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第1話

 彼女は映画を観ていた。昼間にテレビで放送されている、短く編集され広告の挟まれる映画である。  真剣に関心を持って観ていたのではない。ただ意識が傾いたのである。  天国には、すぐに行けるの?  映画の中の異邦人の女児があどけなく訊ねた。吹替であるなら、唇の動きとは合わない。一体その返答は、どのように気の利いたものであるか―  それが気になったのだ。  しかしリビングをぬう……と覗く人影に気付き、その台詞を聞き飛ばした。  緋墨(ひすみ)燈禰(ともね)楡神(ゆがみ)グループの御曹司と結婚し、楡神燈禰と改まった。結婚しおよそ1年半。夫は死んだのだ。年上の愛人とその息子と、"家族"水入らずの最中に、事故に遭って死んだのだ。燈禰の夫楡神と、彼が父から継いだ年上の愛人は胸を強く打つなり、頭を強く打つなりして死亡した。ところが一人、生き残ったのがある。楡神の異母弟で、楡神2代に次ぐ愛人の息子だ。  汐恩(しおん)翼羅沙(さらさ)である。横転して炎上する車内から助け出された彼の身体の半分は顔を含めて大きなケロイドに覆われている。ところがこの不幸が、何かの間違いで天空から堕ちてきてしまったような美しすぎる少年に妖しい影を添えた。髪は生え、眉も目も無傷ではあるが、顔半分、耳までが、白いミミズののたくったような生々しく痛々しい痕になっている。 「どうしたの、翼羅(さら)ちゃん」  燈禰は虚空を望むようにリビングを覗く不気味な美少年を呼んだ。彼の目には生気がない。しかし燈禰は努めて明るく振る舞った。事故時に頭を強打し、一時は一生意識は目覚めない可能性があるとすら示唆された。 「なんでもありません」  首もケロイドになっていながら、彼は声帯も無事であった。凜とした声は寒気のするほど整った美貌とよく合っている。 「おいでよ」  燈禰は唯一の拠り所であった母親を亡くした翼羅沙を引き取った。正妻ではあるけれど、多少の引け目があったのかも知れない。 「一緒に、テレビ観よう」 「いいえ」  翼羅沙の視力に問題はないはずだった。しかし彼はどこにも焦点を合わさず、燈禰を見ようともしない。ガラス玉のような瞳を、機械的に目蓋が上下する。長く濃い睫毛が重いのか、彼の瞬きは極端である。目元に表情がない。 「翼羅ちゃん……」  汐恩翼羅沙は清らかな美しさを持ちながら妖怪めいていた。それは重い火傷痕を差してのことではない。足音も気配もない。寡黙で笑わず、怒りもない。学業成績は非常に優秀なようである。忘れ物もなく、記憶力もよく、物知りである。いくらか同年代の男性と比べると嫋やかで、背も低く、高いところの物を取るときに背伸びをしたり台座を用いるのが人間らしかった。  しかし燈禰には、彼が意識を取り戻し、母と異母兄の死を知ったときの無関心ぶりが強い印象としてこびりついている。それまでの彼のことを燈禰は知らないけれど、このような恐ろしい子供と、楡神の愛人はどう接していたのか。いいや、知る機会はあった。翼羅沙の通う学校である。復学したときに、彼の担任の教師から、人が変わったようであると説明を受けた。やはり事故で受けた大きな衝撃と、精神を蝕むほど外貌を変える不可逆的な大怪我が、彼の人格ごと変えてしまったに違いない。 ◇  何気ない昼下がり、燈禰はうとうとして、気付けば眠りについていた。彼女が目を覚ますと、そこは寝室の天井である。いつの間にか寝ていたとはいえ、リビングにいたことははっきりとして、彼女は戸惑った。そこへきて、肩と肘の違和感である。燈禰は両手首を縛られ、ベッドに括り付けられていた。  一体誰が、何故……  燈禰は暴れたが、縄が(ほど)ける気配も、緩まる様子も、千切れることもない。ただ皮膚が痛め付けられていくだけである。 「翼羅ちゃん!翼羅ちゃん!助けて!」  脚は自由だった。踵でシーツを蹴った。ベッドが軋る。 「翼羅ちゃ……」 「助けません」  気配も音もなく、翼羅沙は寝室の隅に立っていた。何をするでもなく、亡霊みたいに直立していた。