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第1話

 その地を支配しているに等しい禁龍寺(きんりゅうじ)家の遠縁に魍魎坂(もうりょうざか)家というのがある。この魍魎坂家に、"魑魅(ちみ)児"が産まれたそうなのである。魑魅(すだま)の子、すなわち妖怪あるいは化物の子であった。魍魎坂家の当主の妻が山ノ()に犯され身籠もっただとか、折檻の最中に母親の腹を食い破って産まれ堕ちてきただとか、いやいや堕胎のときに母親の腹を掻き捌き産まれたのだとか、禁龍寺家の使用人の中ではさまざまな噂が色を変え形を変流れたのである。尾鰭背鰭胸鰭をつけられて、やがてひとつの魚となって泳ぎだしたこの子供が禁龍寺家に預けられたのは、それから16年経ってからである。 ◇  禁龍寺家本筋の第三子でありながら長女、さらには末子である末世(まつよ)は、夏の暑さが残る門前に水を撒いていた。力仕事でかえって汗をかいてしまう。水音にまたげた飼主知らずのネコどもが飛び起きて四方八方に散っていった。 「まつよちゃん」  きゃらきゃらとした声に彼女は振り返った。薄汚い身形の男が、明らかに身分に大きな隔たりのある末世へ気安く声をかけた。特別醜悪というわけではないが、活気と愛嬌だけが取柄の地味で粗末な、取り立てていうところのない、つまらなそうな男である。背もそう高くはなく、女を一人守れそうな筋骨も見当たらない。末世も心優しく純真無垢な人間ではなかった。自身に流れる血筋、己が身を置く家柄、自分の立場が分からない女ではない。そういう彼女が、身分の低さは歴然としている、土で手足も衣服も汚した貧相な男へ対し、無邪気な笑みを返したのは何故か…… 「蛙井(あせい)さま」  末世は身分差は明白の相手へ駆け寄り、その汚れた胸板へ飛び込んだ。筋肉のつかない体質なのか、将又(はたまた)その貧しさから発育が悪かったか、力仕事をしていながらそこに逞しさはない。 「まつよちゃん。お芋が取れたから持っていきなよ」  身分の低い粗末な男はその地位を弁えていたとみえる。泥だらけの手で末世の上等な着物に触れるようなことはせず、抱擁に応えることはなかった。  蛙井(あせい)孤児(みなしご)である。神社に捨てられていたそうである。歳の頃は定かでないが、おそらく末世と同じくらいであろう。村の祭りで出会い、末世が一目見て惚れてしまった。  末世は汚れた蛙井の手を握り、彼の小さな畑へ向かう。  馨しい桂花が薫る季節だった。甘く澄んだ匂いがする。 「この匂い、好きです」  握った手を引き寄せ、蛙井の腕へと頭を預ける。 「おでも好き」  末世は目を閉じた。彼の声で聴きたい言葉が吐かれている。桂花の匂いの中に秋の土に近い匂いが混じっている。 「もう夏も終わりですのね」 「ごはんの一際美味しい季節が来るなぁ」  蛙井がけたけた笑った。 「素敵ですわ。あたくし、夏が終わることを、少しばかり寂しく思っていましたのに」  そこには多少の下心がある。決して美しい体躯とはいえないこの男の肌を伝い、照りつける汗が暫く見られなくなってしまう。その活き活きとした姿と瑞々しさに彼女は感動する。そこに艶めいた翳りはなかったけれど…… 「すぐ暗くなっちゃうからね」  艶めいたところのない2人は、暗くなることをもどかしく待つのともなく、暮れなずめば互いに帰るべきところへ帰るのだ。 「これからもっと……」 「たくさん会いに行くよ。それともまつよちゃんから会いに来てくれる?」  目の前をアキアカネが通り過ぎていく。なすりつけたような雲の浮かぶ空が高い。 「会いにいきます」  乾いた音が二間ぶちぬきの部屋へ響いた。末世は後ろへ跳ね飛ばされる。頬が熱く疼き、やがて痛みに変わっていく。彼女の頬を張った人物が濃い影を作り(にじ)り寄った。しかし末世を庇い、割り込む人物もいる。この2人はまったく同じ顔をしていた。遠い昔に存在していた素破が使ったとされる分身の術の如く、悉皆(しっかい)同じ顔立ちである。