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第9話

「部長…」  大きな目は逸され、跳ねた赤毛を掻いた。 「熱があります」  冷たく言って彼は自身が座っていたパイプ椅子を片付けた。霞は上体を起こし、ベッドに寝ていたことを知る。 「早退届を書いてください。サインはしてありますから」  部長は浅く焼けた小さな手で書類を差し出した。先に部長の署名がされ、印鑑が押されている。 「すみません…」 「いいえ。お大事に」  クリーム色のカーテンに小学生と見紛う部長は消えていった。低い身長の問題ではなく、大きな目や小さな口、張りのある肌や円やかな頬。まだ発達の余地のあり若さとはまた異なった外見的な幼さがあった。  テーブルを借りに霞もカーテンの外へ出る。肺の辺りが痒くなり咳が出た。喉がちりちりと痛む。テーブルとセットになっているソファーには淡藤が礼儀正しく座っていた。これから面接でも始まりかねない雰囲気だったが、頬が不自然に赤く、それは面接に相応しくない類のものだった。 「霞さん…」  表情の乏しい淡藤の切長の目が見開かれる。 「こんにちは。前失礼しますね」  テーブルを借りてペン立てからボールペンを抜き取った。 「すみませんでした。風邪、感染しましたね」 「自己責任です。予防する(すべ)はありましたし、貴方からとは限りません」  自身の名を書き、備考欄を書こうとしたがすでに部長の筆跡で理由が記されていた。 「私以外にいません」 「あの後夫と買い物に行きましたから」 「私が感染したのです」 「菌にひとつひとつ名前でも書いているんですか」  紙の端と端を摘んで丸める。咳が出たが淡藤に遠慮し、吐くような咳になって余計に重症な感じを与えてしまう。提出すべき場所に行くまで淡藤は付いてこようとする。 「また感染りますよ」 「どうぞその風邪を返してください」 「看病の宛が他にあるんですね」 「ないです」  医務室の受付横のボックスに入れる。淡藤はまだ付いてくる。 「荷物取ってきます。あまり動かないほうがいいです」 「関係を疑われます…!」  荷物のあるオフィスに部長や恐ろしい同僚が居ないとも限らない。少なくともあの2人には不適切な関係を持っていることも、そして相手が誰なのかも知られている。 「疑いではなく事実です」 「どちらでも構いません。印象は同じです」 「私は構います」 「とにかく自分で行きます。仕事に戻ってください」  頭がくらくらする。自宅まで帰らなければならないと思うと気怠くて仕方がない。 「送ります」 「病み上がりが何を言ってるんですか」 「送ります。1人で帰すなんて酷だ」 「必要ないです」  頑固な姿勢を見せられ、今は粘るのも面倒なほど身体が重く感じられた。足音が近付き、淡藤が先に反応を示した。 「離れなさい」  部長の手には霞の荷物が下げられていた。淡藤は不機嫌げな素顔をさらに険しくした。 「ここは会社です」  霞に荷物を渡し、これで全てですか、と問うた。頷いた。大きく無愛想な目が切り離される。 「貴方には先程も言いましたが、ここは建前であっても倫理と秩序で成り立っているんです」  部長はどちらを見ることもなく踵を返した。 「社会が決めたルールを破りたいのなら、国外(そと)でどうぞ」  小さな後姿が廊下へ消えていく。彼は隣人でもある。夫と並び出掛ける様を何度も目にしているはずだ。隣人の目には偽りの夫婦に映っているのかも知れない。 「貴方といると、わたしが…磨り減る」  声が震える。淡藤の眉間がまた違う色を帯びた。 「看病なんて行くべきじゃなかった。タクシー代を借りるべきじゃなかった。貴方の家に付いて行くんじゃなかった…夫が大事。夫を傷付けたくない。もうこれ以上夫を裏切れません。終わりにして。終わりにする。貴方より夫が大事なんです。夫が好きなんです。わたしは夫を選んだんです…!」  身体中が熱くなる。咳が廊下に響いた。眼球が熱い。足元が覚束ず、淡藤が触れようとする。だが突き放した。壁を辿るように歩く。エントランスの広さに改めて気付く。砂漠を彷徨っている心地だった。倒れかけ、助け起こされる。礼を言おうとした。見上げた胸元にシルバーの鈍い光があった。 「送るよ」  麗かな青年がいた。ぼやけた中では柔らかな笑みしか見えなかった。抱え上げられ彼の胸元で照る、よく知った指輪に触れた。 「こら、だめだろ?これはまだ返せないよ」  会社裏の駐車場へ運ばれていく。真っ白な車の脇に艶やかな黒髪の若者が立っていた。車のドアを開け、霞は抱えられたまま後部座席に乗った。漆黒の瞳が彼女を見下ろす。