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第3話

 朝のいつもの時間に、達観したような、厭世的な雰囲気のある純朴な風貌の住人・桜楽(さくら)と通路で会った。鹿霞(かすみ)は彼に力強く抱擁される夢をみて合わせる顔がなかった。彼は礼儀正しく穏やかで、好感を抱ける人物であることは間違いなかったが、できれば今日は顔を合わせたくなかった。 「おはようございます」  爽やかに挨拶をする彼の表情は微笑を浮かべながらもどこか強張っているように感じられた。 「おはようございます」 「よく眠れましたか。昨晩は……」  鹿霞は言われたことを理解するのに数拍かかった。昨晩、夜中に迷惑なのが来た覚えがある。 「………ああ、はい」  夢と認めていたものが段々と生々しい輪郭を持ち、現実的な色を帯びてきた。あれは夢ではない。この男に抱擁された肉感を思い出す。彼と鉢合わせてしまったこのばつの悪さは夢由来のものではない。 「それはよかった。あの、」 「夜中にうるさくして申し訳なかったです。車に気を付けて、行ってらっしゃいませ」  彼女は焦りのあまり、桜楽の言葉を遮った。大した意味はないのだろう。優しい彼は心配して駆け付けた。それは昨日の朝もそうである。横柄な男と揉めた知り合いを落ち着かせようとしたに過ぎない。深い意図はないものに気恥ずかしくなっている。そういう自分を鹿霞は軽蔑した。 「行ってきます」  ひとり動揺している鹿霞に桜楽の朗らかな美貌が近付いた。親しいという概念を通り越した距離感に彼女が気付く間も与えない。彼の唇で唇を塞がれる。前後の流れがコマ送りになる。視覚と現実に時差が生じている気がしてならない。柔らかく乾いた質感が脳髄の奥にまで刻み込まれる。口付けが解かれても彼女はぽかんとしていた。すでに桜楽の背中はこの建物の外にあった。鹿霞は首を傾げ、軽く表を掃いてから出た。 「鹿霞ちゃあん」  後ろから呼ばれて振り返る。中学時代を共にしたがあまり鹿霞の中には印象に残ってない同級生の雅火(みやび)だ。慌ただしく走っている。 「追いついたぁ」  腕に組み付く姿は小猿に近い。 「時間分からなかったから起こさなかった」  また文句を言われる前に彼女はあっけらかんとした顔で答えた。 「うん。おで、昨日なんか夜うっさくてすぐ起きれたん」  思い当たる節がある。 「それからずっと起きてるの?」 「そ!」  ぬぼっとした雰囲気は活発そうには見えなかったが気怠るげにも見えず、早い時間帯から起きているとは思えない。 「ごめんね、昨日の夜、建物うるさくて」 「工事か何か~?おではだいじょぶ。大変だね」  腕を抱き締めたまま雅火はへらっへら笑った。そしていきなり立ち止まったため、鹿霞は前進する力で後ろに引かれる。 「鹿霞ちゃん、さっきチュウしてた……よね?」  ぼけっとした目が瞬く。鏡を見せられているような気分になる。 「おでと付き合うんじゃないの?」 「え?」 「おでと付き合う話は?」 「ないよ、そんなの」  相変わらず表情はあるけれど鈍い顔がゆっくり肩の上を半回転する。 「さっきの人とチュウしてた」 「し、してない……」 「してた。鹿霞ちゃんのコト好きな人?鹿霞ちゃんが好きな人?」 「りょ、うほう、違うと思うし、キス、してないし……」  きょときょとと何も知らないそうな顔をして、雅火は彼女の腕をさらに短く持った。 「藤堂くんっ!」  目交(まなか)いが翳る。焦点が合わせられないほど近い。ぷるりとした弾力があった。離れる間際に下唇を軽く吸われた。 「じゃあ、こりはキスだからね」  もう一度顔が近付く。鹿霞は咄嗟に顔を背けた。 「やめて」 「やめない。さっきの人、誰?仲良し?」 「し、知らない人……」 「ふ~ん。知らない人なんだ。じゃっさ、知らない人にチュウされるのやめて。もっかい上書きしてあげる」  力任せな雅火が知らない人みたいだった。顔付きも凶暴になっている。鹿霞は眉を顰め、半歩後退ると、ぬぼっとした顔に戻る。 「藤堂くん……」 「ダメだよ。鹿霞ちゃんはおでのカノジョなんだから。