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第3話

 カーテンの奥の光で目が覚める。知った部屋ではあったがぼんやりした頭ではすぐに出てこなかった。傍で寝息が聞こえる。布団の中で腹に触れたむず痒さを確認すると目の粗い布らしかった。布団を剥ぎ取る。淡いピンクのベビードールと柔らかな白のショーツ。それと同じクリーム色に近いリボンが胸元に揺れているところからすると揃いのものらしかった。 「起きました?」  さらりと髪が揺れ、真横で突っ伏していた頭が持ち上がる。切長の目が霞を捉えた。淡藤だ。繊細さと精悍さを併せ持った顔がまだいくらか眠気を帯びている。あまり隙を見せない人、という印象があったため霞はその面を凝視してしまった。 「ごめんなさい、わたし…っ」  半裸に近い状態を布団を抱いて隠した。 「いいえ。寒いですか。何か上着を…」 「だ、大丈夫です」  冷徹な美しさのある顔に似合わない穏やか笑みが浮かんだ。 「よかった。よく似合っていますよ。まだきちんと見ていなかったので」 「やっぱり、上着を借りてもいいですか」  淡藤は嘆息し、立ち上がった。調子が狂う。顔に触れると痛みがあった。夢ではない。爪を噛む。歯が爪と肉の間に入った。痛みで溢れはじめた感情を上塗りしなければ、他人の家だというのに発狂してしまいそうだった。左手に指輪がないことに気付く。呼吸が止まった。鈍く光っていた、夫と揃いの指輪が消えている。きちんとした店で買う物よりもいくらでも買い替えられるほど安いが、それでも夫と選び、夫に嵌めてもらった大切な物が薬指にない。視界が揺れる。悪夢のようだ。紛失したのか。髪を掻き乱し、毛束を引っ張る。何故無いのか。どこで落とした。気付かないうちに外れた?溶けて蒸発するような素材ではない。胸が痛い。居ても立っても居られず霞は部屋を飛び出す。 「どうしました」  しかし淡藤の胸板に受け止められる。ふわりと背徳感を植え付ける匂いがした。冷たい顔が傾く。形の良い額に前髪がひらりと落ちる。言葉が纏まらず、説明も出来なかった。そうしているうちに彼女の露出した腕や肩に薄手のフランネルシャツが掛けられる。深い赤のチェック柄で他所の家庭の香りが漂う。突然、彼の前で夫の話が出来なくなった。違う世界に入り込んでしまうような、得体の知れない恐ろしさと不安が目の前にある。夫の話題さえ挙がらなければ、ただの会社の知り合いで済む。そのような脆い選択に縋った。 「なんでも…ない…」 「なんでもないようには見えません」  淡藤は霞の袖を通していないフランネルシャツの前を閉まりそうな所で適当に留める。 「余計、目の毒になってしまいましたね」  苦笑してベッドへと戻される。しかし霞の頭の中は指輪のことばかりで淡藤の声は届いていなかった。夫からの贈物を失くしてしまった。眉を下げて悲しみ、落胆する姿は容易に想像できる。外観に反して幼稚さの残る夫を守りたい、守ると何度も思って誓ったくせ、何ひとつ守れていない。裏切ってさえいる。促されるままベッドに乗った。淡藤も共に乗り上げたことも気付かなかった。 「ああ…もしかして指輪が無い?」  ベッドに置いた左手に彼の左手が乗った。表情に乏しい彼には無表情な素顔か中身に関係はない不機嫌か、不似合いな微笑しかパターンがなかった。そのなかでも惑いながら淡藤は訊ねた。その現実が認められず、霞は肯定出来なかった。夫と揃いの、夫と選び、夫に手を添えられ嵌めた指輪はもう無いのだ。罰だ。夫とはもう居られない。夫といる資格がない。他の男とベッドを共にしている時点で。他の男に素肌を晒した時点で。思考が停止する。夫とはもう会えなくなるのか。 「一大事ですね。探しましょう。貴女を運んできた玄関と、…役員の車ですね。それか、会社か…落とし物の申請を出しておきましょうか。刻印とかされてます?」  淡藤の眼差しが霞の狼狽た瞳に珍しくぶつかったまま喋った。彼女は首を振る。刻印をするような指輪ではなかった。露店で売っているような、他の誰が付けていても不思議ではないありふれたデザインで個性のない、何かの部品と言われても納得してしまいそうなくらいに平凡なシルバーの輪だった。それでも夫と出掛け、夫を選び、夫の手に包まれてそこに佇むことになった物に代わりはない。しかし、それが何か霊的な導きのような気もした。夫を裏切り、さらに数を重ねたことに対する導き。罰だ。 「いい…です。いいです」  覗き込む淡藤を突っ撥ねる。 「心配してくださって、ありがとうございます。でも、いいです…」  すべて打ち明ける。