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第16話 怜、不測の事態に困惑し、結果突っ走ることにした ①

 お盆休み前という事も有り、昼から得意先巡りをしていた。  当初の予定では、翔が留守だから定時には帰社するはずだったのだが、起業当時からのお得意様にどうしてもと呼ばれた怜は、不承不承訪れたとある料亭で、目の前の社長に明確な殺意を滾らせていた。 (どうしても今日じゃないと出来ない話だって言うから来てみればッ!)  好々爺然で笑う社長が、今日ほど憎らしいと思ったことはない。  翔がいないとなれば、梓が緩むのはいつもの事。ここで怜が監視を弛める訳にいかないのに、こんな事で足止めを食うとは。 (いっそこの爺、サクッと殺してさっさと帰るか…?)  などと物騒な事を考えてまで帰りたがるのには、他にも理由があった。  冷酒の猪口をくいっと煽り、憮然と社長を見る。 「あの、どうぞ」  ガラスの徳利を傾けて、酌をしようとする女性をチラリと見、怜は素気無く「結構」と言って手酌する。社長は「おいおい」と苦笑して言を継いだ。 「手酌酒は出世しないと言うぞ?」 「そんなの女性に酌させるための口実ですよ。尤も社長と差し向かいで飲むというなら、酌をするのも吝かではないですが、僕は女性だからと言う理由で酌をされるのは好みません。それが仕事の方なら、それを奪うつもりは有りませんし、酌をして欲しいと言う方を責めるつもりもないですが」  僕には不要、と徳利を持ったままの女性を見た。  女性はソロソロと手を引き戻し、立ち膝だった脚を折って座り直す。微かに頬を染めて俯いた彼女に、怜はこっそりと溜息を吐いた。  社長が彼女と一緒に座敷に入って来た瞬間、どうして呼ばれたのかを悟った。  すぐさま帰ろうとした怜だったが、この狸じじいが創立五十周年の話を切り出してきて、帰るに帰れなくなった次第である。  周年を餌にした見合いだった。  この年にもなれば、お客から見合いを勧められることも珍しくはないが、正直うんざりする。これには翔も同様の意見だ。  彼女は社長の孫娘だ。今年二十九歳になるが、仕事ばかりしていて浮いた話がなく、心配になった社長が怜に騙し討ちで連れて来た。  自力で就職し、女性でありながら営業主任を務めるという彼女に好感は持てるが、それ以上を望まれても困る。  必死に彼女をアピールしてくる社長が可なりウザい。  怜にとことん無碍にされているにも拘らず、社長が食いついて来るのには、怜のバックグランドにも理由がある。  彼は怜の父親がそこそこ有名な企業の社長という事を知っている。偶然知ったようだが、是非とも縁を繋げたいと言う目論見が見て取れて、胸糞が悪い。  姉婿が跡を継ぐと言っているのに猛烈アピールをされ、この辺りからチラホラ殺意が芽生えて来た。  怜は家族にカミングアウトしている。故に家を出た。  たった一人しかいない息子がゲイだと告白した時、一族の面汚しだと父親に詰られ、母親に嘆かれた。二人の姉は薄々気付いていたようで、長女が婿を取って跡を継ぐから気にするなと言ってくれた時は、心底安堵し感謝した。  以来疎遠の実家と縁続きを望まれても困ると言うものだ。 (第一、女じゃ勃たないっての)  目の前で喋り倒す社長にげんなりする。そしてその隣で慎ましく笑っている彼女にも。 (……ああっ。香水臭くて鼻が痛い)  どれだけ気合を入れて香水を振って来たのか。  それともこれが通常使用か?  だとしたら、彼女を目の前に連れて来るのは、今日これ限りにして欲しい。  折角の上手い料理と酒が台無しだ。  ふと梓が恋しくなる。  彼女も鼻が痛くなると言って香水を嫌っている仲間だ。  昔、怜と翔がまだ高校生だった頃、小学生の梓を連れて水族館に行こうとした事があった。向かう電車に乗った瞬間、異臭と言って過言ではない香水の臭いを嗅いだ。途端に三人は一斉にくしゃみを連発した。  鼻粘膜を刺激され、怜や翔でさえ凄まじい臭いに辟易したのだから、小学生の梓は然もありなん。  梓はくしゃみをしながら『香水臭い~っ! 鼻痛い~っ! 目が染みる~ぅ!』と泣き出したのを翔と二人で必死に宥め、結局次の駅で降りて、近くの公園に行ったのだった。  もし梓の鼻粘膜が丈夫だったとしても、梓限定の臭いフェチ翔がいるので、彼女が香水を付けることはこの先もないだろう。  怜が口元を綻ばせて猪口を運ぶと、社長は何やら機嫌を良くした。  思い出に耽っていたら、怜には不都合極まりない地雷を踏んでしまったようだ。  社長は満面の笑顔で退席し、怜と彼女だけが取り残された。  狸じじいの前で束の間でも気を抜き、適当に相槌を打っていた自分を今更後悔しても後の祭りだと分かっているが、己の迂闊さに腹が立つ。  まんじりともしない時間が流れる。  しかし彼女との間に会話は生まれない。苦痛でしかない時間に怜はすぐさま降参した。  帰ろうと提案した怜を何だかんだと引き留めようとする彼女に、正直キレなかったのは奇跡だと思っている。 (僕に女の武器は通用しないからねぇ。うん。ホント残念だったね。折角気合い入れて来たんだろうに)  残念なんて、本音ではそんな事チラとも思ってないが、見合い相手の男がゲイだった事には些か同情はする。  彼女に好かれても面倒なだけだし、はっきり「恋人がいるから」と断ったが、彼女は「そうですよね」と微笑み、尚且つ「でも結婚は別でしょう?」と女で勝負することを早々に諦め、彼女は自分を売り込みに掛かり、営業主任は伊達じゃないことを知らしめて来た。  社長との付き合い上、もう一軒だけ付き合って欲しいと言った彼女を邪険にも出来ず、それでも “迷惑だ” と顔に書くことも忘れず、全くその気がない事を彼女に分かって貰った。  骨の髄まで疲弊した。  明日が早いからと、ようやく彼女をタクシーに乗せ、吐くともなしに吐いた溜息の大きさに疲れが増す。  連絡できなかったが梓は大人しく家に帰ったろうか、考えながら踵を返して、目に飛び込んできた光景に怜は愕然とした。
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