冷淡ながらも麗かな面立ちは、妖怪雪女がそのまま性別だけが男になったような妖美な恐ろしさがあるけれども、同時にこの男体を持った雪女は儚さに似た柔和な声音と表情を使う。 「いけないね、末世。禁龍寺家を安売りしては、いけない」 「白梅久(しろうめひさ)様。いくら何でも、手を上げるような真似はしてはいけません」  人の身ではないような妖しい美しい外貌だけで見る者を圧倒したが、それが2人いるのである。同じ顔が突き合わされている。 「紅梅久(あかうめひさ)さん。貴方は(いささ)か末世に甘いようだ。それで結局苦しむのは彼女だよ」 「白梅久様が厳しいのです。末世は三番目。それも女子(おなご)。好きにさせるのがよろしい」  白梅久(しろうめひさ)を兄として、彼等は双生児であった。末世とは母が違う。2人を立て続けに産んだ彼等の母親はそのあと間もなく死んでしまった。容赦のない"魑魅児"の噂の一部は禁龍寺の当主とその弟までをも皮肉った。 「そうは言っていられないんだ。赤梅久さん、そこをおどきなさい。僕は禁龍寺家の当主として、妹を罰する務めがある」  末世は頬を押さえ、両手を広げて双子の兄を阻止する赤梅久の背中を見つめた。 「私が言い含めておきます。私がこの子の兄として……白梅久様……どうか、どうか……」 「いけないよ。何度目なの、末世。その身体が自由だと思ったらいけない。禁龍寺家の誇りを持ちなさい」  距離を詰める白梅久に、その弟の紅梅久は後退り、頬を押さえて呆ける末世を抱え込んだ。 「紅梅久さん。貴方がそうして甘やかすから、末世がヤマイヌと破廉恥なことをするんだよ」  紅梅久は首を横に振った。妹を固く抱き締めて、同じ顔をした当主に背を向ける。長身を縮め、口を袖で覆うと激しく咳き込んだ。畳に血が飛び散る。編み目に真っ赤な液体が広がっていく。このとき、禁龍寺紅梅久の身体が病に蝕まれていることが公になった。  末世は座敷牢にいた。壁を向いて座っている。優しかった次兄は大病を患っていた。そうと知らずに甘え、安逸(あんいつ)を貪っていた自身に、彼女は(ほぞ)を噛む。  そこへ白梅久が現れた。 「君に対する気苦労もあるのだろうね、末世。三番目だからといって安心していたかい。いけないよ。君も禁龍寺の娘。紅梅久さんの患うような大病なら、僕が罹ってもおかしくない。覚悟をしておきなさい」  末世は当主のほうを振り返りはしなかった。かぎろう蝋燭の焔を一心に眺めていた。 「交わってはいけない血というものがある。末世……分かるね。闇路(やみじ)から戻ってきなさい」  彼女は返事もしない。 「何かを得て生まれたのなら、何かひとつは諦めなくてはならないんだ。君は何を得て生まれた?貴い血筋と価値だ。それなら自由は諦めなさい。女の身にはつらく厳しいことだけれど……」  白梅久はそう言うと帰っていった。 「蛙井さま……」  微かな空気の震えによって、燈火はあっさりと消えた。眩しさに慣れた目は白煙を見せもしない。 「まつよちゃん!」  きゃらきゃらとした声が響いた。末世がその声の主を認める前に、彼女の視界を遮る者がある。白梅久が素行不良の妹につけた彼の側近である。御祓院(みそぎいん)霞月(おぼろ)という背の高く表情のない美丈夫である。この男は懐から簡単に刃物の類いを引き抜いた。彼に降っている命令は2つ。末世も知っている。禁龍寺末世の護衛と、特定の人物との接近の阻止である。場合によっては殺害しても構わないという。この取り付けが末世の前で行われたのは、彼女への牽制でもあった。 「待って」  末世は御祓院の袖を引っ張った。無骨な眼差しを受ける。 「水でもかけてやりなさい」  末世は破落戸(ごろつき)の出みたいな男の背中を叩いた。そして門の中に入ってしまうと、そのうち水が土を叩く音がした。「わぁ!」と薄汚い百姓の下品な声が上がる。末世は目を見開いてその場に佇立(ちょりつ)していた。激しい憤りと昏い悦びがめらめらと燃え滾る。息苦しさを快楽へ変える。残忍な笑みを浮かべながら彼女は人目を忍んで涙を流す。夢では甘やかだった。  庭先の池の木の陰に(うずくま)り、所在なく鯉を見つめていた。団栗ほどの小石を拾い、放り投げる。