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第5話

◇  怨嗟の言葉が眼前で繰り返された。それでいて狭隘(きょうあい)な腹を貫くものは熱く固く蠢く。  見た目に反して素直で優しい彼はもういない。  息ができなくなるほど首を絞められ、涎が口角から垂れ落ちる。この関係に限界を感じた。膜越しの脈動を覚え、霞未(かすみ)()しかかる汗ばんだ男体を突き離す。だがそれは許されず、首に回っていた手が彼女の背中とベッドシーツの間に回り、密着を強めた。もう片方の手は繋がったままの場所のほんのわずか上を捉え、霞未は身動(みじろ)ぐ。そこを刺激されたなら彼女は甘く啼き乱暴な男の愛玩具になってしまう。  霞未はその場で相手と別れると近くの駅まではなんとか出てこられたが、植え込みの(ふち)に座ってしまった。激しい交合で腰が鈍く痛み、妙な痺れが下肢に纏わりついている。間を空けず連日締められる喉も痛い。カバンに入れていた小さなペットボトルから生温くなった水を飲む。容器が溶けているということはないはずなのにペットボトルの素材の風味を感じてしまう。 「大丈夫ですか」  声が降り、彼女は顔を上げた。白皙の美少年が立っている。嫋やかな印象は最初、女性と紛う。 「お水ありますよ、どうぞ」  霞未は首を振った。ここは治安が良いとはいえない繁華街の真横で、キャバクラやホストクラブのみならずソープランドやラブホテルの密集したピンク街が近い。そういうところで声を掛ける者を信用してはならない。この自動販売機で買っても120円しない水を或いは10倍、場合によっては100倍の値段で請求されるかも知れないのだ。この区画はそういう治安である。 「具合が悪いんですか」  どうせ見た目だけでは売れないホストの営業か、個人情報を売り捌くナンパ師の類いである。霞未は一貫して無視していた。警戒心だけでなく、そこには誰かを相手にしていられるほどの余裕の無さ、つまり体調の悪さも作用している。 「お姉さん、ボクの好みだからびっくりしちゃって。これも何かの縁ですし、ちょっとどこかでやすみませんか」  余程周りの見えていない、空気も読めないナンパ師らしい。霞未は顔も上げず喉に触れながら首を振った。喋るのも厄介な様であるが、きっちりと言葉にしない限りこの区画のナンパ師というものは引き下がらないらしい。 「ごめんなさい、そういうのじゃないので……」  声を出すと喉が痛痒くなって咳払いをする。もう一度ペットボトル風味の生温い水を飲んだ。 「本気ですよ、ボク」  彼は項垂れている霞未の隣に腰を下ろした。まだ休んでいたかったが、彼女は彼と同種の磁気でも放っているみたいに立ち上がった。 「お姉さん」 「もう帰らないといけないから……」  最近、ナンパによってコミュニケーション能力を高めろと教える胡散臭いセミナーがある。就職活動、恋愛、人間関係、仕事のためになると吹き込まれているのだ。それを鵜呑みにした養分としかいいようのない健気(けなげ)な受講生は、そのナンパがどのように相手を軽んじているのかなど考えず、ただただ無邪気な向上心を持って実践していくのだから哀れである。 「これ、ナンパじゃないですよ。本当です」  霞未はもう相手にしていられなくなった。ふらふらと歩いても彼はまだついてくる。そろそろ疑念を抱き、交番のほうへと歩を進めた。しかし交番に訴え出るだけの活力などない。モーションである。 「待ってください。ボク、ヒナタっていいます。レインとかやってます?連絡先、渡しておくのでよかったらメールください」  彼はわたわたとしながらメモ取り出してそこに走り書きをする。字が安定していなかった。紙切れを押し付けられる。それを人が好いことに受け取ってしまった。そこでふたたび霞未は執拗な若いナンパ師を見た。背は高いが華奢な感じがある。儚げな印象はこの国の夏真っ盛りの時期をどう過ごしているのか不思議になる。さらさらとした焦茶じみた黒髪は地毛かも知れない。野暮ったさはないが、手を入れたならさらに垢抜ける余地を敢えて残しているような中途半端な感じがある。