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第3話

――こういう不適切な関係はよくない。  差し出された画面に映っているのは牧野宮と自身だった。霞未は目を見開いた。 ――俺と付き合おう。俺のことだけ考えろ。こんな関係は、よくない……  開いた口を塞ぐことも忘れた。面識のあまりない、接点もほぼない相手から呼び出されたときから嫌な予感がしていた。 ――お願い、牧野宮先輩には、迷惑かけないで!  何ひとつ話を聞いていなかった。真っ先に浮かんだのは金だった。しかし彼の身形からそこはかとなく漂うのは、特に金銭的に困窮しているわけではない余裕である。大々的にハイブランドのロゴマークのあるものを着ているわけではないが、見るからに質の良い衣料を身に纏ってる。そこに嫌味がないのは彼の体型のせいか。次に浮かぶのはレポートだ。資料を流せというのかも知れない。それか出席登録の代理である。遊んでいる大学生は出席登録だけして帰るということが間々ある。それの対策として授業の途中に出席確認の記名用カードが配られることもあるけれど。 ――言わない。言わないから、牧野宮さんとは別れることだ。  伸びてきた手に怯える。目を瞑る。肩に触れられ、びくりと跳ねる。殴られはしないか、首を絞められはしないか。埃臭い暗闇で行われた暴力を思い出す。肉に食い込む容赦のない指や、押さえられた喉の苦しさなど。 ――怖がらないでくれ。大切にする。  赤信号で車が停まった。小さく点いたラジオからクリスマスソングがかかる。 「霞未」  助手席側の窓から外を見ていた彼女に声がかかる。甘く静かな質感がある。 「はい……?」 「外ばかり見てどうしたんだ」 「イルミネーションのあるおうち、見てた」 「そうか。邪魔したな」  彼が柔らかく笑ったの見てからまた霞未は助手席の窓を向いてしまった。 「友人と喧嘩でもしたのか」 「え……してない。どうして?」  首だけ運転中の恋人に向ける。 「あまり機嫌が好くないみたいだ」 「そ……うかな。楽しかったよ。行かせてくれてありがとう。迎えも、来てくれて…………」  形式的には恋人ということになっている。牧野宮にはそう説明した。環絹にはこの恋人が自ら紹介させに来た。しかし霞未は彼が怖い。ほんの小さな動作に警戒する。特に密室ではそうだった。それから2人きりのときに。暴力と屈辱が過る。同居している由利(ゆり)爽太(そうた)も大体同じようなことで忠告じみたことをそれとなく仄めかしていた。一口に言うと、陰気な感じがある。それでいて理性的ではあるけれど、凶暴な雰囲気が否めない。冷静に狂気を示しかねない危うさを感じる。それをミステリアスと言い換えて誤魔化す。 「楽しんだならいいんだ。霞未が楽しいのが一番だから」  暖房に包まれても指先が強張る。声音も態度も行動もすべて甘やかすようで優しい。そういう彼を素直に受け入れられない自身を何よりも霞未は冷ややかに見てしまう。 「そ、爽太に連絡するね。そろそろ帰るって……」  端末が戦慄く。着信があったわけではない。手が震えている。 「帰るのか」 「え……?」 「明日、休みなんだろう。俺の家、来ないか」  信号が青に変わる。彼の目は前方を捉えた。 「でも、着替えとか……持ってないし」 「俺のを着ればいい。何かするわけじゃない。一緒に居たい。霞未は俺のベッドで寝るといい。俺にはソファーがあるから」  美しい輪郭が外の光で白く浮き上がる。長い睫毛が反っている。 「急かさない。霞未が諦められるように待つ」  環絹にも爽太にも牧野宮との関係は言っていない。重苦しい出会いの経緯も話していない。隣の恋人にも言うつもりはないけれど、いずれ言わなければならないのかも知れない。性行為が暴力であったとはいえ初めてではないこと、そういった行為に拒否感があることを。 ――待っても、月城くんのことは見られないかも知れないよ。 「……ありがとう」  車は月城の自宅に向かっていった。家に行ったところですることはない。