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第3話
◇
ぐす、ぐす、と緋霧 は鼻を啜って咽び泣いた。恋人のアカウントからメッセージアプリに通知が来ていた。その正体を分かっていながら、まるで夢遊病のように彼の家に行ってしまった。一か八かであり、理屈は恋人の死を訴えているくせ感情がそこに追いつかなかった。一縷の望みがあり得ないことだと分かっていながら、ふらふらと、何も考えないようにして、それは巨額の賭けにも似ていた。そこにあるものが危険なものだと分かっていながら。自ら罠に嵌まりにいった。結果、賭けは負けだった。相手が殺人鬼であったなら、彼女の命はなかっただろう。幸か不幸か、いずれにせよ彼女にとっては災厄であるが、命はあった。しかし心身共に削られる、殴打も蹴りもない暴力が降りかかった。
「鷹庄さん……」
好き放題、自身の双子の弟の恋人を貪った男は舌が痺れ歯が溶けるほど甘い声で腕を回し、緋霧を抱き寄せる。ダウンケットは2人で入っているくせ生温い。蝋人形を温めているみたいだ。
「すごく気持ち良かった…………静架 は毎日、こんな幸せな思いをしていたのか」
額や頬や唇に唾液スタンプを押され、緋霧は嫌がった。恋人の双子の兄を押し退けようとしてしまう。
「鷹庄さんも気持ち良かっただろう。静架 と重ねたのか」
恐ろしい美貌が寒々とした笑みを浮かべる。吹雪に遭ったみたいだった。凍えて悴 んでぶるぶると震えた。
「鷹庄さんも、人肌恋しかったんだろう。そうでないなら、もう死んでいる弟のメッセージでやって来るわけがない。鷹庄さん…………寂しいのなら俺がぜんぶ満たす」
元来、眠いのかそうでないのか曖昧な男だった。今も事を終えて微睡みに入りかけていそうなところだった。しかし俄然活気付いている。己の欲汁を散々に注ぎ込んだ女の臍の下を撫でる手が汗を帯びている。同い年似た容貌の亡弟から寝取った女の肌を愛撫し、また口付け、髪を嗅ぐ。
「いや………」
ヒステリックな抗議の声を漏らし頭を振るが、聞き入れられはしない。
「自分勝手なセックスをしてしまったから……痛かったんだろう?苦しかった?すまない。今度は気持ち良くする。今度は、鷹庄さんのためのセックスをしよう」
同じ言語で話しているくせ、会話がまったく成立しない。これがさらに緋霧を不安にさせ、恐怖させる。別の相手であれば異言語によるコミュニケーションでもまだ通じたかも知れない。身振り手振り表情すらも、この美しい蝋人形には通じない。
「弟とはどうだった?双子だからそう変わらないだろう?だとしたら俺のやり方が悪かったんだね。鷹庄さん…………」
強く腕を絡ませて匂いを吸っているのを感じた。
「しない……っ」
「怖がらなくていい」
彼の華奢なラインの割には筋肉量のある胸板を突っ撥ねるが、軽く笑われて手を剥がされてしまった。そしてそのまま掴まれ、握られて、肌理 細か過ぎて蝋のような白く冷たい頬に添えられなければならなくなった。あらゆる関節が軋んで強張る。
「したく、ない…………」
「したくない?したくないのか」
何度も頷いた。もしかしたら、この蝋人形にも情があるのかも知れない。身を裂き貫く痛みと苦しみ、恋人への裏切り、好きでもない男の体液に汚される厭悪感、妊娠の恐怖、どこにも緋霧がこの蝋人形に身を委ねる理由はない。
「許さない」
彼の纏う雰囲気が凶々しいものに変わった。
「俺の虜にする。鷹庄さんは、俺でイけたものな」
隣にいた蝋製の男は彼女に乗り上げた。圧 しかかる。
「い………や、!やめて………!」
「鷹庄さん……いい匂いがする。それに柔らかい。すぐ近くにあったのに、俺は今まで見ていただけだった。鷹庄さん……………弟のことはもう忘れてくれ」
緋霧は啜り泣きを再開し、うつ伏せの体勢を強め、身を固くした。アルマジロになってしまいたかった。そうしている間にも、無防備な背中には薄気味悪い口裂け女みたいな男の穢らわしいキスが落ちていく。点々と目印でもつけているのかも知れない。
「鷹庄さん……」