つまりこの時間にこの区画でナンパをやるにしてはあどけない。 「待ってますからね、ボク」  品定めされていることに気付いたのか、彼は可憐な感じを与える嫋やかな顔を小賢しく綻ばせる。霞未は咄嗟に紙面へ逃げた。ボールペンの質感を残す、少し崩れながらもそれなりに綺麗な字を眺める。 「じゃあ、これで。ボク、本当に待ってますから!」  数歩後退って離れ、背を向けたかと思うと人懐こく振り返り手を振っている。彼が無辜(むこ)の受講生から金を巻き上げることを最重要項目としている悪徳セミナーに教えを実践しているのだとしたら、この一連の流れをあと何回繰り返すのだろう。そうまでして得たいものとは一体何なのだろうか。霞未は紙片をまた一瞥した。雑に握り潰してバッグに捩じ込む。いずれ中身を整理したときにゴミ箱に行くものである。 +  ドアが開いた。栗色の髪をポニーテールにした女、牧野宮(まきのみや)緋紘衣(ひろい)は振り返った。年上の幼馴染から紹介された年上の知人である。へらへらと情けない表情を浮かべ手を振るこの異性の知人に対して彼女はなかなか懐くことができなかった。 「牧野宮センパイも奧さんも外出中か」  緋紘衣はこくりと頷いた。大型犬のような雰囲気のこの知人は奈々都(ななと)深優(みゆう)とか言っていた。ネコの鳴き声みたいな名前だが、その風采は少し頭の悪そうなシェパード犬を彷彿とさせる。名は(たい)を表さない。 「緋紘衣ちゃん、何してたん?」  大きな図体は人の家だというのに寛いでいる。胡座をかいていた。 「息」 「そかそか」  沈黙が流れる。 「いい匂いがするね?」  やはり犬なのかも知れない。否、犬でなくとも鼻詰まりや嗅覚に支障のない人間ならばこの部屋に充満する匂いを検知するのはさして難しいことではなかっただろう。香水が薫っている。 「何これ、バニラ?」 「ココナッツ」  鼻をすんすんと鳴らして奈々都は空気を集めている。 「ココナッツか。確かに。でもそういうのあるんだな。香水とか使わないからな~。分かんないや。でもおれも大学生だし、そろそろ気、遣ったほうがいいんかな」  好きな人がいると聞いていた。桜の木を見上げている様に惚れたと話していた。緋紘衣は椅子から立ち上がる。なんだなんだと奈々都が目で追う。 「要らないからあげる」  彼女のそう大きくない掌に収まる黒い箱が奈々都の手に渡った。さらに箱は小さくなった。 「いいの?」  緋紘衣が頷いた。奈々都の長い指が箱を開ける。ほとんど使われていない噴霧式の香水瓶が入っている。 「何の匂い?」 「ベルガモット」  彼女はもう振り向かずにぼんやりしていた。他者が同じ空間にいるとき何がするのが嫌いだった。 「ありがとな。大切にする」  やはり彼女は振り返りもせずにただ首肯した。 「あの子、気付いてくれるかな。気付いてくれないかな。気付いてくれないか。だってまともに話したことないんだ」  へらへら笑っている。彼はいつでもへらへらと締まりがない。緋紘衣は多弁な兄が信用ならなかった。同様によく喋る奈々都に対してもそう遠くない感情を抱くことになる。かといって年上の幼馴染は喋らなすぎた。 「ひーちゃんは好きな子とかデキたん?」  何も反応がないことに恥ずかしくなったのか彼は照れたように笑って鼻の下を指で擦った。 「いた」 「いた?」  その姿を見なくとも奈々都がどのような反応を示しているかすぐに分かる。どうせ大仰に首を傾げるついでに身体も傾けているのだろう。 「もう付き合ってる」 「お、じゃあ大体おれと同じ感じだな。確証はないけど、うん、あれは多分付き合ってる」  おそらく今は腕を組んで幾度か頷いているだろう。奈々都という男は底抜けに明るい。何故年上の幼馴染・月城(つきしろ)綾麻(りょうま)は彼と友人なのだろうか。あまりにも正反対だ。互いに他では折り合えなかった短所を上手いこと補い合えるか、気付かないか、些末なことだと捨て去れる関係なのかも知れない。  やがて下の階から玄関扉を開ける音が聞こえた。階段を登ってくる。