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第3話

   端末に知らないアカウントからメッセージが届いた。初期設定のままの表示でかろうじてそれは情緒不安定な非常勤講師であることが内容から窺えた。一方的に予定を突き付けられる。明日の昼間に繁華街に来るようにとのことだった。来なければそれなりのことをするという曖昧な脅迫に近い文言まで添えてある。 「ちょっと、用事が出来ちゃって。お昼ご飯も作っておくからよかったら食べてね」  リビングでテレビを観ている弟にそう言って白雪は朝飯を作りながら昼飯用にもオムライスを作った。弟は不思議げな表情を示したが相変わらずの爛漫さで快い返事をしていた。支度を終え、ジーンズにカットソー、スニーカーという簡素な服装で指定の場所に向かった。大型駅に翡翠は立っていた。すらりとした人影は撮影会のようだった。若い2人組の女性が彼に話し掛け、満更でもなさそうな態度はこのまま予定を変え3人でふらつきそうなほど話が弾んでいる様子があり、白雪は安堵しながら弟にケーキでも買って帰ろうかと踵を返した。 「待ちなさい」  人混みに紛れようとしたが肩を掴まれる。びくりと肩が跳ねた。呼び止める声は怒気を帯びていた。 「い、いいんですか、彼女たちを放っておいて…わ、わたし、他に予定あるので、いいんです!」 「俺との予定が先です」  肩に乗っている手を叩き、逃げようとすると腕を取られる。容赦のない力加減に白雪は顔を顰めた。 「色気のない人ですね。来なさい。服を買います」 「い、要りません!」 「俺が嫌なんですよ。誘拐か援助交際野郎(ろくでもないやつ)だと思われるでしょう」  通行人たちの目が降り注ぐ。それは見目の良い男に見惚れているようにも、歓楽街から出てきた男が女性に無理強いをしている様を見物しているようにも思えた。 「来なさい。俺は貴女のことなんてどうでもいい。貴女の中の姉さんにそうしたいんです。勘違いするな」  一際強く引かれ、よろけたところを彼の身体によって支えられる。 「身長は」 「156.8…」 「素直でよろしい。157ですね」  肩を抱かれ、寄添いながら翡翠は歩き出した。 「姉さんはいつも清楚な服ばかりだったから…たまには派手なの着て欲しいけど、やっぱり姉さんは清楚な感じのほうがいいかな。でも姉さんの着たいものが一番だよ」  10代後半から30代前半までをターゲットにしている若者向けアパレル専門店が並ぶ区画に連れられ、白雪は尻込みする。テレビの特集や雑誌でしか見ない華やかな服が並んでいる。 「姉さん、好きなものを選んで。ここじゃなくてもまだあるから。姉さんと買い物できて嬉しい。…いつもカレシとだっただろう?」  白雪は饒舌な非常勤講師に寒気を覚えた。彼は漬物石と化した白雪を上機嫌に押した。 「遠慮しないで、姉さん。俺は姉さんと歩けるだけで幸せだよ」 「帰り…たいです…」  嫌味のない甘い香りがする。大学構内で見るよりも瀟洒(しょうしゃ)で垢抜けた服装の女性や彼女に付き添う男性、他にも家族が見えた。明らかに場違いという感じがした。空気が自分を拒絶しているような。何より身体が拒否していた。 「帰りたい?どうして…疲れちゃった?喫茶店でも入ろうか」  唯一動く頭が横に揺れた。 「姉さん、どうしたの?俺は姉さんのカレシじゃないから別に立ちっ放しでも構わないんだよ?それとも姉さん、具合悪いの?」  ただ帰りたいという意思だけが先行する。同じ空間に居ながら一歩先は別世界だった。 「ごめんね、姉さん、気付かなくて。ちょっと休もうね」  店から出て、ベンチに座らされる。翡翠は白雪の背中を摩る。 「帰ります」  顔を上げられず膝ばかり見ていた。視界はどこも華やかだ。知らない土地ではないが、翡翠とともに洒落た店に入ると途端に不安定になった。 「姉さん?」 「帰ります。すみません、あまり気分じゃないので」 「貴女の気分なんて関係ありません。ここで待っていてください。ここで待っているんですよ。貴女のことはどうでもいいんです。姉さんに言っているんですからね」  朗らかに笑う若い男の声が聞こえた。綺麗な女の子を連れている。弟の姿をそこに馳せてしまう。恋人を作ることを最良とはみていないが、弟は短い高校生活の交友関係を潰して家計を支えている。生活費とは別に自分のことに使って欲しいと渡された金を安易には使えなかった。だがそのような弟にたまにはケーキを買うくらいの余裕はあった。非常勤講師を待つ義理もなく白雪はベンチを発つ。卵にこだわりがあるという菓子店を目指す。早く帰って弟の喜ぶ顔が見たかった。歓楽街の区画を横切り、映画館前を抜けた。 「白雪さん?」  