4 / 9

第4話

 顔もよく覚えていない男が近付いてくる。 「来ない、で…」  ベッドを蹴り、後ろへ下がる。限られた空間であることを忘れ、桔梗はシーツのないところに繋がれた両手を着こうとした。しかしそこにシーツも羽毛布団も広がってはいなかった。虚空に腕をとられ、バランスを崩す。 「危ない!」  夫に似た声質が機敏に反応し、桔梗を引き寄せる。今は筋肉質だが、会ったばかりの食うに困って痩せぎすだった頃の肉付きにそれは近かった。 「すみません。痛くなかったですか」  乱暴に掴まれた二の腕を放され、桔梗はベッドに落ちた。 「はい。ありがとう……ございます」  叔父を通して何度か話したことがあった程度で、しかしその声は聞き慣れて求めたものに極めて近く、距離感が掴めず妙な気分になる。 「いいえ。無事でよかった」  視界はただ点々と繊維を通してわずかばかり明るいだけでほとんど機能していないが、俯いて傍にいるらしき男から顔を背けた。 「あの…生前は叔父がお世話になりました」  覚えている限り、叔父の葬式で見かけたのが最後だった。 「葬儀の時は挨拶が出来ず、すみませんでした…」  まだその頃は親族の軋轢はあったもののそれでも上手く躱していた。だがまるで監視されたいるような目を恐れ、他者との接触は避けていた。 「い、いいえ…気になさらず…」  互いに無言で、時計の音ばかりが気になった。桔梗は羽毛布団を抱き寄せるが、物音を立てることを恐れてしまう。 「結婚、なさったんですか」  先に口を開いたのは相手の男だった。葬儀の時、落ち着きがなく親族からも疎まれていた夫には理由を付けて欠席してもらった。叔父の親族とその知り合いたちの別れの儀で、血の繋がりのない姪はそうするしかなかった。結婚もまた退社してからで式は挙げていない。まるで世間に隠れるようにひっそりと叔父と弟と少人数で行った。そのためかこの者は桔梗の結婚を知らないらしかった。 「いつ頃ですか…俺が貴女に告白した時には、もう…?」  桔梗は目隠しの下で眉を顰めた。声のするほうを向いた。捏造された記憶に違いなかった。噂ではしっかりした真面目で穏やかな男らしいが、実際は頭のおかしい男かそうでなければ表向きには明らかにならない程度に精神を病んでいるのかもしれない。 「ごめんなさい…おっしゃっている意味が分からないので……答えようがなくて…」  返事をしてみてから彼のいう告白と、直感的に解釈した告白の意味合いが違うかも知れないことに気付く。しかしこの者との接触は限られていて、数えるほどだった。強い印象を残すような会話はしていないはずで、個人的な話をする場には叔父がいた。 「そう、ですか…」  姿は見えないが、声には落胆が滲んでいる。それが夫と重なって、桔梗は何か言わねばという気になった。しかし言葉は見つからない。 「夫がある身で、こんなことをしているんですか」  彼は言いづらそうに訊ねた。夫に言われているような感慨に陥り、桔梗は唇を噛む。どのような状態になっているのか見えなくても理解させられる。晒された脚に当たる異なった繊維の質感や、足枷の感触。ホワイトシャツ1枚だけの上半身は胸が透けてしまっていた。そして極め付けはここが自宅ではなく、同居人は夫ではないどころかまだ様々な法に守られているような年下の男ということだった。説教を受けるには十分な条件を揃えてしまっている。経緯を説明してみる気も起きなかった。 「たまに思うんです。不倫したり、風俗店に出入りしている会社の人たちを見て…」  桔梗は肌寒くなって軽く薄いが保温力に優れた羽毛布団を手繰り寄せる。桜の匂いがした。聴覚と嗅覚が訳の分からない感情を呼び起こす。だがあまり陽気になれる類のものではなかった。 「好いた相手と結婚してもその想いは長く続かない。それなら好いた人とは結ばれないほうがいいのかも知れないと。そしてそれが間違っていても、好いた人とは、遊びの関係でいたほうが望んだものをもらえるんじゃないかって…たとえほんの一瞬でも。そんな風に考えてしまった俺は、貴女を責めるつもりなんて一切合切ないんです」  夫を強く彷彿させる声で相手は言った。夫とは結ばれないほうが良かったと言われているみたいだった。後悔はない。しかし裏切ってしまった。 「好きです。今までずっと、好きだったんです。今でもです。貴女が既婚者だと知っても、諦められそうにない」  夫に言われているみたいで、桔梗はびくりと震えながら指を食んだ。ただの言葉に過ぎないというのに背筋をなぞられ舐め上げられるような興奮があった。しかし夫でないことはよく分かっている。無邪気であまり利口ではない男だった。少ない言葉の数で真っ直ぐ簡単に想いをぶつけてくる。