葉で、彼女の耳にはノイズがかかる。何かが引っ掛かるのだ。自分とはまったく釣り合いのとれないような華やかな美男子に誘われて、ついていくと、貧乏を嗤われる。変わらない美の基準に据えられモデルのようなプロポーションの……
直下型地震に似た衝撃と寒気に襲われた。氷野子は目を見開き、隣で土下座女を嘲り、蔑み、辱める男を睨んだ。しかし抑える。叩き出しでもして、さらに慰謝料を上乗せされかねない。そうしたら弟はどうなるのだ。
唇を噛み堪え忍ぶ。この男は最初から知っていたに違いない。ではどこから仕組まれていたのだろう。そして何がそこまで彼をこのような悪辣な計画に駆り立てたのだろう。氷野子はそれが分からなかった。何か恨まれるようなことをした覚えがない。だがこういう場合の多くは、した側は覚えていないのが世の常である。
「このバカ息子の唯一の取柄は縹緻 なんだから、一生かけて償ってちょうだいね」
「はい」
萌木部長の母親が口にした途端、氷野子は横から両手を奪われた。
「認めてくれるのか。嬉しい。これからよろしく頼む」
彼女は顔を逸らし、また小さく返事をした。
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