2 / 3
第2話
すでに管理人の窓口を閉めている時間帯にこつこつと叩かれた。そのあとにブザーが鳴る。鹿霞 はすぐに駆けつけた。大学で遠目に見ていた現役ファッションモデルが立っている。朝、テレビでも観た。「どういったご用件でしょうか」の一言が吹き飛んだ。染めたての金髪と化粧気のない顔は渚 朝夜 である。だが画面で見るのとは違う眠げな目が睨むように鹿霞を捉えた。
「あ……いた。管理人さん、いる?」
「あ、わ、わたしが管理人兼大家代理ですが……」
「ああ………―そう。こいつン宅 、ここのはずなんだけど、分かる?」
眠げな目は話の途中で寝たのかと思うほど一度静止した。それから彼はぐったりした人物を差し出した。かろうじて肩を組んでいるが項垂れている。酒臭さがあった。泥酔しているらしい。
「お名前は」
消去法で分かるが念のため訊ねる。
「みこっちゃん………」
「弦木 様ですか」
「たしか………そんな感じ」
「ご友人ですか」
渚朝夜はこくりと頷いた。個人情報である。原則的には教えられない。友人というのは本当のように思えるが、何ならかの事情で泥酔させた可能性がある。責任は取れない。
「部屋番号は教えられません」
「………なんで」
「個人情報ですので」
「………ああ、そう」
彼は融通の利かなさに文句ひとつ言わず引き返そうとした。
「管理人室を開けますので、そちらへどうぞ」
渚朝夜は目を屡瞬 く。
「オレも寝んねしてい?」
「どうぞ」
管理人の卓袱台を隅に片付け、座布団を並べる。渚朝夜はそこに友人を寝そべらせるとその隣に寝転んだ。水とブランケットを差し出す。真横の部屋に芸能人が素のまま寝ているのが落ち着かなかった。やがて寝る支度をするところで管理人室の戸を叩かれる。
「はい……?」
あとは髪を乾かすだけの寝間着姿だった。ドアを開けると隙間から渚朝夜が顔を伸ばした。顔嵌めパネルか何かだとでも勘違いしているみたいに頭を入れようとしている。
「あ……まだ起きてた。オレ明日早いからもう帰る……みこっちゃんのこと、よろ」
「はい」
眠そうな目は変わらない。ひらひらと手を振って彼は帰っていく。管理人室は酒臭さが籠っていた。この建物の居住者はまだ寝ている。鼾 が小さく聞こえる。乱れたブランケットを直す。彼は寝返りをうった。飲酒後の不穏な鼾は音を変え、小洒落た香水が薄らと薫る。水を飲んだ形跡はなかった。
「起きてください」
弦木右琴という男は痩躯であった。揺り起こし、抱き起こし、様々に試みるが酒臭さの強さからいうと相当量飲んでいるのが窺える。
「弦木さん、起きてください」
鹿霞の声は届かない。さらに何度か呼び掛けると彼女はぐいと引き寄せられた。アルコールの匂いが強くなる。
「うるせぇよ……」
むにゃむにゃとしながら彼は呟いた。それが寝言であるのか、意識を持って発したものなのかは定かでなかった。しかし鹿霞はそれどころではない。抱き枕の如き扱いを受けている。そう体温の高くない骨張った硬い身体に包まれている。甘みのある香水は花ともバニラともいえない匂いで、男性向けというよりは女性を購買層としたもののように思えた。
「弦木さん、あの……」
洗ったばかりの髪を包むタオルに彼は顔を埋めている。
「弦木さん、困ります」
「寝かせろ」
強い拘束に慣れてくるとうつらうつら鹿霞も意識を手放しかける。肩は凝り、鼻はアルコールと香水の匂いに包まれ、肉体は落ち着かないまま眠気に沈む。
「はぁっ!?誰だよテメェ!」
耳元の大声と背中に入った蹴りで鹿霞は転がった。タオルが落ち、自然乾燥した髪が少しごわつき、身体の節々が軋んだ。
「俺のコト、レイプしたのか?」
胸元の大きく開いた襟を掻き寄せ、暫定的に弦木右琴としかいいようのない男はしゃかしゃかと尻餅をついたまま後退り壁に背をぶつけた。
「え……?」
鹿霞も寝心地の悪さと突然訪れた寝起きで現状を把握しきれていなかった。ただ顔立ちの鋭い男に睨まれていることは分かる。そして背中を蹴られたらしいことも。
「っつかどこだよ、ここ」
彼は頭を押さえ、頭痛を訴えた。
