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第3話

 昼間から開かれている夏の催し物に誘われ、普段は寂れているアーケード商店街の喧騒を楽しんだ。ホログラムの飾りの下を通る。風鈴を売る店を眺め、よくある形のものを祭夜(さや)からひとつ買って贈られた。ヒマワリや花火、金魚が焼かれている。短冊には金箔が練り込まれて水草と水泡が涼しげだ。どこに飾ろうか、飾らずに取っておこうか考えながら小さな箱に入ったプレゼントを抱え、夏霞(かすみ)は恋人に寄り添う。蒸し暑い気温だったが店の前を通るたびに吹きつける冷たい風が心地良い。 「寒くない?」  人の行列で強い冷風の前に立ち止まったとき、祭夜に肩を抱かれた。驚きとは違う脈の飛び方をする。背と肩に触れる彼の少し湿(しと)った体温で満たされる。 「大丈夫。祭夜ちゃんは?移動する?」 「オレはへーき」  祭夜の手が離れないよう、夏霞は自分の肩にある温もりを握った。彼は一瞬目を丸くして子供みたいな表情をみせたが、すぐにふわりと笑んだ。余程のことがない限り、手以外を勝手に触れられたことは数えるほどしかない。手を繋ぐときでさえ許可を得る。大切にされている自覚はあり、同時にそれをいくらかすまなく思った。一度破局したときの理由を打ち明けてからは尚更だ。夏霞は自ら、彼の手が離れないように留めておく。指先が少しずつ熱くなっていくのを感じた。それはすべてがすべて、夏霞から発したものではない。  高校時代の(つたな)くあどけない、不器用で健気な形と互いにゆっくりと変容していき、けれどそれは決して夏霞にとって寂しいものではなかった。知らない彼が在るだけで、彼女の好いていた大まかなところはほとんど変わらない。 「かすみ―」  気持ちは彼の声を聞き取っているつもりで、耳は彼のものではない声を追っていた。 「知り合いの子?」  祭夜が誰を指してそう訊ねたのか分からない。 「え?」 「あの子。夏霞ちゃんのことずっと見てる」  皮革製品専門店と古着屋の前を閉めている出店に、確かに夏霞を見ている者がいる。さらさらとした色素の薄い髪に日焼けしていない肌。背は高いが青年と区分するにはまだあどけなさがある。線が細く嫋やかな美しさで、仕草に品がある。 「暑詩(しょうた)くんのお友達?」  弟の友人のことは夏霞も何人か知っていたけれど、祭夜の示す少年に覚えはない。弟の友人たちを探っているうちに熱視線を送る美少年と目が合った。ほろりと彼は微笑する。途端に夏霞の頭の中には閃光が走った。その顔立ちを知っている。すぐに名前が出てこないが、見覚えがある。 「暑詩(しょう)ちゃんのお友達じゃ……ない」  それだけは確かだった。弟と彼が話しているところを見た覚えはない。 「じゃあ誰だろ?あの子の勘違いかな」  祭夜はぼんやりと至極どうでも良さそうに外方(そっぽ)を向いていたが、少年が手を振るやいなや、突然、視界を塞がれて抱き寄せられてしまう。 「夏霞ちゃんに惚れちゃったのかな。やだ……」  甘えたような舌足らずな喋り方で、身体をぶつけてくる。独占欲の強い犬のようだ。 「祭夜ちゃん……?」 「夏霞ちゃんはオレのカノジョだもん」 「そうだよ」 「他の男見ちゃヤ………」  夏霞は目元にある祭夜の手を剥がし、そのまま固く繋いだ。しゅんとしているのが可愛らしい。 「祭夜しか見てないよ」  結局のところ少年のことは思い出せなかった。いつの間にか見ていたアイドルに似ているのかも知れない。祭夜の手を引き、謎の美少年のいる出店から離れた。それなりに筋肉のつき、それなりに背丈もある恋人は少し重く感じられる。アーケード商店街が終わり人混みから外れた。大通りを越すとまた祭りが続いているが、祭夜は少し疲れているようだった。 「夏霞ちゃん」 「うん?」 「面倒臭いヤツでごめんね。落ち込んじゃって……情けないよね」  眉を下げ、唇を尖らせながら俯くものだから夏霞は彼をあやさずにいられなかった。高校時代に自然消滅したことを「捨てた」と表現した彼の研ぎ澄まされた不安を煽っていたらしい。 「わたしこそ不安にさせてごめんね。