今はベッドに縛られた燈禰を顔ごと見下ろしているが、やはり彼女を見ているというよりは、虹彩がそちらのほうを向いているというか感じだった。 「翼羅ちゃん、どうしたの?何があったの……?」  翼羅沙は平然としている。強盗から身を潜めているのではないか。燈禰はふと閃いた。 「何もありません。どうもしていません」  彼は冷淡に答えた。いいや、冷淡も何も、そこに感情はなかった。 「どうして、わたし、縛られて……」  翼羅沙は燈禰を見下ろしたまま動かない。大火傷の痕が退廃的な美を添えて、無表情な翼羅沙を妖しいものにした。彼の身の上を考えれば酷なことだけれど、大きく外貌を損なう怪我はあるが豊かな愛嬌や言葉数さえあれば、燈禰は彼を恐れはしなかった。彼女は同棲する美少年のその無機質ぶり、完璧ぶりを不気味に思い、恐怖し、だがそれを見せないように努めている。  人生を大きく左右するあの事故が、心身ともに彼を変えてしまったのだ。 「楡神さんは燈禰義姉(ねえ)さんにとって、いい夫でしたか」  翼羅沙にはベッドに寝かされた女の拘束など見えてはしない。 「え……?」  何故そのような質問を投げかけたのか、この奇怪な少年の意図が分からない。問いの内容よりも問われた理由を考えているうちに、翼羅沙は寝室を出ていってしまった。 「翼羅ちゃん!」  それから数分経つとインターホンが鳴った。燈禰は焦った。翼羅沙が出たのだろう。しかし一体誰が来たのか。助けを求めるべきか、否、その訪問者というのとこの拘束は関係があるのではないのか……燈禰は無駄だと知りながら暴れた。手首の薄皮を固く結ばれた縄の繊維が削っていく。足音が近付いてくることにも気付かなかった。翼羅沙ではない。彼は跫音を立てない。いつでも幽霊みたいに、ぬっとそこに存在する。爆誕したように。そこから生えてきたように。  寝室の扉が乱暴に開かれる。燈禰はびっくりして陸に揚げられた魚みたいに跳ねた。入ってきたのは若い男である。この有様をみても驚く様子はない。この状況の関係者に違いない。 「どなた……?」  震える声で誰何(すいか)する。20代半ばもいっていないだろうか。燈禰より年下を思わせる。体格からして成人男性を思わせる。形の良い額を晒した艶やか黒髪の美丈夫である。 「楡神の売女(ばいた)め、赦さないからな」  ぎしりとベッドが軋み、陰に覆われる。男は燈禰に跨り、その手が首に回った。 「え……」 「殺してやる」  男の憎悪に満ちた目が煮え滾っている。 「あっ!」  喉に男の拇指(おやゆび)が二つ重なった。徐々に体重がかけられていく。 「本当に、殺していいんだな?」  彼は誰に問うたのだろう。 「はい」  翼羅沙が迷いもなく答えた。 「や……………め…………」  燈禰は恐怖で身体が動かない。 「楡神………!オレの姉貴はな!楡神に殺された!」  男は吠えた。しかし彼の失敗は、首に両手を回しながら、この告白をしたことだった。おそらく彼の期待した打撃を、朋夜は然程受けていない。何故ならば彼女は今、自身の危機に瀕しそれどころではないからだ。 「おまえのご主人様に殺されたんだ!オレの姉貴は!」  燈禰の耳には必要以上の声量、必要以上の語気で届いているはずだった。しかし真っ白になっている彼女の頭に引っ掛かったかどうかは定かでない。反応から推せば、おそらく聞いてはいない。 「オレの姉貴と、その子供がどういうふうに死んだのか、思い知れよ!」  そしてとうとう、容赦のない力が燈禰の首に加わった。喉を潰すどころか、折ってしまいそうである。 「ぐ、…………ぐぅ………ァ、」  ただでさえ体格に差があるというのに、両腕を(いまし)められているのだ。男を払い除ける(すべ)はない。  窒息と加圧に燈禰は口を大きく開き、やがて泡を噴く。(うがい)のような音が喉を灼く。シーツの繊維を蹴り続けた踵もまた焼けていく。  赤らんでいく顔、涙ぐんでいく目、濡れた唇と溢水する口腔を、若く活力のある男がどう見たか……  彼は自嘲と侮蔑に口角を上げ、鼻を鳴らした。首への圧迫がやむ。