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第1話

 室内には疎かに水を掻き回すような音が静かに響いた。荒い息遣いも潜んでいる。そしてそこに女の淫声が時折混ざる。  青沼(あおぬま)氷野子(ひのこ)。日課は自慰である。肴は専ら、過去に別れた交際相手の婀娜で情けない絶頂の声姿である。  手淫で物足りなくなった彼女は道具に頼り、それ等で多少は治まるかと思われたが、結果は否。質の良いオーガズムの回数が増えただけである。  ベッドの上で甘い声を漏らし、悶える様を覗き見ている者がいることにも気付かず、氷野子は3度目の悦びに身を震わせた。まだ満足していないけれど、まだ家事が残っている。彼女は起き上がった。  リビングに行くと、弟の泉希(みずき)がソファーに座って絵を描いていた。スケッチブックに添えられた左手は焼け爛れてケロイドを起こしている。無表情な美貌にも、火傷の痕が色濃く刻まれている。しかし髪も眉毛も残り、睫毛はふっさりと長く反り返っていた。出逢ったが最期、凶兆すら思わせる絶世の美少年である。そこに火傷の痕があるものだから、人に壮絶なストーリーを想起させ、哀れみを抱かせてしまうのだった。もしかすると色が白く、華奢で、背もそう高くないことも人々の同情を買うのかも知れない。それでいて無表情で口数も少ないのが、一転、彼を不気味で不可解なものにする。 「ごめんね、泉希ちゃん。おやつにしようか。ホットケーキでいいかな?」  休日は弟に軽食をするのが習慣であった。氷野子は大火傷によって利き手を不自由にしてしまった弟が哀れでならなかった。 「はい。お願いします」  弟の鉄球みたいな無機質な目が氷野子を穿つ。彼女は今しがたの行為に多少の後ろめたさを覚え、平静を装いながら目を逸らす。  父親が違うのではないかと思うほど美しい弟をその視界に入れているときだけは、火照りやすい彼女の肉体が落ち着いた。母親は同じであるはずだ。彼は父母のどちらにも似ない。似ていたかもしれない。しかしそう思った点について、彼女は忘れてしまった。焼き捨てたみたいに覚えていない。 ◇  大学には随分と目立つ学生がいる。本人は物静かで、一人か二人の友と一緒にいるところしか氷野子は見たことがない。頭が小さく、胴は短いが脚が長く、すらりと背が高い。中肉中背なのであろうが、各部位の比率のせいか華奢に見える。身に付けているものもそれを引き立てるのだろう。趣味がよかった。流行り気のない無地で素材の良いファストファッションのブランドが、やたらと高級品にみえる。そこに加えて偏差値の高い学部に在籍しているというのだから、特に女学生は放っておかない。  接点はまったくなかったが、その彼が学内に新設されたばかりのカフェに来ていた氷野子に声をかけたのは今から3時間ほど前である。最初は落とし物でもしたかと思った。そしてどうやらそうでもないということが分かると、今朝掲示板で見たばかりの宗教勧誘についての注意書きが思いついた。  頻りに噂になる人物であるから名前は知っているはずだ。しかし語呂や響きで漠然と覚えていたものらしい。具体的な名前が出てこなかった。呼び出され向かった先で、相手はただ睥睨(へいげい)するような眼差しをくれるのみで口を開こうとしない。弟の凪いだ静寂には居心地の良ささえ感じられるが、他者の無言などは刺々しいばかりである。  名を呼ぼうにも覚えていなかった。出てきそうで出てこない。 「その、付き合ってほしい……」  やっと口を開いた。しかし飛び出してきた言葉に氷野子は驚いた。数秒静止して、意味を理解する。初対面である。交際ではなく、随伴のことであろう。 「いいですけれど、一体何に?弟がいるので、あまり遅くまでは……」  言ってしまってから、これでは弟を甘やかしているだけのように聞こえてしまった。弟は歳が離れていて片腕が不自由なのだ、と注釈をつけたいくらいだったか、それを言い加える機を逃す。  訝しげな眼差しをよこされている間、彼女は様々なことを考えた。何故初対面の者を誘うのか。