ダウンケットの洞穴に蝋人形はカタツムリの如く姿を消した。しかし緋霧の肌はしっかりと彼の行方を捕捉している。男は彼女の尻を揉みながら吸っていた。脚の間に割り込み、力尽くで左右に開く。
「この体勢でいいのか」
その問いの意味が彼女には分からなかった。分かりたくもない。
「挿れるから、舌を噛まないで」
従ったつもりはない。しかし肉体が怯えていた。そうすると、いやでも従うことになってしまった。抗った際に訪れる腕を握り潰される痛みや首を掴まれる苦しみ、膣を抉る衝撃はまだどうにかなった。しかし頭痛や胸痛を伴うほどの恐怖心はどうにもならない。本能が理性を捻じ伏せて屈服を強いる。
「鷹庄さん!」
ダウンケットから彼女の恋人の双子の兄が爆誕した。
「あっあああ!」
最奥まで穿たれ、緋霧は喉を反らし、シーツを握り締める。そこに青白く薄い手が重なる。大きなアシダカグモと見紛う、骨張って気色の悪い手だった。指の四股すべてに長い指が組み入り、親指でがっちりとホールドされる。
「すごい………かすみ、」
何よりも耐え難いのが、挿入した途端に馴れ馴れしく媚び諂った声音で呼ばれることだった。一種の催吐剤である。
「ぁ………う、」
「まだ動かないから。息をしてくれ」
後頭部に頬擦りされ、髪がしゃりしゃりと鳴った。動かないと言っておきながら、彼は緩やかな腰を動かしている。
「ぃ、や、あ、ぁ……」
「ああ………かすみ…………」
嘆息が聞こえる。それは女の頑なにつれない態度に嫌気が差したため―ならば、どれほど緋霧は救われただろう。むしろ、感嘆の溜息だった。恋人の双子の兄は結合を馴染ませている間、執拗に口や手を使って緋霧を撫で繰り回した。否、どちらかといえば、彼女の皮膚や髪や匂いを使って、口や手を陰茎代わりに自慰をしていた。
「う………うぅ」
「そろそろ動いていいか。かすみを気持ち良くしたいのに…………堪らなくなった」
返事も聞かずに彼は抽送をはじめた。好き勝手に膣内を往復される。すでに2度出されているこの男の気質に比例した粘度を持つ種液が痛みこそ与えないが、慣れない不快感を緋霧に与える。内容は同じだというのに、この男の双子の弟にされるのとは行為そのものから違う感じだった。静架 は無理矢理に体内を汚そうとはしなかった。気遣いに溢れていた。肉体の悦びを満たすのはまずその時間に浸ってからだった。彼の暴行に耐える。顔面から溢水あらゆる津液がシーツの色を変える。
解放されたのは日が暮れてからだった。風呂場に飛び込み、興奮した男に体位を変えて弄ばれる。その後にやっと身を清められ、拭かれ、着せられて外に出る前にも恋人の双子の蝋人形的な兄は緋霧を引き留めた。玄関の壁に押し付けて唇を奪う。
化粧水も乳液もなく、乾燥した空気に肌が突っ張り、いやな感じだった。唇用に持ち歩いていたワセリンを塗りたくってみても解決しない。それどころか唇に塗った分でさえ舐め落とされてしまった。
「送っていく」
みるみるうちに乾いていく唇が腫れたように疼きながらひりついた。しかしワセリンを取り出す気も起きなかった。
「いいです……」
「送っていく」
「自分で帰れるから……」
「弟にはいつも送られていた」
緋霧はきっと相手を睨んだ。厚かましい。双子だと別人であっても境界を失うのだろうか。ただ双生児であるというだけで、何故もう片方の人物に成り代わろうとするのか。だが反対に、彼の双子の弟は、兄の話はあまりしなかった。
「だって、しずちゃんは……」
「かすみ。俺だってかすみのカレシだ。婚約者だろう?」
「ち、がう………」
「違う?どこが違う?何が違うんだ?いずれにしろ弟と大差ないさ。かすみも、すぐに慣れてくれるよ」
口裂け女と雪女の恐ろしいところだけ併せ持ったような男が冷たく微笑するのを緋霧は玄関から飛び出して逃げてしまった。直後、外から玄関ドアを押さえ付ける。妖怪を封印する必要性に迫られていた。
「まだ泣いてんの?悲劇のヒロインぶるの、そろそろやめたら?」
