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第2話

 慣れない高さのヒールで膝が震える。 「黒崎さん」  後ろが詰まったのかも知れない。その声に背を押されたみたいだった。中途半端に後方に頭を下げて環絹(たまき)の元に向かった。 「霞未(かすみ)……」 「ちゃんと言えたから、もう大丈夫」  環絹は彼女の肩に手を置いていたが、ふと覗き込んでいた顔を上げる。霞未もつられた。すでに暗くなっている駐車場にダークカラーのスーツ姿があった。こちらを見ていた。それからすぐに身を翻し、外灯の届かないところへ溶けていく。 「この後、せっかく集まったし勝手に二次会って予定(こと)になってるんだけど、あーた、どうする?」 「それって環絹ちゃんたちのゼミの集まりでしょう?わたしが混ざるのも悪いから、わたしは帰るよ」 「でもあーた……」  遠くから環絹を呼ぶ声があった。彼女といつも一緒にいる同じゼミの友人たちだ。環絹は明らかに気を遣っている。霞未は努めて繕い続ける。これで吹っ切れたのだと彼女に知らしめねばならない。 「わたしはへーき!楽しんできてね。今日は色々とありがとう!」  バイバイ、と取って付けた。大仰に手を振る。友人の友人たちが環絹のほうにやって来た。彼女には彼女の付き合いがある。環絹は面倒見がよく、社交的で時折毒吐くけれど、決して意地が悪いわけではなかった。その性格から男女問わず交友関係が広い。そこに割って入るのは憚られる。好い友人と出会えた。それ以上の欲は張れない。今日もまた彼女なしでは会場まで来られなかった。理由もなく不参加に丸を付けて牧野宮に対する不義理を働くところだった。  華やかな喧騒に背を向ける。駅までは近い。脹脛と爪先が痛む。1人になり夜風に吹かれると自由になった気がした。特に不自由も感じられなかったけれど。肩の力が抜ける。  吃逆がどこからか聞こえた。直後に自身の喉が波打った。夜風に吹かれ乾燥気味な眼が一瞬にして氾濫した。慣れない服装が、大きな音響や強弱のある照明が、人にも身形にも気を遣う場が、一日で神経を磨り減らし体力を費い情緒にまで来ているのかも知れない。ヒールがアスファルトを刺す。化粧が崩れるのも構わず両手で顔を覆った。後は電車で帰るのみだった。  後ろから光に照らされる。車だ。背を向けているとはいえ、暗い中に浮き彫りにされているのが嫌だった。平静を装うが、車はなかなかこののろのろと呑気な歩行者を追い越さない。徐行している。並んだ。そう人気(ひとけ)のない道ではないが、不審車両ではあるまいか。霞未は身を縮め白線のさらに内側へ寄っていく。ひったくりか人攫いを疑う。前方には犬を散歩させている者もいれば、自転車で駆けていく者もある。買い出し帰りらしく両手にビニール袋を下げた人もいた。しかし油断ならない。 「こんばんは」  車と並ぶ。後部座席の窓が開いた。爽やかな面構えが下がっていく強化ガラスの奥に見える。霞未は後退る。短髪が暗闇に溶けている。形の良い広い額が特徴的な同年代の男だった。 「牧野宮さんの結婚式の参加者(ひと)だろ?」 「…………はい」  相手は人の好さそうに笑った。 「乗ってかない?」  助手席の窓も開く。 「夜道は危ない。乗っていけ」  運転席の張り詰めたような影絵が動く。暗い空間に染み渡っていくような声は何度か聞いている。  彼等は夜道に車で一人歩きの女に話しかけることに対して鈍い。霞未は首を振った。腕を伸ばされたりはしていないけれど、いつ突発的にそれが行われるのか油断も隙もなかった。 「い、いいです。平気……大丈夫…………」 「あっ、ナンパだと思われてる?」 「へ、平気です!お気遣いありがとうございました」  彼女は後ろに引いた。元来た道を戻る。帰りが着々と遅くなる。動悸がした。「夜道は危ない」と言っていたが、なぜ彼等は自身が危険要素であることも理解していないのか。  踵も痛み、脹脛が引き攣れ、膝が震えるけれども遠回りをして駅に辿り着く。  乗り換えの駅に着いたとき、着信があることに気付いた。環絹からだ。掛け直す。5コールを待たずに繋がった。 「環絹ちゃん、なぁに?」  最初に背景の騒がしさが聞こえた。 