辱めるほどに凝視し、舐めるように眺め、素描の如く観察する。 「許してほしいんだって、彼」  膝の上に乗せられ、役員は霞ごとシートベルトを締めた。朦朧とした意識は役員との間に肘を張る程度で、そなよ拒否は簡単に崩される。助手席に秘書が乗り込み、車は動き出す。 「帰ろうね…オレの家に」  役員の不穏な言葉に霞は全身で抵抗する。車窓の風景が流れていく。エントランスに立ち竦む淡藤を追い越していく。 「オレが頼んだんだ、彼に。君と関係してってさ」  マスクが下ろされる。ナチュラルピンクのリップカラーを役員の舌が舐めた。そしてそのまま唇を割り開く。 「…んっぁ、」  冷たい舌は生きた蛇を食わされているような錯覚を起こした。舌で舌を扱かれ、巻き付き、呼吸を奪う。 「ぁ、んっ…ん、ん…」  運転手の後頭部が見えた。隣の秘書もじっとフロントガラスを見ている。 「キスでイけるんでしょ?」 「や、ぁ……っん、」  頬を包まれて逃げ場を失う。息苦しい。暑さに口が開いた。舌を噛まれたまま引っ張られる。麗かな役員の顔に熱い吐息をかけてしまう。 「君は少し暗い色のほうが似合うね」  舌でも唇でもない質感が下唇をなぞった。粘度の高い軟膏らしきものが塗られていく。上唇にも塗られていく。鮮やかながらもわずかに暗いレッドが見えた 「かわいい。よく似合ってる。君はオレのお人形になっておくのが、一番輝くよ」  彼はまた口付けた。役員の唇も赤く染まる。倒錯的な美しさが引き立った。だが霞には恐ろしい人喰い怪物にしか見えなかった。 「下ろし、て…下ろし…て…ください」  上質な生地だと触っただけでも分かるシャツやジャケットを殴った。役員は嬉しそうに笑う。 「うん、堕させるよ。勿論。堕させるに決まってる。君との子以外、要らないからね…君との子だって要らないよ。だって君じゃないなら、オレの子だって、紛い物だよ」 「違……いま…下ろ…」 「ごめんね?避妊薬飲ませて…あの時は合意じゃなかったからね。娘ならいいよ。息子なんて産んじゃったら君を孕ませちゃうだろう?でも娘なら、オレに似ないと君みたいな淫乱になっちゃう。変な男に捕まったら社会的に消さないと。でもオレに似た娘かぁ…君に似てほしいけど、君じゃないなら間違いなんて起こさないから安心していいよ」  楽しそうに語る男のシャツを掴んだ。首を振る。そのような話はしていないのだと頭をその胸へ打ち付ける。指輪を返せとシルバーを握り込んだ手を取られる。 「別荘で暮らそう。弟に知られたらレイプされて孕まされちゃう。君の子でも弟の子は要らないな。他の男の子供なんて身籠もったら許さないよ。君ごと殺すしかないよ。オレは子供要らないんだ、火種だよ。半分が君だなんてそんな偽物、おぞましいだけさ。帰ったら元・旦那(カレ)の子供妊娠してないか検査しなきゃ」 「下ろして、くださ……帰りたい…帰らせてください…!」  吃逆したみたいに役員は笑い出す。閉鎖的な空間ということも忘れているらしかった。 「うん、帰ろうか。もうベッドも下着も買い揃えたんだ。広い部屋に天蓋ベッドだよ。オンボロアパートじゃ声出すのも我慢してたんだろ?それともアパート住民全員誑し込んだの?君のかわいい声聞かせて?妬けるなぁ…アパート燃やそうか。あんな基準法違反してそうなアパート一棟丸ごと燃やしたって…ね?」  霞は高らかに笑う男の胸板を叩いた。夫が焼かれる。夫が死んでしまう。夫が泣いて叫んで、助けを求めて独りになってしまったら。発熱し弱った彼女に容赦なく想像は甚振りにかかる。乾いた鼻腔が濡れた。ぼろぼろと涙が溢れる。リップカラーで覆われた唇を噛んだが歯の奥から嗚咽が漏れた。 「ごめん、ごめん、泣くほどだった?冗談なのに~」  乾燥した指が目元を拭う。この怪物に今にも食われそうだった。激しい不安に襲われる。夫の元に帰れなくなる。 「帰して……帰りたい…、下ろしてください…!下ろして…!」 「泣く声もかわいい。早く帰りたいね。夜まで待てないよ」 「放してください…!放して、放して……!」  泣き叫ぶ唇を塞がれる。 「…んやぁ…ぁっ……ん、んぁ、」  口腔を探られ、上顎を撫でられる。舌が絡んだ。暑さの中に寒気が差す。目が沁みた。舌を抜かれ、喉笛を噛み砕かれ、食われていくのだ。ブラウスのボタンを外されていく。キャミソールの下に手を差し込まれ、ブラジャーに包まれている膨らみに指が埋まった。 「オレでもキスイキしてよ」 「……帰らせて…くだ…さ…」 「旦那が好きとか言って、君が愛してるのは同僚(あっち)なんじゃないの」  胸を揉まれる。手慰みのような情感に、抵抗するほどの力を割けず、なすがままに役員の胸を叩く。 「……帰らせて…夫がいいの…」  目眩によって意識が遠退く。