車内にいるだけでもほぼ沈黙だった。喋るのが好きではないのかも知れない。むしろ盛り上げろという暗黙の要求なのだろうか。しかし霞未ももともと口数はそう多くない。彼の雰囲気もまた多弁を忌避するようである。牧野宮と共にいて流れる静寂とは異質だ。そこには忖度や疲労する気遣いが働く。月城は一緒に居られるだけでいいと言うが、霞未は彼といて強張る。その緊張が伝わっても彼は寛げるのだろうか。  窓の外の風景を見ているうちに目的地へ到着した。洒落た外観のアパートで、田舎の大きな一戸建てといった感じだった。駐車場も広い。 「足元、気を付けてくれ。暗いからな。それに寒い」 「うん。ありがとう……」  車から降りる。月城は霞未のほうへと回ってきた。マフラーを巻き直される。肩を抱かれ、繋いだ手は彼のコートの中に引き込まれた。 「冷えるな。夕飯は、もう?」 「まだ……」 「それなら食べていくといい。鍋の具材を買ってあるから」  月城宅の玄関に入ると彼は三和土で立ち止まり、霞未のほうを見た。一人暮らし用のアパートらしいが随分と広い。 「お邪魔、します」 「抱き締め合いたい。いいか」 「う、うん……」  両腕を広げて待てばいいのか、自ら彼を抱擁しにいけばいいのか分からなかった。息が合わない。いずれこの要領の悪さに辟易して、破局は遠からずやってくるのが窺えた。  月城(つきしろ)綾麻(りょうま)は尽くすタイプだ。鍋の用意や小鉢に取るだけでなく、髪を乾かすのもやりたがる。甲斐甲斐しさが窮屈だ。何か見返りを求められているようで重い。 「霞未が寝つくまで、傍にいていいか」  表情の乏しい美貌は生々しさがあまりない。体温があることも感じさせない。それは人を誑かし獲って食らう妖怪を思わせる。 「う、うん……」 「手、握りたい」  彼の清潔感に溢れ、品があり、麗しい容姿からいえば、他に献身的な恋人に上手いこと応えられ、また求めてもいるような人物は、黙っていてもやって来そうなものだ。それを脅迫紛いの手を使い、わざわざ息が合わない女を選んでいる。余程、世の中の不倫というものが許せないのかも知れない。我が身を張ってでもやめさせようとするほどに。 「月城くん」 「どうした」 「ありがとう………その。色々とやってもらって」  意識の戻らない入院患者の如く、月城の乾いた冷たい両手は霞未の片手を挟んだ。先程マッサージをすると言い出してボディクリームを塗ったばかりだが、彼の手には潤いが足らない。 「俺が好きでやっているだけだから、気にするな。おやすみのキスしていいか…………口にはしないから」 「え……う、うん」  布団に入りながら姿勢を真っ直ぐに正す。交際が始まってからキスはしたことがない。 「霞未が俺を好きになってくれるまで待つ」  果たしてその日が来るのか。その兆しも彼女は感じられずにいる。牧野宮の存在があまりにも大きい。しかし牧野宮のことを抜きにしても、この無表情で世話好きな美男子に恋愛感情を抱けるのかは分からない。非の打ち所も活気もなく左右対称で無機質な美しさは却って彼女を遠避けた。牧野宮の口元を歪ませる愛嬌のある八重歯や、幼さと利発さを感じさせる雀卵斑など、ナチュラルな瑞々しい魅力を月城からは感じられない。それは外見的な嗜好よりも感情面が先行していたということも否めないけれど。 「うん……」  彼は長い指でおそるおそる霞未の肌に触れた。前髪を慎重に掻き分ける。 「好きだよ、霞未」  薄い目蓋を伏せ、月城は額に接吻する。 「嘘でいい。嘘でいいから、霞未も言ってくれ。口にしてみたら、少しずつ……俺のこと、好きになってくれるかも知れないから」  切なそうに柳眉を寄せた。感情の伴わない女を無理矢理に付き合わせていることをよく理解しているらしかった。霞未の良心と後ろめたさを刺す。 「わたしも、好き……」 「ありがとう。おやすみ」  冷たい手が頭を撫でていく。  青い空だった。白い雲も適度に浮かんでいる。芝生は程良いグリーンだった。真紅の薔薇の点綴(てんてい)とした垣根の向こうには日の光の鱗漂う紺碧色の水平線が引かれていた。  