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第10話

 シャワーを頭から浴びているとすぐ真後ろに人の気配があり、霞は滑り易い床を蹴って逃げた。艶やかな黒髪が湯に濡れ、墨を流したようだった。人間の男性そのままの肉体はいくら彼がロボットでも羞恥心が抑えられず、胸や下半身を隠し、バスルームの角に張り付く。高い体温をタイルが吸っていった。 「水、大丈夫なんですか…」  筋肉が水を弾く。会社で見る姿は大学生のようだったが、脱ぐとより若さがあった。躊躇いがちに確認する。真っ黒な目は霞を離していなかった。下腹部を巻いているタオルが大きく突起している。機能もかなり人間に近く作られているらしかった。 「洗います。こちらへ」 「自分で…洗います」  バスルームの隅に縮こまり、肩越しに会話する。無表情は霞から一瞬たりとも視線を外さない。タイルに身体の前面を隠し、シャワーヘッドのほうへ移動する。冷たいタイルが火照った顔に心地良かったが身体は寒く、鼻を啜った。ロボットを窺えば、彼は立ち尽くしたまま霞の目を追っていた。視線が交わる。ロボットなのだからと、覚悟を決め胸を隠していた腕を下ろし、シャワーで嘔吐物を落とす。そのまま身体と髪を洗う。急激に寒くなる。身を震わせながら振り返る。秘書の青年へ裸体を晒してしまう。 「許してください」  彼の唇が小さく動いた。 「私を許してください…呪わないでください。許してください」  ロボットの微動だにしない眉が動いた。タオルを押し上げる下腹部を押さえ、秘書の青年はぎこちない困惑を示す。 「許してください。苦しいです。許してください。呪わないでください」  彼は何度も懇願しながら股間を押さえる。霞はどうしていいか分からず狼狽た。 「許してください。許してください。許してください…っ」  タオルを押し上げる膨らみを無理矢理潰そうとするため霞は粘っこい熱を纏った手で彼の腕を止める。熱が上がった感じあった。 「私の頭から出て行ってください…許してください…!」  力が入らず、狂乱し始めたロボットにしがみついて止めた。彼の精巧なシリコン素材に胸が当たる。 「苦しいです。呪わないでください。許してください」 「落ち着いてください」 「許してください。苦しいです」  彼は背筋を逸らした。胸が跳ね、発作を思わせた。霞は秘書の青年の腕ごと抱き締め背中を摩る。胸が彼の肌によって形を変える。 「ぁ…あ、」  青年は小さく叫び、霞の腕の中で脱力する。彼の体重を支えきれずタイルに転ぶ。頭部を掌で受け止め、手の甲をタイルへ打ち付けた。 「許してください…許してください…呪わないでください」 「大丈夫ですか」  黒い目が霞を捉えた。無感動だった目に恐怖を浮かんでいる。だが首を伸ばし霞に口付ける。 「呪わないでください…頭から出て行ってください」 「上がりましょう。壊れちゃいますよ」  タイルに寝たままのロボットの肩に手を置いた。もう一度シャワーを浴び、ロボットの身体を拭いた。腰に巻いたタオルの下から腿を伝い、白濁した液体が落ちていく。霞はぎょっとして秘書の青年の顔を見てしまった。真っ黒な目が細まり、眉間に皺が寄る。 「人間なの…?」 「はい。人間です」 「本当に人間なの?」  返答も聞かず霞は後退った。 「はい」  青年を拭いていたタオルを抱いて胸を隠す。 「ロボットじゃ、ないの…?」 「はい」  霞は屈み込んで、タオルを抱いた。 「出て行って、ください…」 「許してください」 「許しますから…出て行ってください」  秘書は霞を見下ろしたまま動かない。 「まだ許されていません」  腰に巻いたタオルが落ちた。霞は目を逸らす。晒したままの素肌が冷めていく。咳が出て、目眩がした。 「貴方から許されたい」  秘書はバスローブを霞へ羽織らせ、 嫌がる彼女を抱き上げた。 「許してください」  眉間に皺を寄せ、秘書の青年は痛そうなつらそうな顔をする。人間だとはまだ信じられなかった。部屋に戻され、ベッドに落とされる。締められなかったバスルームが翻り、霞は身体を抱いて寝転がる。 「後で片付けますので、おやすみください」  秘書は全裸であることも気にせず、霞の視界に入ろうとする。 「貴方に許されたい」 「知りません!あっちに行ってください」  咳をしながらバスルームの前を閉める。 「呪わないでください」 「お願い…近付かないで…」  濡れた髪が冷え、彼の怨嗟に似た叫びが頭痛を助長する。耳を塞いだ。寒い。夫に会いたい。帰れなかったら?咳が内部から彼女を苛む。意識が眠気に拐われ、また戻ってくる。短い夢が覚め、夫は傍にいない。背中をベッドから剥がし床の汚れを確認した。すでに片付けられている。