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第8話

◇  玄関は開いていなかった。インターフォンを鳴らしながら電話もかける。暫くして扉が開く。マスクをした淡藤は寝間着のままで赤い顔をしていた。髪はぐしゃぐしゃで潤んだ目が虚ろに霞を認識する。 「感染(うつ)ります」 「感染らないようにします」 「旦那さんに感染ったら大変ですものね」 「そのとおりです」  今にも倒れそうな淡藤を支え、家主の許可もなく玄関を通る。触れた寝間着は蒸れていた。 「風邪ですか」 「おそらく」  ベッドへ運び、彼は苦しげに大きく息を吐いた。 「すみませんでした。旦那さんと一緒に過ごすと聞いていたのに」 「本当です」  寝間着のボタンを外していく。インナーは色を変えていた。裾を持ち上げ脱がせる。大きな子供のようだった。 「寒いです」 「汗拭きますから、タオル借ります」  いつの間にか小物の場所まで把握していた。ぬるま湯で濡らした手拭いで淡藤の身体を清めていく。しなやかな筋肉が付いている。 「貴方が病気に伏せった時、私は貴方の元には行けないのですね」 「随分熱が高いようです」 「今は割と楽です。霞さんが来てくれましたから」 「明日は休みですと昨日教えてくださったのは淡藤さんですけれどね」  上体が拭き終わる。下半身が目に入った。 「タオル洗ってきますね」 「はい」  淡藤はいくらか(しお)らしくなっていた。戻ってきた霞は下半身を覆う寝間着のゴムに手を掛けた。 「下もですか」 「汗すごいですよ。気持ち悪くないんですか」 「ですが…(まず)いです」 「何がですか。貴方は病人、わたしは看病人です。一体何が拙いというんです」  霞は寝間着を脱がせると淡藤の下着に手を入れ、大腿から足首までを拭いていく。深い息が幾度か大きく聞こえた。 「怒っていますか」 「怒っているように聞こえるなら寝てください。明日は来られませんからね」  新しい寝間着と下着を淡藤へ渡す。着替えの手伝いはきっぱりと断られてしまう。 「霞さん」 「なんです」 「あれ取ってください。薬局の、紙袋」  淡藤はベッドからラックを指差した。小さな紙袋が置かれている。中身は見た目の割りには重さがあった。軽いそれを手に取り、彼へ渡した。しかし淡藤は手を出さない。 「差し上げます」 「なんですか」 「見てください」  紙袋を開く。小さな箱が入っていた。やはり見た目の割りに重かった。化粧品会社の有名なロゴが入っている。 「ブランド品を贈るのは気が引けたので、立場上…」  口紅だった。ピンクに近いオレンジ色で、陽気な感じがある。 「急に何です」 「私としましてはピンクよりオレンジだと思ったので」 「付けられません」 「私の押し付けですから、お願いはできませんね」  枕に頭を沈め、赤い顔をしながら淡藤は咳をした。雑に掛かっている布団を掛け直せば彼は肩まで布団に潜った。そして眠気に目蓋が下がってきている。 「昨日、事故を……見たんです」  瞑目しながらふにゃふにゃとした調子で話が始まる。 「もう…大丈夫だと思ったのですが……中から血塗れの女性が運び出されて…仕事忘れて…じっと現場に、立ってたんですよ。会社に戻ってきても………ずっと頭から離れなくて…」  咳をして、深い呼吸に変わる。ちらと彼を確かめれば睫毛が照った。 「妊娠してたのですけどね…私の妻。早とちりって……よくないですね。赤ちゃん用品なんて揃えて…悲しみは2倍ですよ。いいや、数字でなんて…表せないものですね。業務成績みたいには……いかないものです」  寝息が混じる。衣擦れが聞こえた。そして嘆息。 「昨日…貴方に会えていなかったら……私は、呑まれていたかも…知れません」 「お酒にですか」 「さぁ……忘れました」 「眠気にでも呑まれていてください」  深い寝息が穏やかに続いた。ハンドタオルを濡らして乱れた前髪を避け、形の良い額に乗せた。眦に雫が落ちていく。汗を指で拭い、部屋を出た。  鍋が沸騰を告げる。あまり洗物を増やすわけにもいかず固まったままのうどんを2玉煮たっている玉子とトマトと長ネギのつゆに入れた。キッチンへふらふらと淡藤が現れる。 「霞さ…」 「どうしました」 「…帰ったのかと、思いました……」 「うどん食べられそうですか」  淡藤は頷いた。 「良かった。持っていきます。1人で戻れますか」 「戻れます」 「戻れませんね」 「戻れません」  火を止めてから肩に腕を回しベッドへ連れて行く。真っ直ぐ歩けないらしく空いた腕で壁を掴む。 「すみません。あの、お金…」 「タクシー代を使わせていただきましたから気にせず」 「なら良かった」 「うどんを持ってきます」  淡藤は苦しげに頷いた。