大切にするね」  彼女の腕を掴んでいた手がするすると滑り、手を繋がされた。雅火は上機嫌で、亜麻色の髪を擦り付けたり、頭を預けたりした。しかしそれも講義室の前までのことだった。雅火の友人たちの集団に出会(でくわ)すと彼はあっさり離れる。そこは鹿霞の目的地ではない。雅火を友人たちの元に送っただけである。1人になってすぐ、窓の外をふと見ると女子の多い人集りが見えた。今日は(なぎさ)朝夜(ともや)の通学姿を拝めなかった。あのファッションモデルの来訪は鹿霞の中で無かったことになっている。生々しさのないビジュアルが売りであれども所詮は血の通った人間である。泥酔した友人を抱え、肉眼では修正しようのない肌の質感を残し眠たげな態度をしたいこともある。仕事と一個人では乖離させなければならない部分があるものだ。都合良く切り替わった。彼女は極力、思い浮かんでしまった渚朝夜の知らなかった姿を記憶から追いやった。人集りの解散していったキャンパスのメインストリートを横断しようとしたところで前方から人影が近付いた。鹿霞は避けるが、タイミング悪く相手も同じ方向に避けた。それか二度、三度続いた。顔を見てしまう。 「遅ぇよ」  咄嗟に腕時計を見よう上げた腕が捕まった。酔っ払いであり、傍若無人な訪問者であり、百目鬼(どうめき)荘の住人、203号室の弦木(つるぎ)右琴(みこと)その人である。 「朝凪(あさぎ)のコト見てたのか?」  最初彼女は、それを鳥のシラサギと勘違いした。突拍子もないことを訊かれ間の抜けた顔をしてしまう。 「朝凪だよ、朝凪!知らねぇのか?知ってるだろ!」  弦木右琴はカッと細く薄い眉を顰めて怒鳴る。 「人の名前ですか?」 「ッたりめぇだ。他に何だと思ってやがんだ、このタコ」 「存じ上げておりません……」 「(ぱち)()くんじゃねぇよ。お前は知ってるハズだ!」  この者はこういう喋り方なのか、とにかく怒鳴る。聞いている鹿霞まで喉が掠れたように痛くなる。雅火のような貌をしてしまった。弦木右琴は低く呻いた。そこには呆れが含まれている。 「渚朝夜だよ。アイツの本名!白濱(しらはま)朝凪(あさぎ)ってんだよ。面倒臭ぇから覚えとけ。二度は言わねぇぞ」 「それ、わたしに言っていいんですか」 「はぁ?お前んトコ入居してぇって言ってたぞ。部屋空いてんだろ?」  鹿霞はぎょっとしてしまった。その驚きようは弦木右琴も身を引くほどだった。 「えっ、でもあの人、芸能人でしょう?百目鬼荘(あそこ)は、オートロックとか無い……ですよ。監視カメラは一応付いてますけど………」 「ンなこた知らねぇよ。秘密基地にでもしたいんじゃね。女連れ込んでよ」  部屋が埋まるのはありがたいことである。しかし一般人ならばとにかく、報道陣やファンに追い回される可能性が高い芸能人の住む場所とするには無防備だ。 「あのなぁ、カレシ目の前にして仕事のコト考えるヤツがあるか、バカタレ」 「カ、カレシ……?」 「お前に拒否権ねぇよ?それともあの本ばっか読んでそうなイケメンとデキてんのか?」  言葉を選んでいる最中に、弦木右琴という男は新たな爆弾を投げ入れてくる。 朝の意味深長な、意味深長というには一直線の受け取り方しかできなさそうな、しかしそれには材料の足りない唐突な接吻が甦り鹿霞はさっと頬を熱くする。 「やっぱデキてんのか?やめとけよ。稼ぎは良さそうだけど、セックス下手そうだぞ」 「ちょっとやだ!」  露骨な単語は桜楽を侮辱しているようで嫌悪感とともに、彼を消費しているような罪悪感と羞恥心に襲われた。 「清楚ぶんなよ。今時処女でもそんな反応しねぇぞ」 「あの人は関係ないから、変なコト言わないで!」  抱擁と口付け。何かの間違いである。優しい彼が誰に対しても好感を持つことは想像に難くない。そういう不特定多数として、そして住んでいるところの大家として親切に協力的な姿勢を見せていたのであって、男女の駆け引きはおそらく無い。それが鹿霞の見解である。何故なら艶めいたやり取りなど今までの一度も匂わされたことがなかったからだ。 「やっぱ俺にしとけ?どうせお前は処女で、あの文学青年ってやつも初めてだろ。