「とりあえずお水を……」
酸化した水の入ったコップを一度自分の部屋まで持ち帰り、新しい水を汲んだ。
「要らねぇ!どうせそれでまた寝かせてレイプする気だろ」
「モデルのお友達が弦木さんをここまで運んできてくれたんですけれど……」
鹿霞は首を傾げた。酷い言われようだが所詮は酔っ払いである。
「嘘吐くな」
管理人室の扉が叩かれる。窓口に人影はなく、ブザーも鳴らない。間が悪い。鹿霞は酔っ払いを気にしながらもドアを開けた。
「大声が聞こえましたが、大丈夫ですか」
爽やかな風采の桜楽 がいくらか表情を曇らせて立っている。鹿霞は思わず室内を振り返ってしまった。部屋の端でこちらを警戒している男と目が合った。
「大丈夫です。酔っ払っているみたいで……すみません、ご迷惑をおかけします」
桜楽も珍獣を観察するかのように扉の隙間から酔っ払いを見ていた。
「いいえ。迷惑はかかっていません。何事も無ければよかった。こちらこそ取り込み中にすみませんでした」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。お心遣いありがとうございます。いってらっしゃいませ」
「はい。行ってきます。何かあったら、相談、してくださいね」
優しい笑みを残して彼は大学に向かったようだ。その時間に、自分は寝間着である。ということは遅刻を意味した。大学は学生証で出席を取り、ゼミを除けば原則的に遅刻や休みの連絡は必要なかった。そういう手間ではなく、単純に遅刻が決定したことに気分が落ちてしまう。これから朝飯を摂り身支度を整えれば間に合わない。朝食を抜き、身支度も疎かに出るしかない。何よりただの遅刻決定ではない。今管理人室にいるのは質 の悪い酔っ払いである。
「何今の失礼なやつ」
「この建物 の住人です」
「は?」
鹿霞はもう彼に構わず座布団やブランケットを片付けはじめた。
「わたしそろそろ大学に行かないとなので、自分のお部屋に帰っていただけると幸いです」
「どこなんだよ、ここ」
「百目鬼 荘の管理人室です。弦木さんは203号室にお住まいですね」
弦木右琴と思われる人物はべったり腰を下ろしたまま、ここを去る気配がない。
「はぁ?」
「わたしはそろそろ行きますので……」
まだ管理人室の壁に凭れ掛かる酔っ払いに気を遣い、扉をゆっくり閉めたのが間違いであった。彼はひょいと立ち上がる。
「おい!待て待て、待てよ!」
二日酔いの足取りが乱れ、彼は閉められていく木板を掴んだ。しかしバランスが保てず、鹿霞はまた酒臭さに覆われ、床に転んだ。質の悪い酔っ払いも彼女に追従する。背を強かに打ち、真上には影が被る。鼻先と鼻先、額と額がぶつかりそうな距離だった。
「な、なに………」
忙しい中、見ず知らずの男に迫られ鹿霞は呆然としてしまう。それは相手も同じようだった。吊り気味の目が見開いて彼女を捉える。
「ど、退いて……」
「お、おう……」
だが彼はすぐには退かなかった。空返事だった。本人も混乱している様子だ。
「大学、遅れちゃうから……お願い」
「わ、悪い」
弦木右琴であろう男はやっと身を引いた。
「詳しいことは、ファッションモデルのお友達に聞いて。渚 朝夜 から……」
それからまた二日酔いの青年はぼけっとしていた。鹿霞は構わず身支度を済ませるが、着替えとなるとそうもいかない。彼もそれに気付いたのか、さっと顔を赤くして帰っていった。散々な朝だった。
レモン味の飴で空腹を誤魔化し講義を受けた。出席として扱われない時間に入ったがそれでも真面目に話を聴いた。きちんと睡眠も取れていない。来てすぐに講義が終わり、人並みに揉まれて外へ出た。
この大学は第一キャンパスと第二キャンパスに分かれていて、学部学科が混合するような大きな講義は主に第一キャンパスで開催された。今、鹿霞が出てきたところも第一キャンパスの片隅で、目の前の人通りは多いが、すぐ近くの大きな校舎に隠れどこか寂れた印象を与えた。日当たりはそれなりによい。空いた地面を隠そうとしたのか背の低い木が1本と芝生が植えられている。そこに蹲 る者の姿があった。木陰に入り、具合が悪そうである。ぼふっとしたホワイトのフード付きスウェットシャツに黒いジーンズ。背は高いようだが色白で、長い脚を抱えている様がどこか哀れっぽい。購買部で何か食べられる物を買おうとして、ふとその人物に意識を取られた。