部屋の扉が開き、秘書の青年が戻ってきた。風呂上がりらしく腰にタオルを巻いていた。 「ごめんなさい、片付けさせちゃって…」 「いいえ」  髪を拭きながらベッドに近付くため霞は警戒してしまう。相変わらず下腹部はタオルを押し上げたままだった。 「許してくれますか」 「…それは、許すとか、許さないとかの話じゃないです」  病熱に火照る顔を汗ばんでいるくせ冷たい掌で覆いながら青年の滾りを指差す。 「貴方に呪われている」 「…来てください」  恥ずかしさに熱が上がった。青年はベッドへ乗った。広すぎる天蓋のベッドは2人が乗っても軋むことはなかった。半裸の男を前に、霞はバスローブを直して空気感のある布団の上に膝を開いて座る。存在しない器官が勃ち上がっている(てい)で指筒を作り、上下に動かす。 「これで、治まるはずです」  顔を真っ赤にしながら夫が密かにしていた作業を説明するが、秘書の青年は霞を見てばかりで碌に話を聞いていない。荒い呼吸が生々しい。 「許してください」  まだ同じことを繰り返す青年へおそるおそる手を伸ばす。彼は抵抗することなく霞へ手を委ねる。 「苦しいです。許してください」  青年の手を彼自身の器官にタオルの上から当てた。握らせて、動かす。 「…っ、許して…っ!」 「許しますから、自分で手を動かしてください」  タオルが蠢く。荒々しい吐息に声が混じる。自慰を促していた手を退けても、彼はタオルの上から緩く丸めた手を動かし続けた。記憶から抹消させなければ夫に悪いような気がした営みが脳裏にこびりついて、居た堪れない心地になる。今でも声をかけて自分が処理すると積極性を見せてしまってよかったのか答えは出ないまま。ふと顔を上げる。黒い瞳は霞を見ていた。彼の眉が引き攣った。掠れた声が聞こえ、若い肉体が小さく震えた。目が合ってしまうどころか彼はさらに彼女の瞳を覗き込もうと首を捻った。霞を背を向け、勢いよく寝転んだ。目眩がする。 「苦しいです」  隣で何か倒れる音がした。振り返る。黒い瞳が見ている。後ろから伸びた腕がバスローブを捉える。霞を抱き締め、その力は強く、暴れるだけ頑なに絡み付く。 「放してください!」 「苦しいです。許してください」  濡れた髪に顔を埋められる。耳に吐息がかかった。 「許してください。解放してください。苦しい…」  密着した腰が動く。欲情の滲んだ声が真後ろから聞こえた。 「苦しいです。苦しい…呪わないでください。助けて…」  拒絶をやめ、彼の腕に触れた。 「放して、そっち向くから」  拘束は呆気なく解かれた。無感動な眼差しなどどこにもなく、困惑に青褪めた顔がそこにある。まだ彼の腰にあるタオルを掴んで、その上から青年の(みなぎ)りを握った。 「好きな人のことでも考えてて」  秘書の青年の目元を隠し、タオルを掴んで手を動かす。 「週に1回でも…何回でもいいけれど、ちゃんとここ……何か、出るまで擦ってください。苦しくなくなるはずです…多分」 「…っ、貴方が出てきます…ぁ、」 「そのうち消えます」  霞は深く息を吐いて気怠さを逃す。扱くたび青年はもどかしげにダウンケットを爪先で蹴る。厚手のタオルでは(いき)りの具合が把握しづらかったが、彼の突き上げた腰の動きで限界を知り、扱く手を速めた。 「ぁ…ッ」  彼は自身の黒髪を鷲掴んだ。タオルが色を変える。手の速度を落とし、往復する幅も広げた。 「今度からはヒトリデしてください」  タオルから手を離し、寝返りを打って再び秘書の青年に背を向ける。夫に会いたい。抱き合えなくてもいい。声を聞きたい。笑顔を見たい。同じ匂いを嗅ぎたい。髪を撫でたい。指輪の無い軽さに慣れてしまった手が寂しくかった。慣れない洗剤の匂いがする。鈍い頭痛に目を閉じ、耳鳴りが酷く首を竦める。夫を想うほどに咳が出て、暑いくせ寒気に身を縮めた。 『――、疲れたね。また明日』 『あなた…おやすみなさい』  頬に触れた指の背は生温かった。 ◇  目を開けると唇が見えた。夫だ。首を伸ばし、顎に口付ける。日常でいえば夫だった。息を深く吐いて夫の胸元に首を埋めた。腕が降りてきて髪を撫でる。幸せな微睡みに涙が溢れそうだった。夫に抱き寄せられる。知らない布団。覚えのない衣類。違う洗剤。冴えていく思考。拒む頭痛。咳が分析を排斥する。ちりついた喉は固唾を飲むことさえ簡単には許さなかった。 「起きてます?」  目を開けた。ゆっくり辿るようにして見上げると冷淡な顔立ちに切長の瞳があった。 「淡藤さん…」 「旦那さんには朝から随分と可愛いのですね」 「…朝から最悪の気分です」 「霞さん」  目眩を抑えながら上体を起こす。広いベッドの奥の方へと移動した。温まっていないそこは冷たく感じられる。 