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第2話

 隣の地区の図書館では充実した学習時間を過ごせた。少し狭まった道を出るとすぐに大通りに当たるため帰り道にしても不安はない。それだけでなく、この図書館は中央図書館よりも学習スペースに限り閉室が1時間早いためまだ明るいうちから帰ることになる。その分は弟の課題を見るのに充てるのでも、本を読むでも悪くない。  時報が鳴り、中央図書館ほど人のいない学習室に控えめな機械音声のアナウンスが入った。学業に身を置く者なりに一仕事終えた。少し図書スペースのほうを眺めることにして特に読みたいものはなかったけれど、書架と書架の間を練り歩く。手芸のコーナーがあった。手芸は好きだ。手芸同好会にも入っている。マフラーやセーター、帽子を編む。家族も喜んで使う。時代を感じる退色しかけた背表紙に興味が湧いた。手を掛ける。少し高いが届く。 「おい」  後ろから伸びた手が引こうとした編み物の本を戻す。 「ごめんなさい。どうぞ」  どうしても見たいわけではなかった。他に借りたい人がいるのならその人が借りたらいい。だがその手は本に用があったわけではないらしかった。本から離れた夏霞(かすみ)の手首が掴まれる。真後ろに気配があった。リュックが潰れるほど近い。 「え……?」 「雨堂(うどう)」  夏霞の苗字だ。しかし― 「誰……?」  不機嫌そうな喋り方と若い声だ。そういう者に覚えがない。ゆっくりと振り返って顔を見た。染めたように不自然なほど均一に艶やかな黒髪と怒ったように寄った眉からすっと通った鼻梁。切れの長い目と幅の狭い二重瞼が神経質で薄情な印象を受ける。なかなか見目は良い。しかしへの字に曲げられた唇は今にも不平不満を口にしそうだ。 「誰……って………」  怒っているのか悲しんでいるのか分からない威嚇したような眉と目に夏霞は怯んだ。初対面だというのに、知らないのはお前が悪いとでも言いたげだ。そして気付く。新手のナンパだ。ここは繁華街ではないが美醜問わず若い女の一人歩きはナンパに遭いやすい。そこで応じて待ち受けるものは個人情報を売られるか、その身体を売らされるかだ。だがナンパなら何故名前を知られているのだろう。そう考え直した矢先、彼が今にも悪態を吐きそうな口を開いた。 「雨堂。俺のこと、知らないのか」  夏霞も目の前の男に釣られて眉を顰めた。歳は近い。夏霞と同様私服だ。ゆったりした淡いグレーともベージュともいえないオーバーサイズの半袖シャツに黒のチノパンツが脚の長さを強調する。 「ちょっと、その……分からないです………」 「なんで」 「なんで……って…………」  正直に答えれば理不尽なことで責められる。知らない人の方が多い。そこに理由などあるだろうか。どうこの場を切り抜けようかというときに端末が震えた。一言断って内容を確認した。恋人からの構って欲しいというメッセージだ。 「ごめんなさい。また今度」  急を要した内容ではなかったが逃げる口実に使った。図書館を出ようとする。 「俺のこと知らないってどういうことだよ」  背後から首に腕が回る。抱き締められ、彼女は慄然とした。 「は、放してください……誰か来ますし……」 「見られてもいい。学校に通報されても俺は構わない」 「あなたが良くてもわたしは嫌!学費出してるの、誰だと思ってるの……?悪いと思わないの…………?」  夏霞には両親がいない。血の繋がらない弟と、血の繋がらない"叔父"がいる。まだ若い。そのほぼほぼ何の義理もない人に養われているのだから甘えていられない。冷めた眼差しが夏霞を捉える。そこにあるのは侮蔑だ。揶揄だ。嘲笑だ。夏霞は触れられたところを払う。真面目だ、優等生ぶるな、偽善だと言われても、夏霞には夏霞の事情があり、彼女なりの恩がある。血の繋がらない弟や"叔父"のことは大好きだ。着るにも食うにも困ったことはない。それでいて惨めになることもたまにはある。それが無邪気で人懐こい弟や何の義理もなく扶養に入れたまだ若い男への裏切りに感じて今まで隠していた。