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第1話

 一歩後退られて苦笑いがあった。 「オレのこと、あんまり好きじゃないでしょ」  瞬霞(まどか)はぱちくりとしばたたく。 「他にスキナヒトできたから、ごめん」  羅生門(らしょうもん)亜也(あや)。この瞬間まで恋人だった男である。瞬霞はまた何度かまばたいた。彼の姿を焼き付けるように。 「他に好きな人……?」 「まどかもそうだろ?本当は、他にスキナヒト、できたんじゃないの。だって――……」 ――だって、浮気してんのに、気にしてくれなかった。  瞬霞は目が覚めた直後にひょいと身体を起こした。花瓶の陰に突っ伏しているところだった。今の恋人が持ってきた花束を活けてある。ハイブランドの服だの装飾品だの化粧品、ドレスコードがあるようなレストランでの食事、小洒落た海外旅行、そういったものにはあまり関心がない。それがいけなかったのかも知れない。  今日の予定が潰れた。外は生憎の大雨だが、天気の問題ではないのかも知れない。勘がそう告げている。白い灰色の外を見つめ、またテーブルに頬を寄せた。雨音を聞いていた。この天気は表向きの理由で、瞬霞が疑ってしまったのは、前の恋人と同じものだ。つまり浮気である。  花瓶から頭を垂らす花々を見上げる。ビロード生地の如く赤黒いバラが3本、カスミソウが可憐に散り、赤ともオレンジともいえないガーベラ、まだ開花していないカカオみたいなユリ。  すでに出掛けるための服を着て、化粧もしてしまった。怒りはない。ただ急激に疲れてしまった。呆れもない。何故こうなのだろう、上手くやれないのだろう、と思うだけだ。 ――恋人。果たして恋人だと言えたのだろうか。恋慕を打ち明けられ、それに相槌をうち、交際を求められ、諾とした。関係に名が付いた途端に、その名に相応しい振る舞いをした。相手の恋慕の正体を見抜けずに、否、瞬霞は自分なりに察することができなかった。つまり肉体を自ら差し出すことができずにいた。相手も特に求めてきたりはしなかった。しかし今反省してみたところで、婚約にすらまだ早い段階でカラダを許すのは瞬霞の中にも躊躇いがある。彼の中の慕情をそのまま信じてしまった。信じるだの疑うだのという概念もなく、ただ傍にいて話し合い、ほんの軽いスキンシップで満足し、また相手もそうだと決めてかかっていた。  今日のデートのキャンセルのメッセージをもう一度読み直した。 「お姉ちゃん!」  リビングにきゃらきゃらと届く可愛らしい声に振り向いた。妹の穏歌(のどか)が立っている。 「のんちゃん」 「出掛けてくるね!美味しいステーキ屋さんに連れて行ってもらうの。お姉ちゃんも、デート?」  明るい茶髪にウェーブした毛先。綺麗に整えられている。ネイビーのニットにほんのり裾に透明感を残したスズランみたいな白いスカート。年少者の可憐さ、清楚さを残しつつ、成熟した女の色気を出すことも忘れない。 「うん……ちょっとキャンセルになっちゃって。大雨だけれど、気を付けてね。行ってらっしゃい」 「え、お姉ちゃん、デート、キャンセルになっちゃったの?雨だから?」 「うん、そうみたい」  妹は口元に手を当てた。大袈裟な感じの仕草が可愛がられる秘訣なのかも知れない。 「じゃあお姉ちゃん、今日はどうするの?」 「もう少し雨の様子見て、もしかしたらお買い物行くかも」  瞬霞は少し困った顔をした。 「そうなんだ。ななぽうと?」  妹はショッピングセンターの名を挙げる。行くのならそこだろう。食材の買い出しにも食事にも家具屋にも本屋にも服屋にも、雑貨屋にも困らない。小洒落たハンドクリームが欲しかったところだ。 「うん。タオル持っていく?」 「ううん、要らない。糸くずついちゃうもん」 「そう……」 「ごはんも要らないから。泊まりかも!」  瞬霞はふいと目を逸らした。露骨ではないが、なんだか露骨だ。妹のそういう話を上手く聞けずにいる。 「そう。分かった」 「じゃ、待たせてるから行ってくるね!カールツロイツで迎えに来てくれるんだって!」  父の年収の5倍する高級車だ。妹がはしゃぐのは仕方がない。 「そう。よかったね。気を付けて」  ばたばたと忙しなく妹は玄関を出て行った。瞬霞は嘆息した。  昼前に雨が少し治まった。白地に赤いリボンを付けた黒猫がワンポイントの傘を差して外に出る。 「あ、あ、あ、あ、国木田(くにきだ)さん………」  ブルーのレインコートを深々と被った男が、玄関扉を閉めた直後に声を掛けた。ストーカーだと自らを称し、(なつめ)葉流斗(はると)だとか名乗っていた。曜日、昼夜問わずほぼ毎日現れるため、おそらく無職であろう。 「おはようございます」 「お、お、お、お、おはようござ、ござ、ござます。ございます……」  玄関に鍵を挿す。 「あの、あ、あ、あ、あの、また、う、浮気、してまつ、すてます、してます……」  レーンコートの素材の切り替わった透明な部分には夥しい雨粒がついていた。