噂では何人もの異性と交際をしているそうだから、人違いをしているのではないか。自分は初対面か既知かを問わず、誘えば必ず了承されると思っているのか。彼は周りから持て囃されているのではなく、自ら人間関係を拡げているのではないか。 「弟がいるのか」  大学は洒落ているが実用性に欠けて照明が物足りない場所がいくつかある。この通路がまさにそれだった。壁をダークブラウンの木目にしているくせ数は多いがダウンライトである。相手の表情がよく読めない。 「はい。歳が離れていて、片腕がちょっと不自由だから、おうちのことやってあげないといけなくて……」  思いもよらず相手が深掘りしたために、彼女は弟についての備考を言い添えることができた。 「分かった。夜遅くまではやめよう」 「それで……、一体何に付き合えば……」  新設のカフェテリア前のコモンスペースで購買部のサラダパスタを食らう様は余程暇そうだったとみえる。普段は節約のために弁当にしていたが、今朝は都合がつかなかった。 「デート。いいか?夜は、何時までならいい?」 「デート?デートですか?いつ?」 「今日は、だめか」 「え?だってこの服装(かっこう)ですし……デートなら………なんでわたし?」  氷野子は目を丸くした。  そのときひそひそと後ろから笑い声が聞こえた。振り返る。死角から、煌びやかな男女が数人現れた。顔は知っているが、名前も知らなければ話したこともない。  嘲笑われている。氷野子はまた向き直り、呼び出した人を見た。彼はにこりともせず、冷ややかにその視線を受けて立っている。  非難の言葉も出てこなかった。ただ静かに傷付くだけである。その表情にも出さない。ただ肩を落とした。  呼び出した本人が脇を通り抜けていく。遅れて彼の匂いが風にのってやってきた。  どういう理由でそのような悪戯を仕掛けられたのか。氷野子は自身というものを振り返ってみたが、思い当たることはなかった。  服装だろうか。倹約に努めて、清潔感はあるが華やかさはあまりない。髪型も化粧も流行を終えているとはいえなかった。  自分は彼等に何かしただろうか。彼女は溜息を吐く。 +  氷野子姉弟には両親がいない。親戚の金で生きるというのは感謝とともに心苦しさがあった。冷やかされた一件については彼女にそれなりの傷を付けたけれど、かといって華やかな服や流行のたびに変わる化粧品、ハイブランドのバッグなどを買う金は工面できない。彼女は自身について吝嗇家であったし、アルバイト代はほぼ弟に費やされた。泉希は容姿が端麗過ぎるだけではない。完全無欠といっていいほどにあらゆる面に於いて穎脱(えいだつ)している。氷野子はこの哀れな弟を哀れみ、また慈しんだ。  氷野子は弟に昼飯代を握らせ、自身は弁当を食っていた。泉希に残り物や作り置きを食わせることに後ろめたさがあったのだ。  大学校内のカフェテリアと学生食堂と購買部のコモンスペースで、弟の高校の制服代を胸算用していた。才能ある子供である。公立高校を本人が志望するのなら止めはしないが、それが経済的な理由であるのなら反対する。親戚も高校進学に対しては前向きであったし、また私立高校のパンフレットを自ら集めて渡してきたくらいである。だがその気遣いが、大きな感謝と共にさらに氷野子には重く()しかかる。制服代だけでもアルバイト代から捻出できはしまいか。教材もまた費用がかかる。前借りをするか、シフトを増やすのはどうだろう、いいや、アルバイトをもうひとつ増やすのは。中学生の泉希は食は細いが成長期である。自分一人なら米と味噌汁で済ませられたが……と氷野子は考えて、頭の痛くなる資料を捲った。そのひょうしに計算していたメモ用紙も軽やかに滑って宙を舞う。  近くを歩いていた、眩しいほどのオレンジ色のフード付きの服を着た学生がそれを拾った。  氷野子は怖くなってしまった。この大学の有名人から受けた悪戯は、強く彼女を萎縮させた。氷野子は学内の学生は(あまね)く自分を蔑んでいると決めてかかっていた。メモ用紙を眺め、嗤われ、噂される未来がみえたのだ。 