「わぁ~ん!鹿霞ちゃん、なんで起こしてくれなかったのぉ」
小猿のように背中にしがみつかれた。声からすると雅火 である。自分より背の低く華奢なものという認識がないのか、体重の預けぶりに容赦がない。空腹と睡眠不足もあって力の入らない彼女はよろめいてしまう。
「藤堂くん」
「次の授業どこ?同じなら一緒に行こ」
講義自体は違ったが、開催される棟が同じであった。半ば引き摺られるようにして購買部は遠去かっていく。雅火は話を聞かない。集中力を損ねたまま講義を受ける。鹿霞には家族という家族がいない。親戚に頼り生きてきた。それでいて大学までの面倒を看てもらっているだけに学業に身が入らないことを彼女は後ろめたく感じた。直前に買ったコーヒー牛乳では太刀打ちができず、途中途中 微睡 んでいた。やがて睡眠欲の泥沼に浸かっていたに等しい講義を終えた。地下の部屋から階段を上がる。その中間ほどで、ふっ……と膝が戦慄き、力が入らなくなってしまう。足場の悪いところで立ち眩みを起こした。天井が見える。一瞬、踵は地上から離れていた気がする。時間にしてどれくらい経ったのだろう。1秒足らずという時間だろうが、彼女には長く感じられた。動画のスロー再生やコマ送りに似ていた。
「大丈夫か?」
階段を転がり落ちるはずだった鹿霞の身体は受け止められた。陰気な響きを持ちながら甘い質感を帯びた声が降る。彼女は自分を支えている者を見上げた。バルーンのような白のフーデッドスウェットシャツが色白い顔に似合っておらず、上半身はそういう膨張したシルエットのくせ下半身はスキニージーンズではないというのに長く細い脚をブラックのボトムスで強調させている。髪は真っ黒く、極端な2色しか持ち合わせていない異様で滑稽な感じがあった。だがスタイルの良さと相俟って、それがブランドイメージと言われたならば納得してしまうような垢抜けた感じがあった。
「すみません」
静かで陰鬱な雰囲気で、目に掛かるほど前髪が長い。鹿霞は助けられておきながら話し掛けるのを躊躇してしまった。話し掛けるな、関わるなと言われているような空気感を醸している。彼女が受け取ったその無言のメッセージは正しかったのかも知れない。彼は何も言わずに鹿霞を追い越していく。
彼女はなんとか階段を登り切り、購買部で菓子パンを買った。学生会館で食う算段だった。しかし購買部の入った棟から出るや否や横から引っ張られる。強い力が不意に加わり、活気の失せた彼女は襤褸布の如く簡単に靡いた。
「何……?」
酒臭さと甘い香水の匂いが漂った。そして突き飛ばされる。
「今日からコイツが俺のオンナだから」
なんとか踏みとどまって顔を上げる。派手な身形の女子大生が3人ほど立っていた。綺麗に巻かれたり、染められた髪に、崩れたところのない化粧、解 れや毛玉のない服。一口にいって瀟洒 な女性たちだった。目の前に1人立つことも憚られる。品定めの眼差しに臆する。持っているカバンからブランドの格の違いが明らかだった。さらには、生活感のない彼女たちに反して今、鹿霞は菓子パンや駄菓子の入ったビニール袋を抱えていた。身が竦む。人の前に立ちプレゼンを行うのとは訳が違う。
「ソイツに貞操を奪われちまったんだよ。そーゆーコトで頼むわ。じゃあな」
背後であの酔っ払いの少し鼻にかかった声が聞こえ、垢抜けた女たちの前に晒されたかと思うと今度は後方に引き寄せられる。
「おら、行くぞ」
腕を掴まれどこかに連れていかれる。次の講義がある棟とは違う方向である。
「ちょっと、放して!」
二の腕に食い込む筋張った手を剥がす。行く手を塞がれた。
「おい女。名前なんつーの?……まぁ、いいや。管理人なんだろ?今夜行くわ」
「個人的な用なら来なくていいです……」