隣には太陽よりも眩しい白のタキシードに身を包む牧野宮がいる。霞未はそよかぜにヴェールを靡かせる。鐘が鈍く重い音を鳴らす。フラワーシャワーを浴びて真っ白な階段を降りていく。光沢のある白い手袋にレースに覆われた手を重ねる。布越しに体温を感じる。階段を降りていく途中で牧野宮が出遅れる。 『―黒崎』  呼ばれて振り返る。眩しいほどのタキシードに身を包んだ牧野宮は灰白色だった。肌も髪もない。骨格標本が牧野宮になりすましていた。 『霞未……裏切るなんて酷いな』  左右に別れ道を作っていた参加者の中から月城がやってくる。隣に知らない女を連れていた。それは牧野宮の妻だと認識できた。霞未は髑髏になった牧野宮を見る。タキシードはがしゃがしゃと乾いた音を立て、膝から崩れ落ちる。風化した。小麦粉の袋を倒してしまったときのように砂が広がっている。 『霞未、裏切り者は、死なないと』  月城と牧野宮の妻が一歩一歩、躙り寄る。顎が震えた。後退る。声が出ない。 『許して、許して……』  許されるはずがない。既婚者に言い寄り、自身の恋慕を押し付け、誑かした。 「霞未。どうした」  揺さぶられて起きる。無機質な美貌が薄暗いなかにぼんやりと浮かんでいる。背中に汗をかいている。冷たい手が頬を撫でた。 「月城くん……」 「(うな)されていた。大丈夫だからな、霞未」  徐ろに起き上がると、抱き締められる。 「大丈夫だ」 「うん……ありがとう」  緩やかに恋人を剥がす。しかし彼は霞未の両肩に腕をかけたまま、完全に離れようとはしなかった。 「一緒に寝るか……?変な意味ではなくて…………」  やはりあまりにも美しかった。首を傾げる所作には可憐さまで備わっている。それが霞未を畏れさせた。 「大丈夫……月城くんのこと、起こしちゃった?ごめんね」 「俺のことは気にしなくていい。水を持ってくる」  彼は彼が乾かした恋人の髪を撫でてから部屋を出ていった。その途中で部屋の隅にある家電製品を点けていった。加湿器のようだ。少しずつ小さな音を轟かせる。  加湿器を所在なく凝らしながら霞未は忽如として身震いした。月城に知れる前に牧野宮と別れなければならない。だが分かっている。別れたくない感情を尊重してしまうのだ。  ドアがノックされ、月城がグラスを持って戻ってくる。 「一気に飲むな。身体を冷やす」  彼はベッドに腰掛け、霞未の傍に寄り添う。肩を抱き、自身の体温で彼女を温めようとしているようだったが、彼自身があまり温かくない。まるで冷気を放っているみたいに却って寒々としていく。 「月城くん……わたし、もう大丈夫だよ。ごめんね、手間かけさせて」  彼は霞未の肩を引いて顔を覗く。鼻先がぶつかりそうなほど接近した。悲しげに眉間に皺を刻んでいる。 「そんなこと、気にするな。もっと俺を頼ってほしい。甘えてくれ。恋人なんだから……」  真っ直ぐな眼に霞未の心臓が一際速くなる。妖美な恋人にときめいたからではない。氷を背に当てられたみたいだった。凍てついた指先で背筋を逆撫でされている心地がする。 「あ、あ……うん。ありがとう」 「霞未……」 「眠くなってきちゃった。おやすみ」  返事はない。代わりに額へ唇が落ちる。 「魘されて起きたのは俺のほうかもな。どこにも行かないでくれ」  意味深長な響きを含んでいるけれども、おそらく夢の不毛な話だろう。たとえばそこで霞未から掘り下げようとしても、"ミステリアスな"彼ははぐらかすに決まっている。 「おやすみ」  ドアを閉める直前に彼は振り返った。頷く。それから静かに把手が軋んだ。 ◇  重ねた手を握り締める。窓の外に目をやると、余計に牧野宮の体温と質感を知れた。風力発電機と紺碧の海、淡いブルーの空が視界を占めている。 「何か悩んでるの?あはは、オレとの関係についてかな」  振り向くと運転席の牧野宮が軽く笑った。しかしどこか陰惨としている。 「え?全然、悩んでなんていませんよ。牧野宮先輩と居られるくらいですから」  霞未はどうにかこうにか笑みを繕う。