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第7話

「ここ、会社だって…」 「誰もいませんでした」  淡藤の手を外させる。顔色ひとつ変えずに彼は言うが、少し頬が赤らんでいるように見えた。 「そういう問題じゃないです」 「そういう問題です。1人で帰るのですか」 「そうです」 「良かった」  外させたばかりの腕に手首を取られる。まだエントランスから出てもいない。 「明日は何をするのです」 「決めてないけれど夫に任せるつもりです」  淡藤は身体を霞へ擦り付ける。人懐こい猫がある事情で人間になったと疑うほどに霞へ腕や腹をぶつけた。 「急になんです」 「泣きそうな顔してました」 「でも泣いてないです」  会社の敷地を出た途端、霞の顔を覗き込む冷淡な顔が動きを止めた。そしてキスされる。霞は慌てて突き放した。 「外です」 「知ってます」 「分かってないです」 「分かってやっているのです」  淡藤は手を繋ぎ直した。やはり体温が高い。赤みの差した横顔を見上げた。彼が霞を向いた。 「先輩に怒られましたか」 「いいえ」 「長い付き合いで」 「それは聞きました」  繋いだ手を彼はスラックスのポケットに入れてしまった。 「ちょっ、と…!」 「永遠に帰り道だったらいいのにな、と今日は思います」 「夫が待っているので今日だと困ります」  切長の目が細まる。相変わらず無愛想な顔立ちには微笑が似合わなかった。 「先輩と何かありましたか」 「何もないです」 「目がとろんとしてます」 「何もないです…!」  彼は霞の唇を空いた手でなぞった。逆剥けが指の腹に引っ掛かる。 「荒れています」 「乾燥していますし…」 「舐めたらだめです」 「帰ったらケアします」  唇から外れた口角を彼の指が拭った。指摘されると意識してしまい舐めてしまう。凛々しさの中にどこか抜けた雰囲気を持って淡藤は彼女の唇を注視し続ける。 「今日はもうキスできませんね」 「もう貴方とはキスしません」 「なら誰とするのです」 「夫以外にいませんよ」  夫の話をすると淡藤は嬉しそうだった。人妻というある種の嗜好を刺激するのかも知れない。霞は露骨に不快を示す。 「私ともキスしてください」 「貴方とはしません」 「したいです」 「しません」  明るい大通りが見えてくる。人がそれなりにいるのだった。淡藤はポケットの中で絡む手に構わず歩き続ける。霞は立ち止まった。彼は見透かした眼差しで首を傾げる。 「放してください」 「放してほしいですか」 「放してほしいです」  常に櫛を通したような髪を軽く掻いて、彼は何か考えているようだった。夫が待っているのだと怒りたかった。 「好きって言ってください」 「言いません」 「本気にしません。たった2文字です」 「言いません」  手を繋いだまま霞は歩き出した。ポケットの中で手が離される。気分を害したのだと思ったが、見上げた瞬間に彼も霞を見下ろした。不機嫌げな素顔は特に不機嫌という様子でもなかった。閉店間際だがまだ開いている店々の明かりが綺麗に纏まった髪をさらに繊細なものにした。 「私は少し寄るところがありますので、ここで」 「はい」  商店街の近くで彼は立ち止まった。霞の自宅はいくつか小道を抜けた先の住宅地にある。物騒な土地ではなかったが普段よりも遅い時間帯だった。 「気を付けてください」 「はい。淡藤さんも。また、明日」  何気なく、他意などなく毎日使う無難な言葉だった。そこには帰り際に別れるというだけの軽い意味合いしか込められていない。 「明日は休みですが、会ってくれるのですか」  職場の人々も軽々と霞に向け、霞も同じようなことを返した。しかし淡藤は言葉尻を捕って不機嫌を丸出しにした顔立ちに上機嫌を浮かべた。 「会いません」 「旦那さんと過ごすのですものね」 「そうです」  彼は小さく口を開けて笑った。古めかしい躾に囚われているように淡藤は歯を見せたり口を開けて笑ったりはしない。意識したことはなかったが霞はその面を初めて見た。やはり無愛想で冷淡な顔立ちに似合わず、一昔も二昔も前の映画のポスターでみるような吸血鬼のような妖しい感じがあった。 「ではまた」  淡藤に見送られ、霞は自宅へと帰っていく。給湯室で襲われた激しい不安は鎮火していた。  自宅アパートを開けると視界が突然塞がれた。背中からきつく抱き締められる。 「びっくりした…お嫁さん…帰って来ないかと…思ったヨ…」  え~ん、と夫は口にした。 「ごめんなさい…今からご飯、作るから…」 「作ったヨ…!一緒に…食べようネ…?」  背を摩られ、夫は耳や髪を霞へ擦り付ける。 「ごめんなさい。ありがとう。