「あ?俺のコト レイプしたくせに何言ってんだよ。俺のアソコも管理しろな」
とにかく疲れる1日だった。今晩は料理を作れそうになく、帰宅途中に弁当とサラダを買った。すぐにでも寝たい。着替えもせず管理人室に雪崩れ込み、卓袱台に突っ伏す。窓口の外から桜楽が帰ってくるのが見えて会釈する。彼も鹿霞に気付き、微笑んで手を振って通り過ぎていく。すでにアルバイトとしての管理人の勤務時間は越えているが窓口を閉めに行くのも重労働で彼女は卓袱台を枕にしたまま、自動で閉められないものかとガラス戸とカーテンを凝らし念じるのみである。
結局、夜になっても弦木右琴と思しき人物はやって来なかった。空腹を埋めるためだけに弁当とサラダを腹に詰め、眠気に勝てず簡単にシャワーを浴び、なんとか髪を乾かして鉛になってしまった肉体をベッドに沈める。意識が脳天で撹拌していく。心地良い眠りの漣 に身を委ねる。そのまま完全に睡眠に入るものと思われた。しかし一入居者としての玄関を叩かれ、何度もインターホンが鳴り響く。一瞬で目が覚めた。女の一人暮らしである。恐怖した。スマートフォンを抱いておそるおそる玄関扉の様子を窺う。
『おい!いるんだろ?女ァ!』
いやでも思い出した。あの酔っ払いである。チェーンロックは外さず解錠する。その音がするや否やチェーンが千切れるほど伸びた。ガツッと耳障りにドアが軋む。
「来たぞ」
「他の住民のご迷惑になりますから……」
「うるせぇ。入れろ。それとも俺の部屋来るか」
「入れませんし行きません……」
鹿霞は目を擦る。不審者は不審者であるが、素性の知れた人物である。恐怖心が一気に失せた。
「はぁ?カレシだぞ。入れろよ。それか俺ン宅 来いや」
「いつからそういう関係になったんですか……明日も早いのでこの辺で……」
閉めかけた扉に手が挟まった。
「まぁ聞けよ。お前は俺と一緒に帰っても問題がない。何故ならアパート自体が同じなんだからな。どうせカレシの1人もいたことねぇんだろ?モテる男の相談に付き合えよ」
鹿霞は欠伸をする。相手は昼間に見た時と同じ服装をしている。まだ風呂にも入っていない様子だ。
「話聞いてるのか?」
「いいえ」
「頭悪ぃのか?俺はモテて困る。分かるか?」
「おモテになると困るんですか」
目蓋が重い。
「そりゃもう困る、困る。お前みたいな地味女には分からねぇだろうがな。ンで、こう考えた。カノジョ1人作っちまえばいいんじゃねぇかってな。それで適任を探してたっつーわけ」
呆れた男のくだらない話に彼女はドアを閉めかけていた。興味よりも眠気が強い。
「お前みたいな地味女のほうが何かと都合が良いっつうこった。あいつ等と正反対のお前みたいなのがカノジョのほうが諦めもつくってもんだろ。家連れ込むフリもできるからな」
「お断りします。おかしなことに巻き込まないでください」
「そうかよ。それなら毎日1人ずつ連れ込んで、毎晩ギシギシ鳴らしてやるよ」
「近隣トラブルは……」
鹿霞はまた目を擦った。事務的な応答を絞り出す。
「まぁ、俺より下の階のやつも大概だぞ。こっちまでは聞こえてねぇみたいだな」
それが誰であるかも考えていなかった。ただ漠然と窓口を閉めた後ならば連れ込むの連れ込まないのということは可能である。
「時間外ですので、改めてご要望をいただけますと……」
鋭くも端麗な顔立ちが暗闇の中にいる鹿霞を吟味するように見ていた。そこにもうひとつ気配が加わる。鹿霞からは見えないが、目の前の男の視線の動きで分かった。建物の内側に向いたため、住人かその友人だろう。
「霧雨 さん?」
桜楽の声だった。彼もまだ起きているらしい。迷惑な来客の奥の壁に掛かった時計はすでに日付を変えて深夜を示している。
「はい」
「この時間に騒がしかったものですから。心配になってしまって。朝のこともありましたし……」
ほぼ無意識にチェーンロックを外していた。鹿霞からドアを開くと、桜楽の姿を認める。先客は露骨に嫌な顔をした。
「ごめんなさい、うるさくしてしまって。明日もお早いのに……」