耳に残っている声が雑踏の中で白雪を呼び止めた。 「やっぱり…白雪さんだ。こんにちは」  振り返ると、栄えていても廃れた感じのある街に似合わない育ちの良さげな青年が立っていた。 「群青くん…」  昨晩何と言って誘いを断っただろうか。 「奇遇ですね」  脳貧血のような蒼い顔をして美しい顔が微笑んだ。 「ここ、女性1人で歩いているとナンパされてしまいます。出口までご一緒していいですか…その、差し支えなければ」 「それは、群青くんが…その、」 「そうですね。白雪さんをナンパしています」  同期は開き直ったような悪戯っぽい笑みを浮かべる。意外な一面を見た気がした。 「ですがこの辺りの治安が良くないのは本当ですから、ご一緒します」  彼には珍しい軽薄な笑みが消え、彼らしい品の良い笑みに切り替わる。 「俺は本屋さんに寄ってきたところです。白雪さんは?」  目の前に晒された暗い色のビニール袋からは文庫本サイズの本が浮き出ていた。肩凝りを起こしそうで息苦しい緊張がいくらか解れていた。 「ちょっと用事があったのだけれど……弟にケーキを買って行こうと思って」  育ちが良さそうで気品のあるこの同期まで安くみすぼらしく見られるのが嫌で半歩ほど距離を空けたが、人混みを避けながら腕が触れ合うほどに詰められてしまう。 「弟がいらしたんですね。ケーキ屋さんとなると南口のほうですか。最近人気ですよね、あの辺り。今度俺とも行ってください」  控えめながらも押しの強い同期に白雪は曖昧に「予定が合ったら…」と陰気に答えた。 「でも、白雪さんとならただ一緒にいられるだけでいいんです。少しずつ教えてください」  真っ直ぐな焦茶の瞳に顔が火照った。慌てて目を逸らす。 「わたしに(かま)けていていいの…?」 「ええ。なんでですか」  訊き返されると答えようがなかった。拒否を繰り返し、離れていくのを待つだけだ。 「ここで大丈夫。送ってくれてありがとう」  混雑した駅構内に入る前に同期に別れを切り出す。背を向けた途端に腕を引かれ、ふわりと穏やかな香りに包まれる。会長とは違い反発はあまりなく、少し硬い身体は突き撥ねたら折れてしまいそうだった。 「人前なのだけれど…」  薄い背中に腕が回りかけていた。 「せっかくお会いできたのに、放したくないです」 「また大学で会えるでしょう」  彼の肩を掴んで離させると抵抗もせず身体を剥がしたが、それでも白雪の腕は放さない。 「今日はいつもより話してくださるから…」 「大したこと、喋ってない」  何を話したか思い出せるほどだった。同期の脳貧血のように蒼白い顔が綻ぶ。 「大学で会いましたらその時は、俺とたくさんお話してくださいますか」  腕を引くと、その分冷たい掌が彼女の肌を追った。上品に響くこの声は嫌いではなかった。間近にすると長く濃い睫毛が伏せられ、蒼白の頬に赤みが差す。返事をしようとしたが、また別の力によって白雪は顔色の悪い青年から離された。 「彼女から離れていただけますね」  視界から大学の同期が消えた。嫌味な喋り方は講義中には柔和で学生にも優しかったはずだ。彼は振り返ると乱暴に白雪の腕を掴んで駅から引き摺り出す。青年は人混みを掻き分けようとしたが呑まれて行った。白雪は彼に手を振る。 「なんなんですか、貴女。俺は待つよう言いましたね?何故守らないんです?」 「逃げないから、放してください!痛い…っ!」  白雪はまるで腕を粉砕する拷問器具のような翡翠の手を叩いた。 「買ってきました。着替えてください」  大型の紙袋を差し出され、白雪は顔を顰めた。 「お金、ないんです。買った後で申し訳ないですが、受け取れません」 「行きますよ」  翡翠は話もろくに聞かず白雪の腕をいくらか加減して掴んだ。 「あの…!」 「何を勘違いしているんです。貴女に買ったのではなく姉さんに買ったんです。結果的に着るのは貴女ですが、貴女への贈物ではないんですよ。そうでなくとも苦学生に金を払わそうなんて考えていません」  歓楽街の方向に戻らされ、ホテル街に入っていく。肩から腕を外す勢いで翡翠は白雪をビジネスホテルに似た外観の建物に連れ込む。 「中で着替えることですね。時間はありますから。夜でも構いません」  遠慮のない歩幅についていくのがやっとだった。転びそうになると支えられるが、持ち直せばまた容赦のない速さで歩いていく。 「待って、」 「十分待ちました。1日慣らしたでしょう?抜きましたか?俺は猶予はくれたはずです」  部屋の大半を占めるベッドの上に突き飛ばされ、白雪はシーツに転がった。紙袋が顔の真横に置かれる。 「着替えてください」 「いや、です…」 「それなら無理矢理着替えさせるだけです」  胸倉を掴まれ、引き裂かんばかりの勢いに白雪は怯んだ。 