『あ、霞未?よかった。さっき車から声かけらんなかった?』 「ああ……うん。でもどうして?」  返答のテンポが遅れて感じられた。 『ごめんな、霞未ちゃん』  返ってきたのは環絹の声ではなかった。男の声だ。それも記憶に新しい。電子音を介しているがすぐに分かった。数十分前に聞いた声だ。彼女は応えず黙っている。 『あれ?切れちった?電波障害か?』  それは嫌味というよりも独り言のように聞こえた。飲酒後特有の間伸びして呂律の回っていない感じがある。そのまま通信障害のせいにして通話を切っても、相手は酔っ払いだ。悪く思わないでもなかったけれど、環絹に掛けて、環絹が出てこなくなってしまった。端末を奪われてしまったのかも知れない。やがて大きな駅構内を移動しているうちにもう一度電話がかかる。 「環絹ちゃん?」 『そうそう。さっきはごめん。アンタに掛けるって言ったら謝りたいって言うから。酔っ払いのクセに。でも無事ならよかった。そりゃ警戒だってされるわよね。まったく。帰宅したらメッセージちょうだい。一人で帰しちゃって、心配だから』 「うん。なんだかお母さんみたいだね。でも分かった。心配してくれてありがとう。そういうことなら、さっきの人にも、よろしくって言っておいてくれるかな」 『オッケー』  環絹も少し酔っているふうだった。簡潔に通話を終える。これを乗り換えたら、あとは家まで歩くだけだ。それがハイヒールだと少し厄介な感じもする。タクシーを使ってしまおうか。いいや、ここはバスと歩きで貯金に勤しむか。  結局タクシーを使ったりはしなかった。帰宅する。彼女の手にはコンビニエンスストアのビニール袋が下げられていた。玄関扉を開けると少し幼さの残るがまぁまぁ青年といえる男子が現れる。由利(ゆり)爽太(そうた)は彼女の年下のはとこである。 「ただいま、爽太。一緒にお酒飲まない?」  彼は年中無休で白いシャツにハーフパンツ、裸足である。しなやかな筋肉質であまり背は高くない。成人しているがまだどこか高校生らしさがある。はとこではあるが姉弟のように育った。 「おかえり、霞未(すみ)姉ちゃん。急にどしたん?珍しいネ」  それは酒の誘いについてなのか、はたまた崩れ気味にあるメイクについて言っているのか定かでない。 「先輩の結婚式、感動しちゃって。今日はぱぁっと飲みたいなって思ってさ」 「ふぅん。いいヨ。飲も。チーズあったから今出してくる」 「おつまみ買ってあるからいいよ」  風呂までの間の適当な部屋着に替わり、リビングで爽太と飲む。彼はテーブルに買ってきたものを広げていた。 「いただきます」  彼は両手を合わせた。酒肴はブロックチーズ2種とナッツ、ハムときゅうりの胡麻サラダである。 「爽太、ごはん食べた?」 「うん。カップ麺」 「そっか。じゃあお腹空いちゃうかな」 「すみ姉ちゃんは?結婚式って何食べるん?」  爽太は霞未の思ったとおり、ジュースに誤ってアルコールが混入したような甘さの強い酒を選んだ。 「なんか、肉料理とかおしゃれな焼き魚が小さくなってくる」  霞未は少しアルコール度数が強い酒缶を開けた。プルタブを起こす。炭酸の抜ける音がした。ぐいと一口呷る。異臭が鼻を抜け、喉を焼く。小さく噎せた。爽太は酒よりもつまみばかり食べている。食欲旺盛な彼に夕食がカップ麺というのは3つ4つ食べなければ足らないだろう。 「美味しいん?」 「うーん。わたしの口には合わなかったかな。ちょっとおしゃれ過ぎて……ケーキは美味しかった」 「美味しくないんだ」 「不味くもなかったけれど。ふふ、思ったよりがっつりは食べられなくてさ」  脳裏に甦りそうな新郎新婦の姿を苦い液体で嚥下する。鼻を刺す。 「今度作ってあげる。お肉にね、しめじをバターで炒めるんだと思うんだけれど、あんまり味がなくて」  その肉料理が彼女の舌に合わなかったのは果たして味付けのせいだったのかはもう分からないことだ。 「爽太はバターとかチーズ、好きだもんね」  彼はナチュラルチーズの銀紙を剥いていた。その様が少年じみている。 「うん」 「じゃあ今度……牛肉に添えてね……」  彼女の語尾が弱々しくなっていく。酒気が回った。それでいても新郎の姿は鮮明だ。 