「いいえ。少し嫌味っぽくなりました。霧雨さんが無事ならいいんです」
「馴れ馴れしい野郎だな。俺のカノジョになるクセに他の男にベタベタすんなよ」
また酔っ払っているのか弦木右琴は意地悪く口角と眉を歪めた。桜楽のほうでは驚いた顔をして鹿霞を見る。
「ち、違いますよ。この人、多分今日もまた酔っ払っているんです……!」
「はぁあ?他の男によしよしされてぇからって嘘吐くな」
嘘を吐いているのはどちらなのだろう。鹿霞は呆れて物も言えなくなった。桜楽は眉間に皺を寄せ彼女を見ていた。
「嘘じゃないですよ。付き合ってません。入居者と付き合うだなんて、そんな!」
この一言は桜楽のほうにも何かしらの効果を齎していたらしい。爽やかな顔がふっと曇る。
「関係ねぇよ。お前は俺と付き合うんだよ。黙って俺のアソコの管理人になれ。俺の股間の開け閉めもお前がやっていいっつうこった。分かったな?あんた、証人な」
気軽に弦木右琴は桜楽の肩を叩いて去っていた。穏和な表情しか見たことのなかった彼に嫌悪の相が浮かぶ。気拙い空気が残されていく。不審人物はこの場を辞したというのに桜楽は戸惑ったようにそこに立ち尽くしている。
「あ、の……」
まず、管理人兼大家代理の立場にありながら夜間に騒音トラブルを起こしたことを謝らなければならない。
「霧雨さん」
彼は踏み込んできた。良家のお坊ちゃんを思わせる上品な寝間着に鹿霞の身体は包まれていた。
「入居者は、だめ……ですか」
誤解を与えたらしかった。鹿霞にとってあくまで恋愛対象にするには相応しくないということを、何か人格的に否定されたと感じたのかも知れない。
「あ、い、いや……そういうことではないんです。なんだか不埒でしょう?大家代理として、自分の物件 に暮らしている人に手を出すだなんて」
包み込む腕がさらに強くなる。
「その逆はどうですか」
「逆……?」
この事象に逆が存在するのか彼女はすぐに読むことができない。複合住宅の反対は一戸建てである。管理人や大家の対 は住人だろうか。疑問符をひとつずつ打ち消していこうとするものの、抱擁されていることに気付くとそれどころではいられなくなった。
「あの男の人とは本当に……お付き合いされるんですか」
「し、しませんよ。ここの住人ですから名前は知っていますが、それ以外は何も知りませんし」
顔を知ったのも昨日が初めてだ。
「霧雨さん……」
力の入っていく腕を解いて適切な距離に彼を置く。
「本当に、夜遅くにお騒がせしてすみませんでした。今後は気を付けますので……」
「そんなにうるさくはありませんでした。おれが個人的に神経質になっていただけです。貴方のことを心配していたつもりが、却って負担になってしまいました」
「駆け付けてくださってありがたかったです。あのままでは収拾がつきそうにありませんでしたから」
彼はほんのわずかに笑みを浮かべたように見えた。
「よかった。また明日の……日付としては今日ですね―今日の朝、元気な姿を見せてください」
「はい。おやすみなさいませ」
清楚で素朴な感じのする青年はまだ帰るのを躊躇っているようだったが、すぐに踵を返す。振り向きざまに手を振ったのが、馴れ馴れしいというと聞こえが悪いが人間関係に不器用そうにみえながら親しげであった。鹿霞は彼が階段を上がっていくのを見ると鍵とチェーンロックを掛けた。ベッドまでの足が重かった。そしてやっと寝床に辿り着き、今あったことなどすべて忘れて泥沼にダイブするが如く彼女は眠った。夢をみたのは覚えているが忘れてしまった。薄らと甦るのは、傍若無人な男に交際を迫られ、育ちの良さそうな朴訥とした青年に抱擁された光景である。眠気は尾を引かず、目が開いた時から頭が冴えた。夢か現か分からなくなっている。時計を見るとアラームの鳴る少し前だった。まず遅刻確定ではないことに安堵し、これから顔を突き合わせる人の好い入居者のことを考えて彼女はひとり頬を赤くした。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい
ともだちとシェアしよう!