「破かないで…!着替えます、着替えますから!」  皺の寄った胸元を直し、起き上がって紙袋の中を手に取った。 「タグは取ってありますから」  翡翠は冷たく言って白雪に背を向けベッドに座った。中にはパステルカラーのパープルのワッフルカットソーと、柔らかな白地に紺色の花柄が入ったフレアースカート、白いエナメルのハイヒールに淡いブルーの靴下が入っていた。 「本当に、これ…わたし、払えないかもしれないです」 「要りません。そんな詐欺紛いなこと、誰がしますか」  翡翠は白雪のほうを向きかけたが結局は彼女を見ることなく直った。 「着ればいいんですか…?」 「そうです」  華やかな服に渋々着替える。ワッフルカットソーは胸元が深めに開き、屈むと胸が見えそうだった。キャミソールの肩紐をずらす。着ていた物を畳んで紙袋にしまっている間に翡翠は振り返る。 「素敵だよ、姉さん。清楚っぽい服と遊んでる風な服の中間にしてみたんだ。よく似合ってる。よかった」  眼鏡の奥の目が柔らかく細められた。痛めつけるような手とは違う繊細なものに対するような慎重さで白雪に触れた。 「姉さん…」 「待って…待、て…」  翡翠の唇が迫り、白雪は首を曲げて顔を背けた。 「待たない…姉さん。言えなかった。ずっと好きだったのに。姉さん…」  視界が横転した。体温が重なっている。天井を見た途端、逆光した非常勤講師が大きく映った。 「い…や、」 「姉さん…やっぱり、だめだ。汚しちゃうみたいで。でも、まだこうしてたい」  黒髪が淡いパープルのワッフル生地に散らばった。鼓動を聞かれる。 「姉さん…なんで俺を置いて死んじゃうの?どうしてカレシについていっちゃったんだよ…?」  白雪の腹を抱いて彼女が逃げることを許さなかった。 「姉さん…大好き。もうどこにも行かないで。俺を残して行かないでよ。俺には姉さんしかいないのに。姉さんだけいればそれでいいのに」  幼児退行したように数歳年上の男は甘えた口調で言った。 「なんでよりによって…よりによって!殺してやる!」  翡翠の態度が急変し、跳ね起きると縋り付いていた手が白雪の首に回った。逆光し色濃く陰っても憎しみに満ちた表情は見てとれた。 「殺してやる!殺してやる!」 「い…ぁ、ぅ……ぐ、」  薄いくせ力強い手を引っ掻いた。視界に水膜が張り、そしてぼやける。溢れる唾液を嚥下できず口の端から滴っていく。脳味噌が少しずつ溶解し、四散していくような感覚があった。紙袋が震える。フレアースカートにはポケットがなかったため着てきた服とともに端末を入れていた。首を引っ叩くみたいに締めていた手が離れた。熱いものに触った時のような反射にも似ていた。白雪は喉を押さえて激しく呼吸を乱した。涙がシーツに落ちていく。端末は震え続け、画面にはオカルト研究会の会長の名が表示されていた。だが出ようにも声が出なかった。端末を握って加害者でありながら動転し狼狽している男から慌てて逃げる。ハイヒールが踵を抉った。暗くなりつつある繁華街を駆け抜け、駅まで着いたが端末だけ手にして財布を置き忘れていったことに気付く。靴擦れと踵が痛んだ。慣れない履物で走り、膝も震えている。端末を握り締め、もう何もする気が起きず壁に凭れた。ハイヒールでは座ることも出来ず、後悔ばかりが募る。迎えなど頼めなかった。アルバイトで忙しい弟の休みを潰すようなものだ。幸い、少し遠くはあるが歩いて帰れない距離でもなく方向は分かっていた。気は進まないが、早めに出なければ弟が心配する。溜息を吐き、電話が来ていたオカルト研究会の長に掛け直した。 『白雪ちゃん?取り込み中だったかい?悪かったんな』 「いいえ…どうしました」 『う~ん、いや、特に用はねんだわ。ただちょっと昨日色々あったろ?なんか…気拙いことになってねェかな…って』  ハイヒールを脱いで靴下のまま歩き出す。布の奥には擦傷になっているようだった。詳しい金額は分からないが、貯金を下ろして代金は返そうと思いながら会長の取り留めもない話をしながら帰った。空は暗くなるばかりで、布越しのアスファルトは固く、小石が刺さる。豪放に笑い、底抜けに明るい電話の声だけが白雪を支えていた。何が悪かった、どこで間違えたなどという反省も与えないまま会長は話す。 『ところでさ、風邪ひいてんのかい?大丈夫か』 「うん…繁華街に出てたからもしかしたら。でもすぐ治しますから…」 『どうせ弟くんに気ィ遣うんだろ?ヤバかったら言えや。看病しに行ってやる。ああ…あずきちゃんも連れてな』  同じく部員数稼ぎのために入っている白雪のひとつ上の先輩があずきだった。 「ありがとう、会長さん…」
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