赤い鯉が波紋の下を滑っていく。そこに白い鯉がやってきてすれ違っていく。 「まつよちゃん!まつよちゃん!」  朗らかな、微かに濁の入った彼の声が上がるたびに、水が叩きつけられる涼やかな音がする。 「なんでだよぉ!まつよちゃん!」  末世は身の内に潜むいやらしい豺狼虎豹に悚懼(しょうく)する。これが酷薄で嗜虐的な禁龍寺の血筋なのだ。血筋には逆らえない。  白梅久に甘やかされた夜だった。同じ顔をした弟が病に臥せり、寂しさと不安があるのだろう。彼は紅梅久の代わりを務めているつもりなのかも知れない。当主としての責務によって白梅久は厳しい態度を取り続けるが、元は紅梅久と同様に寛大な人物であった。この双子の違いは当主であるか否かであろう。 「でも、いつまで臍を曲げているのかな」  珍しく夕餉を共にしたが、別れ際に兄は末世を幼女みたいに扱った。頭を撫で、膝を屈めて顔を覗き込む。 「失礼します」  末世は触れようとした兄の手を躱した。後退り、改めて頭を下げて自室へ閉じこもった。 『まつよちゃん!』 『やめてよ!いやだよ!うわぁ!』  昼間に聞いた声が耳に張り付いている。彼女は耳を覆い、顔を覆う。哀れな百姓の声が延々と聞こえる。残酷な愛しさと憤懣に身を焼かれそうだった。絶対に殺すな、痛め付けるな、傷をつけるなと口酸っぱく言ってあるのだ。あの声はまた水をかけられたのだろう。それだけでも末世は堪え難い悲しみに悶える。  鏡が暗い部屋に光った。末世は己の青白く()けた顔をそこに映した。腑抜けた面構えは、一瞬誰だか分からなかった。  小汚い百姓の声に取り憑かれた彼女はそこにあった剃刀を眺めた。 『まつよちゃん!どうして!なんでだよぉ!』  困惑に満ち満ちた喚きを思い出すと、まるであの汚らしい男に抱かれているようだった。胸が熱い。そしてこの感情が末世にとっては正しくなかった。剃刀を眺め、彼女は自身の顔に刃を走らせた。頬の肉が切り裂かれる。 「蛙井さま……」  禁龍寺の当主は双子の弟の病にすっかり気弱くなっていた。いずれ自分も同じ病によって倒れ臥せると信じきり、決めてかかっている。同じ顔、同じ背丈、同じ体型で声まで同じなのである。ありとあらゆる箇所が酷似しているのだ。動作、仕草、物事に取り掛かる時機まで同じでは、白梅久が紅梅久と同じ病を患うと信じ込むのも無理はない。  白梅久は末世がいずれは当主になるであろうことを口にしたのだ。そうなれば、婿などは向こうから勝手にやってくる。選択の余地はない。顔の美醜などは関係なくなるのである。 「蛙井さま……」  切り裂かれた肉がぱかりと割れて卑猥に光っている。目からこぼれ落ちる鱗みたいなのが真っ赤な溝に溶けて滲みた。 「蛙井さま……」  うっう、うっうと彼女は鏡台にしがみついて潸然(さんぜん)としていた。血と涙が落ちていく。やがてぶるぶると剃刀を握る手が戦慄いた。鏡の中の戚容が怨色に燃え盛る。まったく(おこ)の沙汰だった。末世はもう一閃、先程の傷と交差するように刃を走らせた。その剃刀は寝刃(ねたば)であった。それを力任せに扱い、荒く千切られた彼女の肌理細やかな頬はおそらく元には戻るまい。 「蛙井さま……」  だが末世はそのようなことは構わなかった。 「蛙井さま……お慕いしておりますわ」  初めての恋心と粉砕された淡い慕情は何の不自由も不安もなく、安穏に暮らしていた繊細な彼女を狂わせてしまった。 「お慕いしております……蛙井さま……もし"廻世(まわりよ)"がござましたなら……そのときは、あたくしともう一度出会って、あたくしと契ってくださいましな……」  彼女は生々しい血肉を晒しながら、鏡に向かって恋情を打ち明け、そして求婚するのだった。女からの求婚はこの時代のこの地に於いては珍しかったけれど、彼女はそこに頓着しない。 『まつよちゃん!まつよちゃん!』  末世はまたもや滂沱たる涙をこぼしはじめた。 「蛙井さま……いけません。あたくしとは"廻世"でもお会いにならないで。お幸せになってください。あたくし……それを望んでおりますのよ。蛙井さまの素敵な人柄が春の枝木みたいに……伸び伸びとしていくのが一番ですもの。