頭の中のものがすべて吸い取られていくような浮遊感があった。 ◇  髪を撫でられ、屹立を舐める。吸熱剤が心地良かったが乾涸び始めて剥がれそうだった。吐き気を催すような眩暈がして頭を動かせず、ひたすら舌を硬く太い茎に這わせた。力の入らない指で扱く。夫ではない雄芯に五指が接触を拒んでいる。 「旦那さんにいつか逃げられるかもね」  毛先に男の指が絡む。萎えつつある昂りを懸命に舐めても役員の青年は息ひとつ乱さない。 「淡藤くんとのセックスは全然感じなかったらしいじゃない」  役員は大きな独り言を繰り返している。ほとんど手淫に変わって、先端を口に入れた。身体全体に鉛を取り付けられているようで、汗ばんだ背中が不快だった。焦点を合わせるのも疲れ、虚ろに口淫を続ける。 「同僚(かれ)ではイったのに?旦那愛してるなんて嘘でしょ」  役員はかなり広いベッドから腰を上げた。 「もう行かないとだよ。ナカは夜のお楽しみだね」  唇を撫でられ、両側から頭を押さえられた。 「噛んでもいいよ。オレのケチャップ付きソーセージ味わっても」  口腔に挿入される。口蓋垂まで貫かれた。くしゃみのような反射が容赦のない侵入者を押し返そうとする。唾液が霧のように役員の股間を汚した。 「ぁぐっ……っご、ぉ、」 「頑張って?喉締めないと、終わらないよ?」  無理矢理喉奥まで押し込まれ、引き抜かれ、穿たれる。咳で痛んだ喉に激痛が走った。涙が溢れ、目を閉じる。 「ンッ……ぐっ、ゥ……く…ッ」  聴覚は耳鳴りによって使えなくなった。目の前がちかちかと明滅する。内臓がすべて喉元まで迫り上がってくるような感じがした。嘔吐感に耐えられない。 「っ、かわいい…っ」  支えられた頭以外は力を失くし、首を吊っているようだった。このまま殺されるのだ。味蕾の上を張り出た部分が大きく前後する。喉の奥に引っ掛かり、腹の中で爆竹が鳴ったみたいに波打った。 「かわいい…っ、ほら…っ、オレをみて。ちゃんと飲めるね?ちゃんと飲むんだよ?君のために死んでいくオレの赤ちゃん」  高揚した声音で髪を梳かれ、後頭部から抱き込まれる。喉を圧迫され、脈動と共に絡まる粘液に苦痛が襲った。口腔を占める肉塊に歯を立てる。 「ぁ…いい…。君の苦しみが…っん、っ伝わるよ……っぁ、」  呻めきながら、歯で茎を削られることも厭わず霞の口に精が塗りたくられる。苦味、塩はゆさ、嫌悪、苦しみ、痛み、嘔吐感。嚥下する間もなく胃が爆ぜる。カエルを潰したような音を立てて、胃液が床を汚した。掌から指の間から落ちていく。咳も止まらなかった。 「よく頑張ったね。すごく気持ちよかった。お風呂入る?」  役員は嘔吐物塗れの霞を撫でた。肘から伝い、白いベビードールも無残に汚れている。部屋の隅に佇んでいた秘書が時間が迫っていることを告げた。 「じゃあ君に彼女の世話を頼むよ。片付けも」 「承知しました」 「着替えもだよ?指示待ちはだめだめ。頭使って。可愛がってた小鳥みたいに扱えば大体大丈夫だから」  同じ言葉を秘書は続け、役員はスーツを正して出て行った。入れ違いに秘書が傍へやって来る。煙草の匂いがした。 「すみ…ません。すぐ、片付けます…」  手から胃液が落ちていく。肩で息をして、ロボットの真っ黒なレンズを見た。 「まずはバスルームへ」 「ごめんなさい…」  レーザー光線で焼き尽くさんばかりの凝視に急いて、ふらふらと立ち上がる。しかし膝はいうことをきかなかった。喉が痛み、咳が出た。寒さと暑さに感覚も分からない。踏み出したはいいが、また膝を着いてしまう。フリル状になった裾が軽やかに揺れた。 「許してください」  陰が動き、霞を覆った。 「私の頭から出て行ってください」  見上げる。黒真珠がじっと見下ろしている。黒い円の二点のようで不気味な印象を受けた。 「許してください。私の頭から出て行ってください」  彼は片膝をつく。無感動な目が迫る。眼球の水分を含んだ照りや、肌理(きめ)、唇の薄皮。生々しさがあり、人間と見紛うほどに精巧なロボットだった。 「貴方に許されたい」  両肩に手が乗った。体温まで人間に近い。 「貴方から呪われている」  吐いたばかりの唇にロボットの肉感のある唇が触れた。数秒静止し、霞を後ろへ倒すほど強く唇を押し付ける。唇で相撲を取っている。 「な…何なんですか」 「私の頭から出て行ってください」  話が通じずバスルームへ行く旨を告げた。広い建物でその場所は分からなかったが大体の間取りは来た時に把握した。いざ立ち上がろうとした時に、足が床から離れる。
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