4 / 12

第4話

◇  インターフォンが鳴りドアを開けた夫が後退って突然ドアの奥にいる人物に殴り掛かった。霞はびっくりして朝飯を食べていた手を止める。早起きの夫が作った黄身の潰れた目玉焼きが白く照っていた。温厚な夫の凶暴な姿に寝間着であることも忘れ、外へ飛び出た。 「お嫁さん!下がってて…!」  夫に腕で制される。牙を剥き敵意を隠さない彼の視線の先を辿る。通路の柵に背を打って転倒している黒髪の青年は無感動な双眸をすぐさま霞へと移し、捉えたきり二度と夫のほうを見なかった。 「使い物にならなくなった品々の代わりの物です。着る物になく出社できないのは困るとのことで」  起き上がり手に下げていた紙袋を黒髪の青年は差し出した。夫は霞と秘書の間に割って入る。 「お前…!よくも抜け抜けと…!霞に…謝れ!」  朝から大声で叫ぶ夫の背にしがみついて押さえる。 「あなた、落ち着いて!」  秘書は無表情のまま霞を見つめたまま、差し出す手を下げることはない。 「余計な気を遣わなくて、結構です。お引取りください。今日出社するくらいの衣装はあります。お引取りください」 「受け取っていただかねば帰れません」 「お前…!ボクの嫁に…何するつもりダっ!」  霞の腕の中で夫は暴れた。心地良い朝日が射す住宅地に怒鳴り声が響いた。 「やめて、あなた!わたしは大丈夫だから!」  隣の玄関が開く音がした。苦情だと直感し、隣人を思い浮かべた途端に背筋が凍る。 「騒々しいです」  赤毛の部長が顔を出す。気怠げな服装で小柄な部長は秘書の元にやって来た。 「私が一度受け取ります。近所迷惑になるのでお帰りください」  秘書はただ霞を見ていたが、黒々とした睫毛を伏せた。 「分かりました」  毛を逆立てる夫を台所にしまい、霞は会社でまた顔を合わさなければならない相手へ礼を言った。すでに秘書の姿はなかった。 「申し訳ございません」  紙袋を受け取り、頭を下げる。 「いいえ」  童顔の中年は霞を一瞥し、短く返事をして帰っていく。彼女は溜息を吐いて部屋に戻った。ダイニングテーブルセットのイスに座って拗ねている夫は霞の手に提げられている紙袋に目を留めると唇を尖らせた。丸みを帯びつつも尖った猫とも犬ともいえないような耳が垂れている。 「ボク…間違ってないもん…」  何かを肯定してしまうと、そこに付随する他の何かまで不本意に肯定してしまうような気がして霞は目を逸らした。すっかり食欲を失ってしまったが、、夫がわざわざ早起きをしてまで作った目玉焼きを平らげる。 「お嫁さんから…あいつの匂い…したんだもん…」 「だからっていきなり殴ったりしたらだめでしょう?逮捕されたら、一緒に住めなくなっちゃうよ」 「でも…お嫁さんのコト…殴ったの…あいつでしょ…?」  完全にいじけた少年と化した夫はぷらぷらと足を揺らし、俯いていた。 「あなた、ありがとう。あなたの手は痛くないの?」 「痛くない…お嫁さんの顔のほうが…絶対…絶対…痛いもん…」  食事を中断する。夫の元に近付けば、夫は少し怯えた顔をした。 「ありがとう、あなた。ありがとう」  黄金色に近い明るい茶髪と大きな三角形に近い耳を抱き締める。ぴんっ、ぴんっと耳が動いた。 「お嫁さん…ごめんネ。お嫁さんのコト…守りたかったのに…ごめんネ…」  垂れてしまう耳の裏を撫でた。ふさふさの毛が心地良い。 「ううん。守ってくれてありがとう」  言えば言うほど、夫が好きで苦しくなる。夫が好きだと思うほど募っていく意識が鉛と化して腹奥に溜まる。 「会社まで…送っていっても…いい…?」 「うん。でもあなたはいいの?随分早起きだったみたいだけれどもう眠くない?」 「まだ…お嫁さんと…居たいから…」  長い睫毛が少し眠そうだった。 「ボクが…薬指に…嵌ったら…いいのにネ」  繋いだ手を揺らしながら夫は言った。高く聳える会社のビルを見上げ、彼は溜息を吐いた。耳がぴこぴこと動いて、バターキャンディのような目が据わる。 「おはようございます」  目の前を通った青年が霞に挨拶した。形の良い額が綺麗に櫛の通った前髪が靡くたび引き立った。彼はただ知り合いがいたから挨拶をしたという具合で、目を合わせることもなく、挨拶を返す隙も与えずエントランスに向かっていった。挨拶を返そうとした瞬間に夫の手の力が強くなった。 「行ってらっしゃいネ…ご飯作って…待ってるネ…」  尾を揺らしながら夫は手を振った。 「うん。行ってくる。いい子にしててね」  大きな三角形の耳がぴんぴんと跳ねた。エントランスに入るまで何度も振り返って、手を振った。夫が帰っていくのを見て、エレベーターに乗り込む。