初めて同士はやめとけって」 「彼は関係ない!わたしとデキてるって思われたら、悪いから……無いと思うけれど、他では絶対に言わないで」  大学は違うが、部屋番号に差があるだけで住所は同じなのだ。 「ンなコト言ってお前のカレシになる俺には悪くねぇワケ?」 「だって付き合ってないし……あなた、わたしのこと好きなの?」  弦木右琴はこの問いに気の抜けた顔をした。盲点だったとばかりで、鹿霞のほうも気を張ったのが莫迦らしくなるほど滑稽な面をしていた。 「自惚れてんじゃねぇよ。好きなワケねぇだろ。お前のコト、知らねぇもん。カノジョの役になれって言ってんの。さっさと折れろ、ブス」  ちくりと彼の言葉の綾とも本音とも分からない罵倒が胸を刺す。美醜についてはっきりと他者から評されることに慣れていない。性格や髪型や服装や持ち物を言われることがあれども、顔面について言及されるような単語をそのまま投石されたことがない。それは顔面にぶち当たれど、気にしないふりをするしかなかった。 「わ、わたしに頼まなくてもいいでしょう。カノジョ役とかそんなじゃなくて、ちゃんと好きな子と付き合ったほうがいいよ……」 「分ァってるよ、ンなこた今更説教されなくてもな。でもな、現状、好きな女もきちんと見定められやしねぇわな」  ぐいと手首を引かれ、腕を組まされる。強張ってしまう。同年代の異性と身体を近付けるまず経験がなかった。甘い香水の匂いに焦る。 「もっとこっち寄れよ。迷子連れてるんじゃねぇんだから」 「で、でも、弦木さんっ」 「右琴だ、バカ。カレシを苗字で呼ぶヤツがあるかよ」 「身体、くっついちゃう……」  再び呆れのこもった呻き声が起こる。 「マジかよ、処女。そういうもんなんだよ。身体寄せ合うもんなの」 「やっぱ、わたしにはできないので……他に、」 「ヤなこった。お前にするって決めてんだ。俺にガチらないならそのほうが都合良いしな。別にただの役作りだから、いいんだぜ、あの図書館大好きそうなカレシと仲良くやる分には」  そこには多分に桜楽との間柄を揶揄する意図が込められていた。鹿霞にとって彼とは本当に何もないのである。強いていうのならば、貸主代理と借主の関係だ。 「付き合ってないから……」 「ほぉ?じゃあ俺が唯一の男になるワケだ?それはそれで気分が良いねぇ。まぁ、お前に男がいようがいまいが、偽装工作(パフォーマンス)としてのキスはさせてもらうからな」  宣言の直後に実行された。本日三度目のキスだった。百目鬼荘のエントランス、閑静な朝の住宅地の一画に比べて、ここは人気(ひとけ)のあるキャンパスの真ん中である。 「ここ、外……」 「こんなつまらんキスひとつで」 「人に見せるものじゃないでしょう……?」 「俺とお前のキスは、見せびらかさなきゃイミねぇんだわ」  もう一度近付く唇を避ける。 「こんなの、公然猥褻と変わらないよ」  キャンパス内で卑猥な行為をするなと通告が来るかも知れない。 「処女め」 「それは関係ない……」 「ある。お前はまだ男の好さを知らねぇんだ」 「弦木さんは知ってるの?」  言いかけて、目の前の男が渚朝夜に担がれている様を思い出し、男2人の何か妖異な妄想が脳を掠めた。すぐさま振り払う。彼等の性的嗜好がどうであれ失礼だ。頭の中を覗かれている心地になった。朝からろくなことを考えていない。彼女は自らをまた恥じた。 「知ってるワケねぇだろ、このタコ!俺は男!あと右琴な」 「み、右琴……さん」 「右琴」 「右琴…………くん」  溜息を聞かされる。肩を鷲掴みにされ目交ぜを強要される。しかし鹿霞の視線はふらふらと彷徨った。 「右琴、な。上手くやれよ。俺の目、見ろ。呼べるまで帰さねぇからな」 「……右琴」  強迫観念めいたものが、芸能人や歴史的著名人でもなく、況してや友人でもない見ず知らずの顔を突き合わせて話す相手の呼び捨てを許さない。内心で敬称が付いた。 「お前の名前は?」 「鹿霞……」 「鹿霞な。分かった。鹿霞、愛してる」  彼は頬に唇を寄せた。 「お前も言えよ、アホ」 「あ、あ………い、」  肩に指が食い込む。