最初、それは通行人の会話と思われた。ここは石蕗 兄弟が2人で暮らしていたマンションだった。しかしその声と、返答の無さ、静まり返った空気に緋霧はふと頭を上げ、泣き腫らした目を向けてしまった。そこには恋人が立っていた。だが強い酸液で焼かれてぶよついたケロイドは顔のどこにも認められない。一瞬で彼女は蒼褪め、身体の芯から冷えた。閉じ込めたはずの怪物がいつの間にか脱走していた。動物園が、或いは一般家庭の飼育者が、危険動物を逃してしまう事件を耳にするが、あの時の当事者の心地になった。肝を潰し、言葉を失う。
「マヌケ面じゃん、鷹庄緋霧」
恋人はしない、その双子の兄もしなそうな、器用な嘲笑だった。静架 は死んでいる。何よりも彼にあった傷痕がない。かといって兄の叶奏 でもない。
「誰……………?」
消去法では叶奏以外にはいない。実のところは三つ子だったのだろうか。しかし叶奏を紹介されたことはあっても、2人めの同胞の存在は聞いたことがない。果たして叶奏・静架の雰囲気のどちらにも似ていない作為的な意地の悪さと妙な剽軽ぶりは三つ子説を疑わざるを得ない。
戸惑いも表に出ないほど固まっている緋霧を彼は揶揄い嘲笑っている。
「どうも。石蕗静架です」
物真似も心得ているらしい。雰囲気こそまったく別人並みだが見た目が見た目だ。驚きが彼女の目に閃く。ケロイドのない静架がそこにいる。
「すみちゃん。おれを理由に足踏みしないで」
白昼夢に似ている。釣瓶 落としと言われるほど、早い時間帯に暗くなってはいる。夏場ならば、これから出掛けようという気になれる程度には明るいはずだった。
ドッペルゲンガーみたいなのは静架の淑やかな雰囲気に、その兄の薄気味悪い口裂け女じみた微笑を湛え、しかし底意地の悪さ、彼等にはない良し悪しどちらとも捉えられるつまり軽快と軽率さ、言い様による空気も纏っている。
「すみちゃん、どうしたの?そんなカオしないで」
年長者みたいな、そして保護者みたいに困惑しながら苦く笑う。このドッペルゲンガーは静架を知っている。一歩一歩近付いてくるのを呆然と見ていた。
背丈も同じくらいらしい。首を大きく上体ごと捻り、硬直している緋霧の唇を奪い、すれ違った。
「待って……」
緋霧はキスをされたことも瞬時に忘れて振り返った。
「待って」
ぎこちなく踏み出す。同時に秘密の3人目の多胎児説の拭い去れない美男子が口を開く。
「悲劇のヒロインさんに、喜劇の僕 じゃ役 不足っすわ」
はん、と彼は鼻を鳴らす。そしてまた歩き出そうとする。緋霧はその袖を捕まえた。
「お兄ちゃんにたくさんアイシテ貰ったでしょ?」
また緋霧は惑う。声質は静架だ。しかし静架は叶奏のことを"お兄ちゃん"とは呼ばない。兄か弟か、長男か次男か、白黒つける場面は書類上あれども、ほんのわずかな差、取り上げられた順の問題であるというのが静架の持論だった。仰々しく、どちら兄でどちらが弟かを強く認識したことはないと語っていた。火傷痕のないこのドッペルゲンガーみたいなのは、ふざけていたのかも知れない。戯 けていたのかも。
「しずちゃん…………?」
「違うけど」
「叶奏 さん…………じゃ、ないよね?」
「僕ちん、あんな陰キャっぽい?」
話も聞かず、緋霧は不躾に物足りないドッペルゲンガーみたいなのを凝らす。泣き腫らした目元が哀れっぽい。比例してドッペルゲンガーみたいなのは胡散臭そうな顔をする。
「俺 ちゃんのこと、好きにならないでよ」
彼はやはり静架ではなかった。恋人よりも笑い方が子供っぽい。緋霧は幻から覚めたようだった。彼女の双眸には理性の光が戻ってきた。百年の恋も一時に冷めるような感じだ。すると彼女はここが恐ろしい妖怪の巣窟前であることを思い出し、趣味の悪いドッペルゲンガーみたいなのから早々興味を失った。静架であるか、静架ではないかの問題に於いて後者と断定された。確かに物真似は上手く、顔かたちや声質などはそっくりだが、静架にはなかった偽悪的というのか露悪的な部分が目立つ。叶奏もそのような器用さはないだろう。彼は自覚も意識もなく結果的に嫌がらせになっているのが厄介なのだ。
緋霧は弾かれたように恐ろしい妖怪の住まう玄関扉から後退りし、ドッペルゲンガーみたいなのが行こうとしている方角とは反対のエレベーターホールへ向かった。遠回りだが、ドッペルゲンガーと帯同してしまうよりは難はない。