蛙井さま……ただ、"廻世"がございましたらそのときは、もう会えなくていいんですの。ただ……ただ、まだあなたを好きでいさせてくださいませね……」  血をぼたりぼたり落としながら、彼女は鏡の前でうっとりした。目元を染め、その眸子は蕩けている。 「誰かいるのですか」  襖が乱暴に弾かれた。すぱんと開く。御祓院が踏み入り、そして鏡台の前で顔面から流血しながら独り言ち、うっとりしている末世に一驚する。 「末世お嬢様」  彼は大きな掌で末世の肩を鷲掴む。 「触るな、無礼者!」  末世はその手を払い除け、低く咆えた。つい今しがた鏡の向こうへ告白をしていた可憐な姿はどこにもない。人が変わってしまった。 「末世お嬢様……傷のお手当てをなさってください」  末世は目を見開いた。そして頬を拭う。手の甲についた赤い液体に彼女はまたもや目を剥いた。我に帰り絶叫するのかと思いきや、血で汚れた手が傷をなぞった。 「旦那様を呼んで参ります」  御祓院はすぐに部屋を出ていった。末世は啜り泣く。 + 「僕は養子をもらったほうがいいのだろうか?」  縫い糸が点々と皮膚を潜る妹の顔に触れて、白梅久は微苦笑する。座敷牢の格子から、彼は腕を引いた。 「お好きになさればよろしいかと存じます」  末世は鰾膠(にべ)もなく返す。 「気が狂ったのかな」 「いいえ」 「ではどうして?君の縹緻(きりょう)は悪くなかった。何故……女子(おなご)の顔は命でしょうに。美醜ではないよ。傷の有無だ」  彼女は目を伏せてしまった。 「末世」 「わたしは禁龍寺の娘でございます。顔の美醜、傷の有無にかかわらず、望まぬ相手との縁談があるはずでしょう。これくらいのことで動じられては困ります、大兄上」  白梅久は末世の不貞腐れたような挑発には乗らなかった。結局は子供の戯言である。 「心中立てかい?」 「いいえ」 「養子を取るにしても、家柄というものがある。彼ではいけなかった」 「存じております」  兄はまだ苦笑しているが、どことなく疲れが滲んでいる。 「……末世。彼を殺して、君も死ぬかい。悲しいけれど仕方がない。紅梅久さんはあの身体で跡取りも望めない。僕はまだ何ともないから、すぐに縁談を取り付けよう。胤が流れ出て、(のち)の火種になるのは困るから、やっぱり彼と添い遂げることは認められないけれど……妹の幸せというものを考えれば、僕の悲しみなどは我欲だよ」 「いいえ、大兄上。わたしが間違っていたのです。わたしも禁龍寺の人間。のうのうと暮らしていていい立場にはありませんでした。大兄上。これからは真っ当な禁龍寺の人間として生まれ直り、匡弼(きょうひつ)に努めます」  末世は虚空に瞳を置いている。 「ですから、あの百姓には何もなさらないでくださいませ。わたしの気の迷いだと認めましょう。狗畜生のように(さか)っていたのだと」 「そこまで言う気はない。末世……。君は禁龍寺の娘になるには優しすぎた。もし君がこの家の者ではなく、僕が君の兄だったなら、大切なことだと喜べただろうね。彼への想いは分かっているから。ただ、当主として認められない。それだけだよ」 「あの百姓には、何も、なさるな」  そこが最も重要なところである。 「分かっているよ。君にちょっかいをかけないなら、こちらからすることは何もない」  きつく強張った末世の眉が緩む。表情が少し変わるだけで、顔面が熱く疼く。 「当面は、紅梅久さんの代わりもしなければならないね。末世……」  白梅久は先程より一段上の格子に手を突き入れ、妹の萎びた髪を撫でる。 「要りません……兄妹の情などは、邪魔なだけです。紅梅久の兄様もわたしも、大兄上の控えでございます。この身は、禁龍寺のために……」  末世は御祓院や使用人が禁龍寺三兄妹へするように、両手を前へ突き出すと、額を畳へ擦り付けるほど頭を垂れた。 ◇  魍魎坂(もうりょうざか)家は、禁龍寺家の遠縁だ。