思うことすら禁じていた。  夏霞はふいと見ず知らずの馴れ馴れしい奴に背を向けた。早く帰りたい。弟も叔父も大好きだ。 「好き」 「……え?」  腰に手が回った。強い力で引かれる。リップクリームを何度も塗らねばならなくなった唇を塞がれる。ふわりと優しい柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐる。それがすぐに彼女を日常に戻す。 「やめてっ!」  突き撥ねるも、相手の男は彼女の抵抗を上回った力で華奢な身体をその腕に閉じ込めた。 「放さない。もう止まらないから」  体格差、個人差では埋まらなかった性差、凄まじい希求によって押され、抗えず、ただ夏霞のできることといえば転ばないように後退することだけだった。しかしそれは同年代らしき見ず知らずの男の意思によるものだ。男女多目的トイレを越え小さな通路に引き摺り込まれる。 「いや……!」  背を強かに打ち付ける。薄手のシャツ越しに夏でもコンクリートの冷たさが伝わった。2階の視聴覚室に通じる階段下だ。目の前が陰る。 「放して……」  間近に迫った脅威に夏霞の声は消え入りそうだ。だんっと頭の真横を叩かれ、暴力の布石のような爆ぜた音に肩が跳ねる。 「やめて……」  両腕のわずかな隙間だけを許され、夏霞は頭を抱えて首を振る。 「俺を見て」  肩を触られ、取り乱した彼女はそれを蚊でも殺すように(はた)き落とす。 「好き」 「いや!」  何を言われているのか夏霞には聞こえていなかった。この見ず知らずの男が何を言っても彼女は聞くつもりがない。不躾な者の言うことなど聞く必要もなかった。卑劣な若い男の長い睫毛が弱ったように伏せる。その奥の瞳には夏霞だけが映っている。叩き潰されてもなお生き永らえた蚊の雰囲気に似ている。筋張った手が混乱している彼女の小さな顎を掬った。噛み締めた唇に唇がぶつかり、強張ったスレンダーな身体が強く抱かれる。 「好き」  一度離れた唇をまた吸われる。突っ撥ねた肘がもう意味を成さない。恐怖に膝が震え、力が抜ける。熱い舌が夏霞の口腔に差し込まれ、ゆっくり中を掻き回していく。最初は優しく、徐々に激しく執拗に絡みつかれ深く縺れていく。気の遠くなる口付けに崩れ落ちそうになるのを腰に回った腕が留める。首が据わらないのをいいことに後頭部を捕らえられ、好き放題に蹂躙される。巧みな舌遣いに呼吸を忘れた。相手の服を掴んだ手も落ちていく。 「キス、好き?」  互いの下唇が透明な糸を紡ぐ。夏霞は息を上げ、突然現れた美男子にすべてを委ねていた。キュロットスカートに近いショートパンツの中に手が入っていく。ウエストで結んだリボンが無惨に解け、だらんと揺れた。ショーツの前の小さなリボンをくすぐられる。 「やめ、て……」  完全に許される域を越えた美男子の無遠慮な腕を引っ掻くも、大した抵抗にならない。装飾用の小さなリボンで遊んでいた指がショーツの中に侵入する。 「いや……」  抵抗を思い出す。夏霞は身を捩った。それを嘲笑うようにあらゆる場所にキスが降る。 「ぁ……っ」  柔らかな箇所を無邪気にリボンを繰っていた指が確信的な動きを持って撫でた。そしてさらに奥へ沈んでいく。 「や、だ………」 「濡れてる」  悲嘆のあまり上体からぐったりした彼女の額を、何度も不躾に口付けを仕掛ける唇が啄んだ。恋人も遠慮して気を遣い、時機を待っていた秘部に他者が入り込む。 「や………だ、やだ……」  内肉を掻き分けられ、辿られている。長い指の形を感じる。嫌でも目の前の男に縋り付かねば立っていられなかった。痛みも苦しさもない。容赦なく唇を奪い、コンクリートの壁に叩きつけるくせ、その探索はあまりにも優しかった。無理なく進み、惜しむことなく引いていく。慣れてくると激しくなりショートパンツの中でくちくちと湿った音がする。指淫によって夏霞の腹の奥は燻った。何か先があるような厭な期待と後に引けないむず痒さがある。 「かわいい……」  身に覚えのない火照りに陥った夏霞の瞳を覗き込んで彼は呟いた。指の抽送が速さを増す。