祭夜ちゃんのこと、大好きだよ」  人目も憚らず祭夜は甘えたな子供みたいに夏霞に抱き付く。 「夏霞ちゃん、好き」 「ありがとう。わたしも大好き」  大きな犬に懐かれたみたいな朗らかさと安心さで硬い肉の付いた背中を摩る。 「まだバイバイしたくない。絶対ヘンナコトしないから、夏霞ちゃんがイヤじゃなかったら、お(うち)、来て」  泣き付くように言われ夏霞は苦笑する。 「分かった」  了承すると抱き付く力が強まった。 「お(うち)、今誰もいないよ?いいの?えっと、イヤになったらすぐ言ってね!オレ、夏霞ちゃんに無理強いしない、から!」  顔を赤くして焦っている。彼のことを信じている。信じているか否かと考える隙もなかった。 「うん」  自分から言い出したくせ取り乱しているのが可愛らしい。汗ばんだ手を握る。冬は冷たく乾き、春と秋は心地良い。夏は少し汗ばんで火照っている。  祭夜も夏霞と同様に地元を離れて暮らしていたようだが、長期休みに限らずしばしば帰ってきているらしい。高速道路や電車を使えばすぐに行き来できるような距離にあるらしかった。彼の実家に中まで入るのは初めてだった。玄関前までなら来たことがある。身体を求められなくても大切にされてきた。むしろ身体の接触がなくとも睦まじくいられたことに夏霞はほんのりと温かくなるような心地がした。中に案内される。風情のある古民家をリノベーションした家で、玄関を開けると毛足の長い猫が2匹出迎えた。白地に片方はグレーで片方は赤みのあるブラウンだ。 「今も猫飼ってるんだ」 「オレが出てった後、いとこが4匹拾ってきたらしくてさ。2匹ずつ飼ってるんだって」 「名前は?」 「ねずみ色のチュー太郎ときつね色のコン助。変でしょ」  人懐こくやってきて柔らかな毛を撫でる。 「可愛くて分かりやすいじゃない」  求められ擦り寄られるまま猫ばから触っていると、祭夜はひょいひょいと2匹を別室に移してしまった。 「祭夜ちゃん」 「妬いちゃうよ」 「妬かないで」  彼は夏霞の手を握って2階へと連れて行った。祭夜が高校時代に過ごしていた部屋に足を踏み入れる。窓辺のベッドと本棚、空になって勉強机の脇に教科書の山が結んだまま置いてある。 「やっと、ここに夏霞ちゃんのコト、連れて来れた。夢みたい」  白い電気の光が祭夜の目を強く照らす。 「もうムリだと思ってたから……夏霞のコト諦めなきゃいけないと思ってたから、もう空っぽの部屋だけど、すごく嬉しい。嬉しいよ」  潤んだ目を擦る祭夜に夏霞は言葉が出なかった。大きな子供みたいだ。目元を乱暴にする腕を剥がさせる。 「ごめんね」  彼はぶんぶんと勢いよく首を振った。 「もう解決したからいいの。夏霞ちゃんが今、オレの傍に居てくれるから」  祭夜からは淡いバニラの匂いがした。バニラアイスやプリンとは違う、気取った感じの匂いだ。相手の香りを嗅いだとき、夏霞もまた嗅がれていた。首筋に鼻先が触れる。 「夏霞ちゃんの匂い。ちょっと変わった。やっぱ洗剤とかも変わるもんね。大好きな匂い。好き。大好き」  強く抱き締められ、汗をかいたところも容赦なく嗅がれている。鼻先だけでなく口元が近付くと腰の辺りがぞわりとした。それを察知したのか腰に回った腕に支えられる。 「くすぐったい。犬みたいだよ、祭夜ちゃん。汗臭いでしょ?」 「いい匂いだよ。夏霞ちゃんの匂い。夏霞ちゃん、チュってしてい?」  断れない、否、断る断らないという選択を打ち砕く、潤んだ目と甘く尖らせた唇の前に夏霞の答えは決まっていた。 「…………いいよ」  呟くように返した瞬間、頬が柔らかく弾む。夏霞は目を丸くした。してやったりと祭夜は笑う。気を遣っているのだ。その優しさが嬉しいくせ悲しくなった。 「祭夜ちゃん」 「うん?」  背伸びをした。相手の唇を一瞬奪う。唇の触れ合いが少し怖いのは彼以外のものを知っていて、その罪悪感によるものだった。祭夜は何も悪くない。祭夜とのキスも悪いものではない。 「夏霞……」 「祭夜となら、わたし、キス、好きだよ」  優しく穏やかな愛玩動物みたいな貌が変わった。それでも割れ物に触れるような繊細さで筋張った指が夏霞の頬や耳に触れる。 