燈禰は念願の息を吸い、灼けついた喉の痛みにがふがふと咳き込んだ。翼羅沙はあまりにも静かすぎて、不在も同然であった。悪意と害意と怨恨に満ち満ちた謎の若い男は危ない獣のような息遣いだが、これも殺伐とした寝室に染み渡っている。ひとつ肉体的な苦しみから解放された燈禰の咳嗽(がいそう)ばかりが耳障りに痛々しく(こだま)する。 「いいのか、好きにしちまって」 「はい」  翼羅沙の返事には躊躇いも容赦もなかった。見知らぬ憎悪の男は燈禰の服を引き千切る。キャミソールなども襤褸布同然の脆さで破かれて、素肌と紺のブラジャーが露わにそれだけではない。燈禰が世間に隠してきたものも暴露される。彼女の右腕は肩にまでかけて、翼羅沙ほどではないけれど火傷痕と思われる異質の変色に覆われていた。これのために彼女は夏場でも長袖で、プールにも公衆浴場にも行かなかった。外では普段から手袋を嵌めていた。複雑な生まれで孤独の身となっただけでなく、外貌に損傷を残した翼羅沙を哀れみ手元に引き取ったのは、自身のこの傷に対する感覚も手伝っていた。  若い男はその傷に眉を顰めた。昂った気分に水を差されたような気分らしい。だが彼はすぐにまた別方向の活気を取り戻す。 「なんだよ、その傷。汚い」  そこに悪意はあったのか。驚きのあまり飛び出して反射的な憎まれ口だったのか。この男の事情は知らないけれど、燈禰の後ろめたさを突き刺して捩り、抉り取るには十分だった。彼女は顔面を殴られでもしたかのごとく強張って、やがてその眼球をてらてらと濡らした。 「だから楡神に、放っておかれたんじゃないのか」  男の口元が残酷な弧を描いた。  楡神はこの傷を婚前から知っている。外を出ることを嫌がる燈禰に、この治った傷を今度は消すよう治療の手配をしたのは彼だった。だが、元のとおりというわけにはいかない。しかし今の状態でも、幾分前よりは素肌に近付いたのだ。不自由さはあまり改善されなかったけれど。  楡神を恨む男は、燈禰の眦から涙が落ちていくのを見ると狼狽えた。 「泣けば赦してもらえるとか、思うなよ」  彼は忌々しさと面倒臭さを隠さない。 「縄、外していいか」 「どうぞ」 「逃げない?」 「首を縛ったらいかがですか」  翼羅沙はやはり平然として、事務的であった。彼がそこにいたことすらも忘れるほど存在感がない。 「首か……縄、外してくれ」  翼羅沙は物音ひとつたてず、燈禰の傍にやってきた。 「翼羅ちゃん……」 「はい」 「どうして……?わたしのこと、恨みに思っていたの…………?」 「いいえ」  彼は固く結ばれた縄を容易く解いていく。腕が痺れ、すぐに動けるわけもなかった。また逃走を企てたところで、勝算がないことをすぐに理解してしまった。とすれば、無駄に足掻くだけ、この男の害意を煽るだけだ。 「首を縛りますか」  翼羅沙の提案に、男は鼻白む様子だったが、迷いながらも頷いた。燈禰の首に縄が巻かれる。 「翼羅ちゃん……嫌だよ、助けてよ」 「助けません」  彼の手は迷いなく燈禰の首に縄を巻き付ける。 「翼羅ちゃん……」 「自分の母親を卑しめる存在のあんたを助けるわけないだろ」  翼羅沙から縄を預かった男は、自身の手に余った部分を巻いて短く持つ。 「い、痛い……」  甘皮の擦り切れて赤くなった手が首を縛る縄を押さえた。長いこと同じ体勢をとっていた痺れもあるが、右手はそこに癒えない古傷によるものも加わっている。 「痛いか?それはよかった。苦しんで死ね。オレの姉とその子供みたいに……」  首の皮膚を縄の繊維が擦れていく。 「この女を裸にしろよ」 「はい」  馬乗りになる男の後ろで翼羅沙が動く。 「いや……!」  燈禰は目を見開いて身を捩った。しかし翼羅沙の手は彼女を下着に剥く。靴下も脱がせ、彼女は敗れた布を纏っただけのブラジャーとショーツだけになってしまう。 「見ないで……っ」 「いい気味だな。楡神のメス豚め」  男は鼻を鳴らして嗤う。そこには無理矢理な感じがあった。彼の顔色が青褪めている。 「おまえはオレの姉貴を殺したんだ!」  燈禰は涙を溜めながら首を振った。まったく覚えがない。人を殺したことなどないのだ。