彼女の肉体は意思を捨て、同年代らしき謎の美男子の指を締め付けた。 「雨堂」 「い、やぁ……っ、ぁ!」  奥を擦られ夏霞の声が甘く上擦る。腰が揺れる。自ら抉られようとしているが、彼女にもその自覚はない。尖ったところのある美男子はその様を食い入るように見つめ、猛獣のような眼光をさらに鋭く爛々とさせた。 「ここか。ここ、いい?」 「抜いて、触らないで……放して…………ッ、ぁん……!」  内側からの愛撫に頭に靄がかかる。触られてもいない胸の先端にまで痺れが走る。腿を震わせていると、壁を向かされた。冷たいコンクリートに火照った頬を擦り寄せる。下半身を引かれ、足の開き方まで支配される。もう何が何だか分からない。 「な……っ」 「挿れたい」 「や、や……っ!」  やはり抵抗するだけ無駄だった。下着ごとショートパンツを下ろされた。恋人以外には見せない場所が外気に触れる。 「挿れるから」 「や、だ……」 「だめ。やめない」  欲情で掠れた声音は切ない。夏霞の下半身を引き寄せて、彼女に対する渇望で膨らんだ熱を押し当て前に出す。 「ぁ……や、めて、」 「雨堂」  馴れ馴れしく呼ばれ、たとえそれが何の効力を持たなかったとしても夏霞は拒絶を示さずにいられなかった。 「あたし……あなたのことなんて、知らな………っ!」  粘膜が火傷しそうなほどの激しい熱が体内を衝く。内臓が口から飛び出そうだ。夏霞は目を見開いた。そこからぽろぽろと涙が落ちていく。身体の中に知らない男が入ってしまった。耳の後ろで荒く息をしている。そのたびに微かに灼熱の楔が軋み、それだけで夏霞の未開の地は赤く染まり、痛みを伴った。声も出ない。喚くこともできず、動くこともできない。コンクリートの壁にあった手はいつの間にか後ろ手に拘束され、それを軸にするように恐ろしい美男子は深々と夏霞の中に食い込む。 「きつ……」  未開の腹を突かれるたびに涙が落ちる。息を溢すだけだった喉がやっと辛苦ばかりの掠れた喘ぎを漏らす。病熱の時でさえ意識しない箇所が熱い。呼吸ができるようになると痛みに変わる。そして熱いくせそこに冷たさが含まれていることに怖くなる。 「痛い……っ、いた……っ、い、いや…………」  唇を噛む。痛みが口元に集中した。弱い秘部の熱と痛みよりもまだ耐えられる。知らない男よりも冷たい壁の方が優しかった。汗の滲む額や頬を押し付ける。酷い男の手の中から腕を取り返した。コンクリートに枕を作る。全身を冷やしたいくらいだった。 「痛い………」 「あんた………もしかして処女なのか」  前後に押しやられる動きが止まった。相手の声も媚びたように掠れていた。 「痛い………抜いて、許して………」 「あんた、カレシ居たよな……?」  焦りを帯びて力加減のない手指に細い肩を掴まれる。秘部同様に肉に食い込む。痣になるほどの握力だ。捕食者に等しいものを前にして本能的な恐怖が落涙だけでは治まらず、顔面をくしゃくしゃにして彼女は泣きはじめた。突然、同い年くらいの暴漢の美しく整った顔が驚愕に染まった。彼の指が冷たいものを孕んだ箇所を非常に繊細な仕草でなぞり上げる。体内を暴き、肩を鷲掴んでいる者と同じ人間には思えないほどの緩やかな触り方だ。 「処女だったのか……」  腹を留めていたものが去っていく。身体に無機質な穴が空いたようだ。立っていられず、なんとか下着とショートパンツを片手で履き直し、そのまま床に落ちた。顔を両手で覆う。解放されるとまた声も出なくなって小さく嗚咽する。 「ご………めん」  すぐ傍で立ち竦む脅威が少し小さく見えたがまだ油断できない。まだ脅威であることは耐えられない。 「謝って済むことじゃないけど……悪かった」  話もしたくない。夏霞は目元を拭って彼を無視した。 「送っていく……」  その一言に哀しみの奥底に沈んでいた彼女は途端に激しい怒りが込み上がった。しかし言葉は出てこなかった。怒鳴る気力もない。ただ睨んだ。先程までクマだのライオンだのと並ぶ天敵が怯んでいる。  彼女はひとりで帰った。誰にも相談できず、妊娠の不安に苛まれながら、段々と恋人を避けていった。 ◇ 「ん……っ、」  呼吸を忘れて口付けが苦しくなった。顔を背ける。相手の胸元も思わず突っ撥ねてしまう。だが許されない。骨が軋むほど強く抱き締められ、閉じ込められる。 「夏霞はキス、好きじゃないんだね」  一度別れた恋人と再会したのは大学4年の夏休みだった。就職先が早くに決まり、あとは必修単位を取りこぼさず無事卒業するだけだ。夏休みを堪能するには十分で、彼女は地元に帰ってきていた。ふと懐かしくなってアイスキャンディーを齧りながら河原を歩くと後ろから肩を掴まれ、最初は激しく狼狽した。そしてその人物を認めると、夏霞はまたもや身を震わせることになった。 ―緋森(ひなもり)祭夜(さや)。高校時代の恋人で、不義理を理由に夏霞から距離を置いた者だ。相変わらず人懐こそうな大きな目がぱちぱちと瞬いた。 「さっき、夏霞かなって思ったから、追ってきちゃった。夏霞……だよね?」  高校時代からさらに成長して肉体的な逞しさに、まだ彼個人の愛嬌が残っている。それが少し子供っぽい。しかしそれは高校生のときからだった。少しちぐはぐなところがある。そこに惹かれていた。 「帰って来てるの?夏休み?」 「うん」  まだ驚きから覚めていない夏霞にも構わず、祭夜は彼女の腕をがっちりと掴んだ。 「久し振り、夏霞」  きゃらきゃらとした声で喋っていたが、ふと真面目な響きに変わる。それがこの者との関係もあって彼女はたじろいだ。 「久し……振り」 「少し話そうよ。次いつ会えるか分からないし」  夏霞の知っている以前の祭夜とは違っていた。彼は表面上もっと遠慮がちで、機嫌を窺うようなところがあった。それでも結局は自分のペースに持っていくのが上手かった。今の彼は、たとえこの後の予定がどうであろうと自分を優先しろ、というような気遣いの無さを感じる。夏霞は腕を引かれた。蚊に刺されそうな緑生い茂る緩やかな法面(のりめん)に座らされる。 「カレシは、できた?」  真っ先にその問いを投げ掛けられるとは思わなかった。しかしそのことには触れず、首を振った。祭夜が今のところ、最初で最後の恋人だ。誰かに惚れたということもない。 「なんでオレのこと、捨てたの」  風がサーッと草を撫でていった。夏霞は目を見開く。 「捨て……た………?」 「捨てられたと、オレは思ったよ。オレのコト、嫌いになった?他の人が、好くなっちゃった?教えてよ」 「捨てた、つもりなんて………」  怒ったり拗ねたりしているのか、もう祭夜のことが分からない。彼は自嘲的に笑っている。 「はっきり言ってよ。ちゃんとフッてくれたら、割り切るからさ。本当のコト知りたくて、ずっと足踏みしてた」  夏霞は口を開きかけて、しかし一気に脳裏を叩く忌まわしい記憶に顔を覆った。 「夏霞?」  言ってしまっても、何か不都合のある関係ではなくなった。地元から離れられる身だ。狭い横の繋がりは、もう望んだとしても手に入らない。ただ口に出せないのは、言語化するために整理しなければならない過去の出来事に息が詰まるからだ。 「浮気、したから……」  強気であろうとすると嘘が出る。歪曲も甚だしい。しかし息の詰まる思いからは解放された。 「浮気?どこの、誰と」 「知らない人。図書館で会ったの。全然、知らない人……」  当時の顔は覚えているが、今会っても分からないだろう。それくらい認識の浅く、そして切り刻まれるほど濃い人物だ。 「知らない人と、浮気をした?だから……」 「会わせる顔がなかった。たった一回のことだけれど、妊娠してるかも分からなかったし、そうしたら、祭夜に迷惑かけて、祭夜に嫌われると思ったから……」 「浮気って……そういう……」  陽射しが痛い。日焼け止めを塗っても足らない。しかしこの話をしているうちに寒く感じられた。 「浮気?本当なの、夏霞。脅されたりしたんじゃないよね?オレはその話、信じていいの?」  剽軽だった彼の真面目な眼差しが痛い。毛穴ひとつひとつを射す太陽よりも鋭い。 「……うん」 「ひとりで色々、考えたんだね。その人のこと、まだ……その、好きなの?」 「好きじゃないよ。