嘘をひとつ吐き、他の隠し事をすべて打ち明ける道が彼女の中で開かれた。 「帰ります。ありがとうございました。これは洗って返しますので…」  淡藤の伸びかけた手を払い、霞は逃げ出す。 「待ってください。下も貸します。そんな格好で外に出たら何をされるか分かりません」  引き留められ、淡藤は冷静に言った。 「来てください。妻のものですが、私の物よりかはサイズが近いかと」  衣装ケースの積まれた部屋に促される。インディゴブルーのジーンズと赤みの強いベルトを差し出された。 「そんな大切な物、借りられません」 「実用的に使われるのが結局のところ、このジーンズの存在意義です」  迷いもなくきっぱりと無愛想な顔で淡藤は言った。 「…では、お言葉に甘えてお借りします」 「部屋の外におりますので」  彼は狭い部屋を出ていった。部屋自体は広かったが、ひとつひとつカバーを掛けられた女性物のスーツや喪服やコート、ドレスの掛けられたハンガーラックやクロゼットやチェストなので場所が埋まっていた。その上にもバッグのブランド名が記された箱が重なっていた。亡妻の陰が色濃く残っていた。ベビードールの上から借りたフランネルシャツとジーンズを身に付ける。ドアを開けた淡藤の目は静かながらも色が変わった。 「貴女はなんでも似合うのですね」  近付き、手が絡む。体温が溶け、他所の生活が薫る。部屋から出たはいいが、廊下に出た途端、綺麗に櫛の通された髪が靡き、薄い唇が近付いた。霞は唇を逸らした。辿り着く場所が遠ざかり、彼女の首筋に柔らかく触れる。 「したいです」 「だめですよ」  指輪の消えた左手に指が絡み、壁に押し付けられる。右手に彼の指輪の感触があった。時間が止まる。飽きもせず彼は掌を合わせたまま切長の瞳でじっと霞の目を覗いていた。 「私はこうして目を合わせてるだけのセックスでもいいのです」 「こんなの、そんなのにはなりません」 「なります。私には」  恥ずかしげもなく言われると、目を逸らしてしまう。 「じゃあ、淡藤さんとはもう目を合わせられませんね」 「それは困ります」  少しも困った様子などなかった。重なっている手が熱くなる。間近にある淡藤の目を見られない。まるで鼻先に同じ極の磁石でもあるみたいだった。 「あの…帰りたいのです」 「指輪、諦めるのですか」 「諦めるんじゃありません。ひとつの結果として受け入れるんです」 「ひとつの結果?」  吐息が首を撫でる。唇が肌を辿った。やめさせようとしても、繋がれた手は力強かった。 「放してください」 「放したくないです」 「帰らないといけないんです」  唇が顎まで登ってきている。壁に背を沿わせ、淡藤の着痩せしているらしいしっかりした胸や腹に挟まれる。 「誰かに殴られましたね。エレベーターで会った時はありませんでした」 「転んだんです。派手に」  口の端の傷に唇が触れた。 「放してください。こういう関係じゃないはずです」 「ではどういう関係なのかお聞きしたいです」  耳朶を噛まれる。身体が熱くなる。 「ただ一緒に寝るだけの関係です。しないなら…帰るんです。今日は、したくないから」 「キスしたいです。だめですか」 「だめです」  淡藤の唇が離れ、霞が正面を向いた隙を突くようにまた近付く。しかし拒絶の言葉に寸前で止まる。手を握る力が強まり、手はもう熱かった。蒸気が出ているのではないかと思うほど響いている。 「指輪はどうするつもりなのです」 「どうもしません。淡藤さんに迷惑はかけませんから、安心してください」 「どうもしないとはどういうことです」  手が火傷しそうだった。淡藤の目と合ってしまう。慌てて逸らした。 「これ以上は…淡藤さんには関係のないことです」 「関係したいです」 「放してください。帰ります。夫が待っているんです。帰らせてください。夫が待っていますから」  顔面を殴られる衝撃が走った。目の前で淡藤は無愛想な顔で首を傾げ、誰も殴ってなどいなかった。夫は家に待ってなどいない。夫は帰ってこない。合わせる顔もなく、指輪も失くした。帰ってきて欲しくて堪らなかった思いがそのまま真っ逆さまになり、帰ってきて欲しくないとすら思った。 「霞さん」  視界が滲む。膝から崩れ落ち、受け止められる。熱された手で顔を覆った。応接室で付けらた痣や腫れ、傷が痛む。喉も引き攣れた。 「霞さん、どうされたのです」 「帰ります。お邪魔しました」 「待ってください。これ。タクシー代です」  逃げようとする霞を捕まえ、淡藤は紙幣を数枚握らせた。 「後日、返します。すみません」  彼の家を出た途端、握り締めた紙幣や足裏で感じるアスファルトの固さに惨めなって、声を殺して泣いた。  