彼女はきょろきよろと辺りを見回した。カップルを装わなければならない場面に瀕しているとは思えない。だが右琴の手は離れない。 「愛してる」 「あ、あい……………―ごめんなさい」 「おい」  右琴の手を剥がす。乾いて硬い肉感だった。 「そろそろ移動しなきゃならないので」  鹿霞は男の手を落として逃げた。講義室の中で友人に会い、そこでやっと安堵した。  失念していたことがある。今日は桜楽の帰りが早い。鹿霞はばったりエントランス前で彼と鉢合わせてしまった。 「おかえりなさい」  先に口を開いたのは桜楽だった。何事もなかったかのような清らかな感じがある。 「た、ただいま。吹雪さんも、お疲れ様でございます」  彼は虚空へはにかむ。額や前髪を触り、落ち着きがない。鹿霞は桜楽の厭世的な雰囲気を持ちながら透明感の溢水した姿しか見たことがない。 「霧雨(きりゅう)さん」 「はい」 「あの……」  朝の出来事は無かった。互いに流すのが良いだろう。彼女は努めて日常的に彼に向けていた態度を繕う。否、繕うまでもなく、桜楽自身が朝の変わった接触を無として扱いたがっている節がある。ならばそこに乗らない手はない。鹿霞から口にすることはできそうにない。  澄んでいるように見えて昏い双眸に狼狽えた。 「朝は、すみませんでした」 「へ?」 「朝の……」 「えっと……」  どういう顔をしていいのか分からない彼女は反射的に俯いてしまう。 「キスしたことです」  桜楽は身を屈めて鹿霞を覗き込もうとする。 「へ、平気です……」 「本当に、すみませんでした。霧雨さんとはこれからも良好な関係を築いていきたいです」  彼女はこくこく頷いた。 「わたしは大丈夫ですよ、全然。気にしていませんから」  あの後自由過ぎる我儘な男に振り回されたのに比べれば大したことではない。しかしこの一言で、桜楽の目には陰鬱な気が揺曳(ようえい)する。 「気にして、いませんか」 「はい。だから吹雪さんもどうか気になさらないでください」  鹿霞は言い終わった瞬間、大きく揺らめいた。腕を引っ張られている。桜楽が先導するまま転ぶ危機感から階段を自ら登る。 「吹雪さん」  玄関扉に鍵を挿す桜楽を呼ぶと、傷付いた貌を向けられた。 「霧雨さん。おれは男です」  弱った声音が彼らしくない。 「男の人だと思っていますけれど……」  鹿霞はほんのわずかな時間で自分の桜楽に対する接し方を顧みた。男性として認識しているつもりである。女性として扱ったことはない。また、彼が一個人的には女性であると思ったこともない。 「そういうことではなくて……そういうことではないんです」  鹿霞は首を傾げた。 「えっと……?」 「貴方に無理矢理キスをした奴が何を言うかと思うかも知れませんが、おれを意識してください」  カチャン、と鍵が回る。暗い部屋に彼女は押し込まれてしまった。桜楽から薫る清い匂いに全身を包まれる。 「中、入ってください」  後ろからくる桜楽に促され、暗く短い廊下を抜ける。部屋はよく片付いているどころか必要最低限のものしかない。地震がきたら倒壊しそうな本棚が壁一面に高く並んでいるが、しっかりと倒壊防止の金具が天井に固定されている。遮光カーテンはきっちりと開けられ、白いレースカーテンが掛かっていた。清潔感がどこか病的で無機質に感じられる。特に部屋の使い方に契約違反は見当たらない。  ぼんやりと部屋を見渡していた。ふと何故ここに案内されたのか分からなくなり家主を振り返る。だがその前に後ろから抱き締められた。ふわりとより濃い桜楽の匂いが膨らんで放たれる。グリーンフローラルの匂いようでもあれば甘みのある木の匂いにも似ている。 「霧雨さん」 「吹雪さん……?」 「許してください、霧雨さん」 「許していますよ。気にしていませんし……」  抱擁が解かれた。突き飛ばすような乱雑な仕草で、弾かれそうな彼女の肩を節くれだった手はまだ繋ぎ留めている。鹿霞の意思はそこにない。ただ流される。唇に噛み付かれ、驚きに開いた口腔にはぬるりと生温かいものが差し込まれた。 「ん………っ、」  舌を奪われたのかと思った。