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第10話

 弟になりたがっている男は目元を腫らし、白雪の腕の中で眠ってしまった。血の繋がりはない本当の弟でさえこうしたことはなかった。凝った肩を解そうと体勢を変えただけで、姉さん姉さんと翡翠は寝言とともに身動ぎ、白雪のバスローブを引っ張る。 「姉さん…ごめんね」  半乾きの髪を白雪の胸元に押し付け、丸まった彼女の指たちを唇に当てる姿は忠誠を誓っているようだった。 『ずっとこうしたかったんだよ。ずっと、ずっとね…』  叔父の両手は縛り上げるように白雪の両手を縫い止める。彼は姪の上に乗り、動いた。 『叔父さん…痛いよ…やめて…』  やめないで。好きにして。貴方になら…  叔父の顔は見えなかった。ただ叔父と認識し、叔父しか居ないと思った。叔父しか見えなかった。揺れる淡い色の髪も、叔父なのか分からない影も、おそらくそこにある美しい瞳も。叔父の名しか出てこない。叔父の体温しか伝わらない。叔父の声しか聞こえない。叔父の匂いしか覚えていない。 『君が悪いんだよ。君が悪いんだ…』 『叔父さん…ぁあ…』  欲しい。叔父が欲しい。叔父が居るなら何も要らない。叔父が居るのなら、無限の欲望に一体他の何が残る。  あの女を見たかい?まるで――にそっくりじゃないかい。 『姉ちゃん、オレっちが傍にいるっすよ…』  額に当たる体温で弾かれたように睫毛が上がった。睨むような切長の目とぶつかる。黒髪が揺れて彼は離れていった。赤い縁の眼鏡を掛けた男はすでに朝自宅を終えていた。 「朝飯は出来ています。服はそこにありますので」  ぼうっとする頭は、背中を濡らす寝汗の不快さだけ理解した。コンクリートの天井を眺めて数秒、状況が整理され飛び起きた。弟。部屋には男がいるが弟とは違い背が高く眼鏡を掛けていた。髪も違う。 「荷物を取りに行くんでしょう」 「荷物…」 「しっかりしてください。今日から俺と暮らすんですよ」  白雪は男のすらりとした体躯を凝視していた。名前が思い出せなかった。弟の友人やアルバイト先の人々、叔父の職場の人間ばかりが浮かんだ。 「えっと…」 「寝起き弱いんですね。これから毎朝起こしますよ。朝飯も作ります。起きてください」  彼はダイニングテーブルセットの椅子を引いて白雪を促した。 「早く」 「はい」  叱るように言われ白雪はベッドを降りた。ブラインドから日の光が入り、室内は朗らかだった。椅子に座るとテーブルにはラタン素材の敷物の上に真っ白な皿に綺麗に焼かれたオムレツと焦げ目のついたベーコン、ミニトマト、トースト2枚と小さなサラダが乗せられていた。写真から出てきたような朝飯に固まる。 「食べるために置いてあるんですがね」 「いただいていいんですか」  溜息が聞こえた。腐らせたいならそれでも結構です、と言って男は洗面所へ向かっていった。斜め対面には薄い紙が広がっていた。柔らかく折り目が付いている。ピンク色の枠線で細かく仕切られている。白抜きの字は婚姻届を示し、あの男は結婚するのかと贅沢な朝飯を食らいながら思った。男は髪をセットしていたようで長めだった前髪が後ろへ撫で付けられていた。白雪は朝飯を平らげ、男の用意した服を身に付ける。派手なブラジャーが袖や裾が大まかなフリルになっている白のカットソーから透け、別の服を用意された。 「(じか)に着るの…気持ち悪いです」  下着は濃い色味のくせ渡されていく服は淡い色ばかりで、サイズも少し大きいのか肩から紐が見えたり、胸元が危うい隙を持っていた。 「帰りに下着屋にでも行きますよ」  男はうんざりした様子で薄手の上着を投げて寄越した。袖が余り、部屋と同じ匂いがした。  車の中で少しずつ思い出していく。彼は白雪を運転席側の後部座席に乗せ、シートベルトの世話までして運転席に座った。助手席とその後ろが空いていることにバランスの悪さを感じながら、運転席に叔父の姿を思い浮かべる。 「助手席は一番、死亡率が高いんですって」  男はドアを閉めると言った。 「一説ですが。数字で見れば運転席です。大体の事故を起こす車には運転手がいますからね」  シートベルトの装着の音が聞こえる。車がぴーぴーと鳴り出した。 「一番多いのは後部座席ですね。数字的には。3人掛けですし、シートベルトも義務付けられていませんから」  車が動き出す。車窓の風景が変わっていく。車種にもぶつかり方にも依りますがね。男は静かに付け足した。 「姉は事故で死にました。助手席に座っていました。運転手がハンドルを右に切りまして、正面から来た車に潰されました。