「夏霞……?」  低く唸るような声は聞いたことがない。しかし祭夜のものだ。心拍数が上がる。クーラーはまだ点いて間もない。身体が熱い。彼の双眸に映る自身のように溶けそうだ。 「大丈夫……祭夜はわたしのコト、大切にしてくれるって、分かってるから」  噛み付かれるようなキスだった。蕩けていく。ベッドに沈み、指が絡んだ。シーツに皺が寄っていく。怖くはない。空いた手は、覆い被さる恋人の背に縋る。 「ん……っ、」  深く絡んだ舌に陶酔する。声が漏れてしまった。身動きを取るのが憚られる。呑まれるようなキスが終わってしまいそうで。 「夏霞、気持ちいい…………?」  熱かった口腔が急激に冷えて蜜糸を紡いでいる。瀞んだ眼差しが降った。操られたようにこくりと頷くが、操られていなくとも実際そうだった。 「このまま、続けても…………いい?」  片手は強く繋ぎ、彼のもう片方の手は耳を撫ぜ、髪を梳いている。 「い、いよ…………」  上擦った。求めていることの意味が分からない季節は()うに過ぎた。目を瞑った。 「ま、待って。だめだよ、ダメだよ」  祭夜はいつもの調子に戻って焦った。身を焦がすようなキスをしたのも嘘かのように純朴な少年然とした雰囲気に戻っている。 「シャ、シャワー浴びてさ!それで考えよ!オレ汗びっしょりだし!お互いちょっと時間置いてみてさ!それで夏霞ちゃんが全然イヤじゃなかったら!」  彼の緊張と気遣いが伝わるだけに夏霞はそれを拒まなかった。祭夜と繋がりたい。けれど絶対ではなく。しかし求められ応じるだけの関係であるつもりもない。 「ゴメンね。ヘンナコトしないって言ったのに。ヘンナコトしないの、ムリだった」 「祭夜とならヘンナコトじゃないから大丈夫だよ」  一方的なものではなかった。他人の身体を使って自分の感情を好き勝手に処理するような触り方ではなかった。優しさと情を惜しげもなく与えられていた。夏霞は大真面目に祭夜を見上げる。 「でも、オレ、大切にしたいから。不器用で、ゴメンね。後悔させたくない」 「ありがとう、祭夜」 「でもでも、夏霞ちゃんの汗流すのもったいないな。もうちょっと嗅がせて」 「ダメ」  旅館を思わせる風呂場に案内された。祭夜は夏霞の真後ろから吊り下がり、肩に頭を置いている。 「夏霞ちゃんの匂いくらくらする。ゆっくりでいいからね」 「うん」  祭夜の気配が遠ざかる。彼が好きだ。彼の優しさ、健気さ、気遣いが涙を誘う。嬉しいのは本当だ。幸せで泣きそうになる。部屋に着いたとき祭夜が涙ぐんだのがおかしくなった。彼には様々なことを我慢させてしまった。これからは何があっても自分が背負う。夏霞の決断は固かった。離れられず、悔いているのは彼だけではないのだ。  軽く身体を清めると祭夜はバスタオルを巻いただけの恋人に顔を染めてシャツとカーゴパンツを貸した。彼の匂いと洗剤の柔らかな香りに包まれる。しかしそれは衣類だけではなかった。ベッドに腰を下ろすと抱擁される。 「オレも入ってくる、けど!もし嫌だったら帰っちゃっても…………いいから……」 「待ってるよ」 「長かったら、ゴメン。オレ、ホントは、すごく緊張してて……」 「緊張してるの?」  肩に乗った頭を撫でた。抱き締める力が強くなる。 「う、ん。情け……ないよね」 「情けなくない。わたしのこと、意識してくれてるの?嬉しい」 「ちゃんと、考えてね。オレに遠慮、しないで」  高校時代、確かな言葉もなく交際から逃げ出したことは陽気で剽軽だった彼に根深い陰を落としてしまった。 「緊張しないで、祭夜ちゃん。わたしは大丈夫だよ。祭夜ちゃんとだもん」  祭夜は少し黙っていたが、抱擁を緩めると機嫌を窺うように夏霞の顔を覗いた。 「うん」  彼はこつりと額をぶつける。額相撲を仕掛けてくるのは前と変わらない。離れると触れ合った場所が寒くなる。 「リビングにいるといいよ。そっちのほうが涼しいし、広いから。猫ちゃんと遊んであげて」  短い距離でも手を繋ぐ。まるで絵本のプリンセスみたいに階段を降りて、夏霞はリビングに、祭夜は風呂場に入っていった。この家屋は外観は古民家だったものの内装はそうでもなくリビングもまたよくある洋室だった。