中を掻き回され、喉奥まで粘膜が蕩けていくようだった。自身の舌先がどこにあるのかも分からないうちに角度ごと変わる。深いキスに息が上がるまではそう長くなかった。踊るように鹿霞の足は床を踏む。逞しさから目を逸らしていた逞しい腕が背に回る。清潔感のあるシャツに覆われ、その腕を見たことはなかった。触れたこともない。中性的ではないが、鹿霞のイメージする男性性というものからはかけ離れていたその身体は彼女に衝撃を与えるほど引き締まっていた。 「ぁ……っふ、」  甘い蜜が注がれていく。頬に手が添えられ、頭は逃げ場がなくなった。口角から溢れる。思考がぼやけながら鹿霞はまだ後退ろうとする。膝裏に何か当たる。崩れ落ちそうになるのを桜楽が支えている。徐ろに倒れていくそこはベッドだった。離れていく唇と唇とを透明な糸が繋いだ。 「霧雨さん……」  荒い息を整えるのに必死で応えることができない。それでいて目の前には様々な欲望に淡泊そうな男が爛々とした艶光りを眼に湛えている。 「吹雪さん、あの……」  何か言わなければならないと思いながらも、濃密な口付けに溶けきった思考はまだ働かない。液体化したバターが脳味噌の代わりに入っているような心地がした。 「もう止められません。霧雨さん……」 「吹雪さ……っ!待って」 「待てない……」  彼は首を振った。擦り切れた声が生々しい。キスを再開しようと接近する麗らかな顔から逃れる。桜楽の外見をした別人ではないか。双子、クローン、ドッペルゲンガー、クオリテイの高すぎる変装。くだらないことを考えた。そうしているうちにまたもや唇を奪われている。吸われ、甘く噛まれ、侵入を許した。直接触れ合っているわけではない首から下も、情熱的とはかけ離れた印象の男に敷かれ危うい疼きを纏っていた。 「ぁ……っ、ん」  強張った鹿霞の肉体に、内部から湧き起こる胡散臭い安堵感を叩き込まれ頭と身体と精神が好き放題乖離していく感じがあった。女を抱き締め、支える手は片方だけを残し腰に触れた。腿までその曲線をなぞっていく。布越しに伝わる掌の質感には不穏な湿気と熱を孕んでいる。 「吹雪さ……ん、なんで、」 「おれだけを見て欲しい。だめですか。好きな人がいるんですか……?」 「いない……です、いない……っ、いないから……」  腿を摩る手が膝まで降りていくと、今度は胸に触れた。膨らみに手が乗っている。欲のひとつも無さそうな今までの桜楽の印象がもう分からなくなってしまった。 「あの騒がしい人とはどういう関係なんです」 「どういう関係とか、ないです、別に……」  言葉を途切れさせてはいけないことだけ理解した。彼の唇がまた近付いている。「あの騒がしい人」を特定する間もなかった。答えてから右琴であることに気付く。 「とても親しそうでした」 「馴れ馴れしい人だったんです……」 「おれは霧雨さんに慎重に接してきたつもりです。変な風に思われないように……少しずつ」 「お気遣いありがとうございます……あの、吹雪さん……」  異様である。ベッドに倒れたのまでは自分の落度であると鹿霞も認識している。だがその上に覆い被さられるのはどういうわけなのだろう。いやでも導き出される答えを彼女は信じたくない。抱擁、キス、この状況で考えられるのは2つである。どちらにせよ今までの桜楽として接することは今後、できるかどうか怪しい。 「気遣いなんかではありません。そんな綺麗なものではないんです。聞いてください。大切な、話で……」 「あ、あの吹雪さん、わたし全然、朝のことは気にしていませんしよくあることですから。それに、男の子ですもんね、こういうことありますよね。大丈夫なので、本当。お邪魔しちゃってすみません」  この場を後腐れなくどう切り抜けるか。鹿霞は桜楽を押し退ける。簡単に彼は弾かれた。諦観ゆえに優しさに満ちたような目が伏せられる。寄せられた眉根は怒りというよりも傷心の色が濃い。それが自分が知り得ることのない、男という肉体に備わった業なのだと鹿霞は決めてかかっていた。
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