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第1話

 片脚を抱かれ挿入が深まる。吐息に混じり2人分の呻き声や押し殺した声が暗い室内に響いた。汗ばんだ筋肉が密着すると安堵に包まれ、さらに昂った。霞は自分を抱く男に首を曲げる。額を合わせられると膣奥がうねり、包んでいた熱芯の動きが緩められた。知ってはいるが会ったことはない女の名前を呟き、彼はラテックスの中で果てた。 「急に呼び出したりして、すみませんでした」  呼吸を整えながら彼は避妊具を外した。霞は白濁した小さな風船から目を逸らす。切れの長い目とぶつかり、相手は冷淡な印象を受ける端正な顔には似合わない優しげな微笑を浮かべた。 「もう少し、寝ていてください」  彼は照明を点けるとどこかへ消えた。淡藤(あわふじ)という歳下の男と寝るようになったのはつい最近だった。飲み会の終わりにたまたま一緒になった弾みで身体を重ねてしまった。霞は左手に光るシルバーを眺める。夫はあまり家に帰って来ない。寂しさはあったが気持ちが冷めたわけではなかった。しかし裏切っていることに変わりはない。誰もいない室内は寂しく、PCデスクやテレビの横、ラックなどの様々な場所に女性と並んだ写真が飾られていた。彼女はすでに他界している。 「シャワー浴びますか」  明るい中で直視する均整の取れた裸体に霞はびっくりしてまた顔を逸らす。 「はい。貸してください」  夫ではない素肌は何度見ても慣れず、固唾を飲んでゆっくり淡藤を見上げた。 「後から行きます」 「はい」  行為後にシャワーを勧め、結局シャワーの下でまた肌を合わせたり触れ合ったりするのが一連の流れになっていた。 霞はすでに慣れてきたシャワー室へと入っていく。鬱血痕も何もない。夫がいつ帰ってきて、そして求められて応じても上手く隠し通せるだろう。すべて打ち明けてしまおうかとすら思った。しかし淡藤の社会的地位を考えると自ら不貞を懺悔することが出来なくなってしまった。シャワーを浴びながら混ざった汗を落としていく。局部を繋げるだけの行為に口付けや戯れるような愛撫は伴わない。ただ他者の体温による快楽のためで、淡藤はそれに反応するが霞は夫でしか官能の荒波を知らなかった。ガラガラと脱衣所と風呂場を隔てるドアが開き、全裸の淡藤がやってくる。霞は彼を見られず、背を向けた。会話はあるが大体は仕事や職場のことばかりで、話の内容と話す場所が逆転している感じがあった。互いに自分たちの家庭や個人的な趣味や生活については訊かないものがルールだと思い、霞は彼に話を振らなかったし彼もまた元々寡黙ということもありシャワーの音ばかり聞いていた。求められるときだけ応え、黙々とシャワーを浴び、時には向かい合って湯船に浸かった。 「下着、意外に派手なんですね」  だがこの頃、彼の声が頻りに響く。今日もだった。話す時だけ彼は絶対に目を合わせない。それは変わらず、淡藤は霞のいないほうに向けて喋った。まるで透明な第三者がいるかのようだった。 「夫の…シュミです」  ショッキングピンクのサテン生地に黒レースの下着だろう。夫が可愛いと言っていたため買った。まだ本人には見せていない。夫の前では見せられないかも知れない。 「私が言うのも烏滸がましい話ですが、ブラウスから透けているので気を付けてください」  背後から抱き竦められ、共にひとつのシャワーを浴びる。密着しなければ彼に湯が届かないのだ。 「周りに悪影響は与えないようにします…」 「それも半分はありますが…そうではなく」  淡藤の手が霞の腰に回った。密着しなければ、2人でひとつのシャワーは浴びられないのだ。 「すみません。次からは気を付けます」  肯定しておけば終わる話だったのだ。霞は小さく謝った。個人的な会話は認識を誤らせ、夫への裏切りをさらに色濃いものにした。淡藤の手が彼女の腰から離れた。 「白い下着が好きです、と言ったら、付けてきてくれますか」 「…分かりません」  そのまま従ってしまうことに躊躇いが生まれる。 「真ん中に薄いピンクのリボンが付いていたやつ、私はあれが好きです」 「よく見ているんですね」  関係に名を付けるなら霞からすれば不倫であり、彼からすればセックスフレンドに変わりがなかった。霞には夫がいて、淡藤には妻がいたがすでに故人だ。返答をはぐらかす。 「とても似合っていたので」  まるで口説くようなことを恥ずかしげもなく彼は言った。霞は返事をせず湯船に入った。まだ湯は浅い。しかし淡藤の熱から離れられた。 「私が下着を贈ったら、付けてくれますか」 「つけないと思います」  湯船の外から見下ろされる。首や胸や腹、腿に湯の筋が流れていく。