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第6話

 部屋の一角だけ電気を点け、同僚は書類を纏めていた。薄暗いオフィスを覗く。気付かれないようにその熱心な姿勢を眺めた。帰りが遅くなれば夫が心配するだろう。 「コーヒー淹れましょうか」  後姿に話し掛ける。 「もうすぐ終わりますので」  彼は資料とディスプレイを見比べながら上げずに答えたが、ふと作業をやめ目を見開いて霞の姿を認めた。 「まだ帰ってなかったんですね」 「少し話したいことがあって」 「俺に…ですか?」  無防備な表情で見上げられる。まだこれから何をされるのかも知らずに、あどけない目を丸くしている。性格はまったく違うが夫と少し重なった。 「そうです」 「すぐ終わらせます」 「焦らないでください」  同僚は照れるような笑みを浮かべた。 「終わったら連絡をください。屋上にいます」 「はい。冷えるようなので気を付けてください」  誰かに見られでもしたら彼にまで不倫の疑惑がかかる。他の階にも残業している者がいないとは限らなかった。面倒だったがエレベーターに乗り込む。屋上庭園に出た途端、先程言われたとおり冷たい風が吹いた。 「ここで逢引ですか」  中性的な声が暗い視界で聞こえ肩を震わせた。 「不倫は個人の自由ですが社内の空気を悪くするのはやめてください」  すれ違うようにあまり背丈の変わらない赤毛がエレベーターに乗った。意味が分からないでいたが、セラミックの植え込みで作られた背の低い迷路のような通路を辿っているとテラスのようになっているガラス張りの休憩室に人影があった。ガラスは遠くの夜景を反射し内部はよく見えなかったがそれが淡藤だと気付いてしまった。顔を伏せ、外の花壇の淵に腰を下ろす。休憩所の扉が開き、身構えた。部長の忠言の意味を理解した。ここで会う約束をしているとでも思われたらしかった。相手まで割れている。 「霞さん」  よく櫛の通された髪が冷えた風に遊ぶ。 「ここ、会社…だから…」 「私も貴方もここの社員です。何も後ろめたいことはないです」  淡々と彼は答える。隣に座られてしまうと言葉ではもう拒めず、1人分空間を作る。 「わたしには、あるんです」 「ここでは先輩後輩です」 「周りはそうは思っていません!」  思わず叫んだ。風は冷たく、月は高い。 「タクシー代を返して、もう終わりましょう?」 「いやです。タクシー代を受け取ったらそこで終わるのなら」  1人分の隙間など容易に埋められ、淡藤の腕に抱き寄せられる。 「先輩と後輩なら、こんなことしません…」 「したいです」  冷たい風が吹き荒ぶ。他人の体温が心地良い。 「もう終わりたいんです。これ以上夫を裏切れない」 「今夜だめですか」 「夫が帰ってきていますから…」  抱き寄せる腕が強くなる。突き飛ばそうと思えば突き飛ばせる。拒もうと思えば拒める。だが腕に鎖が巻かれたように淡藤を遠去けられなかった。 「なら、今だけでも」 「ここは会社です」 「夜が隠してくれます」  端末が鳴った。伸ばした手を止められる。冷めた顔からは想像出来ないほど熱い手をしていた。 「行かないと」 「旦那さんですか」 「同僚」 「じゃあ、いやです」  端末が震えている。懐炉(かいろ)代わりにすらなりそうな手は霞の手をがっちりと掴んでジャケットのポケットまで届かなかった。 「行かないとなんです」 「まだ貴方といたい」 「そんな関係じゃないって言ったばかりでしょう?」 「このままの、ありのままが私たちの関係です」  熱が馴染んでいく。冷たい風が頬を撫ぜ、髪を揺らした。耳元で聞こえる声に力が入らない。 「…困らせないで」 「困ってください」 「じゃあ、エレベーターまで…エレベーターまで一緒に…」  ポケットに伸ばした手に重なる熱圧が高まる。抱擁も強まった。 「霞さん」  夫の声に眼球を落とすほど目を瞠った。ポケットの振動が止まる。淡藤が同僚の名を口にした。そもそも夫はここに来ない。そして霞を殆ど名で呼ぶことはない。冷たい風が吹き、同僚の焦茶の髪が闇に溶け、白く跳ねる猫っ毛がそよいだ。静寂。背に回っていた片腕が両腕になる。 「放して…」 「行かせません」 「彼に用があるんです」 「行かないで」  立ち上がろうとするが淡藤がそれを阻んだ。冷淡な顔は思い詰めたような儚さを帯びていた。 「霞さん」  夫に似た声に呼ばれている。腕を自ら外しにいけば、拘束は呆気なく落ちていく。 「ごめんなさい」  淡藤から離れると温まった身体が急激に冷えていった。年下の寂しい男を暗い寒空に独り残し、端末を垂らしながら茫然と立っている同僚の傍に行く。 