赤トラの入ったコン助は夏霞に甘えたが、グレーのチュー太郎はキャットタワーの上方から箒のような尾を揺らしていた。翠色の目が夏霞を見てあくびをした。ピンク色の舌が見える。チュー太郎とも遊ぼうとしたが彼女の膝にはコン助が乗り、腕を舐めている。冷風に靡く長い毛に指を埋めた。やがてチュー太郎も夏霞の傍にやってくると、彼女の身体に凭れかかった。局所的な温かさと毛の柔らかさが心地良い。コン助の箒みたいな尾がリズムを刻み、チュー太郎の喉が響く。うとうとしかけたが、扉の開く物音に目が覚めた。風呂場ではない。玄関だ。施錠の音もした。家族かも知れない。膝のコン助を抱き上げ、夏霞は立った。挨拶をしなければならない。足音が近付き、リビングのドアが開く。淡いブルーのスリッパがまず最初に目に入った。 「雨堂(うどう)……?」  抱っこされるのが嫌いらしい大きな猫は夏霞の腕を蹴って床に降りた。突っ立ったままの彼女の脚で毛並みを整える。 「誰……?」  入ってきたのは艶やかな黒い髪と白い肌が印象的な男だった。年頃は夏霞や祭夜とそう変わらない。知っているようでよく知らない相手は夏霞の姓を口にしていた。思い出せない。思い出せば、冷静でいられなくなる。 「なんで……」  問答は噛み合わない。夏にも関わらず色の白い男は夏霞以上の戸惑いを示した。弱った声は色香を秘めている。それで思い出した。鈍い頭の痛みを伴う。記憶を辿るなとばかりに。この男は、夏霞にとって自分を手籠にした加害者だ。後退ってしまう。彼女の動きを美しい加害者は見逃さない。 「逃げるな。祭夜と復縁したのか」  腕を掴まれ、夏霞は咄嗟に弾いてしまった。この男に無理矢理身体を暴かれ、夏霞は祭夜を"捨て"てしまった。それは果たして罪悪感だけだっただろうか?優しい恋人の中にあるはずの獣欲を恐れたからではないだろうか。 「触らないで……っ!来ないで……!近寄らないで!」  夏霞は叫んだ。猫たちは尻尾を下げてトコトコとリビングを出て行く。 「雨堂……あの時は、本当にすまなかった。俺は、雨堂を、―」  風呂場から物音が聞こえた。祭夜だ。夏霞は縮み上がった。心臓が潰されるようだ。息が出来ない。一体自分はどういう悪いことをして、何を間違えたのか考えた。祭夜の足音が近付いてきている。 「あれ、舞夜(まや)くんじゃん。久しぶり」  凍り付いた空気を頭にタオルを乗せた祭夜が突き破った。 「祭夜……」 「あ、紹介するね。オレのいとこの舞夜くん。同い年だよ。で、こちらがオレのカノジョの夏霞ちゃん」 「いとこ……?」  夏霞はもう加害者男のほうは一切見なかった。祭夜ちゃんと傍に逃げてしまう。 「そ。オレのママンと舞夜くんのママンが双子なんだ」 「そ、そうなんだ」  クーラーとは無関係な寒さに襲われ、夏霞は強張った。膝が震えてしまう。 「でも予定より早いじゃん」 「こっちで急用ができたから……早まった」 「そうなんだ。ばあちゃんに言ってこないと。ついでに何か買ってくるからさ。待っててくれる?」  夏霞は躊躇った。一緒に行くと言えたら。しかし彼の家のことだ。2人きりにはなりたくなかったが留まるしかない。いとこという関係の者をここで糾弾できるだろうか。また彼を"捨て"るか、耐えるか。答えは既に出していた。 「う、うん」 「ゴメンね。夏霞ちゃんはオレの部屋に戻ってて。猫ちゃん連れて行っていいから」  彼もまた恋人を他の男と2人きりにはしたくないようだ。夏霞を宥めるようにリビングの外へ促す。閉め出されたが如くドアが閉まり、男2人の声が聞こえる。夏霞は祭夜の部屋に戻った。クーラーの温度を少し上げた。気温は暑いが身体の芯は寒くて仕方がない。ベッドに寝転がり、今まで固く蓋をしていた記憶を掘り起こしてしまう。芋づる式に、祭りの最中に見た高校生くらいの少年の面影が鮮明に甦る。高校生としての彼は知らない。しかしそれ以前の彼を知っている。それでいて名前が出てこない。閉塞感を抑えながら彼女は苦々しく傷口を開こうとした。 「雨堂」  ドアノブが捻られ、心臓が口から飛び出しそうになった。鼓動が速くなる。 「来ないで!」  ドアが開くのを恐れた。