早い出社でエレベーターの中には誰もいなかったが、閉まる前に先程会ったばかりの姿がエレベーターに乗り込んだ。 「淡藤さん。おはようございます。昨日のタクシー代です。ありがとうございました」 「気にしなくても良かったのですよ。引き留めてしまったのはこちらです」 「そういうわけにも行きません」  切長の目が掬い上げるように霞を見つめた。エレベーターのアナウンスが流れる。淡藤に腕を引かれ、唇が重なった。時間の流れが遅くなる。夢の中で泥沼を走っているような感覚だった。気付けば彼の背中は閉じていくドアの向こうで、霞の手にはタクシー代の入った淡い色味の封筒が残されていた。柔らかな余韻から覚めないままエレベーターは上へと向かう。 ◇  まだ人が疎らなオフィスに早い朝の清々しさはなかった。重苦しい感じが漂い、快活な挨拶が飛んでくることもなかった。理由はすぐに分かった。 「霞くん」  霞の席で椅子をぐるぐる回している麗かな姿があった。双眸が煌めき、彼女を認める。 「良かった、心配したよ。今日来られないんじゃないかってさ」 「おはようございます。ご心配をお掛けしました」  挨拶だけしてオフィスを出た。まだ開始まで時間がある。逃げるようにエレベーターに乗り込みボタンを押す。社員食堂は開いていない時間で、屋上庭園に向かう。白を基調としたデザインで芝生が植えられ、ウッドデッキのような雰囲気が気分を落ち着かせる。日当たりのよくない北側の隅にはスペースを埋めるかのように喫煙所があった。荷物も置けないまま白いセラミックの花壇に座る。朝の空をぼうっと眺めるのが好きだった。あまり他の社員と群れるのが得意ではなかった。可愛い後輩や活発な先輩という仲の良い関係にある者もいたが部署が違うと交友関係にもすれ違いが生じ、会えば挨拶を交わし雑談もするが自ら接触を図るというほどの関わり方でもなかった。暗い、接しづらい、おとなしすぎると一部で言われていた。人望のあった叔父の死もいくらか腫れ物扱いの要因だろう。  足音もなく視界の端で揺れた陰に気付き顔を上げた。真っ黒な目が双つ並び、霞を見つめていた。 「おはようございます。今朝は夫が申し訳ございませんでした」  秘書はまったくの無表情で霞の目の前にやってくる。眼球だけが生きているという感じで、無感動なくせただ真っ直ぐに霞を射抜いている。何も喋らず、何も悟らせない。ただそこに突っ立っているというだけにも思えたが、その眼差しは何か用事があるようにも思えた。 「あの…」  濡れた眼はただただ一直線に霞を射し、彼女は押し負け目を逸らした。 「いいえ…何でもありません」  何を言っても無駄だ。おそらく彼は決まった相手と決まったパターンでしか会話が出来ないのだ。高を括って話をやめる。顔ごと逸らして一皮一皮剥いでいくのも同然なほど遠慮のない視線から逃げた。冷たく薄い両手が肩に触れた。どういうつもりかと顔を上げる。煙草の香りが微風の如く漂って、エレベーターで残された感触を書き換えられる。柔らかな質感はあるがどこかまだ芯のあるぎこちない反発。伏せられた長く黒い睫毛の奥にある黒曜石はやはり何も語らなかった。 「頭から出て行ってください」  真っ黒な瞳は瞬くだけで、それはカメラのシャッターにも似ていた。 「私の頭から出て行ってください」  秘書はまた音声ガイドよりも無機質に言った。 「なに、言って…」  唇が再び重なった。押し当てるばかりの他意のない粘膜のぶつかり合いといったもので嫌悪や拒否すら忘れていた。 「貴方に呪われている」  黒い目は冗談を言っていなかった。落ち着いてはいるものの正気ではない物言いはもし彼に『実は最新鋭のロボットである』という噂がなければ恐怖を感じていた。 「貴女から許されたい」  淡い色味の小さな唇が動いた。肩に置かれた手に力が入り、口付けは続く。高品質なシリコン素材で、伝熱機能まで人間そっくりだった。煙草の香りが鼻を擽る。抵抗も忘れ、されるがままだった。 「何しているんですか」  棘を帯びた声は、すでに何をしているのか分かりきっている感じがあった。夫そっくりな声に霞の身体が跳ねる。思わず艶やかな黒髪の持主を突き飛ばしてしまう。ロボットにしてはしなやかな筋肉の質量感が布越しから返ってくる。秘書の青年は音声認識することもなくただ瞳孔に霞を映している。彼女の同僚がやって来てもそれは変わらなかった。 「ここは会社です。それに…」  夫に似た声で夫とは違う焦茶の双眸が霞と秘書の青年を見比べた。 「霞さん。貴女はまだ過ちを重ねるんですか」  身体ごと2人の青年から顔を逸らす。 