風邪薬と水を添えて彼のもとにうどんを運ぶ。 「料理上手なのですね」 「レシピが簡単でしたから」 「タクシー代だけで足りましたか」 「おつりでアイスを買えましたよ」  吸熱シートを額に貼って、彼はうどんを食べはじめる。 「とりあえず薬を飲んで、明日もきつそうなら仕事は休んだほうがいいです。病院には1人で行け…そうにありませんね。夫にはきちんと説明して病院に連れて行きますから連絡してください」 「説明…とは、どのような…?」 「会社の友人が重病だとしか言えません」 「これくらいの風邪で病院のお世話にはならないと思いたいものです」  器から顔を逸らし淡藤は咳をした。 「わたしの叔父も、風邪で肺に穴を空けたことがありますからね。咳は侮れないですよ」  病熱に潤んだ上目遣いがうどんを食みながら霞を捉えた。 「たまに寂しくならないのですか」 「寂しいという感覚を知りません」 「自覚がないだけです」 「淡藤さんは寂しいんですか」  赤い顔がまた咳をする。濡れた目は室内を見回した。 「妻がいない日々なんて…要らないと思っていました」  妻と映る写真のひとつに目を止め、瞬く。しかし不機嫌そうな顔でどこかを見据えている。 「貴方の旦那さんとの惚気話、好きです。自分を見ているようで、妻を見ているようで…消えた日々を見ているみたいで」 「別に惚気てなんていません」 「自覚がないだけです」 「ありのままをお話しているだけなんですけれども」  うどんが吸い込まれていく。赤らんだ目元が上がり、苦笑される 「旦那さんとの時間を潰してしまったことは大変申し訳なく思います」 「謝らなくていいので早く治すことです。食欲がなければアイスがありますからね」  食事を終え薬を飲むところを確認する。スポーツドリンクを傍に置いて部屋を出た。食器を洗ったらここに留まる理由も用もない。 「霞さん」 「はい」 「先程の問いを返せていませんでした」 「何でしたっけ」  また布団が乱れたまま頓着なく横になっている。布団を直して顔や首の汗を拭き取っている間淡藤はじっと霞の目を見ていたが、かち合った途端にふと逸らした。 「寂しくないです。今は」 「おやすみさい。いい夢を」  自宅に戻ると夫が飛び付いた。 「お帰り…!疲れたネ…!買い出し…ボク行ってこようか…?」 「一緒に行こう」 「お嫁さん…疲れてない…?」  両肩に手が添えられ、夫は首を傾げる。胸が満たされていく半面、すべてそこが抜けたバケツのような虚しさを覚える。悲しくなって夫に抱き付く。 「お嫁さん…!どうしたの…?なんか悲しいコトが…あったんだネぇ…」  髪を撫でられる。静まり返った部屋に並ぶ男女の写真が頭から離れなかった。整理されたきり埃を被ったリビングや、まるで使った形跡のない揃いの食器。夫の手が髪を撫でるたび相反する感情に目頭が痛んだ。 「ないよ、何も。ごめんね、あなた。ごめん」 「何が…?お嫁さんが…謝ることなんて…何も…ないヨ…?」  夫の匂いがする。自宅の匂い。自分と同じ匂いだ。何度も包まれた筋肉へ頭を押し込む。 「ごめん、取り乱しちゃって。明日もまた連絡来るかも知れないけれど…でも、だから、あなたとはずっと一緒にいたい」 「何言ってるの…!明日も…明後日も…明々後日も…明々々後日?、も…?とりあえず…いっつも…お嫁さんと…ボクは…ずっと…一緒だヨ…!」  狼狽する夫の口元へ背伸びをして唇を当てる。 「買い出し行こ?何食べたい?今日はちょっと頑張るよ」 「お店…行ってから…決める!」  無邪気な琥珀色に見惚れ、夫の温かい手に腕を引かれた。永遠に続けばいいのにと、つい最近誰かが言った願いがふと過った。 ◇ 「おはようございます」  憂鬱になる声がして霞は会釈だけした。目を合わさず、前を通ろうとする。 「おはようございます」  まったく同じ調子で彼は繰り返す。霞はまた浅く会釈を返した。胸元が視界に入る。 「おはようございます」 「風邪が感染りますよ」  喉が痛んだ。マスクが温かい息を跳ね返す。 「すみません。朝から会えて、嬉しくて」 「憎い相手に会えて嬉しいだなんて物好きですね」  夫の声で夫に似たことを言う。前を塞がれているため、ターンしてエレベーターに乗り込む。まだ早い時間であまり人がいない。入社して間もない頃、人の多い時間帯に身体が他人と接触してから人の疎らな時間帯に出社することにしたのだった。 「熱は無いんですか」  エントランスで別れられるかと思ったが恐ろしい同僚は霞の傍へやって来た。 「予防です」  喉に違和感はあるがきちんと治せば熱も咳もなく終わるだろう。 「今日会えなかったらどうしようかと思いました」  今日会えなかったらどうだというのだろう。興味もなく、口も利きたくなかった。 「そうですか」  あの後、どうやって帰ったのだろう。