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第1話 太嘉皇暦三千年景永三十九年四月 鼓聖と呼ばれた趙某 皇城楽部を辞す

-花の都蓉京の、三月上旬の、寒さ綻ぶとある夜。 「さて、何れを頂いて行こうか」 帝のおわす皇城の、楽部倉庫の打楽器置き場にて、沢山の種類の太鼓を前に、寝間着姿の長身の男が、小さく溜息を吐いた。 ドカッと音を立て、古びた(長椅子)に坐す。 この男、姓は趙、名は白秋と云う。 髪は黒、瞳は金色。 景永二年の夏、太嘉帝国の中心部である央嘉域の、最も西に位置する敦国にて、裕福な楽人の家に生を受け、齢十五で皇城に上がり、楽部の打楽の楽師見習いとなり、直ぐに頭角を現して、齢十七で正式な楽師となった。 蓉京に上京して二十余年、白秋は、皇城楽部の倉庫で寝泊まりし続ける程に打楽の研鑽を重ね、天賦の才能を発揮し、抜きん出た実力を持つようになり、竟には太嘉帝国一の鼓聖と渾名される程となった。 涼しい目元に整った鼻梁、引き締まった口許の、美丈夫然とした顔貌に、長身で、武官の様な鍛え上げられた体躯の持ち主であり、今上帝の覚え目出たく、生来のさっぱりとした性格もあり、貴族や皇族、そして後宮の宮女達にも大いなる人気がある。 異性関係での醜い噂は皆無で、清廉な人物であったのも大きかった。 しかし、半月後に予定された、太嘉皇暦三千年目の紀元節の祝賀の席での演奏を最後に、白秋は楽師の職を辞し、生国である敦国へと戻る事にしていた。 年老いた両親、特に母親が体調を崩し勝ちだったので、故郷に帰る事にしたのである。 −この榻とも、半月経てば、おさらばか…− 楽師になりたての頃から、(寝台)替わりに使って来た、榠櫨(花櫚)製の榻である。 白秋は、座面でトトトトッと指先で調子を刻みながら、−此れも、今上に強請るかなあ…?−と、想いに耽る。 今上帝は、鼓聖とまで渾名された白秋が、皇城楽部を辞する事を大層嘆いたが、其の事情を汲み、−楽部倉庫の物は、望む物なら全て呉てやる−と、仰せであった。 髷を解いて、生成り色の寝間着の襟元を寛げた姿の白秋は、また一つ、小さな溜息を吐く。 打楽器は、結局は皮の張り替えがあり、湿度温度の影響を受け易く、そうそう長持ちする物は無い。 胴の装飾が幾ら華やかであっても、いつか朽ちて行く物であった。 −琵琶や、琴や、西沙域の提琴なる鳴物は、手入れ次第では、幾年でも保つものであるそうだが…−と、夜風に揺らめく燭台の灯りを見詰め、頬杖を突きながら思い悩んだ。 春の夜は、ゆっくりと更けて行く。 ふと、遠くに響く、聞き覚えのある小さな足音を、鼓聖である白秋の耳が捉えた。 高価な絹の沓を履いているのだろう、その小さな足音に、白秋は動揺を隠せなかった。 キィ…と、楽部倉庫の打楽器置き場の扉が小さく開く。 「白秋哥哥(お兄様)」 鈴の音のような、可憐な声に呼び掛けられ、白秋はゆっくりと榻から立ち上がり、声の持ち主の方へ歩み寄った。 「銀娥公主よ、こんな夜更けに、先触れもなく、供も連れず、如何なさいましたか?」 白秋の視線の先には、夜闇に紛れ易そうな紺色の、男物の質素な深衣を頭からすっぽりと被り、胸元で掻き合わせるようにして身に纏った少女が立っていた。 その少女は、今上帝の末の凰女(皇女)、銀娥であった。 髪は白銀色で、瞳は菫色。 この春、齢十五になったばかりであった。 凰女として、蝶よ花よと育てられて来たが、幼少の頃から不思議と我を通す事がなく、おっとりとしていて慎み深く、夜更に、住まいである後宮を抜け出て、一人で皇城の中を出歩くような、大胆な面があるとは到底思えないような姫君であった。 母親の王昭儀譲りの色白な肌に、ぱっちりとした瞳が大層愛らしい顔貌で、今上帝は年老いてから儲けた銀娥を、目に入れても痛くない程に甚く可愛がっていたので、然う然う手元から離す気は無いと噂されていた。 王昭儀は、元は後宮楽部の楽師であり、箜篌の名手で、皇城楽部の楽師達と古くから懇意にしていた。 よって白秋の事を、母親に倣って−白秋哥哥−と、銀娥は呼んでいた。 「母上から、お聞き致しました。白秋哥哥が、紀元節の後、敦国へお戻りになることを」 伏せ目勝ちにしていた銀娥は、頭に被っていた深衣を下ろしながら云う。 