「ほい……わ、美味そ」  オレンジ色の服の学生には耳を虐待したようにピアスが刺さっている。しかしそれを中和するかのように愛嬌のある顔で、犬を思わせる。もみあげと側頭部を刈り込み、赤みの強い茶髪が溌剌とした印象を与える。  彼は氷野子の弁当を見てそう呟いた。大きな独り言である。それから彼女を捉えた。 「落としたよ」 「すみません……」  それが、薪村(まきむら)(ほむら)との出会いだった。氷野子の初めての恋人になる男である。  薪村暖の服装は周りに溶け込む気のない鮮やかさで蛍光色や極彩色を多く取り入れているために、瀟洒(しょうしゃ)を気取った造りの大学校内のオフホワイトぶり、無彩色ぶりではよく浮いていた。  彼は決まった時間に決まった場所で飯を食う氷野子にまるで知人かのように声をかけ、露骨に弁当を見遣ってから去っていった。食いたいのか、将又(はたまた)、飾り気のない内容を卑しんでいるのか。彼女には分からない。ゆえに、厚意の施しようもない。  氷野子に友人と呼べる友人はいなかった。挨拶を交わし、その場をやり過ごす同期生たちは確かにいたけれど、彼等彼女等にとって金の使えない友人はつまらない。休日に会うほどのことでもなければ、飲みにも誘えず、飯を食うにも歓談するにも気を遣う。次第に済まなくなって、氷野子のほうから離れてしまうのが常であった。彼女は酷く困窮しているわけではなかったが、親戚に養われている負い目について開き直ることもできなかった。  昼休みとはずれた時間に彼女は飯を食う。履修する講義もなく、時間を空けておいたのだ。遅れた昼食や図書室で借りた読書に充てられ、コモンスペースも()いている。流行りの写真映えもしない、堅実な弁当を見られたくなかったこともあった。  大学が終わればアルバイトである。帰宅すれば家事だ。この日、彼女は家計簿をつけていた。そこがまた嘲笑の的になるのかもしれない。大学の有名人からつけられた傷はそう大きくないつもりでいたが、深くはあった。 「こんちゃ」  シリコン製の腕時計か靴か、或いは服に必ずビタミンカラーを入れなければ気が済まないらしいあの学生が、いつもどおりに声をかけてきた。氷野子は目も見ず顔も見ず、ただ会釈する。また死角から彼の連れが出てきて嗤われるのでは、と疑いは拭い去れないのである。友人が多そう明るさだが、同時に残酷な陽気さがある。軟派で軽率そうな印象が否めない。つまり、あの時壁の陰から現れて嘲笑していた輩と同じ匂いがするのである。  彼は1人でいるが、数人は隠れているのではあるまいか。 「ねぇねぇ、明日さ」  挨拶だけで終わるかと思いきや、彼はちらと弁当に目をやってから氷野子の瞳を覗き込む。 「おでパン持ってくるから、その弁当食いたい」  彼は真面目な顔をして弁当を指す。氷野子は驚いて椅子を鳴らした。 「え……?」 「美味しそうだなって思ってたんだよ」 「でも、手作りだし……冷食もあるけど、ほとんど残り物だから……」  ビタミンカラーの彼は弁当を羨ましげに見ていた。 「パンだいじょぶ?」 「でも……」 「おねぎゃあしゃす」  また揶揄われるのだろうか。しかしその燦然とした食欲の眼差しは、少なくとも直感的に嘘だとは思わなかった。 ◇  昼過ぎの単純作業は時折、懐古の念に駆られる。それは何かの予兆であったのか…… 「デート?デートですか……?」  就職してからはいくらか金銭的に余裕が生まれ、高校生になった泉希は絵画の駿才で、水彩画を描いては小金を稼ぐようになったから、この孤独な姉弟の暮らしは一変した。大学時代は心苦しかった流行りの服だの化粧品だのを買ったり、染髪加工もできるようになった。しかし大学時代の辛苦というほどではないけれども甘くもなければ無味というわけにもいかない出来事が埋まるわけもなかった。  たった一人に惚れ込んだくらいでは埋まらない。  氷野子は部長に呼び出されていた。同い年の20代で、すでにその座に就いているのだから出世街道を驀進(ばくしん)している人物である。しかし確かにその雰囲気はエリート然としているが、一族経営であるのだから、その能力の有無について必ずしも信用できるものではない。  