利き手は熱傷の拘縮で、不自由というほどではないにせよ、人を殺せるほど意のまま自由気ままというほどには治らなかった。  彼は怒鳴り、燈禰の肩を叩いたのか揺すったのか分からなかった。 「ああ!乱暴はやめて!」  彼女も恐怖と不安で半狂乱になりながら叫んだ。 「被害者ぶりやがって……オレの姉貴が受けた痛みは、こんなものじゃない……!」  男は泣き出した燈禰に舌打ちすると、身を引いた―かと思われたが、彼は燈禰のショーツを脚から抜いた。 「やめ……て……!」 「うるさい!姉貴の受けた屈辱を、おまえも思い知れよ!」  燈禰は上体を起こし、膝を閉じ、シーツに尻を擦って後退る。頸へ縄が食い込んだ。伸びてきた両手が腿を掴み、彼女はまたシーツに尻を擦って、後退った分より長く引き寄せられた。あられもない場所を見せつけてしまうのを、利き手よりも反応の速い左腕で隠した。 「楡神とヤりまくってたクセに、今更純情ぶるなよ、くそビッチ」  男の手が彼女の腕を掴んで投げ捨てる。 「やめ……っ!」  引き攣れた彼女の声は届かない。男の股に聳え勃つものが視界に入って、燈禰は固まってしまった。拒否の言葉は口から出てこなかった。抵抗もできない。本能が生命の危機と引き換えに、それを無防備に受け入れてしまった。  粘膜が火傷するみたいだった。利き手を焼いたときとは異質の感覚だけれど、それは灼けるような熱さと、身を裂かれるような衝撃だった。ぶつり、とした軋みもある。 「い、いたい……っ!」 「嘘吐くなよ、絶倫女」  久々に、それも慣らしもせず、恐怖に打ち震えている状態で無理矢理入り込まれているのである。しかし人の防衛本能は皮肉なものだった。肉体の損傷を免れるために、そこはすぐさま、男を愚かに錯覚させる反応を示した。しかし燈禰に自覚はなかった。 「濡れてきたぞ、淫乱め……」  言い聞かせるように彼は腰を引いてから、引いた分以上を突き入れた。 「ああ!」  内臓が迫り上がる。乱暴な摩擦に粘膜が熱く痛む。息苦しさに呼吸が追いつかない。頭が軽くなり、その分首に重みがかかる感じだった。眩暈もする。何が起きているのか理解できていない。否、理解することを拒んだ。ただ痛みばかりによって彼女は自身の存在を知る。 「楡神に復讐してやる。姉貴がどんな思いで死んでいったか。姉貴がどんな思いで自分の息子を殺していったか!」  怒りを訴えるだけ、燈禰の中に打ち込まれた(おぞ)ましい杭が膨れた。ばつ、ばつ、と肉がぶつかり破裂する。 「おまえを孕ませて、オレの子を産ませて、追い込んで、あんたも子供と心中しろ。こんな火傷じゃ済まさない。焼け死ね」  呪詛だけが耳に入り、そして思考の一枝に絡まった。赫灼(かくしゃく)とした火炎と、どの場所でも暗夜にしてしまう黒煙の対比、そして身体の焼ける苦しみがまざまざと甦る。 「い、いやぁああああ!」  燈禰は頭を真っ白くして絶叫した。  頤に当たる違和感で目が覚める。それは決して固くはなかったが、布のような柔らかさもない。分厚いシリコンか、強度のあるゴム製品を思わせる。腕は自由だったが、左右の手首にはグレーのラバー製の手枷が嵌められ、両手間も鎖で繋がれている。本物の拘束具ではないようだが、本格的である。作りからして安くはないだろうことはうかがえた。首にもまた、同じ手触りの首輪が嵌まっている。それもまた華奢ではない鎖が伸び、ベッド柵に留めてある。新品らしい光沢がどこか安っぽいが、しかし重みからいうと実用性はあるのだろう。  目元の痛痒さと(つか)えるような喉の苦しさに燈禰は顔を顰めた。  夢ではなかったのだ。夢ではなかった。若い男が姉とその子供の復讐を誓い、そしてその対象は夫で、彼が亡くなっているために行き場のない怒りはその配偶者へと向く……  燈禰は自分の下着姿の、それも自ら身に付けた覚えのない下着姿を認めたが、そこに何か感慨を持つほどの気力もなかった。彼女は掛けられていたタオルケットに潜った。もう一度眠りに落ちれば、実は夢だったと、それで済むかも知れない。 「何故言わないんですか」  彼女は突然現れた翼羅沙に心臓を握られた思いがした。