少しの間互いに瞳を交わしていたが、突然彼は目を側めた。 「贈ります。サイズをお聞きしてもいいですか」 「教えません」  シャワーがタイルを叩く。淡藤は濡れた髪を掻き上げる。既婚者ではない女性を引っ掛けるだけの器量がある。 「次会う時、ランジェリーショップに行きましょう」  いくらか浮ついている。霞は眉を顰めた。その表情を見ても表情の乏しい彼は首を傾げるだけだった。 「わたしたち、そういう関係じゃないでしょう?」 ◇  オフィシャルから出て廊下の隅にある給湯室へ入る。同僚の刺すような舐めるような目が苦手だった。 「不倫は感心しません」  淡藤以上に無表情で寡黙な知り合いがもう1人いる。小柄で赤毛の、外見は小学校高学年から中学生くらいだが実際は三十路という男で、まだ見た目も実年齢も若いが部長だ。 「分かっています」  大きな目は無表情のまま霞を一瞥する。軽蔑の眼差しが刺さった。彼はそれ以上何も言わず給湯室を出て行く。分かり切っている忠告は朝から2人目で、シンクに凭れ溜息を吐く。淡藤と会うのは終わりにしようと何度決めても、誘われてしまうと断れなかった。しかし夫への罪悪感は確かにある。 「霞さん」  ありがたい忠告をしてくれた1人目が給湯室にやって来る。追ってきたのだろう。 「部長と何かあったんですか」  苦手な同僚だった。長い睫毛の奥の眼差しは気を遣っているようで、その実何か監視しているような不気味さがあった。目が泳いでしまう。 「何もないです」  ただでさえ苦手だというのにこの同僚の声は夫によく似ていた。彼の声で淡藤との関係を口にされ、朝から陰鬱で逃げ場がない。どこへ行っても自身の掘り起こされ、剥き出しの良心が付き纏う。 「霞さん」 「邪魔でしたね。すみません」  水場から退いて狭い給湯室から出ようとしたが、真面目な同僚はふざけるように霞の行手を阻んだ。 「霞さん…朝も言ったのですが…」 「考えておきます!」  撥ね付ける資格がないことは分かっている。しかし聞いていられなかった。横を通り抜けようとしたが華奢なくせしなやかな彼の腕に捕らえられる。 「貴方が変な目で見られるの、俺が嫌なんです」 「放して」 「放したら逃げてしまうくせに」  夫の暫く聞いていない声ばかりに意識がいった。耳元で囁かれてしまうと抵抗できなくなる。吐息が耳朶を掠め、力が抜ける。立ち眩みを起こし、支えられた。彼のシャツに縋り、皺が寄る。 「霞さん…不適切な関係ということは分かっているんですよね」 「はい」 「それなら、俺はもう何も言いません」  この男から冗談にせよ告白されたのは3ヶ月程前だった。酒の席だったため本気とは受け取らず、同僚としての友愛と解釈し礼を言った。翌日に謝られ、本当にただの気紛れやその場の雰囲気の言葉なのだと知ってからどうにも彼を信用できなくなり、接し方が一変した。夫と声やちょっとした仕草が似ていてそもそも苦手だったということもある。 「助かります」  休憩時間が終わりを告げる。資料整理に下に降りねばならずエレベーターに乗るとすぐ下の階で見知った男が乗った。身体を重ねる関係だというのに場所によっては脆くも他人だった。他の人にやるように霞は会釈をする。切長の目の奥の光とぶつかり、彼は眉ひとつ動かず、霞の後方隅に立った。向かうところは同じくエントランス1階のようで彼はフロアボタンを押さなかった。目的の階に着き、エレベーターのドアが開くの待つ。無防備な手に他人の熱が触れた。ドアが開き、別々の方向へ歩く。 「霞くぅん」  受付脇の資料室に入る途中で呼び止められる。背中に蛇が入り込んだような気味の悪い話し方で、霞は一瞬にして冷や汗をかいた。 「ちょっと話あるからさ、いい?第3応接室で待ってるね?」  姿を確認する間もなく話は終わる。一族経営で、霞と同い年でありながらもう少しで専務取締役、ゆくゆくは社長になることが約束されている麗かな男の背をちらりと窺った。まるで背中に目があるみたいに彼も同じタイミングで振り向いた。ダイヤモンドが埋め込まれたような輝かしい双眸が見え、霞は一直線に繋がった視線を断ち切った。夫と結婚する前に、あの男に一度身体を暴かれている。激しい嫌悪に吐気がした。当初の目的は果たされることなく、エレベーターに乗り第3応接室へ上がった。最上階で、社長室と同じ並びにある。2人きりになるのではないかと恐ろしくなりながら、慎重に指定された部屋に向かう。 「早かったね。先に資料整理に入ってからでもよかったんだけど、オレに会いたかったのかな」  麗かな顔に柔和な笑みが浮かんだが、霞には陰険なものにしか感じられなかった。彼の後方には秘書の青年が立っていた。