待っていてくれたのね」 「うん…どんな料理も…お嫁さんと食べるのが…一番…美味しいからネ!」  夫は霞の荷物を持って中へ促す。形は崩れ、少し焦げていたがハンバーグが並べられている。 「上手いのね」 「お嫁さんのコト…考えて作ったの。中に…チーズ入れたんだ」 「楽しみ」  部屋着に着替えるためリビングの横の寝室に入った。左手にシルバーの光はない。間違っていないはずだ。間違っているかも知れない。スカートを抜いでハンガーに掛け、ブラウスの前を開けた。キャミソールの下に、性分に合わない派手なブラジャーが見える。夫に見せる前に着替えてしまうくせに。夫がいつ帰ってきて、いつでも応じられるように。夫に可愛いと言われたくて。好きだと。何千回、何万回、何億回言われてもまだまだ足らない。 「お嫁さん…大丈夫…?疲れて寝ちゃった…?」 「うん、大丈夫。すぐ行くから」  夫が腹を空かせて待っている。部屋着に手を掛けた。 「霞、素敵だヨ。よく似合ってる」  すっと耳元で低い声がした。地響きのようで、肉体の核まで震えた。幻聴に違いなかった。テレビの空耳か。テレビが点いている様子はない。 「あなた…」 「お嫁さん…?今夜は…冷えるんだって…こっちにしなヨ…あったかいヨ?」  振り向くともこもことして保温性が高い素材の部屋着を差し出す夫は無邪気に笑っている。 「ありがとう、あなた」 「待ってるネ」  夫は耳をぴこぴこと動かして部屋から出て行った。折られかけた薬指が今になって痛んだ。 「明日は…何する…?お休みだよネ…?」  ベッドに座りながら夫の手が不器用に霞の濡れた髪にブラシを通す。同じボディソープの香りが室内に漂う。シャンプーまで同じだった。男性物の洗剤が耳や尾に合わないらしかった。 「あなたは何がしたい?」 「う~ん…お嫁さんとなら…おうちで…のんびりするのも…いいな!でも…どっか…行きたい…?公園で…太陽…浴びながら…お昼寝する…?」 「また犬に吠えられちゃうよ」  以前大きな公園に出掛けた時、霞に興味を示した大型犬の前に割り込んだたため、吠えられたのだった。 「う~ん…犬(わん)チャン…怖いヨ…」 「そうなったら今度はわたしが守るから」 「ダメだヨ…!いくら可愛くたって…強いんだヨ…?動物は…」  脇腹を擽られる。霞は身体を波打たせる。背後から抱き竦められ、夫の筋肉を感じる。 「もう!」 「かわいい…お嫁さん…スキ!」  首を捻り、口付けを求める。夫は艶やかに笑んでそれに応じた。 「する…?」 「明日、動けなくなっちゃうよ?」  夫の目はもうその準備が整っているようだった。暫く情交を結んでいない。すぐに終えられるとは思えなかった。 「じゃあ…明日はずっと…する?」 「やめられなくなっちゃう」 「お嫁さん…それ…ボクの…セリフだヨ…?」  夫がリクライニングシートのようになって、霞を左右に揺さぶる。心地良さに目を瞑る。意識が飛び、数秒のことだったのか数分のことなのかも分からなかった。 「あなた、ごめんなさい」  彼は微笑みながら首を振った。 「明日は…おうちに…いようヨ…」 「いいの?」 「うん…お嫁さんと…いるだけで…いいんだヨ…?」  手を取られ、掌を合わせると指が絡んだ。ダウンライトで夕方の空を映したみたいな深みと浅みの共存した虹彩が霞を凝らす。 「このまま…目…離したら…ダメだヨ…?今ネ…セックス…してるの…」  口の中が熱くなる。夫がいる時にしか着ないネグリジェと肌の間が汗ばむ。下腹部が重くなった。 「キス、したい」 「ダメだヨ…我慢…できなくなっちゃうヨ」  目を逸らせない。夫の頬に空いた手を伸ばす。上体を浮かせる。双つの琥珀から目を離せず、唇の位置を把握出来なかった。だが夫の肌ならどこでもいい。 「あなた…」 「誘わないでヨ…ダメ。お嫁さんのコト…ちゃんと…休ませたいの」  触れる前に突き放される。その優しさがさらに欲求を嬲る。意識が遠退き、視界が朦朧とした。 「霞はキスでイっちゃうだろ」  目蓋が重くなる。身体が浮き、柔らかな布を掛けられる。口腔の寂しさと肉体の切望を満たされ、五感を失う。 ◇ [霞さん]  端末が軽快な音を立てた。メッセージが待受画面に表示される。メッセージの開示を相手に知られてしまう機能が備わっているため中身を開かず液晶画面を裏返した。 「お嫁さん…」  枕に顔を埋めている夫が隣で呼んだ。寝言らしく舌ったらずで、霞はシーツの上で何か探している手を握った。枕から顔が持ち上がる。 「お嫁しゃん…ここにいた…」  布団が山を作って蠢いた。布団を捲ると尻尾が千切れそうなほど左右に揺れた。 「おはよう」 「おはよ…お嫁しゃん…」  端末がまた軽快に鳴る。 