「彼女に言い寄っているならやめてください。既婚者ですよ」  同僚の矛先が秘書へと移った。秘書は霞を凝視したままで、彼女以外はこの空間に存在していないみたいだった。 「彼女から離れて」 「私を許してください」  同僚の声を無視し、秘書はそう言って去っていった。煙草の匂いが遅れてやってくる。夫の声で夫の代弁者のような同僚と2人きりになると胸が裂けるように痛んだ。 「霞さん…すみません」 「いいえ…」  同僚が傍へやって来る。さらに霞は彼から身を背けた。指輪の消えた左手を右手で抱いた。 「昨日は体調不良だったそうですね。具合はいかがですか」 「別に…良好(ふつう)です」 「そうですか。なら良かったです。くれぐれも無理だけはしないよう」  夫の声がすぐそこから聞こえる。胃の縮むような緊張で今すぐにでも体調不良を起こしそうだった。 「あの…あまり…わたしと、2人でいないほうが…」  シャッター音が鳴る。街中で野良猫を見た時に発生させるその音はカメラだった。 「もう遅いよ。迂闊だな~。こんな人気(ひとけ)のない麗かな場所で、既婚者と婚約者持ちの男女が並んで2人きり…誤解を生まないほうが不思議だよ。てっきりオレはどこの素敵(ベスト)カップルだろうと思ったのに、まっさか君たちだなんて、心の底から祝福できなくて残念だな」  端末を目線に構えたまま役員は朗らかな笑顔を見せた。 「…おはようございます」  入社は3人同時だったが真面目な同僚はすでに役員を上司として認識していた。 「おはよう。いい朝だな。いい朝だよ。これ以上ないくらいにさ」  役員はほくそ笑んだ。 「霞くんさぁ、朝礼の後またあの応接室来てよ。落とし物、預かってるから」 「はい」  満足げに笑い、役員は端末を揺らしてすぐに帰っていった。同僚はいくらか不思議そうな顔で霞を覗いた。 「ごめんなさい、わたしの所為で、貴方まで…」 「いいえ。どうみても俺の所為です」  悪怯れた様子もなく同僚は口にした。 「きちんと役員にはわたしから説明しておきますから」 「そういえば指輪、どうしたんですか」  話題を替えられ、一瞬何の話か分からなかった。左手を握られ反射的に振り払ってしまった。同じタイミングで顔色を窺い、互いにそれを無かったことにする。 「ご婚約しているそうですね。おめでとうございます。気が回らずごめんなさい」  間を埋めるよう取り繕う。同僚は笑みを浮かべて返事をしたが自嘲的だった。夫も自身もまるきり無縁だったがマリッジブルーだろうと霞は踏んだ。相手は取引先の社長令嬢と聞いている。仕事ばかり熱心に打ち込んでいる彼にとって出世間違いなしのコースでさらに独身生活からも抜け出せるのだ。喜ばしくないはずがない。 「貴女は酷い人だ。でも俺はもっと酷い」  穏やかな同僚が刺々しくも弱気な調子でそう言った。夫の幻聴みたいだった。しかし夫に落度など何ひとつとしてない。霞にとって夫が酷かったことなど今までに一度たりともなかった。  朝礼が終わり憂鬱になりながら応接室へ向かった。役員は端末をちらつかせる。 「君にはもう要らないのかと思ってさ。でも捨てるのも勿体ないだろ?」  役員はボールチェーンに通した指輪を霞の前にぶら下げた。 「返してください…」 「うん、返すよ。オレにも要らないものだからね。でもその要求は偽善だな。嵌めてないと夫に合わせる顔がないだけなんじゃないの?指輪って…何のためにあるんだっけ?罪悪感?」  綺麗な形の指に摘まれたボールチェーンが左右に揺れる。 「他の男のブツを下のお口で咥えるの大好きな不倫女がさ、夫に張りぼての(みさお)を立てるわけだ?」  役員はスクリーン代わりの白い壁を見た。テーブルの下の機材に端末を繋いでいた。 「ほら、もっと足掻いて。そうしたら返してあげるよ。跪いて、オレの舐めて?あの時は素気無い態度をとってごめんなさい、他の人と勝手に結婚してごめんなさいって謝ってよ。それでさ、オレ以外のモノ大好きでごめんなさいってさ、言ったら…返すよ」  指輪がボールチェーンに沿って揺れる。夫の声が耳から離れない。ボクのキモチがキミの指輪になるんだヨ。夜中に彼は言った。夫の体温と共に薬指に留まったシルバーは確かに惜しかった。青い空に白い雲が浮かび、眩しい日差しと涼しい風が吹く中を2人並んで出掛けた日に買ったのだ。しかしあの指輪が無くなったからといって夫との思い出は消えるだろうか。相反する意見が彼女の中で(せめ)ぎ合い、霞は唇を噛んで首を振る。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!