そして"魑魅児(ちみご)"が産まれ、それを巡り魍魎坂家では誰の胤なのか、誰の胤でもないのか、では何者によって仕込まれたものなのか御家騒動は絶えず16年ものあいだ続き、またその(たけなわ)、花盛りだった"魑魅児(ちみじ)"誕生時の勢いで穿(ほじく)り返されているようだけれども、それはそれとして、魍魎坂家と禁龍寺家との間ではそういう際の取り決めがあらかじめ交わされていた。それは主に不義の子、忌み子が誕生したときに活用された。  しかし"魑魅児"の取り扱いは初めてであった。 「養子として貰い受けるのは断ってしまった」  白梅久は膝を一度叩いた。古くから禁龍寺家に仕えている老翁、老嫗、使用人たちが一堂に会している。紅梅久は座椅子に凭れ掛かり、その隣に末世が座っている。これは禁龍寺家の会議でありながら、この2人の弟と妹への報告会である。 「しかし一個人的な理由でしょう。養子には貰い受けることはできないが、禁龍寺の本家と分家でその胤をいただくことにしたよ。……末世。苛酷なことだけれど、禁龍寺のために、よろしく頼むよ」  彼は末世だけを捉えていた。女の身にしかできないことなのであろう。"魑魅児"は男だったのだ。 「はい」  末世の重ねた手の上に、骨の浮き出るほど痩せた手が置かれた。 「ああ……末世……」  青白い顔の紅梅久が目眩を起こしたように後ろへ傾いた。頭を抱えている。色の悪い、罅割れた唇が妹の身を嘆いた。 「兄様……わたしは平気です。禁龍寺の人間ですから」  次兄のさらに薄くなった手を握り、彼へと返す。 「"魑魅児"は災いを呼ぶけれど、子を成すことでその災いから守られると言われているんだ。末世にはそのお手伝いをしてもらう。皆も覚えておくように」  会議はこれで終わったが、白梅久はそれとはまた別に末世を自室へ呼び出した。御祓院が斜め後ろに控え、異様な威圧感を覚えながらも彼女は当主の言葉を待つ。 「末世……こんなことになってしまって、すまないね」 「いいえ」  それが形ばかりの詫びでないことは、兄の顔を見れば明らかだった。それだけに末世も反発など抱けない。紅梅久の病が公になったときに、彼女が己を責め苛んだのは次兄の身のことだけではない。当主としての道しか選べなくなった長兄の不自由な身をもまた哀れんだのだ。そして好き勝手に生きていた己が身を省みて苦しくなる。 「急なことを聞くけれど、末世……君は手入らずかい。だからつまり……生娘かい」  白梅久の声には動揺が混じっている。卑しい好奇心的で訊ねているわけではないことも、末世はよく承知していた。妹にその点について訊ねなければならない兄の立場、そして自身の素行について彼女は唇を噛む。 「はい」 「相手方の好みなんぞはどうでもいいことだよ。ただ……」 「わたしは今まで、大兄上に寄りかかり好き勝手に生きて参りました。大兄上が慮ることではございません」  白梅久は愁色を隠さない。妹の頬に走る大きな傷を撫でた。 「痛いかな」 「いいえ」 「嘘だ。痛いよ。まだ腫れているもの」  末世は目を伏せて畳の目を凝らしていた。 「末世……」  白梅久は悪人ではないのだ。当主でさえなかったなら、おそらく温厚篤実な人柄と評されたであろう。しかし立場がそれを許さない。妹を不気味な存在に差し出す務めがある。彼はこの瞬間に当主であることを捨て、一人の兄として末世へ深々と頭を下げた。 「至らぬ兄で申し訳ない」 「大兄上、お顔を上げてくださいまし。わたしは禁龍寺の娘。それが最大の誉であることを今まで忘れておりました。ゆえに大兄上と紅梅久様にかけたご迷惑は量り知れません。女の身でも役に立てることがあるのは、大いに感謝すべきことでございます。大兄上、お願いですから、頭を上げてくださいまし」  妹を想う兄というのは、時折り非常に厄介で、節介で、過ぎた世話を焼きたがる。それが妹の望まないことでも先走り、空回るのである。  魍魎坂家の鼻摘み者、忌まれ児の話があって間もなく、末世の部屋へ夜間に訪ねてくる者があった。それは訪問ではなく、連行に似た冷厳な空気を纏っていた。廊下の明かりによって逆光していたが、真白い寝巻姿であることだけは分かった。
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