脈を飛ばす。彼女はタオルケットから身を起こした。地縛霊みたい部屋の隅、観葉植物の脇に翼羅沙が竪立(じゅりつ)している。 「翼羅ちゃん……」  彼女はタオルケットを抱いて肌を隠す。共に暮らすようになったこの少年から欲情めいたものを感じたことは一切ないが、彼は年頃の男性である。火傷痕がある種の美しさになってしまうの麗かな容姿をしているが、本人はやはり気にしているのか、浮ついたところも燈禰は把握していない。年頃の少年が持つ雑誌や物品のひとつもなかった。燈禰の認識が古いのか…… 「何故言わないんですか」 「何を……?」  地縛霊と話している気分だった。翼羅沙は肉感がありながら、機械的な幽霊だ。今の燈禰は彼を詰問し、(そし)り、痛罵を浴びせてもよい立場に思える。だがその美貌と、美貌を毀すどころか妖しい色を添えてしまう惨事を悟らせる傷痕が、彼女の怒気を削ぐ。そうでなくとも彼女にはやはり気力がもう無かった。 「通じなければ結構です」  彼はばち、ばち、と長く濃い睫毛を瞬く。彼の目元には表情がない。瞬きひとつをとっても。 「翼羅ちゃんは、わたしを恨んでいたのね……行くところがあれば、行っていいのよ」  首輪にはゆとりがあるけれど、それとは別に、まだ首を絞められているような喉の苦しさで、燈禰の声は裏返る。無理矢理に声帯を震わせているような喉の重みと耳の裏への違和感がある。 「恨んでいません」 「それなら、どうして……。こんなこと…………恨んでなきゃ、できないもの………」 「教えません」 「……そう」  亡夫の愛人の息子と、妻である。上手くいくはずがない。手元に引き取ってことも、表情も愛嬌も皆無なこの少年の内心には嫌味に映ったのかも知れない。それを彼は、もしかすると自分でも分かっていないのだろうか。 「あの人は、今日からここに住むそうです」 「え……?」  彼女は俯きかけていたが、耳を疑って、もう一度地縛霊を見遣った。 「まだ気が済まないそうです。むしろ余計に腹が立ったと」 「う、嘘でしょ……嫌よ。無防備だわ……それに通帳も印鑑も……」  成績優秀とはいうけれど、地頭の良さは燈禰も認めたけれど、その反面で翼羅沙はある種の迂愚か。はたまた自暴自棄になっている。 「楡神の稼いだ金になんか興味ねぇよ」  寝室にあの男が入ってきた。上半身は裸で、髪は濡れているようである。 「ひ……」  燈禰はタオルケットをさらに強く抱き寄せる。男は彼女へ背を向け、ベッドの端に腰を下ろし、地縛霊みたいな翼羅沙と向かい合った。  どちらがこの家の人間なのか、初めてこの場を見た者には分からないだろう。もしかすると、翼羅沙は脅されているのかも知れない。 「か、帰ってください………勝手に住まれるのは、困ります……」 「困る?それなら尚更帰れないな」 「帰ってください……警察を呼びますよ……」 「どうやって?その状態で……遺産で食い繋いで、外に繋がりなんかないんだろ。悪どい商売して稼いだ金で……誰もあんたを心配しない。誰もあんたを心配しないから、あんたが家から出られないことも発覚しない……」  彼は燈禰を振り返らず、かといって翼羅沙に言うでもなく、独白しているみたいだった。 「あんたが結局は楡神の金目当てってことが分かって清々したぜ。ま、金以外に愛するところなんざ無いんだろけどな、あんな男……あんたも金に釣られた果てにあるのがこんなのじゃ、哀れな女だよ」  項垂れて、男はわざとらしく嗤っている。掻き傷ひとつない綺麗な背中をしていた。 「だからって、やめてやる気は無いけどな。自分でいじって感度上げておけよ。あんたも楽しいほうがいいだろ。それともやってもらうか?夫の愛人の息子に?」 「ふ……ざけ、」 「言えば何でもしてくれるんだろ。なぁ、あの女を犯せよ。楡神に人生狂わされたんだ。当然の報いだろ」  男は頭を上げ、翼羅沙を向いていた。 「はい」  翼羅沙は地縛霊をやめた。しかしやはり足音はなかった。彼は燈禰の傍までやってくる。
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