不条理ですね、反対車線の無理な追い越しに巻き込まれて。でも俺はね、運転手がハンドルを左にさえ切っていればと今でも思っているんですよ。咄嗟の判断ですからね、狭い道でしたから利き手のまま右に切るのは分からなくもないです」  男は淡々と沈んだ声で説明した。 「運転手は姉さんと俺の幼馴染みでしてね。仲良かったんですよ、姉さんとは。俺は駄目でしたね。顔を見るのも気に食わない人でした。俺より年下なんですがね、小生意気で。小学校の頃には引っ越して別れたのですが、職場で会うなんて」  男の車は近くのコンビニエンスストアの駐車場へ急激に曲がった。ブレーキがかかり、シートベルトに身体を押さえ込まれる。目の前の運転席からシートベルトが抜けていき、速い呼吸の音が聞こえた。彼はハンドルに凭れ、肩で息をしていた。 「大丈夫ですか…?」 「姉さん…」  声は震え、男はゆっくりと身体を起こした。 「すみません、少しだけ休ませてください」 「何か買ってきましょうか」  男は白雪へ金を渡した。金色の硬貨が光った。車を降り、水を買いに行く。外に出ると途端に息が軽くなった。水をひとつ買ってまだハンドルに頭を預けている男に水を渡すとシートベルトを締める。叔父の車を思い出し、じわりと眼球の裏が滲みた。弟と映画を借りに行ったり、雨の日に送ってもらった、日帰りで近場の観光地に行ったりなど。コンビニエンスストアやサービスエリアで叔父はコーヒーを飲んで、弟は菓子を食べ、小さく聞こえる家族の物音が好きだった。 「貴女は何も買わなかったんですか」  ぐすりと鼻が鳴る。 「はい」  慌てて目元を拭った。裏返りそうになりながら上手く応えた。 「何か買ってきなさいよ。俺だけというのも…今流行っているでしょう、キャッサバの…」 「タピオカですか」  彼はひとくち水を飲むと車を出て行った。コンビニエンスストアに入って、カップを手にすぐ出てきた。水では駄目だったのかといくらか反省していると彼は運転席から白雪へブラウンに濁ったカップを渡した。底にドットがあったが揺れ動いた。 「飲みなさいよ」  不機嫌な顔とカップを見比べる。さらに差し出され、白雪は受け取った。 「いただきます…」 「まったく、それのどこがいいか分かりませんね。カエルの卵にしか見えませんよ」  男は不貞腐れたように言って水を飲んだ。太いストローを口に付けようとした。 「喉に詰まらせないことです。近頃の若い子はなんだってそんな飴玉みたいなものを歩きながら飲むんですかね!」  男もまだ20代といったくらいで白雪からしてみれば若い部類だったが彼にしてみればそうではないらしかった。 「飲みますか」  白雪は助手席と運転手の間からカップを出した。男は眉を潜め、彼女を窺った。数秒不愉快を示し、赤いストローを口に入れた。 「いいんですか、貴女」 「わたしも初めて飲みます」  白雪はストローを吸った。口の中に甘いタピオカが乗る。よく混ぜなければならないらしく甘い味は風味程度でほとんど牛乳の味がした。 「…そういう意味ではなく……いいえ、何でもありません」  溜息を吐いて男はハンドルに肘をついた。 「美味しいです」 「寄り道した甲斐がありましたね!」  投げやりに言って、シートベルトが締められていく。車が動き自宅アパートへ向かっていく。 「弟は在宅なんですか」 「もう高校に行っていると思います」 「そうですか」  アパート前で降りた。玄関は開いていた。自宅だというのに扉を押す手には緊張が伴った。高校に行っているはずの弟が框に座っていた。彼は眉を下げ、狼狽えながら白雪を見た。 「姉ちゃん、カレシさんと行っちゃうんすか」  何かあの男と弟の間ですでに話が着いているらしかった。弟の大きな目はまた下を彷徨っている。 「うん…」 「…そっすか。色々、ごめんっす。家事とか任せきりにしちゃって…」 「それは、違うの。それは違うから。銀灰くんは何も悪くない。銀灰くんは自慢の弟だよ……ひとりで起きられる?ちゃんとご飯は食べられるよね」  弟は顔を上げず、唇を引き結んでいた。 「わたしこそ上手くお姉ちゃん出来なくてごめんね。今日はご飯食べた?何か作っていくね」 「いいっす…要らないっす。荷物纏めたら、もう行くっすよ」  弟は眉を下げたまま白雪を見なかった。初めて聞いた拒否の言葉に白雪はどうしていいか分からなくなった。 「お腹減ってるでしょ?」 「いいっす!もうオレっちのことはいいすから!早く行くっすよ!早く行くっすよ!」  弟は項垂れた。小さく荷物を纏めて玄関前に座る弟を目に焼き付ける。 「元気で過ごすんだよ。