鉄板で出来た階段は足音に気を付けていてもよく響いた。階段とは反対側の角部屋で夫と暮らしている。玄関前に何者かが蹲り、霞は困惑しながら様子を窺ったが、彼は夫その人だった。キツネに酷似した小麦色の耳が頭頂部から2つ生え、豊かな柔毛に覆われている。ゆとりのあるジーンズと黒のシャツの間からは巨大な筆のような尻尾が毛先を白くして揺れていた。間違いなく夫だった。 「お嫁さん!」  彼は鼻をくんくんと鳴らしてから飛び上がった。きゃらきゃらした声で、霞に抱き付く。数週間ぶりに会う。彼には放浪癖があり、あまり家にはおらず、留まっても3日4日でまた旅立ってしまう。電子機器も持たないため、連絡手段もなかった。 「あらあら、久しぶり。元気していた?」  「うん…!お嫁さんは…?ちょっと…痩せちゃった?ダメだヨ…!ちゃんと食べなきゃ!」  明るい茶髪を霞の髪に擦り寄せる。 「中、入らないの?」 「鍵…失くしちゃった…」  霞の荷物はおそらくすべて会社に置いたままだった。玄関前に置かれた鉢植えの下から鍵を取り出す。危ないと分かっていながら鍵をよく失くす夫を慮って鉢植えの下に鍵を隠していた。 「ありがと…!」 「前にも言ったでしょう?風邪引いたらどうするの」  霞に抱き付いたまま2人で中へ入った。 「お嫁さん…いつもと…違う匂い。そんな服…持ってたっけ?」  明るい色の瞳がぱちぱちと霞を見て首をこてんと倒した。 「ちょっと汚しちゃって。友達から借りたの」 「そうなの…?お茶…こぼしちゃったとか…?火傷してない…?」  咄嗟に嘘が出た。すべて打ち明ける気で帰ってきた。夫に背を向け、浴室で1人になる。すべて打ち明けるのだ。だが淡藤は巻き込まないように。謝って、謝って、許しを乞うしかない。それでもだめなときは、夫の要求を呑み、背負うしかない。裏切ったのだ。何も言えない。抗えない。 「ねぇ…何その下着…?それにサ…その顔の傷…どうしたの?」  背後から耳元で囁かれる。指輪も…してないし…。霞は目を見張った。金縛りに遭ったかのように身動きひとつ取れない。フランネルシャツとジーンズから現れたベビードールのレースを弄ばれる。 「一体…ボク以外に…誰にこんなスゴい姿…見せるの…?」  振り向けず、心臓の音がうるさかった。 「ちゃんと…靴履かないと…危ないヨ?何が…落ちてるか…分からないもんネ…?」  夫の発達した胸筋が背に当たる。耳朶に夫の唇が掠った。 「この上着…男の人の匂い…するなぁ…」 「あ、なた…」 「お嫁さん…ボク…お嫁さんのコト…だぁいすき…絶対放さないからネ…絶対…絶対…絶対だヨ…?」  両肩に手が乗った。フランネルシャツ越しでも高い体温が伝わった。 「お嫁さん…ちゃんと…温まってネ…?他の男臭いの…ダメだヨ…?」  冷や汗が頬を伝った。金縛りが解け、脱衣所から人の気配が消えた。息苦しい。左手に指輪はなく、口の端には傷が痛む。ベビードールから見覚えのないショーツが透けている。汗と足の裏の汚れと、体液を注がれた中を洗う。自らそこに指を入れることに躊躇いがあった。中には何もない。何も滴り落ちてこない。シャワーに打たれ、肩を震わせる。すべて打ち明けるという意思が折れてしまった。 「お嫁さん…!」  ガラガラと擦りガラスが開いて風呂場に夫が入ってくる。2人では狭い空間だった。 「ボクも…一緒に…入る…」  霞の裸体を抱き締め、夫は無邪気に笑った。彼女は硬直したままタイルの形ばかり見ていた。 「どうしたの…?背中…流して…あげるヨ…!」 「あなた…」 「久しぶりだネぇ…!お嫁さんと…一緒に…お風呂入るの…」  夫の腕に促されるまま座った。背後に彼の気配がある。そして背中の一点に指先が当てられる。ゆっくりと動いていく。 「ネ、なんて書いたか…分かった?」 「だい…す、き…?」 「うん!正解…だヨぉ!」  夫の屈託のない笑い声が風呂場特有の反響をしたが、突然ぴたりと止まった。今度は指でない弾力のあるものが背骨に当てられる。離れてはまた当てられ、下へ向かって刻まれていく。 「あなた…?」 「霞…ボクは、霞が最終的に帰ってくるのなら、どこで道草食ったっていいんだからな?」  腰に腕を回される密着した。夫が夫ではないみたいだった。幻聴に思えたほど何の響きも残さず低い声が消えていった。腹を抱く腕に触れたが、自ら彼に触れるような資格はないような気がして瞬時に離した。 「ごめんネぇ…苦しかった?」  喧しいくらいの調子で夫は腹を締めた腕を引いた。
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