霞未にとって彼と居ることに歓びを覚えるのは本当だ。しかし互いの置かれている状況、立場によって暗雲を伴う。 「こんなだから言えないこともあるだろうな。でも、黒崎。大丈夫だ、きっと」  時折、無責任な明るさに救われることがある。中身のない、根拠も論拠もない、口から出任せの呑気な気休めに癒されることがある。それは牧野宮の口から吐かれたものだからだろうか。 「牧野宮先輩……」 「黒崎の未来は明るいよ。だから安心しろ」  握り合った手が温かくなって疼いている。牧野宮は快活な表情をしている。霞未は目を泳がせた。視線が()ち合えば逸らせなくなってしまう。逸らせなくなれば、離れられなくなる。帰らなければならない場所に果たして背を向けきれるであろうか。彼女には自信がなかった。ふと過ぎる形式上の恋人の姿が息苦しい。 「ありがとうございます。嬉しいです。牧野宮先輩にそう言ってもらえると、本当にそんな気がしてきます」 「なんだかオレが慰められてるみたいじゃないか。黒崎は昔っからいい子だな。ちょっとはワガママ言っていいんだぜ。飯食いに行くか?何食いたい?奢ってやるから、美味いもの食って元気出せ」  霞未は首を振りかけた。牧野宮の家庭と自分の恋人の裏切りの元にこの歓びと安堵がある。しかしそれを突き付けるような反応は彼を困らせるだけであった。こうして会っている。それだけで我儘は満たされている。 「天ぷら食いたいな。黒崎は?蕎麦屋にするか。オレは天丼にしよ」  牧野宮は空いた手でスマートフォンを操作する。グルメ情報サイトを見ているらしい。 「スパゲティとかがいいか?ハンバーグあるな。中華はあんま気分じゃないかも」  親指が画面を下に滑らせていく。妻に黙って女と会っていることを、彼はどう思っているのだろうか。訊けるはずもない。霞未はまた窓の外に目を向ける。凪いだ海と所在なく眺めた。 「カレシのこと考えてるのか」  牧野宮はスマートフォンの画面を黒くした。そして霞未のほうへ少し前のめりになった。 「違います。牧野宮先輩のことですよ。嬉しいんです。ありがたくて……でも、」 「不安なんだ?」  消え入りそうになっていく語末を牧野宮が引き取った。躊躇いがちに霞未は頷く。 「なんで?」  無邪気に訊ねる彼が憎らしい。だがそこにはまた別の感情が透ける。 「呼んでくれたら時間見つけて会いに来るよ。その場ですぐにってのは難しいけど―大事な後輩だもんな」  それが予防線であればよかった。しかしその口振り、霞未の知る牧野宮の性分から言ってそれが本心であり、駆け引きでも予防線でもないことは明白だった。  時間停止したような沈黙が流れた。それでいて牧野宮のほうは慌てている。"大事な後輩"からどのような告白を受けたのか思い出したのかも知れない。 「とりあえず飯行くぞ」 「はい。でも、割り勘にしましょう。会いたいって言ったの、わたしのほうですから」  奢らない男は最低だ、不景気さえなければ男は奢りたい生き物だ、割り勘の男とは付き合うべきでない等々、そういう話や見出しなどはよく耳にし目にした。しかし妻帯者に会ってくれと誘ったのは自分である。不本意とはいえ恋人を持ちながら密会を迫っているのだ。金を費やされる価値が果たして自分にあるだろうか。霞未は浅ましいだけでなく上手くやり過ごせない不器用な自身に嫌気を覚えた。牧野宮が誘いに応じたのは嬉しかった。幸せである。しかし曇りひとつ無いわけではない。 「そうか?急だったもんな。じゃあまた今度。そのときは甘えてくれよ。オレも黒崎と美味いもの食いたいし」  嫌味なく彼は引き下がる。曇天が突然からりと晴れたみたいだった。深追いせず潔く無垢な優しさを持っている。それが或いは妻を、または霞未を痛めつけているのかも知れない。 「……はい」  牧野宮はやはり無邪気だった。それは計算だろうか。疑えども霞未からしたこの既婚者男にそのような企みはないように思える。それがさらに彼女を惹きつけ、同時に惑わせる。 「じゃ、何食うか。奢りじゃないなら勝手に決められないもんな。何食いたい?