銀娥は、洗い髪の随で、ただ耳許に、紫色の沈丁花の花を挿していた。 沈丁花の香りが、仄かに漂う。 「ええ。年老いた両親の許に、帰る事と致しました」 白秋は、目を細めて、優しく微笑んだ。 「……半年後、(わたくし)は、耀王刑崋様の許へ降嫁する事となりました」 銀娥は俯き、身に纏っていた深衣を握り締めながら、云った。 白秋は、目を見開く。 先月初潮を迎えた途端に、銀娥は、蓉京から程近い耀国への輿入れが内定した。 耀王刑崋は齢四十一、今上帝の甥に当たり、正妃はおらず、華やかではないが風流を愛す文人として、有名であった。 「……どうせ、歳の離れた殿方の許に、降嫁させられるのなら…」 銀娥は意を決し、纏っていた深衣をはらりと床へ落とした。 「…私は、ずっとずっと心の中でお慕いして来た白秋哥哥と、妹背(夫婦)になりとうございます」 燭台の灯りの下、白く、あどけない銀娥の肢体が晒される。 あえかな胸乳、すべすべとした恥丘。 紅い錦の沓だけ履き、羞恥で小さく震えるその姿は、見る者によっては大変艶かしいものであった。 銀娥が伝い歩きをする頃から見知っている白秋は、大きく動揺する。 慌てて深衣を拾い、銀娥に着せ付けようとしたが、銀娥は嫌々と幼児の様に首を横に振り、白秋に抱き着いた。 銀娥の髪を飾る、沈丁花の香りが、白秋の鼻腔をより擽る。 「お願い、白秋哥哥。一晩だけで構いませぬ。私は、白秋哥哥の()になりとうございます」 太嘉帝国の貞操観念は比較的自由で、余程酷くなければ、咎められなかった。 建国の祖である鳳人と龍女が、出逢ったその日に仲睦まじく交媾し、その婚礼前に子を成した故事に拠る。 「…この白秋の妹に?」 「ええ。今宵どうか、白秋哥哥の妹にして下さいませ」 緊張と羞恥で身体を小さく震えさせながらも、真っ直ぐな菫色の瞳で、銀娥は白秋を見詰めた。 「私は、白秋哥哥を、幼い頃からお慕いして参りました」 −齢四十を目前とした男に、何のご冗談を−と、銀娥の腕を無碍に振り払うことは、白秋には出来なかった。 銀娥の事を乳飲児の頃から見知っているからこそ、幼い頃から慎み深い彼女が、余程思い詰めての行動であると、分かるからであった。 暫しの沈黙の後、口を開いたのは白秋だった。 皇城に上がって二十余年、打楽の道に唯ひたすら没頭し、特定の女人との付き合いを持たず、未婚の随過ごして来た白秋であったが、幼気な銀娥の一途な求愛に絆される形で、意を決した。 「今の様な、太嘉帝国の凰女としてのお暮らしは、到底させてあげられませぬが…。我が生国の敦国まで、銀娥公主を一緒にお連れ致しましょうか?」 白秋の厚い胸板に顔を埋めていた銀娥は、ゆっくりと顔を上げた。 「…私を、敦国へ連れて行って下さるの?」 「そうです。白秋は、良い策を思い付きました」 白秋は、艶やかな白銀色の銀娥の髪を一房掬い、口付ける。 「駆け落ちですから、勿論、二度とお父上やお母上にお会いする事は叶いません。銀娥公主は、それでも宜しいでしょうか?」 銀娥は頬を紅色に染め、伏せ目勝ちになりながら、ゆっくりと無言で首を縦に振った。 「銀娥公主、私の事全てを信じることが出来ますか?」 長身の白秋は跪き、銀娥と目線を合わせた。 「必ず、白秋哥哥が、私の背の君()となって下さるならば」 紺色の深衣を掴む、白秋の男らしく節くれだった手指に、銀娥は紅潮させた頬を擦り寄せる。 白秋は大きく頷き、そっと銀娥の額に口唇を寄せた。 「幼き姫君よ、身に余る光栄に存じます。この趙白秋、喜んで貴方様の背の君となりましょう」 「ならば…。白秋哥哥のなさる事、仰る事全てを、信じましょう。これから、私が想像出来ない苦労が、どんなに待っていようとも」 銀娥は、菫色の瞳を喜びの涙で潤ませて、白秋の手指に口唇を寄せた。 「祝言や初夜は、敦国へ無事に辿り着いた後で、構いませんね?私の年老いた両親を、是非祝言の席に招きたいのです」 「白秋哥哥が、私と必ず妹背となると云う誓いの口付けを、今直ぐして下さるならば…」 白秋は口元を綻ばせ、掴んでいた深衣で、沓のみ履いた銀娥の身体を恭しく包み込み、掻き抱く。 そして、銀娥の小さな口唇に、己の口唇を、啄むように優しく重ねたのであった。
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