その者はロボットなのではないかと噂されているほど表情がなく、作り物のように艶やかな黒髪で、その真っ黒な瞳はこの陰湿な役員としか会話を交わさなかった。 「君のことは結構気に入っているんだけどさぁ、聞いちゃって。いや、見ちゃった…っていうのかな。旦那さん、居るんだよね?それで、不倫相手もいるんでしょ?他にもなんか男いるわけ?」  彼は傍の秘書に目で合図した。応接室に下ろされているスクリーンに給湯室で抱擁されている霞と同僚の映像が映された。 「いや~びっくりしたね。このままおっ始めちゃったらどうしようかと思ったよ~。声は聞き取れないんだけど、これ、どういうこと?相手側、婚約者いるの知ってる?まぁ、オレが薦めたんだけど。まずいなぁ~。会社の風紀が君ひとりで乱れまくりだ?」  役員はにやにやと笑みを浮かべ、手を組み直す。 「…申し訳、ございません」  彼は自身の座っているソファーの真横を叩いた。霞はそこを見たが、立ったまま頭を下げ続ける。 「いやいや、君が謝ることじゃないよ~。どう見ても相手側から君のこと触っちゃってるよね?まっずいな~。彼の婚約者さ、うちの大事な取引先の社長令嬢なんだよね~。ヤバくない?」 「大変なご迷惑を、お掛けしました」 「違う、違う。別に迷惑なんて掛かってないよ。ただ家庭ぶっ壊されるってどういう気持ちか分かる?この会社、オレの家庭みたいなものじゃん?ああ、君は不倫してるんだっけ、分かるわけないか。家庭がぶっ壊されたらどんな気持ちか…」  役員は朗らかな笑顔で霞を舐めるように見つめた。 「オレも彼も君のことが好きで、彼のほうが君の傍にいたからね、牽制してたのに残念だな。オレか、彼か。どっちかだと思ってたけど、君の亡くなった叔父さんも意地が悪いな。君はヒモ男みたいなのがタイプだって言ってくれたらよかったのに。紹介したよ?ここの社員じゃなくても提携に下請け、人材は豊富なんだし?」  別の部署で主任、主任と呼ばれていた叔父は昨年に病没した。  何を求めているのか分からなかった。下手を打てば泥沼に引き摺り込まれる。役員はそういう男だった。綺麗な女性を侍らせて社交界に出入りしているくせ、何故自分のような地味な女に固執するのか霞には分からなかった。社内の不倫を根絶するというのならば他にも時間を割くべき例があるはずだ。 「言って聞くならオレのこと愉しませるだけで許してあげるよ。オレが黙っておけばいいんだし。言っても聞かない、オレを愉しませるなんて絶対嫌っていうなら黙っておいてあげるけど…そうだな」  役員は秘書に目配せする。秘書は頷いた。彼は「やる?」と訊ねた。秘書は表情筋のない顔で「指示ならば」と短く答えた。 「君さ、痛いの好き?暴力とか慣れてなさそうだけど、人なんて分からないもんだしさ。叔父さんは君に護身術とか教えてくれてたかな。気が変わったらいつでも言ってよ、止めさせるから」  役員は呑気に笑って秘書へと手で合図し、鼻歌混じりにスクリーンに映っている女の動向を追跡していた。エレベーターに乗り、男とエントランスを出る。そこまでで、近くに来ていた秘書に気付いた。煙草の渋い香りが、まだ若く、服装さえ変われば大学生と見紛う容貌に似合わない。漆黒の瞳と目が合った途端にフリルの付いたブラウスの胸倉を掴まれる。拳が横面を張り、霞の身体は大きく傾いた。壁に背中を強かに打つ。 「撲殺しないでね。あと変形するほど殴らないこと。その子の顔好きだから。あとジャケットくらい脱がせてあげな」 「承知しました」  切れた唇の端から垂れる血を拭う。立ち上がる間もなく、ジャケットを乱雑に剥ぎ取られる。再び胸倉を掴まれ、立たされた。 「あの叔父上もさっさと君を差し出せば、もっと昇進したでしょうに。まだ未練がましく君に言い寄ってる彼の婚約者の父親を見習って欲しいね。仕事しか生き甲斐も取柄も無さそうなつまらない男に自分の娘差し出すんだよ?まったく、いつの時代かって話」  血で小花の咲いたブラウスの前を引き裂かれ、ボタンが飛び散り、キャミソールとその下のブラジャーが透けた。口笛が上がる。レースが中心のリボンの付いた黒いブラジャーだった。 「旦那さんのため?不倫相手のため?それとも?」  秘書は霞の後頭部の髪を鷲掴みにして役員へ鼻先を向けさせる。カーペットに血が滴る。唾液と血に塗れた口腔に躊躇いもなく親指を突き入れられ、口を閉じることは許されない。 「夫…のた…、め…」  鷲掴む指の力が強まる。秘書の指が舌を歯に押し付ける。唾液が顎を落ちて鼻血の他にシミを作った。頭の中が煮え滾るように鈍く痛み、疼く。
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