「不倫相手ってもしかして…」 「行きましょう」  彼は淡藤を気にした。エレベーターまで引っ張らなければならないほど、淡藤の姿に驚愕していた。 「まさか…既婚者に、そんな……後輩なんです、結構付き合いも、長くて…まさか…不倫していたなんて」 「不倫している人間は人格も経歴もすべてが否定されなきゃならないの?」 「分かりません…違うのかも知れませんが、すぐに否定できないのも、今の本音です」  給湯室に連れ込む。人の好い彼は積極的に茶を淹れようとして隙を見せる。霞は天井から生えた監視カメラを見上げた。同僚を壁に押し付け、胸元に迫った。 「どうしました?やはりあまり体調が優れませんか?」  一度背に触れ、弾かれたように離れていく。 「霞さん…?」 「婚約おめでとうございます。これで貴方の呪縛めいた視線から解放されるのかと思うと清々します」  淡いブルーのシャツの胸元を開けた。 「霞さ…っ!」  胸や腹を撫でながらスラックスに手を掛ける。 「不倫、不倫、不倫というけれど、そんな簡単に事が運ぶなら既婚者で、遊ぶなんてやめたらよかったんです。お酒の力を借りて揶揄うのは楽しかったですか。つまらない反応しかできなかったことは悪いと思っています」  夫にもやり慣れていないが、男性の股間にある膨らみを撫で摩る。掌で往復すると感触が変わってくる。 「ちょ…っと、何を言って…」 「尤も、お酒の席でしたから本気にしてはいませんでしたが…既婚者に言い寄って、わたしが頷いたら冗談でも貴方だって不倫に片足を突っ込んでいたんです」  スラックス越しの膨らみの向こうが硬くなっていく。霞はそれらしいことを言って上目遣いに長く濃い睫毛の奥で揺らめく焦茶の双眸を捉えた。 「覚えてないんでしょうね」 「覚え…てま、す…っ!」  スラックスのホックを外し、焦らしながらファスナーを下ろす。 「で…すが、冗談の…つもりなんてッ」  彼の大腿に置いた腕を押さえられるが抵抗は弱い。ボクサーパンツのゴムに指を引っ掛けて捲った。パンツの種類まで夫と好みが似通っている。 「後日謝ってくださいましたものね」  眼前に現れた夫以外の膨張に霞は唇を噛んだ。夫ではない人のものを目の前にするのは初めてだった。淡藤とはただ下半身を合わせるだけで、自ら何かしようとしたことはない。しようという発想すらなかった。 「そう、ではなくて…あの、」  捲ったバンドのようなゴム部分を引っ張られ、しまわれる前に霞は半分ほど勢いづいてる肉塊に舌を這わせ、口腔に迎えた。 「霞さ…っ、ぁ、」  ボクサーパンツを押さえる手が戦慄いている。口の中で質量を増し、大きさは夫とそう変わらない感じがあった。他人に施す経験はそうないため、夫にしていたものが通じるのかは分からなかった。 「霞さ…ん、駄目です!霞さん…っ」  肩を押す力は抜けていた。まるで触ることを躊躇う汚物を除けるような感じがあった。硬くなっていく口の中のものを扱いていく。早く終わらせたかった。夫の好きな窪みに舌を添えた。夫に似たくぐもった声が降ってくる。髪を耳に掛け、喉奥で締める。先端部から滲む知った味。自宅のベッド。ふさふさした尾が河原に吊られた鯉幟のように揺れ、耳が外を向いて伏せる。腿に置いた手を汗ばんだ指に包まれ、息苦しさに朧になる意識を繋ぎ留める。熱いココアを飲み干したみたいな感覚に浸り、触れたところから性感帯が拓かれていくような。 「霞さん…っ!」  撫でるように前髪に入った指の触れ方に錯覚する。習慣のとおりに顔を上げてしまった。悩ましげに眉根を寄せた繊細な顔で焦茶が光っている。秋の山で眺めた黄葉に似た耳はない。ベッドはない。誘うように踊る尻尾はない。何よりそこに夫はいない。 「どうしたんですか…?今の貴女は…自棄になっているように感じます」  昂りを黒い布に隠し、彼は膝を付いてただただ優しさだけを纏う手で硬直した霞を支えた。 「俺のたった一言が、そんなに貴女に打撃を与えていたなんて…すみせんでした。でもその反面、嬉しいです。俺の言葉が貴女に届いているなんて信じられない…たとえ貴女に軽蔑されようと、貴女の中に残っていられるのなら…」  シャツが軽く撓む鳩尾に力の入らない拳で殴った。ウサギでも怯まないような威力で、撫でているとさえ思うようなほど弱いものだった。肘が弛緩し落ちる前に拾われる。 「何か追い込まれているんですか」  夫に似た手付きで包まれ、振り払う。駄々っ子に困惑しているような、どうすべきか考えあぐねているような目で彼は霞を見つめる。 「貴方には関係ないことです」 「関係なくないでしょう。