呼吸の音が聞こえる。足音を殺してドアを押さえる。 「……分かった。でも……」 「あなたと話すことなんて何もない。あっちへ行って」  息が乱れた。恐ろしさが喉に詰まっている。 「雨堂。これだけは聞いてほしい……」 「聞くことなんて何もない!お願いだから、もうわたしに関わらないで!祭夜ちゃんとの間を邪魔しないで!」  ドアが開くのではないかと思うと手を離せなかった。祭夜が帰ってくるまでだ。祭夜が帰ってきたら……?祭夜が帰ってきても、この男は祭夜のいとことして祭夜の傍にいる。逃げたい。その感情が込みあがりかけている。また祭夜を"捨て"ることになる――……  彼女の迷い、隙を突いてドアが開いてしまった。夏霞は足の裏一帯が雪山になったような戦慄を覚えた。美しい怪物はわずかに開いた空間から身を割り入れた。近付けば長い爪と強靭な掌に引き裂かれ握り潰されるだろう。夏霞は追い出すことも叶わずドアから逃げた。 「雨堂」  端正な顔立ちは表情が乏しい。髪同様の真っ黒な瞳が夏霞だけを捉える。膝が震えた。吐気がする。 「謝りたい」 「関わらないで!もう、わたしの前から消えてよ!」  女は感情的だ、とこぼされたことがある。ヒステリックを起こした友人のカレシはゼミの同期だった。雨堂さんはそういうのが無さそうでいいね―しかし、夏霞は昂る感情を抑えきれなかった。腕力では敵わない。相手の背丈や体格で計算できてしまう。喚かなければ、暴れなければ黙ったまま誰にも知られず食い殺されてしまう。その禽獣の手に捕まる前に。 「雨堂」  距離を詰められる。(にじ)り寄ってきている。それは嬲っているに等しい。じわり、じわり、恐怖を与えているのだ。一歩一歩が終焉へのカウントダウンに違いない。夏霞は頭を抱えた。 「祭夜ちゃんに悪いと………思わないの?」  ここで無関係な彼のいとこ、自分の恋人を持ち出したことに彼女は自身で傷付いてしまった。逃げの口実みたいに使ってしまった。2人で解決すべきで、この男が消えて決着することだ。 「雨堂に悪いと、思っている……」  背中にクローゼットがぶつかった。追い詰められている。それでも爛々とした双つの黒真珠は夏霞を捉えて離さない。 「来ないで」  すでに目の前で逆光している。怪物だ。クマだ。ライオンだ。トラだ。アナコンダだ。彼女の喉は縊れたように声も漏れなくなっていた。 「悪かった」  過去のことを悔やんでの謝罪ではないことだけ、ぼんやりと現実逃避した思考の中で理解した。でなければ怖がって拒絶を示す相手にこのような真似はできない。舞夜という青年は今、死んだように硬直した女の身体をぬいぐるみ同然に扱い、抱き締めて弄んでいる。夏霞はただ吐息だけした。四肢は上手く動かない。頭の中は静寂に満ちている。 「好きだったんだ、ずっと。なのにアンタ、俺のこと知らないとか言うから……」  この者は誰なのか。余程の有名人なのか。皆目見当もつかない。 「高校のとき、仲裁に入ってくれただろ。俺が上級生と喧嘩して……」  そういうことはあったかも知れないけれど、よく覚えていない。だが後悔した。その時に首を突っ込んでさえいなければ、こういうことにはならなかった。祭夜を"捨て"ずに済んだ。感情は虚無というほど凪いでいたが、彼女の目からは涙が一粒落ちた。 「ずっと好きだった。アンタが祭夜のカノジョでも。ずっと……見てた。アンタは挨拶も言葉も返してくれるのに、アンタは俺のこと、知らなかった…………」  首筋を舐められている。シャツの下に手が入り、キャミソールを省いた素肌を撫でられている。  まるで覚えていない。5年経っている。要らない情報として破棄されたのだ。臭い汚い気色悪い記憶として纏めて棄てられたに違いない。 「他の男が目に入らないくらい、祭夜のことがそんなに好き?」  ぼんやりと、追い詰めているくせ追い詰められた貌をする舞夜を見つめた。しかし人の顔と認識できない。 「アンタ、キス好きだったよな」  眼前に迫るそれはぼやけ、恐ろしいケダモノにしか見えない。
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