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第二章 天女、潜入 * 1 *

 ――時の花の蕾を持つものよ、    神に孕まされる前に、睦め。    孕ませるのだ。此の世の栄華を。    * * *  帝都のある東の大陸を中心とし、その地を囲うように位置している北、西、南の小大陸を支配下に置くこの島国のなかでも、北に位置する菱形の北海大陸は名治神皇の世になってから急速に開拓が進められるようになった場所である。冬は雪と氷に閉ざされ厳しい環境になるといわれているが、春から夏にかけての晴れの多い清涼な気候やじめじめした雨季が存在しないなどの利点から、酪農をはじめとした産業が伸びてきているという。  小環(おだまき)はふん、と鼻を鳴らして手入れのされていない牧草地をじっと見つめる。足を止めた馬が、空腹のために草を食べ始めたのだ。これではしばらく動きそうにない。仕方なく、周囲を見渡す。  空は曇天。雪混じりの黄緑の絨毯の向こうに聳え立つのは万年雪で白く化粧をしている美蒼岳(びそうだけ)だ。美蒼岳と夫婦のように並ぶのが冠理岳(かんむりだけ)で、ほかにも多雪山系(たせつさんけい)に属する峻険な山々が春の訪れなど知る由もないと連なっている。あの一帯はたしか、市町村を配置する際に潤蘂(うるしべ)という地名でまとめられたはずだ。  天より遣わされし神々の末裔である(すめらぎ)一族とは異なる、北の大地に古くからあるというさまざまな土地神の伝説の多くが潤蕊には残されている。多くは根拠のない伝説や伝承でしかないだろうが、滅んだとされる(いにしえ)民族の教えを今も先住民たちは大切にして生活している。地名が変わったからといって、慣習までをも変える必要はないだろう。そんなことをすれば住民たちの怒りを買うのは必至だ。  だというのに、その慣習を悪用するものがいるという。 「まったく、面倒くさい」  見ず知らずの土地へ供のひとりもつけずに放りだした父、名治(かたはる)に対して心の中で毒づきながら、小環は暢気に草を食む馬を見つめる。  この馬だって、富若内の港で無茶を言って買ったものだ。人力車を頼もうにも、帝都とは異なり広すぎるがゆえに行き先まで連れてってくれなかったのだ。だからといって便利な鉄道や馬車も整備されていない。商人から馬を強引に買い取ったときに見た、野垂れ死んでも知らないぞといわんばかりの態度にも怒りを通り越して呆れてしまったものだ。  だがこの大陸奥地は本格的な開拓がはじまったばかりの未開の地。移動手段が発達していないのも仕方のないことだ。それに怒りの矛先を向ける相手もここにはいない。 「……均衡を崩しやがって」  名治(めいじ)二十二年陰の暦、早花月朔日(さはなづきついたち)。  帝都清華の五公家筆頭である空我別邸が何者かの手によって襲撃された事件を思い出し、唇を噛みしめる。  柑橘類の果樹が植えられた芳しい林に囲まれた洋風建築は火を放たれ灰と化してしまったという。焼け跡からは別邸で働いていた使用人全員の遺体が発見されている。  さいわい、本宅で暮らす正妻の実子と長女の梅子、跡取り息子で行方知れずになっている父侯爵の樹太朗に代わり仕事を行っている柚葉は無事だったが、別邸で暮らしていた愛妾の娘がひとり、行方を眩ませている。  憲兵はすでに殺されたかもしれないなどと言っていたが、それは他の華族へ情報を拡散させないための嘘だ。ほとんどの人間はそれを信用しないで次の手を打ち始めている。  無論、皇一族も。  ――小環(しょうわ)よ。古都律華に食わせることも、帝都清華の鳥籠に再び閉じ込めることも許さぬ。あの娘を政争の火種にするとは罰あたりも甚だしい。断罪せよ。  皇一族を差し置いて、ふたつの政治勢力は反発するように膨らんでいた。いつかは激突するであろうと恐れていたが…… 「なんなんだ、天神の娘って」  その原因が、清華五公家の頂点に君臨している空我当主の愛妾が産ませた娘にあるとは小環には納得がいかない。  てっきり、伊妻の残党狩りを命じられたのだと思っていたが、話はそう単純なわけでもなく、あちこち複雑に絡み合っているようだ。手がかりはこの開発途上にある北海大陸に眠っているという眉唾ものの天女伝説と一部の華族間で評判になっているの存在のみ。どちらも中途半端な情報である。  だが、立ち止まって考えているばかりいるのは性に合わない。まずは父に命じられたとおり、陸軍に合流して、それから体制を整え潜入する。  ――お前は時の花の蕾を持つ者。神に孕まされる前に、孕ませろ。  父皇が去り際に呟いた不気味な言葉を思い出し、草を食べ終えて満足な馬を恨めしそうに見下ろしながら、小環は溜め息をつく。 「見知らぬ娘を孕ませろ、なんてふつう、一国の主が命じることか?」  皇一族の大王(おおきみ)で、この国の最高権力者である神皇帝の後継には兄の大松(ひろまつ)がいるというのに、なぜ自分がこんな損な役回りについているのだろう。  小環は納得のいかない表情を湛えたまま、馬の手綱を手繰り寄せる。
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