「おい」
今度は彼女が呼び止められる番だった。立ち止まり、どこかすっとぼけた表情で狐か、この地区では割りかし珍しくはない狸に化かされた感じだ。本当に、この地域にはタヌキがいる。アライグマでもハクビシンでもない、目元を覆うパンダみたいなのはタヌキだ。静架と2人でいたところを横切り、目前で止まったのだ。そしてタヌキだのハクビシンだのアライグマだのと言い合った覚えがある。
ぶすくったれた気に入らなそうな貌を直視しながら現実逃避しかけたところだった。
「あんた、オレに興味がない?」
「え……?」
「誰なんですか、石蕗家とはどういう関係なんですか、自分はこういうもんです、くらい言えないワケ?」
不平、不満を寄せられているのは分かった。
「気の利かねぇヤツだな、鷹庄緋霧さんよ」
「どなたなんですか。しずちゃんとは、どういう関係?」
「マニュアル女め。聞きたい?聞きたいなら、明日、休み?」
もったいぶった様子で問われ、「はい」と答える。
「じゃあ明日の10時。ここで待ち合わせ。来なきゃ知らん」
「ここは嫌」
人喰い妖怪の巣穴の目の前ではないか。拒否すると、ドッペルゲンガーみたいなのは雪女かつ口裂け女みたいな男の擬態をはじめた。
「何故。俺が怖い?」
彼が双子のどちらでもないことが分かると、意地の悪そうな笑みにある彼の個性が際立ってしまった。高を括っているのが透けて見え、緋霧は彼の手には乗らないことにした。
「うん……」
しかし嘘でもない。今視界の真ん中に捉えている男に顔だけは似ている人物を恐れているのは本当だ。顔を合わせれば肉体を求められ、求めるどころか好き勝手に奪い蹂躙される。悍 ましい体液を注ぎ込まれ、忌まわしい未来を口にする。
「怖いのか」
緋霧は二度目には答えずに俯いた。
「何かされたん?」
雪女と口裂け女を内に飼っている男風の青年は素を露わにした。口元がどこか間抜けっぽいのが双子らしくなかった。
「…………別に」
「脅されてんの?なんで?」
「違うけど……」
妙に人懐こくなったところは、今年のはじめに寒空の下殺された弟を思い出させる。
「なぁ、なぁ!」
緋霧はもう彼を無視してエレベーターホールへ歩を進めた。
◇
青いガーベラは少し高い。ガーデニング専門店も同じ商業施設の中にあるけれど、その場合は広い駐車場を出て公道を横断する必要があるため、廻冬 が通っているのはホームセンターの一角にある生花店だ。春でもなく夏でもなく、冬に近過ぎる秋の終わりのラインナップはそう多くない。
昨日ばきばきに折ったオレンジともレッドともいえないガーベラと、花弁をすべて毟り散らしたみかん色のガーベラを買いに来た。そしてふと思い出し、少し値の張るガーベラに手を伸ばした。
「ますかけ線……」
廻冬は顔を上げた。クマを思わせる大きな男が仏花を抱いて立っていた。
「ますかけ線たい。左手は」
もっさりとした髪に跳ねた毛が白く光っている。あまりに大きな図体を前にして廻冬はたじろいだ。
「左手ば………」
乞われるまますでに決めていた花々を抱き直してから左手を見せる。鼻が高く、眉と目の近いのは彫りが深いゆえの遠近感かも知れない。鳶色の目が色の白い掌を見下ろしてかっ開いた。
「両手、ますかけ線たい」
スーツの袖から銀色の厳つくごてごてとした腕時計が嵌まっていた。時計盤はブルーで、サファイアを思わせる。あまり色味が似合っていない感じがした。廻冬は善良な小市民というにはいやに胡散臭い男の風采を無遠慮に眺め回し、そして恐るおそる野生的ながらも危うげな色気のある顔面をじろじろと見つめた。大男は掌を出すともう片方の手で、廻冬の手相を説明した。四指が可動するラインで横に一直線の皺ができている。
「お兄さん、手相に詳しいんですか?」
「う、えっ………おん…………」
男は驚いた顔をして、急に悄然とした。磊落豪宕 に見えて存外、気が小さいのかも知れない。
「どうですか、僕の手」
「…………all or nothing」
「はい?」
廻冬は首を傾げた。かなり発音が良かった。聞き取れなかったわけではなく、またその意味も理解はできるが、どういう意図を持っての発言なのかは分からなかった。