好きなの探せよ」  スマートフォンを差し出される。無防備だった。ホーム画面にはウェディングドレスを身に纏った若い女性がふざけた仕草で跳び、大振りな裾やヴェールをはためかせた瞬間が映っている。見覚えがある。妻に間違いなかった。  牧野宮は残酷だ。彼は霞未の動揺に気付くこともなくハンドルを握った。 「とりあえず道に出るわ」  霞未は震えるように頷いてインターネットに繋げた。何をしようとしたのか忘れてしまった。アイコンの奥の牧野宮の妻の姿が焼き付いてしまった。  会えると嬉しい。だがすぐ隣に彼がいながら孤独である。しかしそれでも離れがたい。会えないことに比べれば些細な感覚だ。  飯を食い帰路に就く。牧野宮の運転する横顔を瞥見しては助手席側の窓に逃げていた。楽しい時間は短いようで、どこか長くもあった。牧野宮はこれから家庭に帰る。妻と食卓を囲い、夜を過ごし、朝を迎えるのだろう。何故そこにいるのが自分ではないのかと霞未は不満を抱きかけ、すぐに打ち消された。虚しい妄想に変わっていく。妻を自身に置き換えて想像が膨らむ。都合の良い光景である。隣にいる牧野宮の存在がそれが虚無であることを彼女に深々と分からせた。 「これから帰ったら何すんの?」  きょろきょろとしている後輩が暇をしているとでも思ったのだろう。控えめに流れていたカーラジオが切られた。 「このあと……このあとは、月城くんに会います」  躊躇いがちに見遣った牧野宮は少し驚いた顔をした。 「タフだな」 「いいえ……そんな。わたしは助手席に乗っているだけですから」 「おお、じゃあドライブデートか」  彼は軽快だ。自分に懐き自分を慕う後輩とその恋人に対して屈託がない。 「映画を観にいくみたいです」 「映画かー。いいな。面白かったら教えてくれよ」  余所見はできないが、その吊り上げらた口元から並びの悪い皓歯(こうし)が見えた。活き活きとして見える。霞未は真っ直ぐな視線を受けずに済むこのポジションとこのタイミングが嫌いではなかった。 「牧野宮先輩とも観たいです」 「ええ~。いいよ、分かった。でもオレ怖いのムリだから」  悪戯っぽく語調を作り、結局は大輪の花が咲くように表情を綻ばせる。  手に手が重なる。相容れない体温に強張った。指の関節が軋む。映画の内容はほぼ入ってきていない。感情的なセリフが右耳から左耳へ、或いは左耳から右耳へと受け流されていく。隣に座る恋人の手の中で、自身の指の長さ、形がよく分かる。牧野宮と違い境界を見失わない。  映画のヒロインが感情的に叫んでいる。好きな男から手酷い扱いを受けた彼女を、彼女に想いを寄せているらしき幼馴染が説得しているシーンだったようなことは霞未もなんとなく理解していた。  気味の悪い質感を拒めなかった。2、3時間ほど前の後ろめたさによるものだ。それだけではない。月城綾麻は優しく繊細な人物である。ここで手を引き戻せば彼は気にするだろう。  大画面の中で片想いの男が手に入らない女を抱擁する。彼女は好きでもない幼馴染を突き飛ばそうとする。自分を捨てた男の元に行きたいのだと言う。都合の良い女でも構わないと言う。ただ傍に居たいのだと嘆く。  霞未は前の席に座っている客の後頭部の影絵を見ていた。何かが重い。  スクリーンの中の聞き分けの悪い女に焦れた幼馴染が無理矢理に口付けた。澱んでいく。フィクションを前に息が苦しくなった。監督と脚本と観客の中の暗黙的な合意である。しかしこのヒロインはどうだろうか。好きでもない男から勝手に想いを打ち明けられ、力尽くで唇を交わす。作り話だ。架空だ。虚構である。再現性は低くなくともこれは非現実の出来事だ。しかし霞未の中のつらく厳しい記憶を連想させ、容易に等身大のものを手繰り寄せる。目を瞑った。耳も塞いでしまいたい。駆け寄る若き日の牧野宮と、羽織らされたデニムジャケットの香りを思い出し、どうにか平静を装った。優しい恋人の手を振り払ったことにも気付かなかった。
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