「アラーム…」  目覚まし時計と勘違いした夫の手が端末に伸び、霞は阻んだ。 「お嫁しゃ…もう、()っきっき…?」 「うん。あなたはまだ寝ていて。朝ご飯作るから」  端末を夫から遠避ける。彼は耳をぴこん、ぴこんと跳ねさせた。 [会いたいです]  画面に表示されたメッセージが見えてしまう。おそらくあの同僚だろう。ダイニングテーブルに端末を置いて冷蔵庫を眺めた。4枚切りの食パンとベーコン、卵、ソーセージがある。また何度か端末がメッセージが来たことを告げる。穏やかで真面目な同僚にしては短気で、昨日の出来事が何か彼を刺激してしまったものらしかった。卵を掻き混ぜていると端末はとうとう断続的に振動を始めた。無視をしたまま3種同時に焼けるフライパンへ卵液やベーコンなどを乗せた。 「お嫁さん…?電話来てるヨ…?いいの?」  尻尾を揺らしながら夫が端末のすぐ傍に立っている。 「うん。どうせ会社のことだと思うし…今日は休みなんだから…」 「ふぅん…そっか…お嫁さん…忙しいネ」  アパートのすぐ裏は雑木林で、鳥の囀りがよく聞こえた。不穏なバイブレーションはまだ消えない。夫が並べる皿に響く。 「ゴミ捨てに行ってくるね。火、見ていてくれる?先に食べていてもいいから」 「ボクが行くヨ…もう纏めてあるの…?」  霞は空瓶や空缶やペットボトルが入った透明なゴミ袋を夫へ渡す。 「ごめんなさい。寝惚けてない?階段気を付けてね」 「うん…行ってくるネ!」  テーブルを唸らせるバイブレーションはまた始まっている。台所横の玄関扉に夫が消えていく。端末の画面を確認する。淡藤からだった。拒否した。待受画面へ戻る。またメッセージを受けた。[苦しい][帰ってきて。][蕎麦煮い][声機器たあ][やぱり何でもないですん]。テキストが表示される。弱っているらしき内容に驚き、履歴から電話をかける。夫が帰ってきてしまう。2部屋奥から聞こえるはずの鉄板の音に耳を澄ませた。片手で朝飯を作りながら応答を待つ。コールが途切れ、相手が電話に応じたらしかった。 「淡藤さん?」 『…霞さん…』  嗄れた声は一瞬誰のものだか分からなかった。 「何…?どうしたの?」 『霞さん…』  階段の音が聞こえる。 『霞さん…ごめんなさい。旦那さんと一緒に過ご-』  玄関扉が開くと同時に通話を切った。 「ただいま~」 「お帰りなさい。ありがとう。もう出来るからね」 「うん!」  夫は手を洗いに風呂場へ向かう。 [行くから玄関だけ開けておいて]  素速く打ち込み、何事もなかったようにテーブルへ端末を置く。夫にどう説明しようか迷った。皿にフライパンで焼いた物を盛っていく。端末に気を取られ、パンをトーストしていないことに気付いた。夫がすでに向かってきている。 「ごめんなさい、あなた。パンを焼くの、忘れてしまって…」 「そうなの…?忙しいから…仕方ないヨ…ボクがやるから…座ってて?」  彼はへにゃりと笑って食パンの袋を解いた。トーストの摘みが回る。夫のひとつひとつの挙動が恐ろしく感じられた。どう話を切り出していいか分からなかった。対面に夫が座る。 「今日は…早く…起きられたし…何しよっか?」  耳がぴんっと張っている。機嫌が良い。 「あなた…」 「お嫁さん…近くの神社で…(いち)があるんだって…さっきネ…貼紙みたの」  夫は目を輝かせた。そこに行くのだろうか。それとも違う男のもとに行くのか。少し先の未来はまったく見当もつかない。 「じゃ、じゃあ…そこに行こうか?」 「うん…露店あったら…新しい指輪…買お…?またちょっとネ…稼いできたの…もうちょっといいやつ…買おうと思ったけど…また貯めたらいいネ」  トースターが鳴った。霞は俯いてしまう。夫は嬉々として皿にトーストを乗せテーブルに置いた。味も感じられず、会話もろくに聞いていられなかった。言葉を考えながら食器を洗い、結局夫に切り出せないまま出掛ける支度にかかった。淡藤にやはり行けそうにないと送るべきか迷い、暗い気分に反した色の豪奢なランジェリーに手を伸ばす。夫はリビングで着替えているはずだった。 「霞…他の男に会うのにこの下着はいただけないな?」  腰骨を揺るがすような低い声がした。 「お嫁さぁん…」  真後ろで聞こえ、胸を隠す。 「やっぱり…お仕事の用事…何かあるんでしょ…?行ってきなヨ…!」  夫は無邪気な顔をして首を傾げた。 「すぐ気付かなくて…ごめんネぇ……大事なコト…だったんでしょ?」 「どうしたの、急に…」 「だって…さっきから…ボクの話…聞いてないんだもん…夜に…いっぱい…遊ぼ…?」
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