「牧野宮……」  気を抜くと呟いている。 「うん?」  アルコール風味のラムネを飲みながら彼は首を傾げる。 「いいなぁって……………ああ、結婚式が。憧れるよね」 「そ?あれって、来た人にもてなしてもらう側だと思ったら、祝儀分もてなさなきゃならない側じゃないん」  彼はスモークチーズのほうの銀紙も剥きはじめた。霞未ははとこのあどけない仕草を見ていた。アルコールが徐ろに彼女の頭の中を侵蝕していく。ゆっくりとテーブルに突っ伏す。 「眠いん?」 「だいじょぶ」 「だいじょぶじゃないでしょ。もう寝なヨ」 「お酒もったいないから」  爽太はちらと彼女の飲んでいた酒缶を奪い取ると一気に呷った。残りはそう多くないが、この少年みたいなのはあまり酒に強くない。 「危ないよ、爽太。そんな一気に飲んだら、アルコール中毒になっちゃうよ」  妙な浮遊感に陥りながら爽太の握る酒缶を奪う。 「別にへーき!」  みるみるうちに幼さの残る顔に赤みが差す。とろんとした眼は眠そうだ。霞未はふらふらとキッチンから水を汲んできた。 「ダメでしょぉ、爽ちゃん。一気飲みしちゃ」  彼に水を摂らせると肩を抱いて部屋に運ぶ。夏毛の筋肉質な猫みたいに硬い身体をしている。食べても食べても太らない体質が面白くなって食べさせるのが楽しくなってしまう。 「ううん、ごめんラ、すみ姉ちゃん。おでがお世話するつもりらったのに」 「いいよ、いいよ。もう寝ちゃいなさい。今日はお風呂入っちゃ、メっ」  酔っ払いが酔っ払いを介抱し彼をベッドまで運ぶと、彼女はまたリビングに戻った。テーブルに腕を乗せ、そこを枕に啜り泣く。  端末が震える。電話だ。ビデオ通話だ。環絹である。その背景に幾人か入れ替わり立ち替わり覗き込む姿がある。 「環絹ちゃん……」 『何してるの、あーた』 「親戚の子と飲んでた」  喋っていた環絹が消える。知らない男が画面に入る。しかしまったく知らないというわけでもなかった。黒髪を短くした爽やかな見た目の青年だ。 『クロサキサン』  覚えたての単語を唱えているような響きだった。 『くろさきさん』  彼は忘れないうちにもう一度言った。通話相手は薄暗いところにいるようで画質が粗いが酔っていることは分かる。 「はぁい」 『黒崎サン。ゴメンなぁ』 「うん」  するとまた画面を占めていた人物が変わる。 『ごめんなさい。ほんっとに酒癖の悪い奴等』  環絹が戻ってきた。横目で画面外を睨んでいる。 「環絹ちゃんは何してるん?」 『始発コースよ。朝までカラオケ大会』  霞未は通話中にもかかわらずサラダからきゅうりを取って齧る。 『飲み過ぎるんじゃないわよ』 「うん。ありがと、環絹ちゃん。電話してくれて。ありがとぉ。ありがとぉ……」 『霞未……泣いてるの?』 「こんなにいいお友達がいるのに、あたし、何を悲しんでるんだろぉって思ったの。ごめんねぇ、環絹ちゃん」  うっうと嗚咽し涙を拭く。あとは洗うだけの化粧がさらに崩れる。 『バカね。それはそれ、これはこれでしょ。今夜は泣きなさい。何度も電話して悪かったわね』  霞未は首を振った。 『黒崎サン泣いてるん?』  環絹の横から声がする。彼女と頬を突き合わせるようにふたたび短髪の青年が画面に割り込んだ。 『泣いてるん?黒崎サン。ゴメン』 「この人だぁれ」  環絹は隣の男を睨んでいる。 『おれぇ?おれ、奈々都(ななと)。みゅうって呼んで』 「なんでぇ」  酔っ払い同士で間伸びした会話が起こる。環絹は非常に呆れた様子である。べろべろに酔っている男を押し退けた。画面外から引っ張り出されたようにも見える。 『奈々都(ななと)深優(みゆう)っていうの。今は酔っ払って女ったらしのナンパ野郎に見えるけど、悪いヤツじゃないから勘弁してやってくれない』 「うん」 『おれもっと黒崎サンとお喋りしたい』 『だぁめ』  酔っ払った女はへらりと笑って新たな缶のプルタブを起こす。 『ちょっと、霞未?もうやめておきなさいって……爽太くんは?』 「もう寝たよぉ」  へらへらと笑っていると環絹は一旦画面外へと出た。その分を奈々都深優とかいうのが占領する。 「環絹ちゃん……?」  ブロックチーズの銀紙を剥く。 『あ、チーズ美味しそ。