今近くにいる男とは遠縁だと言ったのは叔父だったが、それは彼等の容姿や声を知っての冗談だったのかも知れないという考えに今ならば至る。 「答えを聞かせてください。貴女が既婚者なのを知った上で俺はまだ諦められないんです」 「…っ、わたしが好きなのは…夫、だけです、から…」  説得力がない。鎖が両手の間で鳴っている。「参ったな」―彼は呟いた。 「玉砕すれば、諦められると思ったのですが…駄目みたいです」 「…何と言ったらいいか…」  言葉を選ぶがどれも他人事で適切ではないような気がした。そして何か言える立場にも、何か言う状況でもなかった。相手の衣服の摩擦が聞こえ、身構える。 「もう収まりがつかないんです。俺の気持ちに。貴女に想いを伝えたつもりで、貴女には伝わっていなかった。だというのに貴女のこんな姿を見て、それでいて貴女は夫が好きだなんて言うくせ全然違う人のところに居る」  物凄い力でベッドへ押し倒される。桔梗は声を上げた。夫より細いがそれでも筋肉質な腕に手を添えた。 「好きです。再会なんてするんじゃなかった……もう俺、止まりません…」  目隠しの奥には夫がいるのではないかとすら思った。彼の吐く言葉に身体が悦んでいる。寒気に似た欲望が声の主の体温を求めている。抗う意思が削がれ、桔梗はそのようなことになってしまっている自身に驚き、困惑した。掌で感じる肉体は夫ではない。 「好きです。好きで、好きで、もうこのまま、冷めて、消えて、忘れられるものだと思っていました」  夫に取り憑いた声によって好意を口にされるたび、心臓が爆ぜそうになる。唇が慰めを探し、腹の奥が甘く待ち焦がれる。 「言わ…ないで…ください。分かりましたから…」 「言います。何度だって言います。貴女のことが、好きなんです」  唇を噛む。夫とは違うが、それでも夫と同じだった。 「喋らないで……っ」  腕を辿り、肩から首、耳と顎に触れ、口元を押さえた。だが夫より少し硬い手でその指を取った。 「好きです。自分でもどうしていいか分からないんです…蹴ってください。主任に顔向け出来なくなる……蹴り飛ばしてください。それで諦めます、綺麗さっぱり忘れます」  よく知らないがまったく知らないわけでもない男を蹴れるはずもなく、何より夫の声で懇願されると拒絶出来なかった。 「好きです…」  気配が近付いた。頬に柔らかなものが当たる。蕩けた感触が残った。拙い口付けはもう夫と変わりがなかった。 「あな、た…」  会いたい。腰が揺れた。どこを触られたわけでもないというのに身体中を愛しい掌で撫でられているような感じがした。もう一度男の腕を探した。肩を掴んで、体重を掛ける。触れたくて堪らなかった粘膜を探すが、相手から求めていた柔らかさを与えられベッドに戻される。 「ぁ、…っふ、」  啄むような接触からはじまり、角度を変えながら深まっていく。思考を掠め取られていく舌遣いに意識が遠のく。背に回った腕に身を委ね、夫の肩に縋り付く。 「ん、んぁ…ぁっ」  応戦する余裕もなく、絡まる舌に流される。送り込まれる唾液は嚥下する間も無くなく混じり合って溢れた。レースショーツにスラックス越しの膨らみが押し付けられる。 「ふ、ぅ…んっ」  張り詰めた胸にシャツを隔てて手が乗った。じんわるとした淡い痺れが波紋のように広がり、下腹部へ巡る。 「や、ぁ…ぁん」  時折漏れる夫の切ない声と吐息に煽られる。シャツの下から押し上げる突起を小さく捏ねられる。腰が波打つ。自らレースショーツをスラックスに当ててしまう。膨らみの中の芯を感じた。 「好きです…」  唇が離れ銀糸が伸び、ぷつりと切れた。近くで聞こえる夫の声をもっと聞きたいくせ、まだ口付けが物足りない気がした。夫ほどではないが筋肉の付いた腕に上半身の体重を支えられる。首が据わらなかった。息を整えている間に夫の手がシャツの前を寛げていく。不気味な彼には想像できないほど軽妙な動作で素肌が露わになっていく。 「綺麗です」  胸と胸の間を指でなぞられ、へそで止まる。どこか神経質げな指先はやはり夫ではなかった。 「何度も想像していました。貴女の素肌。貴女の唇。貴女の胸も」  へそで止まった指が一度皮膚を離れ、腰から腿を摩る。半端に触れられた胸が切なく、胸部を浮かせる。下肢がシーツを滑り、夫に似た夫ではない男にひどく媚びた様相を呈していた。 「髪型、少し変わりましたね。洗剤も…」  夫が選んだ髪型、桜の生活に染められていく匂い。彼は敏く気付く。繰り返し伝えられる好意に現実味が増していく。 「少し寂しいですが…素敵です」  鎖が垂れた手を伸ばし、夫の声を使う男の口を塞いだ。しかしまたその手を外され、掌を合わせて指が絡む。