はじめから好きじゃない」 「夏霞、―」  遮るように彼女は立ち上がった。虫が飛んでいる。セミの声も激しい。 「久し振りに会ったのに、こんな話してごめん。楽しい話じゃないし、もうやめよう。なんとなく帰ってきて知ってる顔に会えてよかったよ。熱中症には気を付けて」  ひょいと軽い身のこなしで祭夜も立った。帰ろうとする夏霞をまだ引き留める。 「オレ、まだ好きなんだケド、夏霞のコト」  手を取られ、指を握られ、真剣な顔で言われ、夏霞は笑って誤魔化すしかない。 「何言ってるの?何年経ったと思って―」 「でも、オレ、夏霞のコト好きだよ。カレシ居ないって言っただろ。付き合い直したい。今度はちゃんとフられたい。じゃないとオレ、踏ん切りつかないよ。ずっと夏霞のコト好きなの、引き摺る」  冷凍保存していた慕情か、今改めて芽生えたものか、彼に対する想いは否定できない。しかし後ろめたさが重い。祭夜の望む身体ではないかも知れない。また彼を遠ざけねばならないことになったら。 「そう言ってくれるのは本当に嬉しい。でも、付き合うとか……やっぱちょっと、重くて……」  祭夜は小さく唸って、ふざけたように軽く体当たりをする。 「夏霞と付き合いたい。夏霞に、またオレのカノジョになってほしい」 「……ごめん」  誰かの恋人になっていく周りの友人たちから、何故誰とも付き合わないのか問われたことは少なくない。重いからだ。自分ひとりで悩むことに恋人がのしかかってくるからだ。人をひとり、裏切らねばならなくなったことがあるからだ。 「オレのコト、また好きになってよ」  優しい手付きで抱き寄せられる。何も考えることなく流されてしまいたい。この元恋人の陽気で優しい、夏の日影のような安らぎを享受したい。強く拒む覚悟もなければ、自ら踏み出すだけの意志もない。 「好き」  向かい合わされ、そっと頬に手が添えられた。夏霞よりは十分高いところにあるが、他の男子と比べてしまうとそう高くないところから唇が落ちてくる。 「祭夜ちゃん……」  彼の胸に両手を当て、鼻先を逸らす。曖昧な抵抗は構われない。 「だめ」  真面目な顔と低くなった声で拒否を拒まれる。むしろ餌を与えてしまった。少し汗ばんだ胸に置いた手を取られ、彼は強く握り込んだ―…… 「じゃあさ、まだ返事聞かないから、お試し期間。夏霞の思うオレだったら付き合って。もう夏霞の知らないオレだったら、フッて。夏霞のこと諦められるようにするから……」  自分を軟禁する両腕の中から彼女は脱け出せなかった。 「でも、」 「でもはヤダ。せっかく会えたの、ぜったい偶然じゃない。オレは夏霞の運命の人だよ?」  耳元の囁きに力が抜けそうだ。人目が無いわけではない。高校の時から彼は人目を憚らないところがあった。人懐こさやあどけなさで赦されていた。 「祭夜ちゃんは、わたしで……いいの…………?お試し期間って言ったって、わたし、本気になっちゃうかも知れないんだよ?」  彼の背に腕を回しかけ、だがまだ熱烈な抱擁に応えられずにいる。いずれ飽きられ嫌われてしまうことよりも、この選択を後悔させるほうが嫌だ。 「夏霞がいいって何度も言ってる。夏霞じゃなきゃヤダ。夏霞、お願い。オレを選んで。オレにチャンスを頂戴なの」  祭夜の気痩せした身体に夏霞も腕を回す。 「わたしのほうこそ、お願いします」  すっと祭夜は夏霞を放した。あまりの呆気無さに夢を見ていたのかと錯覚するほどだ。最後の最後になって裏切った女を厭になったのかも知れない。ほんの一瞬の出来事に胸が風穴が空きそうだった。 「っしゃー!やった!やった!」  近所迷惑も考えない大声を上げ、彼は飛び跳ねる。戸惑う夏霞の手を取って踊り出す。月日が経ったはずだが、まだ高校生の祭夜がそこにいる。 「夏霞~!大好きッ」  先程の剣呑な雰囲気が雲散霧消し、彼は子供みたいにはしゃいだ。汗と化粧と日焼け止めの塗られた恋人の頬にキスする。どこかで祭囃子の練習が聞こえた。
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