何の確認もせずに部屋に入ってくるのが兄だった。そのために着替えは足音を頼りに気を配った。 「お!やっぱ来てたか、ナナミ~」  緋紘衣の兄の葵衣(あおい)はドアに首を突っ込んで大学時代の後輩に破顔する。緋紘衣から見て彼等は似ていた。自分よりも同胞(きょうだい)という感じすら抱いていた。 「お邪魔してます、牧野宮センパイ」  しかし葵衣は妹とこの大学時代の後輩の関係を誤解しているらしかった。知り合いが訪ねてくることと、それが妹の元であることを彼は分けて考えているらしい。妹を視界に入れると苦笑に変わった。だが緋紘衣からしても兄が自分たちの関係を疑うのは無理もない。彼女のなかに多少の屈辱があるのは否めなかった。そして奈々都は莫迦だ。好きな人がいるのならば異性の家に入り浸るものではない。実際要らぬ誤解を与えている。 「おうおう。仲良いなぁ」 「へへ、香水もらったんですよ、緋紘衣ちゃんから。これでちょっとは垢抜けますかね」  葵衣はぎょっとして緋紘衣を一瞥する。彼女は顔を逸らす。兄妹仲は険悪ではないが、かといって睦まじいわけでもない。兄としては妹を構いたい、特に結婚をしてからは気を遣うように構いたがったが妹のほうがそこに甘える性分でもなかった。 「こ、香水?垢抜けるって……」  兄は困惑気味に妹と後輩を見比べた。奈々都と特別な関係にあると勘違いされているのは嫌気がするが、しかし弁解も説明も報告も面倒であった。 「ひ、緋紘衣」  奈々都は気付かないだろう。兄の妹を呼ぶ時の声音に若干の棘が混ざった。 「要らないのをあげただけ」  何故、浮気をしているらしい兄に口を出されなければならないのだろう。兄は浮気をしているようだ。妻を迎えておきながら、他の女と密会をしているそうだ。この目で見たわけではない。年上の幼馴染から聞いたのだ。それと比べたなら、片想い相手がいるとはいえど独り者の奈々都と深い関係であったとしてもこの兄から咎められる謂れはない。  義姉のことはよく知らない。葵衣もまた人見知りで寡黙な妹を慮って同居はしているけれど自ら深く関わるようはたらきかけることはなかった。懐けているかというと懐いてはいない。しかし好感を抱いているか否かを問われるところではない。ただ兄は浮気している可能性がある。  奈々都はそういう大学の先輩をどう思うだろう。彼のへらへらしている横顔を凝らす。そこに特別な意味などなかったが兄は目敏く気付いた。どの口が、まったくの誤解ではあるけれど、妹の恋路を妨げようとするのだろう。 「たまには飯行こうな、奈々都」  兄は牽制するような目を妹によこすと後輩の肩を軽く叩いて部屋から出て行った。 「優しいいいお兄ちゃんだなぁ。羨ましいな、おれ一人っ子だもん」  緋紘衣は顧眄(こべん)しきれず横面だけ晒した。結婚していながら他の女に会いに行くことを知っても尚、"優しいいい兄"だと彼は言うだろうか。兄は悪人ではない。しかし愚かだ。ゆえに善人にもなれない。それが緋紘衣の下した兄評である。 「外面いいから」  奈々都という男は裏表が無さそうだった。あるのだろうか。恋人と2人きりになれば相手に暴力を振るったりするのだろうか。月城綾麻はそうだった。女に暴行する様を緋紘衣は目の当たりにしたことがある。 ◇  捻り上げられた腕にかかる力は容赦がなかった。霞未は特殊な訓練を受けているわけでも筋力に特化するような鍛錬を積んでいるわけでも、体質や体格からいって筋肉がつきやすいわけでもなかった。圧倒的な性差によって彼女は身動きがとれずにいた。  無機質な美貌が鼻の触れそうなところにある。月城は彼女の痛みに歪む顔を眺め、やがて首を掴まれる。 「月城く…………苦し、い」  黒い壁に赤い巾木(はばき)、また黒い床にダウンライトの内装は非常に暗い。建って間もない校舎だが、瀟洒(しょうしゃ)で近代的な雰囲気を狙い過ぎて実用性に適っていない。 「苦しい……よ」 「苦しめ。苦しめ、霞未。もっと苦しめ……!」  嚥下できず、口角から涎が溢れ出る。 「お前が幸せになることは赦されない。お前は俺と不幸になる人間だ」  月城綾麻の情緒がここ最近非常に不安定なものになっている。