おれもチーズサラダ頼も』  通話相手は画面外にいる者に話しかけている。 「環絹ちゃんは?」 『トイレ行った。具合悪い子いたんだってぇ。おれとお話しよ』  彼は人懐こく笑った。 「うん……」  しかしよく知らない相手である。チーズをぼそぼそと食む。すると画面にもうひとり入った。女ではあるが環絹ではなかった。明るい茶髪に赤いリボンが可愛らしい。奈々都深優とかいうのの首に後ろから腕を回し、抱き付いている。 『みゆ~、ひまだよ~』  彼の耳元に口元を寄せて、その短い黒髪に頬擦りしている。かなり親密な仲らしい。霞未はひたすらにチーズを食む。ハムときゅうりの胡麻サラダを咀嚼する。環絹を待った。全体的に相当量飲んだらしい。サラダを平らげ、ナッツをぼりぼりと鳴らした。画面にはカップルとしか言いようのないスキンシップと距離間の男女が映っている。 『いま黒崎サンと喋ってるから……』  茶髪にリボンの女はやっと画面に気付いたらしかった。彼女ははにかんで去っていった。 「もう寝る。環絹ちゃんによろしく。ごめんね」  画面を突いた。少し焦った様子の奈々都深優とかいうのの姿が消えた。リビングは静寂に包まれる。こくりと酒を飲みながら爽太の様子を見に行った。寝息が聞こえる。ベッドサイドにスポーツドリンクを置いてまたリビングに戻った。そこから意識がない。 ◇  目が覚めると車中にいた。助手席だ。手を握っている。横を見る。運転席には牧野宮がいた。ハチミツ色だった彼の髪は今は落ち着いた色をしている。 「黒崎。疲れたの?」  窓ガラスは結露していた。外ではイルミネーションが煌めいている。 「牧野宮先輩……」 「怖い夢でも見た?」 「牧野宮先輩の結婚式を思い出していたんです」  暖房と他者の体温の中にあっても指先は白々しく冷たい。 「ああ……今では、なんだか懐かしいな。そんな長いこと、経ってないのにな」  彼はへらりと軽快に笑った。人の夫になり、互いに大学生だった頃のようなころころと変わっていく表情の色調までもが落ち着きつつある。それは密会の後ろめたさなのかも知れない。 「今日は、カレシには……?」 「友達と会うって言ってきました」  牧野宮の口元には微苦笑が浮かぶ。彼の手が離れていく。体温だけが残っている。 「黒崎と月城が……な。そっか、そっか。まだまだ意外だわ」  シートに深く背を預け、溜息を吐いて彼は前方を虚ろに眺める。 「それで、諦められそう……?」  霞未は逡巡したが、やがて首を振った。 「ンでも月城には、オレと別れたことになってるんだろ?」  今度は頷く。隣からシートがしゅるしゅると乾いた音をたてる。 「黒崎。こっち見て」  おそるおそる彼のほうを向く。目が合うと笑まれた。胸騒ぎの止まらなかった胸元がじんわりとあたたかくなる。 「ずっと好きでいて、くれたんだもんな」  膝の上に置き放してある手にまたもや体温が重なった。 「牧野宮先輩……」 「ごめんな」  密会のたびに牧野宮は頻りに謝る。その意味を問いたくなることもある。主に別れたあと、寝る前、ふと目覚めた深夜帯などに。 「振り切れなかったオレが悪い。黒崎に懐かれるのがイヤじゃなかった。嬉しかった」  繋がれた手の力が強まっていく。火照っていく。 「先輩は悪くないです。先輩離れできないのは、わたしのほうですから……」  曇った車窓の奥ではカップルや夫婦と思しき2人組が歩いている。その中のどれくらいが世間的に正しくない関係にあるのだろう。後ろめたさを抱えながら徘徊しているのだろう。 「言わなくていい。オレのほうが年上なんだから、オレの責任だよ」  会っては話をして、手を握り合い、2人並んで同じ時間を過ごす。まだ数えられるほどだ。しかしおそらく回数の問題ではなかった。不適切かと問われたならば、霞未は不適切だと答えるしかない関係にある。キスもなく肉体関係もないが、後ろめたさは大きかった。たとえ牧野宮の妻が不適切ではないと断じても、霞未の中の基準であれば十分に不適切であるといえる。そして彼女の中に現在の交際相手に対する意識があまり無かったのは、双方の恋愛感情による交際ではなく、脅迫の介在した付き合い方だったからなのかも知れない。 「牧野宮先輩と、離れたくないです」 「…………そっか」 「好きなんです。