「夫のことを裏切りたくないんです」 「裏切ってないと思います」 「裏切っています。すべて打ち明けてもいいくらいです」 「すべて打ち明けますか」  頭痛に答えを失った。目を閉じて、ゆっくり頭を倒す。 「裏切った罪は償うつもりです」 「どうやってです?」 「別れるなら別れます。まだ居てくれるのなら他の誰を傷付けてももう裏切りません」 「貴方が傷付きます」  淡藤は距離を詰めることなく、そこで肘をついて寝転がっていた。距離はワイドキングサイズのベッドの端と端まで空いていたが、彼と親しい感覚に陥る。 「それくらいしてもまだ足りないです」 「独り善がりですよ、その考えは」 「自分の中の問題です」 「慰謝料って考えはその点は救いですね」  淡藤は起き上がった。 「朝ごはん持ってきます。食べられますか」 「食べられません」 「ならアイスでいいですね」 「…要りません」  彼は返事をせずベッドから離れていく。 「なんで居るんですか」 「まさか自分が霞さんの看病に来られるとは思いませんでした。世の中分からないものですね」  淡藤ははぐらかし、ドアに消えた。  持って来られたのは華奢やグラスに盛られたイチゴのアイスクリームだった。淡藤に買っていった物と同じ少し値の張るメーカーのものだ。先端が小さく長いスプーンを淡藤は離さず、霞の口元まで運んでいく。 「手は無事です」 「私がしたいのです」 「これは不適切な関係だと思います」 「異性だからですか」  まったく話を聞かずスプーンはストロベリーの味を口に入れる。 「異性だからです」 「今は看病人だとでも思ってください」 「無理ですよ」 「意識してくれているのですか」  グラスにスプーンの音が当たる。グラスを濁らせるピンク色を見つめた。 「淡藤さんにとっては頼まれて割り切っていた関係ですもんね」 「そうですね」  不機嫌な表情は特に不機嫌という様子もなくピンク色のアイスを霞に与えていく。潔い肯定に霞はいくらか安堵した。傷を舐めようとしかけた感情はあっさりと捨ててしまえるものらしかった。 「じゃあ良かった」 「よかったんですか」 「わたしのほうも割り切れますから」 「そうですか」  淡藤は切長の瞳をどこかにやってしまった。 「全部頼まれたことで、演技ってことですもんね」 「はい」 「安心しました。明日は要らないとか言い出すものだから。冗談でも家族が亡くなっただなんて仮定、つらい話ですし」  霞は腹に食べ物を入れたためか、いくらかゆとりを取り戻した。淡藤はぼんやりと室内を眺め、また霞に戻ってくる。 「指輪同士がごつごつぶつかるの、私は好きだったのですが、もう要りませんね」  彼は不機嫌で冷淡な面構えには似合わない、カラカラとした笑みを浮かべた。彼の左手に嵌った槌目の指輪に霞の表情が強張る。 「淡藤さん……本当に?」 「はい。役員から言われたんです。飲み会で、貴方を口説くように。多少強引でも構わないからと」 「そっちじゃなくて」 「どちらの話です?」  霞は首を振って「なんでもない」と呟いた。掬う手が止まりアイスクリームが溶けていく。彼は目を伏せていた。 「明日から…明日どうなるかも分かりませんが、友人としてお願いします。別部署の先輩後輩として」  そして顔を上げ、またスプーンがアイスクリームを運んだ。 「はい。よろしく、どうぞ…」  最後の一口を飲み込む。 「では、これにて」  グラスの中でスプーンが揺れた。 「うん、また今度」  似合わずに笑んで、淡藤は去っていく。まだ口の中からストロベリーアイスクリームの味が消えない間に役員が入ってきた。 「仕方ないね、結婚するっていうのは契約なんだから。契約ってのは時には無情にならないと。個を捨てて。みんな傷付けたくない、誰とでも傷を舐め合いたいなら結婚なんてしないで個でいたらいいのさ。そうだろ?」  踊るような足取りで近付き、ベッドに腰掛ける。朝から麗かだった。 「どうしても君に会いたいって言ってさ。ま、君を手に入れられた労いだね。欲の無い男だよ。出世欲もない。操り易くてありがたかったけど」 「淡藤さん、本当はお嫁さん、いたんじゃないんですか」  役員は笑いながらも眉を顰める。 「いやだな、既婚者同士の絆?いたよ。不倫疑って突っついたら自殺しちゃったってのは本人の話だけど、多分事故死」 「知ってて、彼を利用したんですか」 「不倫突っついて嫁さん殺した立場から、自分が不倫する側に回る。どんな気持ちか知りたいものだね。本気になったら…罪悪感は何倍だろう?元が0なら問題ないね」  霞は、ひっ、と吃逆を起こし、高い声を上げた。役員の元へ這う。彼は麗かな笑顔で振り返った。
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