夫としかしたことがない、情愛を醸す握り方に桔梗の指は惑った。会いたい気持ちが目隠しを外そうとさせる。しかしその奥にいる者が夫ではないことは確かだった。 「い、や…」  振り払う。しかし叶わない。強く握られ、あまり温かくなかった手がどちらからともなく発熱している。火傷しそうなほどだった。 「放してッ!放してくださ、」 「放しません」 「怖い…いや……!」  まるで狭い場所に手を挟んだように男は手を放さない。桔梗は叫ぶが、口付けがそれを防いだ。 「好きです」 「それは、分かりました、から……」 「まだ足りません。短いようで長かった。まだ、全然足らないんです。俺の貴女への気持ちは劣情含め、こんなものじゃない…」  聞きたい声は違う人間の口を通して耳に入る。掌と掌から生じる温もりもまた彼女を浅ましい方向へ拐(かどわ)かす。 「なんで……?わたしたち、そんなに付き合いなんて……なかったはずです…」  夫の声は返ってこない。レースショーツの中に空いた手が入る。 「やめっ…」  秘奥から蜜を掬い、尖実を濡らす。固さのある指の腹に遊ばれ、淡い痺れが内臓に呼びかけるように染み渡っていく。 「は…ぁ、ん…」  手を繋ぐなどという生易しいものではない男の罠に囚われた手が、鎖の先で暴れる手によって震えた。 「ぁん、ぁぁっや、ぁっ!」  丸みのある粘膜を捏ねられ腰が勝手に動き、夫だけにしか聞かせない弾むような声が出てしまう。繋がれた手によって桔梗は口を覆うことが出来なかった。 「ぅんっ、ぁっ、だめ…!」 「素敵ですよ」  なめらかな淫芽を指先で扱かれると身体はただ抗えず、さらなる刺激を求め、促そうとする。 「あなた…、」 「好きです」 「ぁあっあっ、やだ、喋らないでっ…!いや…ッ!」  悪寒に似た波が背中を駆け登り、頭の中で破裂する。まるで打ち上げられた直後の花火のように、火の粉という官能を身体に残していく。 「好きです。好き……止められません…」  脳味噌を掻き回されたように何も考えられなくなる。この男は夫ではないとういうことも、声が夫に酷似しているということに比べると些細なことだった。鐘芯を揉む指が花蜜の泉のほうへ伸びていく。ひくりと動いて、様子を確認する浅く入った指を迎えてしまっていた。 「ああ…」 「力抜いてください」  指が離れ、レースショーツが捲られる。指で施されていた蜜弁に生温かい風が吹く。そして湿ったものが淫蜜とは違う潤いを与えた。 「そん、なところ…っ」 「綺麗です。とても」  手はまだ繋がれ、鎖によって片手も自由を失っている。脚を大きく開かされ、閉じても夫に似た男の髪を挟むだけだった。舌遣いまでよく似ている。目隠しが錯覚を起こし、さらには敏感な彼女の肉体をさらに敏感にした。指は桔梗の腹の裏側に隠れ、蜜肉を撫でる。彼は火の点いた媚壁を寸分の狂いもなく的確に挑発した。 「んん…っあ、ぁ…そこ、やめ、て…」 「ここ、弱いですか」  大きく中をうねらせ、腰も蛇行してしまう箇所を彼は指で押し込んだ。 「だめ、弱いの、弱いからっ…!やめっ、」 「そのまま気持ち良くなってください」  ぐちゅぐちゅと音のする間隔が短くなる。部屋に混じる冷淡に時間を刻む時計や暴れる鎖とは異質な音にさらに彼女の肉体は火照る。 「いや、いやぁ!あぁッ止めて、止めてッ!」  蕩けた唇に膨らみのある粘膜を甘く噛まれる。背中が反った。収縮が夫を思わせる指を食い締めては放した。薔薇孔の深みを往復する指に悦楽で瀞んだ襞が絡みつく。 「俺で、そのまま…」   舌先が淫核を突ついた。上品な感じのあった彼からは想像のつかない、卑猥な動きをした。慣れている舌運びは桔梗が知る限りの数少ない彼の印象を覆していく。夫とそっくりな舌技に溺れ、頭の中は霞んでいく。 「あなた……!あなた…っあんんっ」  繋がされた男の手の甲に爪を立てる。もう片方の手も男の熱い手に縋る。 「やぁぁぁっン!ぁ……」  快感に呑まれ、下半身の軸が溶けていく。下肢が液体になるようで、腰が痙攣する。激しい肉の悦びが男の指を引き留め、上体は弛緩した。癒着してしまうのではないかと思うほど強く結ばれていた手が呆気なく解かれ、そして急激に冷えていく。 「綺麗です。貴女が欲しい。ください。貴女を俺にください」  金属の音が聞こえた。ベルトのバックルを外しているらしかった。それが何を意味するのか達したばかりの桔梗の頭は考えることを放棄する。むしろ夫だとすら思っていた。 「会いたい…」  温もりの残っている安物の指輪に接吻する。夫を想うとまた淫らに火が灯る。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!