腕を離されたが、その分首を絞める力が加わった。 「ぁ……っぐ、」  操られたようなこのほんの短い苦しみを耐えれば、彼はすぐに優しさを取り戻す。心に深い傷を負っているようだった。その傷を創った、或いは抉じ開けてしまったのは自分かも知れない。その疑いによって霞未はこの平生(へいぜい)は無機質で無感動、無表情な男を拒めずにいる。 「ごめ………、なさ…………」  首に回った両腕に縋り付く。引っ掻くことは逆効果だとすでに学習していた。裾を摘む。蝋人形や質の良いゴム人形と見紛う皮膚が、実際触れてみると肌理(きめ)細かく滑らかで冷たくしっとりとしている。 「霞未……」  意識が遠退きかけたところで強い圧迫が終わる。霞未は壁伝いに屈み込んだ。息を吸い、しかし喉の痛みで咳をした。 「すまない。すまない、霞未。赦してくれ……」  月城の声が甘くなる。彼も膝を折って目線を合わせた。 「苦しかっただろう……?すまない。赦してくれ。君が居ないと、俺は何もできない」  しかし霞未に応えるだけの余裕はなかった。まだ回復しない痛苦に(うずくま)り、咳を繰り返すのが精一杯だった。 「霞未……俺から離れないでくれ。俺にはもう君しかいない」  彼は咳で喉を涸らす恋人を抱擁した。背中を摩られる。こういう男でも人の温もりと穏やかな所作に落ち着いてしまう。次またやってくる恐慌に怯える間もない。 「すまなかった………すまなかった、本当に……………どこにも行かないでくれ、霞未。俺を捨てないでくれ。傍から離れないでくれ……」  ここで無言を決め込むとまた殺されかけることを彼女は知っていた。喉はまた痛む。 「うん……傍に居るから………」  嗄れた声は消え入りそうだった。答えると月城は切ない表情を見せた。眉間に筋肉が備わっていたらしい。艶やかな黒髪に気の利かないダウンライトのオレンジ色が輪を滲ませる。冷酷な印象を与える形の良い薄い唇が近付き、霞未の額に触れた。 「嬉しい。霞未…………嬉しい」  冷たい腕の中に閉じ込められ、彼女は凍えた。何故自分なのか分からない。何故彼に好かれたのか心当たりがまるきりない。このような情緒の落差を受け入れそうな雰囲気を持っていたからか。つまりは気の弱さを見抜かれていたのかも知れない。霞未は恐ろしい男に従うことしかできなかった。屈服した。その場凌ぎではあるけれど抗うなり無言を貫くなりすると首を絞められ罵られ犯される。  恐怖の抱擁中に霞未のバッグが振動した。中に入っているスマートフォンだ。画面が光っている。 「環絹ちゃんが、呼んでるから……」  まだそこに浮かぶテキストすら目に入っていないが霞未は適当な嘘を言った。月城綾麻は恋人の人付き合いには大らかだった。友人を優先することに毒突いたりしない。むしろ友人を優先するよう勧めたりした。 「そうか……それじゃあ、また連絡するよ。本当にすまなかった」 「平気……」  顔に伸びてくる手に霞未は咄嗟に目を瞑ってしまった。予測されていた接触は起こらない。おそるおそる目を開ける。しなやかな手は宙で止まっている。目を開ききってからまた徐ろに手が近付き、頬を撫でる。 「愛してるから」 「う、うん」 「代永(よなが)が、待っているんだろう?」  彼はもう一度、霞未の額に唇を落とした。 「うん……じゃ、じゃあもう行くね」  その足取りは逃走に似ていた。否、逃走であった。月城のいる地点から離れてからスマートフォンを確認する。環絹が呼んでいるということはなかった。先程までしていた会話の返信である。建物の影に隠れ、壁に寄り掛かってメッセージを打ち込んだ。 「おっ、黒崎サン!」  油断していたときに脇から聞こえた男声に霞未はぎょくっと肩を跳ねさせた。胸が痛くなるほど心臓が早鐘を打った。異性に厳しい親友が呆れながらも寛容な雰囲気を醸し出す数少ない人物がへらへらと緩んだ顔をして手を振っている。そうとう人懐こい気性らしく傍へやって来た。月城に対する後ろめたさと直結した恐怖と不安によって霞未は半人分スペースを空けてしまった。 「ああ、ゴメン。気が利かんかった。