4 / 21

第一章 天女、逃亡 * 3 *

 星型の白や薄紅色の躑躅(つつじ)の花が咲き乱れる本宅から距離のある別邸に与えられたのは必要最低限の秘密を守る兵隊のような使用人と生活用品だけ。屋敷の人間は針葉樹によって深緑色へ染め上げられた森の向こうに建てられた離れの存在に干渉することはせず、そこに暮らす人間を空気のように扱っていた。この屋敷の主とその息子をのぞいて。  けれど自由であることを知りながら、鳥籠のような煉瓦造りの洋館で慎ましく暮らしていた彼女は最期まで大空へ飛びたち歌うことを拒み、足枷をつけられたまま囀りつづけ、そのまま土へと還っていった。  その後、彼女を失い絶望した主は仕事人間となり、結果、家族を残してその土地から離れざるおえない状態となった。海の向こうに渡った男の消息を誰も知らない。あと数年で死んだことにされるだろう。  ……もはや見捨てられたこの伽羅色の洋館に足を運ぶ物好きもいないのだろう。 「ここもずいぶん荒れ果てちまったなあ」  あれからどのくらいの歳月が過ぎたのだろう。いま、そこに住まうのは、今は亡き愛妾の忘れ形見である娘だけだ。その娘も数えで十七、八になるというから、自分も歳をとって当然だと大柄の男はうんうん頷く。  とはいえ、既に結婚していてもおかしくない年齢に到達してしまった娘の処遇について考えると憂鬱になるのも事実だ。とつぜん呼び出されたのもきっと、父親が決めた夫となる人間を知って動転しまった彼女を諫め丸め込むためじゃなかろうか。彼の人選は政治的には正しいだろうが、まがりにも皇室出身の人間であるからすると勿体ないようにも感じてしまう。  安全な鳥籠で朗らかに暮らしていた幼いころの彼女を知っているから猶更だ。 「さて、どうやって嬢を説得するかねぇ……」  濃緑の木々に囲まれ藍色の蔦に覆われたいまにも崩れそうな洋館の前でふぅと溜め息をつき、むすっとした顔で迎えにきた半裸の少年へ手をあげる。どうやら空我侯爵家の御曹司はかなり機嫌が悪いらしい。  この季節なら彼女や亡き妻がすきだった橘や蜜柑の白い可憐な花の芳香でむせ返っていた小道も、いまは幽かに香るだけ。それよりも朽ち果てた木材や枯れ草の匂いがそこかしこで蔓延している。彼女の名前と同じ意味を持つ、苔桃(こけもも)のちいさな花だけが、暗い土に明かりを灯している。  だが、場違いな生臭い血の香りが漂っているのは気のせいではなさそうだ。これは穏やかではない。 「坊。いったい何があった?」 「話はあとです、(みずくま)さん」  湾を迎えた柚葉は、軽く会釈をしてから早足で屋敷の奥へ入っていく。予想を外した湾もその後につづき、開かれた扉の向こうから垣間見えた光景に唖然とする。    * * *  レエスの緞帳(カーテン)で飾られた天蓋つきの寝台で瞳を閉じて横になっていた桜桃は、柚葉に揺り起こされて、ゆっくりと瞼をあげる。 「動けるか?」  どこかで衣類を調達してきたのだろう、濃紺のシャツ姿の柚葉が桜桃に問う。  こくりと頷いて、立ち上がる。けれど、身体はまだふらついている。見かねた柚葉は桜桃の肩を抱きかかえ、ゆっくりと歩き出す。  裸足のまま、寝室を出る。ぬるりとした冷たい感触が、足元を浚う。  廊下は、血の海だった。  これだけの血で汚れているのは、転がっている死体すべてが頚動脈を掻ききられていたからだろう。桜桃の知る兵隊のような使用人たちが、重なるように動かなくなっている。  桜桃はおおきな瞳を更におおきくして、廊下の惨状を見つめる。 「この屋敷の使用人は、皆、殺されてしまったんだ……」  信じたくなかった。けれど頭の片隅でその可能性を考えていた。だから桜桃は柚葉の言葉に反論せずに黙ってその光景を漆黒の眼の中に焼き付ける。 「あたしの、せい、でしょ?」  蒼褪めた表情で、柚葉を見上げ、桜桃は確認をとるように、口をひらく。  自分がここにいてはいけない人間であることを、知っていながら、知らないふりをつづけて別邸で暮らしていた桜桃は、いまになって起こってしまった現実に、戸惑いを隠せない。  柚葉は肯定も否定もせずに、桜桃の肩を抱く手に力を込めて、滑りそうな螺旋階段を一歩一歩、くだっていく。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!