数分前から」  襲った相手にも彼は穏やかな態度を崩さない。日常会話をしているのとそう変わらない調子で、その柔軟さは霞にとって知り得ない父や兄を想見させた。 「お願いがあるんです」 「内容によりますよ。無責任に肯けないこともありますからね」  霞が口を開いたことにいくらか安堵を示す。スラックスはまだ蛹のままだった。 「わたしを意識から消してください。ただの同僚になりたいんです。出来れば、もっと他人に近く」  思い上がりの甚だしい要求を自身の声で聞くと痛々しく惨めな心地になった。 「そんなの…無理に決まっています。婚約している今でも、まだ貴女を…いいえ…もう、言いません。俺が不倫を嫌悪している理由はひとつです。俺は俺が怖いんです。結婚しても気持ちは変わらないままなんじゃないかって。それでまた行動を起こして、貴女を傷付けてしまう」  霞は残酷な男を突き飛ばす。受身も取れないほど相手は油断していた。 「霞さッ…ぁう、」  唇に噛み付く。夫と同じ息の抜け方にうんざりした。毛先が傷んで明るい髪を鷲掴む。ここに大きな耳があるはずだった。その裏に触れると擽ったがり、反射で動く耳に頬を(はた)かれてしまうのが好きだった。しかしこの者にはない。シャンプーが薫る獣の耳を甘食んだりするのも好きだった。だがやはりその者にはなかった。夫にしかなかった。 「ん…っん、ふ、ぁ、あ…」 「…っ、」  下に敷いた唇を抉じ開け、濡れた口腔の筋肉を差し込んだ。夫の息遣いにくらくらする。腰が鈍く重い。早く会いたい。帰れば待っていてくれるはずだというのに。脂肪の少ない身体の上で小さく身を捩った。びくりと男が動く。舌を絡ませようとするが相手は応じない。舌先同士がわずかに窺うようにぶつかり、すれ違う。唇が境界を共有し蕩けて舌遣いを気にする余裕などなかった。思考と感覚は瀞んで、痺れを伴った甘さが(さざなみ)と化して霞を呑んだ。脚や背を撫でる尾はない。ぎこちなく、どちらからともなく縺れ、絡み、擦れ合い、根元から(こそ)ぎ取られていく。頭が疼いた。しかし頭痛とは違う。腰の奥に芯ができ、重い。胸に置いたままの手に結ばれている想い人の体温が重なった。だが愛しい人ではないと濡れ損じた理性が訴えている。 「んっんんっ、く、ん…」  重なった手に入っていく力が夫ではないはずの夫の快感を教え、それだけで官能が突き抜ける。身体中が汗ばんだ。張りを持ってしまった胸を押し付ける。下着もブラウスも、夫のシャツも、肌すらが邪魔で、夫の手を探す。躊躇いがちに絡んだ指を捕まえ、胸に押し当てる。暴走している鼓動を聞いて欲しい。或いは相手に連なっているのかもしれない。痛いほどのリズムがむしろ気持ち良かった。堪らなく好きで、何故これ以上繋がれないのかと怒りにまで及ぶ。 「…っん、く、」  夫の声にさらなる快楽を炙られた。動いたため力んだ四肢から関節を奪われ、感覚は口腔だけしか残らなくなった。溶けて死んでしまう。すべて夫の組織に同化して消えてしまう。激しい悦びに胸が破裂しそうだった。 「んっぁっぁ、んんッ!」  腰が引き攣った。肉体的なものより深く広い凄まじい快感と切なさが氾濫し、夫ではない夫の身体に乗って身悶えり。何も脱がずどこも触られもしないまま、絶頂を迎える。背筋が弓形に反ったため唇が離れてしまう。蜜が溢れ、まだ繋がりを持っていた銀糸はぷつりと切れて互いの顎に滴る。夫とは違う色味の双眸が潤みを帯びて馬乗りになっている霞を縛り付ける。喉を鳴らしてまだ口の中にある夫の蜜を嚥下する。火照りが冷めるまで潤んだ瞳と結ばれていた。それは彼等にとって意地でも自失でもなく、自然だった。霞の頭が冴えるまでどちらにも何の疑問も違和感もないようだった。 「憎いです。貴女が」  ショコラグレーの目は凪いでいる。夫より落ち着いた喋り方で、夫なら使わない言葉を、琥珀色とは違う眸子で彼は言った。「意識するな、なんて、無理です」  頭に血が昇る。手が上がった。しかし掌は乾いた音を立てなかった。甘苦い眼差しはもう人為的に拭えるようなものではなかった。盲信に似た危うさの籠もった宗教家(さなが)らに罰とは到底いえない怒りを待っている。狂気だ。霞は悲鳴を上げるにも喉が強張り、ただ恐ろしい男から逃げた。荷物を引っ手繰るように取ると、自宅に電話を掛ける。夫は端末を持ち歩かず充電もしなければ気にも留めない。出て、出て、と震える声で懇願していた。すぐに来たエレベーターに飛び乗り、夫の声を待つ。人気のないエントランスに出た頃に電話は切れた。腕を引かれ、唇を奪われる。
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