氷野子は部長から言われた言葉に苦りきった微笑を浮かべる。 「弟さんは今いくつだ」  しっとり鼓膜を包むような美声が穏やかに訊ねた。フィクス窓を背に座る部長は逆光し、ただでさえ顔の下半分で両手を組んでいるから表情も読みづらい。 「弟ですか?何故、弟?」  水彩画家であるが永泉(えいせん)などと水墨画や昔の俳人みたいな仮名を使う弟の話題が何故ここで出されたのか、彼女には分からなかった。 「もしかして、オファーですか」  そしてデートとはそのことを婉曲表現しているのでは。氷野子は小首を捻る。部長は小さく咳払いした。艶やかな黒髪を後ろに撫で付け、形の良い額を晒している。凛とした細い眉の下に、薄い目蓋が二枚重なっている。睫毛は切れ長の目の範囲だけ蔚々(うつうつ)としている。 「いいや、違うが。そのままの意味で、私とデートしてほしい」  氷野子は身を縮こまらせ、背後を確かめた。ここは大学ではない。職場である。すでにあれから月日も経った。 「どうした」 「すみません。昔そんなようなことを言われて、揶揄われたことがあるものですから……」  氷野子は微苦笑を浮かべる。部長は薄い唇を力無く開いた。 「……………酷いな、それは」 「わたしも、見窄らしい子でしたからね。華やかな大学でしたから……モデルとか芸能人もいるような」  部長は上目遣いに彼女を捉えた。あざとくも見えれば、企んでいるようでもある。 「私と君は同じ大学だ」 「えっ!―大学ですか?」 「そうだ」  彼が頷く。 「確か、わたし、部長と同い年ですよね」 「学部は違えど、同期生かも知れないな」 「じゃ、じゃあ、もしかしたら、当時噂なんかも聞いてたりして……ははは、被害妄想かも知れませんけど………結構な有名人が、仕掛け人だったので…………」  氷野子は熱くなった顔を仰いだ。 「それで、どうだ。今夜、付き合ってくれるのか」  腕時計を確かめる。文字盤に弟の作品が使われている。 「22時には帰りたいので……」 「弟さんか」 「そうです」  即答すると、部長は静かに笑った。 「過保護ですみません」 「いいや。では、今夜、よろしくな」  氷野子は部長の前から離れてから首を傾げた。そういうことは数日前から予告しておくものではなかろうか。そしてなぜやはり、自分なのか。部長とはほぼ関わったことがない。そしてこの状況に既視感があった。  この職場でも、何らかの理由があって嫌われているのかも知れない。過去の出来事が現在にまで流れ込んで捻じ曲がる。  彼女は昼飯を食いに出掛けた。 ◇  薪村暖という男は弁当を食らうと、生ハムとレタスの挟まったパンを食う氷野子に擦り寄った。 「めっちゃ美味い。ヤバ。毎日食べたいニャン」  昼飯のトレードが日課になってしまった。 「おでしょっぱい出汁巻き玉子大好きなん」 「でも、なんだか悪いよ」  弁当はそう値段がかからないが、彼が代わりに持ってくるパンはコンビニエンスストアやスーパーで買ってきたものではない。それなりに値が張るはずだ。 「なんで?だっておでピ料理できないもん。青沼さんの弁当と交換できるもの、他にないよ」 「絶対、高い……」 「金欠なん?」  両親がいないという話を直接的にするのは重いであろう。 「金欠っていうか……親戚の脛を齧ってるからね。節約しないと」 「そうなんだ。でも気にしなくていいって。おでが青沼さんのお昼ごはん取り上げてるんだから。春から一人暮らしでさ、手料理恋しいんよ」 「他人の手料理、気持ち悪くない?」 「うーん、でも青沼さんなんかしっかりしてそうだから平気だった」  開豁(かいかつ)である。よく知りもしない女の弁当を平気なつらをして食うが、恋人や親しい異性の友人はいないのだろうか。  理由は思い当たらないが、自分は嫌われているらしい。  彼は知っているのかいないのか。知れて離れられたら傷付くだろう。知れたとて離れもしなければ巻き込むのではないか。氷野子は平然としながら人懐こい学生を眺めていた。 「おでと付き合わん?