ふと浮かんだ。夫との戯れである程度の男体の仕組みは知っているつもりだった。あのまま何もせず帰れたのか。考えてしまって、思わず同僚から一歩離れてしまう。その想像が真後ろまで迫り、相手を面白おかしく消費しているような罪悪感だった。しかし彼の上で果てた羞恥と嫌悪が身を焦がす。 「霞さん!」  呼ばれていたらしく、気付いた頃には同僚の語調が強まっていた。疚しい想像を夫に叱られているようだった。その名で呼ぶなと言えたら。 ――お嫁さん…!お嫁さん…!  夫に呼ばれているように錯覚する。エレベーターの浮遊感に引き摺られ立ち眩む。 『ごめんなさい』  反射的に謝ってしまう。  オフィスにはすでに人影があった。霞のデスクチェアーの背凭れを抱いて揺れている人物が逆光して影絵のようだった。他に人はいないようだった。真っ先に来ているはずの者もいない。 『おはよう。まさか2人揃って出社とは思わなかったな』 『おはようございます』  霞は小さく会釈する。 『風邪ひいたの、霞。オレに感染す?マスク姿もいいけど可愛い唇が見えないのが難点だね』  役員は麗かな微笑を湛え、温和な眼差しで2人を見遣ったが、突然怒りを眉間に表す。 『だめだめ、近いよ。もっと離れて』 『お断りします』  忠犬同然だった同僚が首を振るのが見ずとも分かった。離れるどころか余計に近付く。目を合わせないと決めたはずだが、ふと探してしまった。ガトーショコラみたいな眼がゆっくり霞に応じ、爛々とした。 『君さぁ、勝手に話進めたでしょ?なんで?』  威圧的な支配者の口調に霞は肩を震わせたがどうやら話し相手は真横のどこか狂気的な同僚らしかった。 『結婚となると個人の領域ですから、個人的に話を纏めさせていただきました』 『勝手なことしないでくれる?君はこの会社の駒なんだからさ!』 『はい。駒の務めは果たします。でも妻になる人は関係ありません』  また病的なものが燦然と妖しく灯っているガトーショコラが霞を捉えた。 『これで俺は大声で、貴女に言い寄れるんです。俺はもう独り身ですから。貴女に、言い寄ります』  穏やかに破顔され、霞は後退る。役員は笑いながらも引き気味で、眉を顰めた。 『劣悪な社内環境だよ。どうしてくれるの、霞くぅん?』  (にじ)り寄る役員に身が竦んだ。 『やめてください。彼女に近寄らないでください。嫉妬で狂いそうです。何も手に就きません 』  同僚が役員の接近を阻む。落ち着いた口調は普段どおりに淑やかだった。後姿しか見えないというのに譫妄(せんもう)を起こしているような目付きは鮮明に蘇る。 『あ~あ。霞くん、君のいやらしさが壊したんだよ』 『壊れていません。彼女のせいでもない。理解したんです。もう何を言われても自分の良心を裏切ろうとも彼女を諦めきれないということに。入社前の自己分析が役に立ちました。諦め、悪いんですよ、俺』  緊迫感に手足を捕らえられ、口も動かなかった。背中の奥に美しい眼球が霞を射抜いている。 『男を壊す天才だよ、君は。性接待でもさせておくのが適材かな?嫌だよ、君のカラダに最初に唾付けたのオレなんだからさ。霞、オレはひとつ間違ったな。オレの誤算は、オレまで君に喰われてたってこと』  役員はデスクチェアーから立ち上がり、同僚を押し退けた。霞の前で両膝を着き、手を取った。 『君はオレのペットであるべきだった。でも君がオレをペットにしてる…!オレは君の奴隷だよ…!こんなくだらない会社なんて売り払っていいさ。オレは君の奴隷だからね、一生付いて回るよ』  経営が傾くのだ。霞は薄らと思った。じっとガラス張りの壁を見ている同僚の背中を見ていた。手の甲に口付けが落ちることにも気付かなかった。 『オレは君の奴隷だよ。オレは君の奴隷だ!』  外ばかり眺めている同僚の名を口にする。徐に彼が振り返る。日の光を透かした水晶体が美しかった。 『俺の名前、覚えていてくれたんですね』  呑気に彼は口元を綻ばせる。嬉しいです。霞の手の甲に頬を擦り寄せ、接吻する同年の上司に一瞥をくれることもなく双つの焦茶が真っ直ぐ彼女を縛り上げる。 『好きです。ずっと言いたかった。好きです。永遠に片想いでも構いません。好きです。今まで我慢していたんです。でももうその必要もありません。一目を憚かる必要もない』  態度も口調も静かだというのに向けられている目には病的な興奮が宿っていた。 『貴女を消した生活に意味なんてありません。貴女を消した生活の中でこなす仕事はただ寿命を待つまでの罰です』  美しい顔が首を倒して霞を別の角度から眺める。 「起きてください」  白く光る天井と赤毛の子供に覗き込まれる。
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