たまに様子見に来られるようにするから」  弟は返事もせず、反応もしなかった。俯いて固まり、白雪はそれでも可愛い弟から目が離せなかった。あの男が弟に危害を加えないのならそれでいい。 「姉ちゃんもオレっちの自慢の姉ちゃんだからね」  玄関扉が閉まりきる直前に届いた。弟の声を何度も何度も再生して同居する男のもとへ帰っていく。同棲を強要する男は車の脇で白雪を待っていた。彼女の手から荷物を奪うと、その身体を抱き締めた。 「戻ってきてくれたんですね」  その顔はあまり嬉しそうではなかった。白雪は唇を噛んで、男に荷物もその後の動作もシートベルトも任せきりだった。腕弛(かいだる)くシートに体重を委ね、車窓を眺める。日差しが暖かく、眠ってしまいそうだった。背や腹に当たる服の裏地が気持ち悪かった。男に不調を訴えると彼が下着屋で適当にキャミソールを買い、そのまま大学で別れる。2コマほど遅れて講義に出、普段よりも凝った服装を揶揄される。日常が突然、薄ら寒くなる。帰り際に呆れる声に呼び止められ、何を聞かされたのかも覚えていない。焦茶色の双眸は真っ直ぐだがどこか神経質で白雪は1秒と目を合わせていられなかった。聞き飽きた主張に頷き、有りもしない忙しいさを訴えて別れた。息が出来ないほどに疲れてしまう。弟の離別を強いた男に回収されて車に乗せられる。シートベルトを締められ、スーパーマーケットのある方向とは違う道へ進んでいく。シートベルトを外され、コンクリート打ちの部屋へ促され、服を脱がされ着せられる。ベッドに転がっていれば芳しい匂いが漂う。男は姉を呼び、ミルクティーを淹れてテーブルに置いた。甘さが足りないことに激しい怒りが込み上げ、マグカップを目の前の整えられた黒髪にぶちまける。レンズに熱い牛乳が滴った。男は白雪を見てただ立ち尽くす。彼女はベッドに転がった。眠気に襲われ欠伸をする。皿洗いも洗濯もない。沸騰に追われることもなく、宗教勧誘も訪問販売に意識を中断されることもない。うとうとしているうちに目の前に弟を騙る男が視界に押し入り、ベッドの下で頭をフローリングに擦り付けた。執拗に許しを乞い、謝罪する。気を付ける、もうしない、ごめんなさい、いい子になると繰り返し、許しを乞い、黙っていると白雪の足を舐めはじめた。許してください、許してくださいと言いながら舌が這う。端正な顔を蹴る。足の裏が柔らかな肉感の下の固さを捉えた。 「姉さん」  にちゃりと音が微かに響いた。口元を赤くした不審な男が白雪を見ている。眠っているように美しかった叔父の亡骸にするはずだったように、赤い液体を指で掬ってそこに在る唇へ引いた。弟を名乗る奇妙な男は姉だと思い込んでいる女を見上げて不安げな顔をした。水を塗るのが通例だったが、叔父の好きだった酒を塗った。生前の叔父から漂ったアルコールの匂いにひどく突き離されたような気分になって、棺から遠ざけられ、弟の震える肩を見ただけだった。 「許してくれる?姉さん…」  白雪は返事をしなかった。許してください、許してください、と聞き飽きた言葉を聞きながら膝や指、手の甲や手首に口付けを落とされながら意識を放り出す。 「許して、姉さん。許して、許して…」  足を舐めながら熱いミルクティーをかぶった髪は白く汚れ、顔も赤くなっていた。彼自身はまったくそのことに頓着せず白雪の脹脛に頬を擦り寄せる。眼鏡がぶつかった。弟を詐称しているが年上の男は怯えたように肩を震わせた。 「許して…」  白雪は相手にせず足を舐めさせていた。白雪の肌は彼の塗りたくる唾液と滴らせるミルクティーとまだ止まらない血で汚れていく。空腹を訴えたところで、キッチンへ素っ飛んで消えた。べたべたになった足をシーツで拭く。弟に軽食を用意しなければ。もう弟はいない。夕飯は何にしよう。弟は何が好きだったか。昨日は何を食べたのか。弟はもういない。明日には体操着を乾かさねば。その必要は無くなった。雨が降るなら。あの子が気を遣って泥を洗ってくれる。転びはしなかったかと。ひとりで暮らせるの。ひとりにしたくない。寂しくて泣いていたらどうしよう。息苦しさに襲われる。許して、お姉ちゃんを許して。シーツを引っ掻き、胸を引っ掻く。棺を見下ろす冷たい顔をもうさせないと誓ったはずだった。あの子はボクにとってたんぽぽだよ。銀灰さんは素直でいい子ですね。可愛い弟くんでいいねェ、日の光に向いて花ってのは育つんでさ。対面で始終機嫌を窺われながら食らうベーコン巻きロールキャベツとポテト炒めは接頭辞に「くそ」が付くほど不味かった。
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