「大物に多か相たい。ばってん、極端たい。最高か、最低。100か0。両手ますかけ線ば持っとぅ人、わっぜぇ珍しかもんじゃないけんども、あーしゃ初めて見るけん」
大きな男は丸太ん棒みたいな両腕を組んだ。スーツが破裂しそうだが、意外とサイズは合っているようだった。廻冬が着たら掻巻 になってしまいそうな大きさである。
「大物……ですか」
マイナスの面もあるようだが、悪い気はしない。廻冬は自身の掌を見つめた。
「すんもはん………悪かった」
「いいえ。迷いがあったところなので、なんだか背中を押してもらえた気分です」
廻冬は真珠の擬人化みたいにつやつやした顔で謎の大男に笑いかけ、青いガーベラを吟味した。それはほんのりと青みの差した実質パープルやバイオレットという代物ではなく、本当に絵具で塗ったようにブルーとしかいいようのない青さだった。花芯がガーベラでいうと白、相対的にいうとほんのりとしたグリーンで黄色に近いためブルーを引き立ててもいた。
廻冬が燃やし殺した男が双子であることは、撲 り殺した駄犬から聞いている。1人殺したのだから2マイナス1は1であり、遺りは1人のはずだが、どこかで計算を違えて2マイナス1の差が2になっている。1人は確かに燃やし殺した。もう1人は取るに足らない引き籠りのように聞いている。あっさり死んだ駄犬は、大体そのように言っていた。姉とは折り合いが悪い様子だと話していた。まさか嘘は言うまい。嘘だったのだろうか。しかし嘘を看破されたなら、火炙りにされるのが分かっていたはずだ。そしてあの駄犬が嘘を言える程度に冴えているとは思えなかった。否、そういう迂拙者だからこそ事実を見誤っていたの可能性も高い。
しかし、女の横を歩く焼殺した男の亡霊にはケロイドがなかった。そしてケロイドはなく素肌はそのままでいて、燃え死んだ男にあった淑やかな美しさと楚々とした艶めきが無かった。顔面はケロイドの有無、ケロイドがあるゆえの目元周辺の拘縮を差し引けば、焼け死んだ男の生き写しなのだ。金槌に叩かれて死んだ莫迦犬の話で聞く双子の生き残りとも随分雰囲気が異なっていた。総合するとその生き残りは陰険で無表情で怖い人物のようだが、廻冬が目にしたのはまったくそのような印象とはかけ離れていた。どちらかというとハンマーを振り下ろしただけで勝手にぽっくり逝った愚犬の空気感に近い。陰気さもなければ聡明さもない。
青いガーベラは他のガーベラよりも40円高い。小銭入れに入った所持金で十分に買える値段だったけれども、彼の白い手は青い花の品定めをやめかける。それでいて謎の大男から受けた忠告めいた文言を反芻する。
「お姉ちゃん………」
青い花はやめ、白いのを買い足した。花束のようにガーベラを抱いて店を出る雪の妖精みたいな美少年を、このホームセンターで行き交う客たちは何事だとばかりに目を奪われたことだろう。
帰りに彼女の家の前を通り、そして焼き殺した男の家までのルートを辿る。マンションを見上げた。廻冬のシロップめいた湖畔に浮かぶ瞳孔がきゅい、と開く。彼女が来ていた。階数を指で数える。9階あるうちの3階だ。次に部屋番を数える。玄関と思しきドアは5つあり、彼女はどちらから数えても3つ目のドアに立っている。そう捻った言い方をしないマンションなら303号室といったところか。
彼女はドアに吸い込まれていった。入っていったのではない。建物の舌に足を奪られ、食われたみたいだった。丸呑みだ。
このマンションが唾液で衣類を溶かす類いの妖怪だったら……しかし彼女が全裸であるというだけでは、大した価値を感じなかった。ドアは彼女の腰から下を噛み砕き、ヒトの不味さに吐き出すのだ。それは廻冬の今立っている場所に落ち、臓物をぶら下げながら、彼女は痛みよりもまず恐怖に助けを求める。廻冬は彼女に猛烈な慈しみの念と保護の義務感を覚えた。それでいて肉体が昂っている。彼女を丸ごとたいらげたドアを凝視し、陰部を固くした。
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