牧野宮先輩と以外は、考えられなくて……」  牧野宮は眉を下げる。困らせているのが分かった。しかし彼は笑っている。 「ありがとう。こんな身だから、オレもはっきりしたことは言えないんだけどさ」  シートベルトを外した彼は身を捻り、助手席に腕を掛ける。 「黒崎、怖くない?」  彼は霞未が最も恐ろしく苦痛に満ち満ちていた時に傍にいた。彼女にとって牧野宮が救世主と重なり、やがてその明るさと優しさによってそれが一致していくのも自然な成り行きだったのかも知れない。牧野宮はいきなり近付かない。突然触れたりしない。常に笑っている。些細なことでも言葉にする。 「はい」 「キス、してみようか。それでもしかしたら冷めるかも知れない。冷めなかったら、何も変わらない」 「……………変わったら、どうするんですか。変わるかも、知れないです」  けたけたと笑っていた横顔が不意に引き締まっていく。 「牧野宮先輩………?」 「そこまで想われてたって、知らなくて。こんなことしてるくらいだから、それなりに好かれてるとは思ってたけど」 「牧野宮先輩無しじゃ、この先、誰とも生きていけません」  重く分厚い蓋をした過去を、何故か傷跡は興味本位に開けようとする。克服したのだと確かめたくなる。前に進んでいいのかと許しを乞うてみたくなる。しかし開けたら化膿することを分かってもいる。牧野宮が傍に居なければ、それを何度も何度も繰り返しそうな強迫観念がある。 「黒崎……ごめんな。今まで気付いてやれなくて」 「いいんです。わたしも何も言いませんでした。わたし本当にバカで……牧野宮先輩が結婚するって報せが来るまで、自分の気持ちすら分からなかったんです」  握っていた彼の手が霞未の腕を辿る。彼女に次の動作を匂わせ、ゆっくりと抱擁した。 「オレもあんまり利口じゃないから、黒崎には苦労かけるよな」  ふわりと牧野宮の匂いがした。もう香水は使っていないようだ。家庭の匂いだ。おそらく新しい。妻と築いた匂いである。 「牧野宮先輩は優しすぎるんです。そこに甘えてごめんなさい。でも、牧野宮先輩から離れたくない。離れられない……」  言葉にすると、意思とは反対の展開を強く意識してしまった。牧野宮にしがみつく。鼓動が響く。呼吸をしているつもりでも息が苦しくなる。背に回した腕から力が抜けていく。恋人ともこういった抱擁はしない。 「そろそろ、帰ります」  だらりと彼女の腕が牧野宮の背から落ちていった。 「送るよ」 「い、いえ。こうして会ってくれただけでも十分嬉しいんです。だから、一人で帰れます。ありがとうございました」  逃げ出したくなってしまった。あらゆるものから。牧野宮が既婚者である現実や、形式的な恋人がいることや、彼の家庭を壊していることに。その認識、自覚からも逃れたいくせ悪怯れないこともできない。それでいて牧野宮と会わない選択にも振り切れなかった。  牧野宮の車から降りて駆け足で物陰に隠れる。振り返りもしなかった。いやなリズムの心臓を落ち着かせた。端末が震える。開いてみると建前上の恋人から着信だった。 「はい……」 『霞未。遅いぞ。迎えに行く。今どこに居るんだ?』  言葉の割りに相手の語気は柔らかく、声音は甘い。怒っているわけではないのだ。ただ束縛が強い。 「ごめんなさい、月城くん。自分で帰れるから、平気……」 『俺には言えないところなのか。遠慮するな。俺も霞未と居たいだけなんだ』  ここから歩いて少し離れた場所を指定する。彼が車を出してここまで辿り着く間には移動できる距離にある。 『友達とはもう別れたのか』 「う、うん。今、ひとり……」 『そうか。物騒な輩が多い。喫茶店の中にでも入っていてくれ。それに寒いだろう。すぐ行くから』  牧野宮との関係がすぐに月城に知れてしまった。それをタネに彼との交際が始まったけれども、牧野宮と別れたと言って以来、不適切な関係を疑うこともなかった。不自然に感じるほどだった。月城も実のところを分かっているのではないかと霞未が疑うほどである。 「う、うん……ありがとう。―ごめんね」  霞未から通話を切った。
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