その下にフードの陰の中で浮かび上がる青白い顔に一種不気味なほど整った顔がある。ストーカーなどせずとも顔を出して歩けば、放っておかない、現代風の美青年だった。しかしこうして国木田家のマンションの前を闊歩する。これという害はなかった。家族や近隣住民とまで挨拶を交わしている。だが瞬霞には、こうして厭な忠告をしていく。 「う、う、う、浮気してま、ます。カールツロイツのカレでしゅ、です。帝都川(ていとがわ)大鶴志(たづし)さん………」  アニメの男性キャラクターみたいな甘い質感の声が吃っている。他の人と話しているところを見たこと聞いたことがあるが、この吃音は病質的なものではないらしい。ただ瞬霞に話しかけるときだけ、彼は吃り、舌を噛み、息を詰まらせ、喉を(つか)えた。  ストーカーとは必要最低限しか口を利かなかった。妹にもそう言っている。瞬霞は聞かなかったふりをして建物のエントランスへ降りていく。 「い、い、い、妹さんと、う、浮気して、ます」  背の高いレインコートが後を追ってくる。 「く、く、く、国木田さん」  彼はエントランスまでしか追ってこなかった。地縛霊みたいだ。  微睡みの中の短い夢は何かの前兆だったのかも知れない。 「まどか」  何の連絡もなかった。呼び止められたことを認めたか、声に覚えのあることを先に知ったのか、将又(はたまた)同時だったのか彼女自身定かでない。  羅生門亜也は色素の薄いミディアムヘアにオーダーメイドのスーツを着ていた。 「こんにちは」  たとえば名を呼ばれたりしなければ、顔見知りではあるけれど、忖度をして知らない人間のふりをしていた。しかし呼び止められ、また足を止めてしまった以上、彼女も口を開いた。そのことに、相手は安堵したらしかった。張り詰めた顔が緩む。 「まどか……これから何か用が?」 「買い物に……」 「ひとりで?」  束の間の安堵を見せた顔がまた張り詰めている。 「そう」 「それなら送っていくよ。話があるんだ。道中でいいから、聞いて欲しい」 「急な予定じゃないし、話があるなら―……」  家に上げる、と言葉が続きかけたが、家に上げてよいものか考えた。妹は出払っている。羅生門亜也とは"スキナヒト"ができて別れたのである。その"スキナヒト"が留守の間、本人の家に上げてしまってもよいものか。すぐに帰ってくる様子はない。だがやはり気が咎めた。 「―短い話ならここでどうぞ」  贈った品や奢った分を返せ、と言われたならば瞬霞はまた自室に戻らなければならない。彼の"スキナヒト"に対する苦情かも知れない。  羅生門亜也は苦笑する。 「喫茶店にでも行かないか。美味しいケーキがある。好きなものを食べてくれ。しっかり聞いて欲しい話なんだ」  瞬霞は小首を捻る。 「なんだか、悪いよ。それに亜也ちゃんのほうにも悪くない?誰が見てるか分からないし……」 「……まどかは、もう新しい恋人(カレシ)がいるのか」  彼女の口元にも微苦笑が浮かぶ。 「うん」  そしてそろそろ以前と同じく同じ理由で終わりを告げられそうなところまで来ているが、この元恋人に言うことでもない。嫌味のようになりかねない。瞬霞としては円満な別れ方をしたつもりなのだ。他に"スキナヒト"ができたというこの男に対して、瞬霞もすっぱり別れたつもりなのだ。怒りも呆れも惜しさもない。そのために羅生門亜也と別れたことを知った途端、現在の恋人・帝都川(ていとがわ)大鶴志(たづし)から恋心を打ち明けられ交際を求められたときも諾とした。 「……まどか。オレが悪かった。オレが悪かったから、今のカレシと別れて、オレと()りを戻してくれないか」  何を言われたのか分からず、分かりはしたが、果たして自分の解釈と相手の意図が合致しているのかが分からず、彼女は前のめりになって耳を(そばだ)てる。 「自分勝手な言い分だってのは分かってる。でも、まどかじゃないといけない。オレにはまどかが必要だって気付いた」 「亜也ちゃんのスキナヒトはもういいの?」  彼の"スキナヒト"は今頃、カールツロイツの助手席にでも乗って、これからレストランにでも向かっているだろう。  この問いに他意はなかった。ただ純粋に、彼の懸想がどこにあるのか、それが問題なのである。非難や怒りや呆れもない。しかし羅生門亜也は眉を顰める。 「まどか…………ごめん。オレはどうかしてた」  彼は膝に手をついて頭を下げる。 「フられたの?」  羅生門亜也は上半身を浅く伏せたまま動かない。妹に素気無くされ、また姉に戻ってくるのは、瞬霞からすると妹のために良くなかった。妹に付き纏う気に違いない。 「わたし今、カレシいるし……多分またきっと、亜也ちゃんのことちゃんと好きになれないと思うから」  おそらく今の恋人からと別れを切り出されるのだろう。しかしまだ切り出されていない。切り出されていないのであればまだ交際している。 