距離感バグってるってよく言われんだ」  からからと爽やかに笑っているのを霞未は無関心に横目で見ていた。 「(たま)ちゃんは?」 「今日は一緒じゃないから、分からない」 「そかそか。黒崎サン、風邪ひいてんの?声嗄れてんね」  気楽な物言いは先程月城との間にあったことを胡乱な記憶にした。暗い部屋と相俟って白昼夢と紛わせる。しかし依然として喉はひりついて痛んだままだ。 「そうかな」 「うん。飴ちゃんあげる。友達からもらったんだ。溶けてないかな?溶けてないと思うケド」  彼は筋張った指で袋の中の飴玉を転がした。包装を隔てているが素手で弄くり回されているような厭悪を催す。しかし彼はそのような気を察するでもなく飴玉の袋を渡した。 「……ありがとう」  それでも環絹がある程度心を許している男ならば無下(むげ)にもできず、不思議とそれだけでこの男、奈々都深優とかいう人物に対する信用を保証するものになってしまう。 「どういたしまして。ガムとかもあるから言ってな。おれタバコ吸わないからさ」 「タバコ吸わないとガム持ってるの?」 「うん。だってよく外国の映画で言うじゃん」  霞未は首を傾げた。余計なことを言ってしまったかも知れない。奈々都は訳の分からないことを言って時折環絹を怒らせているが、この場に彼女は居ない。 「それって禁煙ガムのことじゃないの?分からないけれど……」 「え?そうなん?そっか。黒崎サン、頭イイなぁ」  へらへらと嫌味なく奈々都が笑う。ふわりと柑橘類の甘い匂いが漂う。それは今言ったガムの匂いであろうか。それにしては小洒落た香りであった。ふと相手を見上げた。形の良い額がまず目に入る。その直後にばちりと視線が()ち合い、破顔していた奈々都から表情が消え失せた。今までの愛嬌が嘘のようにその面構えは印象が好いものとはいえなかった。目付きが悪い。霞未は寒気がして顔を逸らした。奈々都も無言である。またもや息が苦しくなった。異性が傍にいる不安である。 「そろそろ教室行くね。飴ありがとう。またね」  嗄声(させい)はぶっきらぼうな趣を残していた。壁から弾かれたように身を剥がし、奈々都からも逃げる。学生会館に居るという環絹と合流した。彼女はすぐに親友の異変に気付いた。 「大丈夫、あーた?」  肩を抱く感触に落ち着く。 「うん……」 「髪ちょっとぐしゃぐしゃよ。行く前に直しましょう。何かあったの?」  恋人が月城で、その月城から大学構内で首を絞められていたなどとは言えなかった。 「ちょっと壁に寄り掛かっちゃって。その時に崩れたのかも」 「そう?まぁ気にするほどじゃないけど。あーた、いじめられてるんじゃないでしょうね?」  ずいと顔を覗き込まれ、霞未は身を引いた。環絹は猫を思わせる峻厳な印象のある素顔にさらに(まなじり)を強調し上がり眉にペンシルを入れている。そのためにさらに厳しい雰囲気を醸し出していた。 「え?いじめられてないよ、全然」 「そう。それならいいけれども。いじめられたら言いなさいよ割と陰湿な輩っているからね」 「うん。でも平気だよ。何もされてない。あ、でも奈々都くんから飴もらった」  草臥(くたび)れた包装の飴玉を見せる。何気ない報告、或いは雑談のつもりだったが、口にしてから彼女は後悔した。環絹は奈々都が好きなのではあるまいか。するとこの発言はどういうことになるのだろう。そのつもりはなかったが自慢にはなるまいか。霞未は固まってしまった。 「飴?色気が無いわね」  しかし危懼した表情も響きもそこにはなかった。 「声涸れてるものね。何か飲む?買ってきてあげるから。あったかいのになさいよ。ミルクティーでいい?」 「え、うん……でも、」 「いいから。あーしが風邪ひいたらあーたが看病なさいよ。それでチャラ。約束ね」  肩をしゃんと叩かれる。環絹も奈々都も、みな優しい。月城の豹変に耐えられる気がした。自分の生きていた世界は優しかったはずなのだ。彼を裏切った自分が悪い。彼を壊したのは自分が悪い。
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