全部おうちデートにしてさ、食費はおでが持つから、青沼さんはごはん作って……」  デートという単語が憎い。しかしそれだけで機嫌を損ねることもないだろう。 「大学の後はアルバイトあるし」  流行りの冗談なのであろうが、知人として料理を作りに行くという提案も都合がつかないのだ。 「休みの日は?」 「アルバイト」 「毎日?」 「そう」  彼はきょとんとしていた。 「ありがとうね。お弁当、褒めてくれて」 ◇  デートといって予定を取り付けたのは部長のほうであるが、忙しい人である。また艶福家でもあるから、その点についても忙しい人だ。当日の予告である。忘れているかも知れない。  氷野子は部長の出方を探っていた。彼は残業ばかりしている。定時で帰らせるために、あれもこれもと引き受けているようだ。氷野子は自分の仕事を故意に長引かせたが、先に終わってしまったため帰りの支度をはじめた。作業に集中していた部長が顔を上げる。 「青沼」  部長が呼んだ。 「はい」 「平気か」 「はい……でもいいんですか、本当に。何か大事な話なら他にも……」  部長は眉根を寄せた。どうせは仕事の割り振りについての相談だろう。 「青沼に来てほしいと言っているのだが、都合が悪いか」 「都合は、別に……10時には帰りたいので、9時半には出たいのですけれど」 「分かった。それと、……すまなかった」  氷野子は部長を見上げる。 「何がですか」 「いいや……」  連れて行かれたバーは暗い。居酒屋を想定していたために、氷野子は緊張した。趣味は良いのだろうけれど、彼女の落ち着ける空間でもなければ好みでもなかった。  瀟洒を気取った大学にも似た場所があった。カフェテリアからトイレを巻き込みロッカルームにかけての区間がそうだった。 「アルコールは苦手か」  カクテルグラスに手をつけずにいると、店に到着してから寡黙を貫いていた部長が口を開く。 「いえいえ。お洒落なお店だな~と思って。大学時代とかちゃんと遊んでなかったので、なかなか新鮮で……」  つまり慣れないということだったが、彼女も嫌味で言ったわけではなかった。 「そうか。勉強で忙しかった?」 「友達がいなかったんですよ。こういうお店に来るような」  嘘である。友人云々の前に、アルバイトに明け暮れていた。 「そうか……」 「わたしの大学時代の話してもつまらないですよ。部長の行っていた学部は華々しかったんじゃないですか?」  ジュースめいたアルコールを飲み干した。意識の高いナッツや、訳の分からない横文字のチーズや、垢抜けたソース付きのスナック菓子よりも、焼き鳥だの天ぷらだのを食べたくなる。 「それで、話って……?」  本題を促せば、美貌がわずかに傾いた。 「話?」 「何か仕事の話があるのかなって思ったんですが……新人くんの進捗とか」  部長は氷野子を見つめた。 「違う。仕事の話なら職場で完結させるさ。そうではなくて……」  彼も酒を呷る。そして黙っては酒を入れ続ける。 「大丈夫ですか?」  本題に入る前に酔ってしまうのではないか。氷野子は部長を見ていた。止めはしなかった。煌びやかな大学の華やかな学部の出なのだ。それなりに遊んできたのであろう。むしろこの手の玄人なのかもしれない。止める方が野暮に違いない。  麗かな顔が真っ白くなり、尨毛(むくげ)に囲われた睫毛に翳る瞳は据わっている。  そして氷野子が帰る時間として挙げていた21時半がやってきたとき、部長は酔い潰れて1人で帰らせられる状態ではなかった。  部長を引っ張り、会計する。自分で稼げるようになってからは週一のカフェ巡りが趣味であったが、暫くは自重するべきであろう。今まで誘惑に勝てなかったのだ。反動とも言えた。だがまだ弟には大学進学がある。水彩画の儁異(しゅんい)とはいえ、それでいつまで稼げるかなど分からないのだ。世は三日天下、一夜乞食である。それが幼き日に刻まれた氷野子の中の(ことわり)である。  社長だった父が負債を苦に一家心中を起こした日から……
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