「縒りを戻すのできないよ。のんちゃんにも、付き纏わないでね」  妹の名を出したときに、羅生門亜也はくわっと目を見開いた。 「まどか……!」 「怒ってないし、軽蔑もしてないし、わたしも反省してる」  これ以上話すことはない。瞬霞は顔色ひとつ変えず羅生門亜也の前を去ったが。しかし少し遠去かるとふいに場所も構わず屈み込んでしまった。とてもショッピングには出掛けられそうにはない。  自称ストーカーの棗葉流斗の追及は厳しかった。何があっただの、何故戻ってきただのと、彼は見ていたに違いない。羅生門亜也と妹の関係も彼は知っている。羅生門亜也のみに留まらず、棗葉流斗は瞬霞とそれなりに交友関係のあった男と妹の関係のほとんどを把握している。そして有難くもない迷惑な忠告をするのである。手で追い払う仕草をすると彼は吃りながら退いていく。薄気味悪いが番犬になってしまった。かなり裕福な家の出なのかも知れない。とても暇そうだ。  着替えるのも面倒臭くなり、化粧も落とさぬままテーブルに伏せる。恋人や、自分に恋慕を打ち明けてきた男友達を妹は悉く食ってしまう。それを当然とした自身に彼女は嫌気が差し、またこのままでは妹の身にろくでもないことが降りかかりそうな不安が拭えない。  羅生門亜也は見た目にはその容貌や言動と相俟ってナルシストとやっかまれるほどに自信たっぷりで堂々としているが、実際に関わってみるとそうではない。意気地なしで卑屈なところがある。それを瞬霞は看破してしまった。思い悩む彼に、何の気なしに、異性が色恋がどうというつもりもなく、ただ人情として寄り添いの姿勢を見てしまったのが始まりだった。己の器量を糊塗するような勝気で目立ちたがりな美男子と、目立たず地味で控えめな女が吊り合うはずもなかった。その点、妹は明るく活発で、目立つことに臆するところもなかった。貞操観念についても開放的で柔軟だ。羅生門亜也には、羅生門亜也に限らず、今まで関わりのあった男たちは妹のほうが似合っている。  そして三度目辺りからは特に驚きもない。初めから怒りもなかった。今まで好きだ、何だと言っていた人々が掌を返したことにも、帝都川大鶴志含み今まで付き合ったことのある3人の恋人に対しても、妹にさえも。  姉なのだから分け合いなさい、譲りなさい。それが骨の髄、性分にまで滲み入り、反発も起こさなくなっている。  妹のフォトストグラムの更新通知が鳴った。使い方が分からず、通知登録がされたままになっている。画像系SNSのアプリケーションを開くと、ほんのりと赤ワインが滲むような断面図の分厚い肉の画像が投稿されている。 『久々のウシさん美味しすぎた。センス良すぎですっ』  絵文字がキラキラとしてハッシュタグがずらりと並んでいる。投稿して間もないがすでに他のユーザーから気に入られたマークが数個付いていた。画像は3枚あった。2つ並ぶワイングラスと、まだそこまで暗くはなっていない夜景の兆し。高層階にいるらしい。共にいるのは帝都川大鶴志だろう。そう考えた矢先にメッセージが入る。彼からだ。今日のデートのキャンセルを詫びている。 『気にしないでください』  打ち込んで、羅生門亜也からの別れの一言を思い出す。怒りでも込めてみるのがいいだろうか。しかし無い袖は無料の感情でも振れないのだ。そのうち別れ話が来るはずである。今までそうだった。別れ話と言わず、もう好きではないという報告が。そこまで直接的でなくとも、「次の恋に進みます」だの「自分にはまどちゃんと吊り合わなかった」だのという婉曲的な報告が。  『気にしないでください』を消した。『私のことなんだと思ってるの?』と書き換える。どうせ別れ話になるのである。送信ボタンを押した。相手の既読を知らせるマークが付く。端末が震え出す。電話だ。 『まどか!』  第一声は悲痛な叫びだった。 「な、なんですか……」 『すまない、許してくれ!』  少し癖のある声質だ。 「お仕事なんでしょう?ごめんなさい、ちょっと反応を見てみたくなってしまって……」  まさか電話をかけてくるとは思わなかった。妹といるはずである。悪いことをした。妹に嫉妬している浅ましい姉の図になりはしまいか。 『…………こっちは仕事中なんだ。あんまり驚かないでくれ。面倒臭い女は嫌いだよ、まどか』 「すみません……あの、」  奥できゃらきゃらとした話し声が聞こえた。帝都川大鶴志はわざとらしい咳払いをする。 『まどか』 「はい」 『また今度話そう。今日は仕事が立て込んでいて……』 「はい。では、お仕事中にすみません」 ―案の定、後日帝都川からあったのは別れ話だった。対面で話すはずが、その予定もキャンセルされた。瞬霞は妹に出掛けることを前日から告げていた。帝都川は仕事中、休憩をとって電話を寄越した。仕事中。そういうことになっている。
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